「しっかし、明日はあんま面白くなさそーだなァ。せっかくの関東大会一戦目なのに、銀華程度のザコとしか試合できないなんて。どうせなら、もっと強ぇえチームとやりたかったっての! 氷帝サンとかさー」
頭の後ろで手を組み、切原がつまらなそうに口をとがらせる。
それは、にはまたもや聞いたことのない学校名だった。
「ひょう……てい? そこは強いとこなの? 銀華中よりも?」
思わず尋ねるに、切原はああと頷いて、続ける。
「ああ、銀華よりはずっと強ぇだろうな。ま、ウチの強さには敵わねえけどさ」
自信満々な笑みを浮かべ、切原はへへっと鼻を擦った。
更に、柳が付け加えるように口を開く。
「氷帝学園は、関東では屈指の強豪校と言えるだろうな。去年も関東大会では準優勝をおさめ、全国大会に出場している。1年の時から部長を務めている跡部は、俺や弦一郎と同じく昨年度のジュニア選抜にも選ばれているほどだ。間違いなく、都内では3本の指に入ると言ってもいい」
「へえ……って去年関東大会準優勝ってことは……」
準優勝ということは、決勝で負けたということだから――それはつまり。
がそんな結論に達する前に、幸村がその答えを先回りした。
「もちろんウチが下したってこと。……とはいえ、去年は跡部までは回らなかったんだけどね」
それまでにウチが勝負を決めちゃったから、と幸村がにっこり笑うと、更に柳が続ける。
「まあ、氷帝に関しては、昨年よりも更に戦力が増していると考えるべきだ。昨年練習試合を行ったことがあったが、あの時点でも関東大会の時とは比べ物にならない戦力が垣間見えた。現在は、あの時以上に力を増していると考えられるだろう。都大会では前評判無しの不動峰中に破れ、コンソレーションで関東大会入りを果たしたようだが、実際試合に出たのはレギュラーメンバーでは無く準レギュラーだ。関東大会からは、正レギュラーを揃えてベストメンバーで来るのは間違いないだろうしな」
「ああ、去年もそのような方法を使っていたからな。まったく、跡部らしいやり方だ」
ノートをチェックしながら淡々と説明をする柳に、真田が頷く。
どうやら、彼らは「氷帝」という学校に、一目置いているらしかった。
彼らが素直に誰かを評価する姿を見るのは珍しい。本当に強いのだろう。
「……それだけ強いなら、今年もどこかでうちと当たるでしょうか?」
「ふむ、順当にいけば、当たる可能性は高いだろうな。しかし、今年もちょうど逆ブロックだから、当たるとすればまた去年と同じく決勝となるわけだが――まあ、余程の『番狂わせ』がない限り、そうなるだろう」
「番狂わせ、か。どうだろうね。この組み合わせだと、氷帝は1戦目が青学のようだけど……」
柳と幸村が、顔を突き合わせてトーナメント表を覗きこむ。
すると、それを見ていた真田がぽつりとつぶやいた。
「青学、か」
とても小さな声で彼はそう口にすると、ほんの少しだけ、顔を顰めた。
それは、先ほどの銀華や氷帝の話をした時とは、少し違う反応のように見えた。
それが少し気になって、は幸村が手にしていたトーナメント表を覗き込み、氷帝学園と1回戦で当たる学校の名前をまじまじと見つめる。
「青春学園中等部――ここが青学、ですか?」
の何気ない問いに、柳が答える。
「ああ。青春学園、略して青学と呼ばれている」
「じゃあ――」
「『青学は強いんですか?』とが尋ねる確率、100%、だな」
柳は、そう言ってにいっと笑みを浮かべた。
質問を先回りされ、は自分の言葉を失う。
目を瞬かせているに、ふふっと笑って話しかけたのは、幸村だった。
「青学も、強いよ。なんたって、あそこには手塚がいるからね。ね、真田」
幸村が、そう言って真田に話を振ると、真田は先ほどと同じように顔を顰め、「まあな」と小さな声で頷いて視線を逸らした。
やはり彼は、氷帝や銀華のときとは違う反応を見せているような気がする。
自分の気のせいだろうかと、が無意識に真田の顔をじっと見上げると――視線に気づいたのか、真田がの方を見つめ、視線がぶつかった。
――わわ!
