あの一件があってから、何事もなく日が過ぎた。
あれ以降笹岡は二人に何も言ってくることはなく、ただ、普段通り部活に来ては、練習メニューを淡々とこなしている。
は心の底ではもう一度彼と話をしたい気持ちはあったのだが、「結果も出していないのに口でどういっても無駄だろう」という真田の言うことももっともだと思い、結局あれ以来彼と話すことは無かった。
もちろん関東大会直前ということもあり、日々の練習に忙殺されて、自身そんな暇が一切無かったせいでもあるのだが。
そして、あっという間に時は過ぎ――明日はとうとう、関東大会開幕の日である。
あまり疲れを残すのも良くないとそこそこで練習を切り上げると、その帰りにレギュラー全員とで、幸村のところに最終報告と称した見舞いに訪れたのだった。
病室の窓に、夏の日差しが反射する。
熱を持った窓のサッシに手を掛けながら、はほんのりと頬を染め、外の蝉の声に耳を傾けようと必死になっていた。
それは決して、蝉の観察がしたかったわけでも、その声を風流だと愛でていたわけでもない。
ただ、これから起こるであろうこの病室の中の喧騒から、少しでも意識を逸らしたかっただけである。
何故なら――先ほど幸村の病室に入るなり、挨拶も早々に切り上げて、切原たちが先日の笹岡とや真田との一件を、面白おかしく幸村に説明してしまったのだ。
そして。
予想通り、あっという間に病室の中はその話題一色に染まってしまったのだった。
「へえ、そんなことがあったんだ!? 笹岡って、2年の笹岡? 確か赤也と同じクラスの子だよね」
の背後から、興味津々なあの部長の声が弾け飛ぶ。
直後に、それに同調し頷く切原の声が響いた。
「そうっス!! けど、そんなこと言われても副部長ももほんとひるまねえんス。なんつーかもうアッツアツって感じ!」
アツアツ、という言葉にの恥ずかしさが増した。
は、頬の火照りを抑えるように、両手で頬を覆う。
しかしそんなの様子などお構いなしに、みんなのお喋りはヒートアップする一方だった。
にやにやしながら、切原は引き続き早口で捲し立てる。
「まるでドラマとか漫画とか見てるみたいだったッスよ。ねえ、丸井先輩?」
「そうそう、挙句の果てには笹岡の前でラブシーンだぜぃ! なんだっけ、『彼女の支えが俺を更なる高みへ上げると信じている』だっけ?」
「ああ、そんな感じじゃ。もで、『ただ真田と一緒に居たかっただけ』とか言ってのう。とにかくアッツアツじゃったよ。部室で聞いとったこっちが恥ずかしくなったぜよ」
「うっわあ、俺も見たかったなあ、その現場!! みんな、そんな美味しいシーンは携帯にでも撮って俺にも見せてくれなきゃダメじゃないか!」
切原だけでなく、丸井や仁王までもが大げさに騒ぎ立て始め、幸村もまた、わざとらしく悔しがってみせた。
(やだ、もう……)
真田とが付き合い始めて、一時はひとしきりからかい倒されたけれど、関東大会が近付くにつれて、最近は彼らのそれは鎮静を見せていた。
毎日の練習の密度と濃さは半端ではなかったから、その疲れもあっただろうし、何より関東大会に向けて真剣さがより増してきたからだろう。
そもそも、真田とがからかいの材料に出来るような恋人らしい接触を全くしていないというのもあるのだろうが。
だから、今日のようなからかいはあの日以来で、久しぶりな分、なんだか気恥ずかしさも大きい気がした。
ふう、と息を吐き、は横目でちらりとみんなの方を見た。
幸村と切原、丸井、仁王がとても楽しそうに笑っていて、柳生とジャッカルは少々苦笑気味に顔を見合わせている。
しかし彼らのその表情は、馬鹿にしているわけでも、嘲笑しているわけでもない。
そう、彼らのからかいは、何よりの好意の証なのだ。
笹岡のような反応を目にしてもなお、彼らは自分たちを温かく見守ってくれる。味方だと言ってくれる。
あの日の言葉が彼らの本音であり、真意なのは疑いようもない。
だから、少々のからかいくらいなら、我慢しようとは思っていた。
とはいえ、なかなか冷静になれず、顔が真っ赤になってしまうのは自分ではどうしようもないのだけれど。
(……それに、むきになったらからかいが激しくなるだけだしなぁ……)
その時、ふとは自分と同じもう一人の当事者である、彼の様子が気になった。
そういえば、先ほどから彼がとても静かだ。彼も同じく、事態の鎮静を待っているのだろうか。
は、入り口近くにいたはずの、彼の姿をちらりと見つめる。
彼は、帽子のつばをぐっと握り、肩を震わせて立ち尽くしていた。
やはり、決して平気なわけではなさそうだ。
むしろ、あれはもう限界ぎりぎりではないだろうかと、が思った瞬間――真田がさすがにもう我慢ならないとばかりに、目をかっ開いた。
「お、お前らいい加減にせんかあっ!」
照れなのか怒りなのか、あるいはその両方か、顔面全体を耳まで真っ赤に染め、真田が大きな声で叫ぶ。
しかしそれすら楽しむように幸村は笑った。
「真田、照れるなって。君たちが幸せそうで、俺はうれしいよ。ね、さん」
