どこか遠くで、鳥のさえずる声がする。
それと同時に、真っ暗だった世界に少しずつ薄ぼんやりとした光が滲んでいき、幸村はゆっくりと瞬きをした。
目の前に広がる、白い世界。
そう、それは嫌になるほど見上げてきた、病室の天井だ。
霞がかったような思考が少しずつはっきりしてきて、今日もまた、朝が来たのだと理解する。
病気になって入院してからは、目覚めてすぐは体があまり動かなくなっていた。
瞬きをし、息を吐き、ベッドの中で横たわったまま自分の感覚を少しずつ整えていく。
その過程で少し視線を傾けると、サイドボードに置いている小さな置時計が確認できた。
――7時10分。
(朝練が始まった頃か……ああ、違うか。もう夏休みに入っているから、練習は9時スタートだっけ)
この部屋でたった一人で迎える朝は、もう何日目になるか分からないほどなのに、朝一番に思い浮かべるのはテニス部のことばかりだ。
いや、朝だけではない。四六時中、ずっとといってもいい。
時計を見ては、今頃は遠距離ランニングの時間だろうとか、そろそろダブルス組の練習試合が始まる頃かとか。
切原はもしかしたら遅れてきて、真田に一喝を入れられているかもしれないなとか。
そんなことを思い出しては、くすりと笑う。
しかしすぐに、そこにいま自分がいない事実に、毎日胸が押し潰されそうになる。
それを振り切るようにぐっと掌を握りしめ、もう少しの辛抱だと、絶対にまた戻れるのだと、何の根拠もないまま自分に言い聞かせては、なんとか希望を繋いでいる日々が続いていた。
とはいえ、それも少し前までの話だ。
先週やっと手術の概要が決まり、幸村の希望は一気に開けた。
手術さえ終われば、皆の元に戻ることができる。
そしてまた、思いっきりテニスができる。コートに立って、ラケットを振れる。
手術後全国大会まで1か月もないからリハビリはものすごく大変かもしれないけど、あの場所にもう一度戻れるなら、それすらも楽しみでしかない。
(そうだ、もうあと少しの辛抱だ。終わればまた、テニスができる。みんなと一緒に、テニスができるんだ)
だから今日も頑張ろう。
前向きな気持ちが、どんどん膨らむ。
少し前までは、1日をどう過ごすか考えるだけでも辛くなってしまったけれど、今は違う。
その日の予定を考えるだけでも楽しいのだ。
確か今日は、昼前くらいに医師の診察が入っていたが、その後は部のみんながお見舞いに来ることになっていた。
昨日の関東大会2日目の報告を聞いて、週末の決勝戦の話をする予定だった。
とはいえ、昨日の試合の結果はメールで柳から報告を受けていたし、名士刈戦と不動峰戦、どちらも結果のみで試合内容はほとんど書かれていなかったから、特筆すべきこともなかったのだろう。
(そういえば、真田からは何の連絡もなかったな。珍しいなあ)
県大会からずっと、試合があった日は必ず何かしら連絡があったのだけれど、何故か昨日は珍しく電話もメールも無かったのだ。
(どうしたんだろ。今日見舞いに来る予定だったから、報告も全部今日でいいと思ったのかな)
少し引っかかるものを感じながらも、そんなこともあるだろう、まあいいか、と自分を納得させる。
もしかしたら、疲れて寝てしまったのかもしれない。
真田はとても無理をしてしまう性格だから、試合自体は余裕だったとしても気を張り詰めていただろうし。
むしろ連絡を忘れて転寝してしまえるくらい今リラックスできてるのなら、それはいい傾向かも知れない。
だとすると、それはきっと彼を支えてくれている彼女のおかげだろう。
(まあ、今日はからかうのはほどほどにして、ちゃんと真田の奴を労ってやろうかな)
いつもついつい反応が面白くてあの彼女とのことをからかい倒してしまうけれど、今日はちゃんとお礼を言って、自分の代わりに部をまとめてくれている彼を、しっかり労って励ましてやろうか。
そして誓うのだ。――全国大会は、任せておけと。