いきなり交わった視線に驚き、は目を白黒させる。
そして、慌ててしまったことを隠すように、ははっと笑ってから言葉を発した。
「で、でも、どんなにその手塚って人が強くったって、先輩には敵いませんよね! 先輩が負けるわけないもの!」
自分の感情をごまかすために言った言葉とはいえ、言葉そのものは、の本心から出たもので、何気ないはずの一言だった。
けれども、なぜか一瞬――本当に一瞬だけ、彼の視線が止まったような気がした。
「先輩……?」
間髪入れず力強い答えが返ってくるかと思っていたのだが、真田は何も言わない。
不思議に思い、は真田の顔を覗きこむ。
すると、彼は大きく息を吐いて、の顔をじっと見つめ返した。
――そして。
「ああ、手塚だろうと誰だろうと、全力で叩き潰すさ。……必ず」
そう言って、真田は自分の掌に視線をやると、そのままぐっと拳を握りしめた。
(……真田先輩……)
は、彼の様子がやはり少しいつもとは違うような違う気がした。
じっと真田の顔を見上げたが、それ以上は何も尋ねることができなかった。
彼にとっての幸村のことにしても、それ以外の人のことにしても、自分はまだまだ彼のことを知らないのだ。
それがなんだか少し寂しい気がして、は小さなため息をつく。
(聞いたら、教えてくれるかな)
しかし、根掘り葉掘り聞くというのもどうなのだろう。
いくら恋人だからと言っても、なんでもかんでも聞く権利があるわけではないだろうし、万が一煩わしいと思われてしまったら――
そんなことを考えたが、はぎゅっと掌を握りしめ、そこで思考を止めた。
(……やめとこ)
考えても仕方のないことだ。
そのうち聞けるなら聞けばいいし、聞けなかったらまたいつか機会を探ればいい。
それだけの話だ。
「副部長、手塚サンは俺が潰すんっスから、横取りしないでくださいよ! 俺、何のためにサウスポー対策してると思ってるんすか!」
「赤也、サウスポー対策もいいけど、体力と筋力のアップの方はどうなってるの? ちゃんと欠かさずパワーリスト着けてるんだろうね」
「俺のデータから見ても、お前は技術力に対して少々筋力、そして特に握力が足りない傾向にある。今のうちにしっかり鍛えておかなくては、肝心な時に痛い目を見るぞ」
「も、モチロンっすよ! 部活中も授業中も、今だってほら、しっかり着けてるッス!」
切原と幸村、柳のそんな話が耳に入り、ははっとする。
そうだ、今はそんな個人的なことを考えるよりも、関東大会のことだ。
気を取り直し、は顔を上げた。
「でも、切原君こないだ授業の前にこっそり鉛1本抜いてたよね。だりーやってらんねーとか言って」
「……へえ」
「ほう……」
「ふむ」
が零した言葉に、幸村と真田と柳がぴくりと反応する。
瞬間、切原の顔がさあっと凍りついた。
「……て、てめーなんでバラすんだよ! それ言うなって言っただろ!!」
あたふたと慌て始める切原。
そんな彼にわざとらしくべーっと舌を出し、は言う。
「切原くんだってさっき病室で余計なこと言ったじゃない。お返しだよ!」
「このやろ……お、お前覚えてろよ!!」
そう言った赤也の視線を遮るように、真田が立ちふさがる。
そして。
「赤也アーーーーーーーーーーーーーッ! その腑抜けた根性、叩きなおしてくれるわーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
「わー!! すんませんっしたー!!」
病院の屋上に、真田の絶叫と切原の断末魔が響いた。
しばらくの間、皆はそのまま楽しそうに話を続けていた。
ただひとつおかしいのは、三年のメンバーが談笑しているその側で、強制的に腕立て伏せをさせられている切原の姿くらいだろうか。
「……ひゃく、はちじゅー、なな……、ひゃ、ひゃくはちじゅう、きゅ……う」
「そら赤也、あと少しだよ」
「ペースが落ちとるのう。もう少し追加したらどうじゃ」
「え、ええ、カンベンしてくださいよ〜!!」
先輩たちのからかう声に、切原の悲痛な声が木霊する。
そんな後輩の様子を見て、彼らはとても優しいまなざしで、くすくすと笑みを零した。
それは、とても平和な光景に見えた。背後に広がる、少しずつ暮れかけた広大な空の情景も含めて。
――やがて。
「ひゃ、く、きゅーじゅーはち、ひゃ……きゅ、きゅーじゅーきゅー、……に、ひゃ……くッ!!」
約束の回数を終え、切原は屋上で大の字に倒れこんだ。
そんな切原を、はにこりと笑って覗き込む。
「お疲れ様、切原君」
「……て、てめえのせいだかんな……お、覚えてろよ……!!」
荒い息を吐きながら、切原がに憎まれ口を叩くと、その背後にいた真田がぎろっと切原を睨みつけた。
「赤也……自分の失態を棚上げするのなら、もう100ほど追加してやるが?」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ……明日っから関東大会ですよ!? もうこんな時間だし、それにあの、いくらザコ相手っつっても、疲れ残すのも良く無いっつーか!」
慌てて上半身を上げ、必死で声を上げ始める切原。
そんな彼を見て、そこにいた皆は、大きな声を上げて笑った。
「冗談に決まってるじゃないか。馬鹿だな、赤也は。明日からはもう、関東大会が始まるんだ。そんな無理させるわけないだろ」
優しく微笑みながら、幸村が呟いた。
そんな幸村の言葉に、ほっとしたように胸をなでおろし、切原が頷く。
「そうっすよねえ。ついこないだ県大会が終わったばっかな気がするっすけど、早ぇっすよね!」
「ふふ、そうだね。早いよね。俺だって、ついこないだ入院したばかりのような気がしてたのにさ。でも、あっという間に冬から春になって、地区大会も、県大会も終わって夏になって……もう関東大会まで始まっちゃうんだよね――」
そう言って、彼は口角を上げ、笑う。
しかし、その言葉と笑顔には、明らかに言い表せない感情が含まれていた。
(幸村先輩……)
は、胸がぎゅっと掴まれたような気がした。
そして、それはだけでなく、その場にいたメンバー皆が感じたようだ。
今の今まで軽口を叩いて笑っていた切原ですら、その言葉の重みを感じたのか、やるせなさそうな表情で視線を逸らし、俯いている。
先ほどまで笑顔にあふれていた病院の屋上が、しんと静まり返った。
――すると。
「はは、やだな、皆。そんな湿っぽい顔しないでくれないか!」
静寂を打ち破ったのは、他でもない幸村本人だった。
皆が顔を上げ彼を見つめると、幸村はにこりと笑って言葉を紡ぎ始めた。
「……実はさ、皆に言っておきたいことがあるんだよね」
「言っておきたいこと?」
数名がおうむ返しに問うた声が重なる。
幸村は、それがまるで面白いハーモニーにでも聞こえたかのように、ふふっと軽い笑みをこぼした。
――そして。
「実はさ、手術、決まったんだ」
そう言って、幸村はとても嬉しそうに破願した。
手術が決まった――その言葉に、みんなの双眸が大きく見開かれた。
しかし、誰も言葉を発することができない。
すると、その元々の言葉の主は、二、三度目を瞬かせて、不満そうに息を吐いた。
「……なんだ、皆、喜んでくれないの? せっかく俺の手術、決まったって言うのに」
そう言って、幸村はわざとらしく腰に手を当て、むっとした顔を浮かべる。
そんな彼にやっと声を掛けることができたのは、いつも生意気な、癖っ毛の後輩だった。
「……マジ、すか?」
「ああ。今朝、主治医の先生から説明があってね」
幸村が頷くのをきいて、止まっていた彼らの表情が、徐々に動き始める。
次にずいっと身を乗り出したのは、丸井だ。
「い、いつ? いつなんだよ」
「一応、今月末。残念ながら、関東大会には間に合わないけどね」
そして――彼は続けた。
力強い、その言葉を。
「全国大会には、必ず間に合わせるよ」
その瞬間、その場にいた皆が、一斉に湧いた。
「やった」と声をあげる者、ガッツポーズを作る者、嬉しそうに顔を見合わせる者。
幸村は、とても優しい笑顔で満足そうにその光景を見つめている。
もまた、皆と同じように、幸村の復帰を心から喜んでいた。
ぐっとこみあげてくるものをこらえながら、震える口元を両手で抑える。
幸村とともに、全国を戦える。
立海テニス部のメンバーが、やっとコートに揃うことができる。
そう考えただけで、目頭が熱くなった。
(良かった……幸村先輩、全国大会に間に合うんだ……)
やはりじんわりとにじんできてしまった涙を指の先で擦りながら、はふと、真田を見上げる。
彼のことだ、幸村の復帰を誰よりも喜んでいるに違いない。
――しかし。
彼はやや俯き加減でぐっと帽子のつばを下げてしまっており、完全にその表情を隠してしまっていた。
固く結んだ口元だけが見える程度だろうか。
けれど、その表情は窺い知れなくとも、何も言葉を発していなくとも――分かる。彼の言い表せない感情が、痛いほどに伝わってくる。
(真田先輩……)
そんな彼の姿を見ていると、は更に胸が熱くなり、また瞳が潤んだ。
しかし何も言葉を掛けることはできなくて、はそっと真田から視線を外す。