力強く、幸村はその手を握る。
そして、ぐっと力を入れて、体を起こした。
朝食を食べ、昼までの空いた時間でリハビリルームに向かう。
本当はまだ手術も行っていないのに無理してあまり体を動かしてはいけないと言われていたけれど、動かなければ体がどんどん固くなっていくのが自分でも分かって、幸村は怖くて毎日少しだけでも体を動かしていた。
思ったように全然身体が動かなくて、ただ絶望を感じるだけの時もある。
今だって、ほんの少し力を入れて歩いたりするだけで物凄く身体に負担が掛かって息が切れてしまい、以前の身体とは違うのだと、痛感させられてしまう。
けれど、最近は調子がいい気がするのだ。手術を受けられると決まってからは特に。
その後診察があるときは大抵主治医の先生にお小言を食らうので、今日もきっと怒られるのだろうとは予想していたけれど、怒られても構わなかった。
ただひたすら体を動かすことで、部の皆と一緒に戦っているような気がして、嬉しささえ感じていた。
「……いち、精市」
声を掛けられて、幸村はハッとする。
「あ、母さん、来てたんだ」
いつの間にか母親が来ていたようだ。
心配そうにこちらを見る母親の表情に、幸村は苦笑した。
手術前にこうやって動くことを、家族があまり賛成していないのは知っていたから、家族の前ではあまり運動している姿を見せたくなかったのだが。
「気持ちは分かるけれど、手術前に無理は禁物だって先生からも言われているでしょう。今日はその辺にして頂戴」
「そうだね。うん、分かった」
本心ではまだやりたかったけれど、親に心配をかけるのも気が引けたので、幸村は素直に頷き、自分の病室へと戻った。
タオルで汗を拭き、ベッドに横たわる。
少し動き過ぎただろうか、その状態でも心臓の動きが少し早い。
「精市、母さん用事があるからちょっと出てくるわね」
「うん、いってらっしゃい」
横になったまま母親を見送り、ドアが閉まる音を聞く。
静かになった病室に一人きりになると、心臓を整えるようにゆっくり息を吐き、布団をかぶった。
そしてそのまま、幸村はいつの間にか眠りについてしまった。
ゆっくりと、双眸を開く。
景色がはっきりしない。辺りには、まるで深い霧がかったような風景が広がっていた。
不思議に思って辺りを見渡してみると、何やら音が聞こえた。
いやに聞き慣れた音だ。
これは――ボールの打球音。ラケットで球を打ち合う音だ。
視線を凝らしながら音のする方に歩みを進めると、やがて人影が見えた。
ひとり、ふたり。三人、四人……七人。
全員が見慣れた黄色いジャージを纏い、手にはラケットを握っていた。
そう、それは彼にとってかけがえのない仲間たち――テニス部のレギュラーたちだった。
――みんなだ!
その姿に心が躍る。
ふと、自分の手元を見る。
いつの間にか、自分もまた皆と同じように黄色いジャージを着て、ラケットを握っていた。
すっと手に馴染むそのラケットは、自分がずっと愛用していたものだ。
――ああ、そうか。手術が終わったんだ。俺はここに、戻ってきたんだ!
皆と共にテニスができる。
そう思うと、一気に心が高揚した。
それを握って、皆の元へと全速力で駆け出していく。
「みんな、俺も来たよ! 戻ってきたんだ!!」
そう叫んだつもりだった。
しかし声が響かない。
近づいて行っているはずなのに、彼らとの距離が縮まらない。
――おかしい。何故だ。何故あそこに辿り着けない!
自分の出せる最大の力で走っている――つもりだった。
しかし近づけない。
霧が深くなっているのか。近づくどころか、彼らの姿が、音が、どんどん遠くなる。
それならばと、幸村は声を張り上げた。
「なあ、みんな!」
喉が潰れるような大声で叫んだつもりだった。
しかし誰も振り向かない。
――何故なんだ! みんな! 俺だ!! 俺はここにいるんだ、何故気づいてくれない!!