彼が今抱いている想いには、きっと誰であっても踏み込めないような気がしたからだ。
その時、丁度同じように真田を見ていたらしい、幸村と目が合う。
幸村はの視線に気づくと、真田を軽く指さし、ふふっと笑った。
しばらくの間そうやって喜びを分かち合っていたが、気づけばもうかなり日が暮れ始めていた。
「そろそろ帰った方がいいんじゃない?」と幸村が切り出したのをきっかけに、皆は病室に戻った。
そして、すぐに帰る準備を整えると、皆は再度幸村に向かい合う。
「そんじゃ、今日はこれで失礼するっす!」
「幸村、手術が決まったとはいえ、あまり無理をするのではないぞ」
切原は無邪気に笑い、真田もまた幸村に言い含めるように声を掛ける。
幸村は、そんな彼らに「はいはい」と頷いた。
「わかってるよ。何が何でも全国大会には間に合わせなきゃいけないんだから、今はちょっとくらい我慢するよ」
そう言って笑う彼の顔は、希望にあふれていた。
そんな幸村の顔を、皆もまた、嬉しそうに見つめ返す。
「それじゃ、みんな気を付けてね。明日は頑張って」
幸村がそう言って笑い、手を振る。
それに応えるように皆も軽く手を振り、病室を後にした。
「それにしても、良かったよな! 幸村の手術が決まってよ!」
「これでウチが三連覇したも同然っすよね!」
病院の廊下を歩きながら、ジャッカルや切原が嬉しそうに騒ぎ立てる。
それを後ろから見ていた真田は、眉間に皺を寄せて軽く一喝した。
「こら、お前たち。まだ病院内にいるんだ、あまり騒ぐな!」
真田のその声にびくっと肩を震わせ、彼らは顔を見合わせたが、今はそんな程度では溢れ出す嬉しさを止められないようだ。
怒られたことなどものともせず、へへっと笑う。
真田はそんな彼らを仕方なさそうに見つめながらも、自身も喜色の笑みを浮かべた。
その時――向こうから一人の女性がやって来た。
彼女は、真田たちに気付くと、あたたかい表情で頬を緩めた。
「あら、皆。来てくれてたのね」
そう言って軽く頭を下げたのは、幸村の母親だった。
代表して、真田が帽子を取り、深々と頭を下げる。
「ご無沙汰しています、おばさん。こら、お前らもきちんと挨拶せんか」
真田が言うと、皆もまた、続けて頭を下げた。
「いつも丁寧ね、真田君もみんなも。ありがとう」
みんなの顔を、幸村の母は優しく見つめて微笑む。
その時、切原が思い出したように声を上げた。
「あ、そーだ! おばさん、決まったんすよね、幸村部長の手術!! 全国大会間に合いそーで、ほんと良かったっす!! おめでとーございます!!」
満面の笑みを浮かべ、切原が嬉しそうに捲し立てると、それを皮切りに、他のみんなも口々に喜びや祝いの言葉を口にした。
「本当に良かったです。やはり幸村君がいないと、部が締まりませんから」
柳生が丁寧な口調で言うと、それに嬉しそうに頷いた丸井が続ける。
「ほんと、そうだよな! ほんとなら、もーちょっと早く決まって、関東大会の途中からでも間に合えばもっと良かったけどさ!」
「ま、それはしょーがねーんじゃねーか。病院側とか、先生の都合とかもあるんだろうし」
相方の言葉に苦笑しつつも、ジャッカルもまた、やはりどこか嬉しそうに言う。
すると。
「……その話、もしかして精市から聞いたの?」
幸村の母が、静かな声で皆に尋ねた。
その問いに、柳が答える。
「はい、つい今しがた、本人の口から聞いたのですが」
「そう……」
そう言うと、彼女は一瞬顔を伏せる。
しかし、すぐに顔を上げにこりと笑うと、彼女は「ごめんなさい、急ぐから、またね」と足早に去っていってしまった。
「……なあ、弦一郎。今のおばさんの様子、少し変ではなかったか?」
そう言うと、柳は少し訝しげに彼女が去っていった方向をじっと見つめる。
問われた真田も、「ふむ……」と小さく呟いて、彼の目線の先を見やった。
「それに、精市の手術がやっと決まったというのに、反応が微妙というか……あまり喜びが伝わってこなかったような気がするのは、気のせいだろうか?」
柳のその言葉を聞き、他の皆もお互い顔を見合わせる。
しかし、すぐに気を取り直したようにははっと笑った。
「考えすぎだろぃ? ほら、面会時間ももうすぐ終わりだしさ、急いでたんじゃねぇの?」
丸井の言葉に、ジャッカルや切原も軽い調子で頷く。
「だな。俺たちも帰ろうぜ!」
「そっすね!」
そう言うと、皆はまた歩き始めた。
柳と真田は顔を見合わせたが、それ以上はもう何も言わず、皆のあとに続く。
――しかし、この時感じた違和感は、決して勘違いではなかったのだった。