「みんな……真田!! 柳!! 仁王!! 柳生!! 丸井!! ジャッカル!! 赤也!!」
一人一人の名前を呼ぶが、状況は変わらない。
それどころか、人影が一人、また一人と霧の中に消えて行った。
取り残される。怖い。
幸村は震えた。
怖い。怖い。怖い。
「真田……!!」
喉が潰れんばかりに、そう叫んだ瞬間。
やっと、はるか遠くにいる親友が、こちらを見た、ような気がした。
気付いてくれたのだと、幸村はもう一度声を張り上げる。
「真田、俺、来たよ! 打とう、真田!!」
そう言って、近づこうとする。
すると、その「彼」は、言った。
――その体で、か。
振り向いたはずの彼の顔は真っ暗だ。表情など見えない。
なんだか恐ろしくなって、その足を止めた。
それを見つめていた彼は、更に言葉を紡いだ。
――お前の病気は、かなり重度の難病だ。手術をしたところで――
そして。
「……テニスなんて、もう無理だろう」
聞こえてきたその声は、彼のものではなく、主治医の先生のものだった。
その瞬間、はっと目が覚める。
そこには、白衣姿の人影が二つ――主治医の先生と、看護師さんの姿があった。
「可能性は、そんなに低いんですか」
「あくまでも手術の結果を見てみないと何とも言えないが、限りなく低い、と言えるだろうな」
「精市君、可哀想……あんなに全国大会出場を信じて嬉しそうにしていたのに」
「ああ……彼には本当に酷だが――」
この人たちは何を言っているんだろう。
まるで俺が、もうテニスができないみたいじゃないか。
違うだろう? 手術をすれば、もう一度テニスができるんだ。
俺は全国大会までに復帰して、みんなと――
「手術をして普段の生活に戻ることはできても、今後テニスなんてハードなスポーツを続けることは、まず……難しいだろうな」
その言葉を聴いた瞬間。
彼は、咆哮した。
そこから先の幸村の記憶は途切れ途切れで、自分でも何をどうしたのか憶えていなかった。
壊れたようにただ叫ぶ自分を、先生と看護師、そしてあとからやって来た母親が必死で抑え、なだめていたような気がする。
「可能性はゼロではない」
「全く出来ないとはいわない」
「しっかり養生すれば、何年か先、将来的にまた復帰できる可能性はあるかもしれない」
そんなことを言っていただろうか。
しかし先ほどの言葉を思い出せば、そんなことは嘘八百に違いないと思った。
それに例え何年後かに復帰できたとしても、今年の全国大会に間に合わなければ何の意味もない。
皆と共に、3連覇を果たすと約束したのに――
幸村はただ、絶望した。
絶望して、壊れた機械のように感情を周囲にぶつけ散らした。
泣き、叫び疲れて、何も考えられなくなり、その後は呆然としたまま人形のようになった。
動かなくなった自分を母親が泣きながら抱きしめる。
しかしそれすら受け入れられず、鬱陶しかった。
幸村は、「寝るから一人にして欲しい、今日は帰ってほしい」と母親を病室から追い出した。
少しの間病室の前でうろうろしているような音は聞こえていたけれど、やがてその音も聞こえなくなった。
布団を被る。
何もしたくない。考えたくない。
寝てしまいたい。
しかし、気持ちが高ぶっているからなのか、一睡も出来そうになく、それがさらに苛立ちを高ぶらせた。
何のために。
自分は何のために今までこの病室に閉じこもって来たのか。
もう一度、テニスができる日が来ると信じていたからこそ、我慢できたのだ。
例え手術したところで、もう二度とテニスができないというのなら――いや、例えいつかまた出来るようになったとしても、皆と共に積み上げてきた3連覇のかかったこの中学最後の全国大会に皆と出場できないなら――何のために手術をする?
分からない。
分かりたくもない。
そもそも、テニスができない、そんな自分など一体誰が必要としてくれるんだ。
感情の当たりどころがない。
絶望と苛立ちと悲しみと怒りと――得体のしれない負の感情が渦巻いてその身体を、精神を侵していく。
そのまま幸村は、ぴくりとも動かなくなった。
部活が終わり、真田たちは予定通り幸村の見舞いに向かっていた。
しかし、以前の見舞いの時のような、和やかな雰囲気は全くない。
生意気な切原の軽口も、それに応える丸井やジャッカルの相槌も、うるさいと怒る真田の声も存在せず、ただ固まって病院に向かっているだけだ。
みんな、何を話していいのか分からないのだろう。
それは、今だけではなく、午前中の部活の時からそうだったけれど。
昨日の切原の試合のことだって、幸村の本当の病状のことだって、頭では理解していても、皆まだ完全にどう自分の中で処理すればいいのか分からず迷っていたのだ。
ましてや今日はその幸村に会う。
何も知らない、手術さえ済めばテニスができると信じて疑っていない彼に。
勿論、幸村の手術が完全に成功し、彼が戻ってくる未来を信じている。
可能性がゼロでないならば、それを信じたい。信じるしかない。
けれど、何も知らなかった時と同じような態度を彼の前で取ることは、極めて難しいことだとも感じていた。
重苦しいその雰囲気を、誰もが皆なんとかしたいと思うのに、言葉を発することができない。
こんな時に状況を動かすのは、やはり一番冷静に物事を判断できる彼――柳だった。
「……みんな、もうすぐ病院に着くが、今日の目的は分かっているか?」
「なんすかいきなり。部長のお見舞いに決まってるでしょ」
切原がすかさず返事をする。
それに続いて、丸井も口を開いた。
「それと、昨日の関東大会の報告だろぃ?」
相方の言葉に、ジャッカルも続ける。
「週末の決勝の話もだな」
それにうむと頷いて、柳は言う。
「その通りだ。しかし精市は手術を控えているから、あまり興奮させるようなことは良くないだろう。いろいろ各々思うところはあるだろうが、昨日の結果は俺が軽く伝えてあるから、来週のオーダーの話をして、精市をしっかり励まして、長居せずになるべく早く帰ろう」
「そうだな、蓮二の言うとおりだ。幸村は手術を控えた大事な身体だ。絶対に手術を成功させるためにも、俺達はなるべく早くお暇した方がいいだろう」
柳に続けた真田の言葉に、各々は首を縦に振る。
真田はそれを見渡してうむと頷くと、大きく息を吐き、更に続けた。
「……お前たち、くれぐれも、余計なことは言うなよ」
その言葉に、一同がしんと静まり返る。
それぞれがやるせない表情を浮かべて視線を逸らし、誰も明確な返事はしなかったが、真田もそれ以上は何も言わなかった。
そして皆静まり返ったまま、ただ歩みを進めた。
どれくらい、そうしていただろう。
自分は寝ていたのか、起きていたのか――息をしていたのか。
それすらも分からないほど虚ろになってただベッドに横たわっていた幸村は、ふと、病室の外の気配に気づいた。
話し声はしないが、複数の人間がこの病室に近づいてきている。
そう言えば、今日、確か皆が来るのではなかったか。
それを思い出した瞬間、幸村は全身が総毛立つような感覚がした。
嫌だ。
来ないでくれ。
誰とも話したくないんだ。
ましてやお前たちの姿など、見ることすら今は――
脈がどんどん早く、強くなる。
苦しい。息が出来ない。
頼む、頼むから、帰ってくれ!
そんな願いもむなしく、その足音は病室の前で止まる。
そして。
親友の第一声と共に、扉は開いた。
「幸村、聞いてくれ。関東大会も順調に――」
何を言っているんだ。
俺はもうテニスができないかもしれないのに。
関東大会の話などして、どうしようと言うんだ。
やめろ。
やめてくれ。
そんな話、聞きたくない。
テニスの話など――
絶望と苛立ちと悲しみと怒りと恐れと――得体のしれない負の感情が束になって渦巻いている。
羨ましい。羨ましい羨ましい羨ましい。
テニスができるお前たちが。
本当なら、俺もそこにいるはずだったのに。
なんで、俺は。できない。
「……ないでくれ」
「幸村?」
「テニスの話をしないでくれと言っているんだ!!」
一度あふれ出したそれは、もう止めることができなかった。
叩きつけるように吐き出した言葉は、仲間たちの顔を凍り付かせ、それがまた幸村の心を抉る。
――この表情。
彼らはもう、すべてを知っているのだと、幸村は一瞬で悟った。
治らないことを知っているのに、何も知らないふりまでして、一体何を言いに来たのだ。
同情か。それとも、唯一の存在価値を失った俺を笑いに来たのか。
嫌だ。
お前たちの顔など、見たくもない!!
どす黒い感情が止まらなかった。
会いたくて会いたくてしょうがなかったはずの仲間たちを、押し出すように扉の外に追いやる。
そして。
「もう、帰ってくれないか!」
叩きつけるように叫んで、幸村は力任せにその扉を閉める。
「ゆきむら……っ!!」
親友が、扉の向こうで何かを言おうとしている。
けれど、何も聞きたくなかった。
彼らは何も変わらず、皆で大会に出られる。
そう、テニスが出来ない自分が居ても居なくても、彼らは進んでいく。
入学前、親友と共に誓った全国3連覇を、皆でやっとここまで積み上げてきて。
夢にまで見たその栄誉はもうすぐそこだというのに、ここまで来て、戦うことも出来ず降りなければならない。
そして彼らは、そのまま進んでいく。
「うるさい、何も言うな、3連覇を目の前にして……やっとここまで来て、戦うことすら許されない俺の気持ちが、お前に分かるのか……!! 帰れ、帰ってくれ!!」
そこまで言って、言葉に詰まる。
分かっている。こんなことを彼らに言っても仕方がないのだ。
幸村は、自分がとてもとても醜いものに思えた。
ずっと支え続けてくれた大切な仲間に、こんな風に当たり散らして。
そんな自分が許せず、両手で顔を覆いながら、そのまま扉に背を預けてずるずると崩れ落ち――嗚咽とも、怒声ともつかない音を、ただ喉の奥から吐き続けた。