ふいに、幸村がの方を向いた。
「あ、え、あの」
とうとうこちらにも矛先が向いてしまった。
なんと返せばいいのかわからず、ただでさえほんのり色づいていたの顔が、更にかあっと熱くなった。
「さん、真田を選んでくれてありがとうね。やっぱり真田とさん、お似合いで俺は嬉しいや。ずっとその調子でらぶらぶで頼むね」
わざらしい言葉を使い、幸村は言う。
恥ずかしがるような言葉をわざと使っているのだとは分かっているのに、やはりその言葉の一つ一つが照れくさく、気恥ずかしい。
返す言葉もないまま意味もなく両手を弄くり、ただあたふたと瞬きを繰り返す、そんなの様子を見つめて、幸村はまた、楽しそうに笑みを浮かべた。
「ふふ、照れなくてもいいのになあ」
「て、照れるの分かってて言ってますよね!?」
頬を真っ赤に染めたまま眉根を寄せて、口をとがらせたが、思わず大きな声で叫んだその時だった。
「ゆ、幸村!! 本当に、いい加減にせんと本気で怒るぞ!!」
まるで守るようにその背にを隠し、真田が二人の間に割って入った。
その瞬間、の視界に彼の大きな背が映る。
自分だって恥ずかしいのに、彼が助けに入ってくれたのだ。
(真田先輩……)
「お、さんを助けたね? 笹岡のときもこんな感じだったのかな?」
「うるさい!」
幸村のからかいに、真田が大きな声で叫んだその時だった。
とんとん、と病室のドアが軽くノックされ、白衣を着た若い看護婦が苦笑気味に顔を覗かせた。
「幸村君、盛り上がるのはいいけど、病室ではもうちょっと静かにね」
「あ、すみませーん」
「も、申し訳ありません!」
室外からの予想もしなかった声に、対照的なトーンで幸村と真田の声が被る。
看護婦は「気を付けてね」と優しく笑い、扉を閉めた。
「……ほら、真田のせいで怒られたじゃないか」
「誰のせいだ誰の! 大体お前はだな……」
先ほどより小さめの声で、幸村と真田がまた何やら言い合いを始める。
真田はいつも大人びた表情をしているけど、幸村といるときは、彼の年相応な表情が顔を出すような気がする。
(真田先輩にとって、幸村先輩ってやっぱり他の先輩とはちょっと違うのかな……)
以前、入院する幸村への想いを真田から軽く聞きはしたが、きっとあれだけではない気がする。
真田にとっては、幸村は今では一番古い間柄だと聞いたことがあるが、二人はいつからの知り合いなんだろう。
そして、どんな信頼関係を作り上げてきたのだろう。
そういえば、そういった話は一度も聞いたことがないと、は思った。
自分を大切に思ってくれている人が、また違うベクトルで大切にしている人。
彼にとって、幸村精市という人は、一体どんな存在なのだろう――
がそんなことを想い、静かに息を吐いたその時。
「……二人とも、そろそろ本題に入らないか」
同じようにその場を見守っていた柳が、苦笑気味に口を開いた。
そう、今日の本題は、あくまでも関東大会前の最終報告なのだ。
「そ、そうだ。蓮二の言うとおりだ。今日はこんなことを話しに来たのではない」
咳払いをして、真田が頷くと、幸村もまた首を縦に振り、ベッドから立ち上がる。
――そして。
「そうそう、今日はあくまでも、関東大会の話をしに来たんだったよね」
そう言って幸村はふふっと笑った。
先ほどの看護婦の注意もあり、メンバーはみんなで屋上に上がった。
ここならばいくらでも大きな声で話せると、幸村は笑い、ベンチに腰を掛ける。
「えーと、一試合目はどこと当たるんだっけ?」
幸村の問いに、柳は自分の鞄からノートや書類を取り出して彼に差し出した。
「東京の銀華中だな」
「へえ、銀華か」
柳の手から受け取ったものを受け取ると、幸村はぱらぱらとそれを捲る。
そして、切原や丸井たちが、興味深そうにそれを覗きこんだ。
「さすが柳先輩っすね。こんなザコでもしっかりデータ収集してるんすか」
「でもよお、別に要らないだろぃ」
けらけらと軽い笑い声をあげながら、切原と丸井が言う。
あまりにも余裕と自信たっぷりな様子に、は目を瞬かせた。
「銀華中って、そんなに弱いんですか」
関東大会まで出てきているような学校は、どこもそれなりに強いのだと思っていた。
しかし、彼らの様子だと、全くそうではなさそうに見える。
すると、そんなの内心を見抜いたらしい柳が、それを否定するように首を振った。
「いや、東京都大会ベスト4まで残り、関東大会に進出してはいるのだから、弱いわけではないだろう。実際、福士や堂本などは、なかなかの腕だと聞いている」
「しかし蓮二、銀華は都大会で青学相手に棄権負けをしたと聞いたが」
「棄権負けですか? ってことは、全く試合してないってことなんですか?!」
真田の言葉に、が驚愕して声を上げる。
柳がそれに「ああ、そうらしいな」と頷くと、真田は思い切り不快感を露わにした。
「やはりそうなのか。きちんと勝負した上で負けたのならともかく、棄権負けなどと……たるんどるにも程がある!」
他校のこととはいえ、真田には許せない結果なのだろう。
眉間に深い皺を刻みながら腕を組み、吐き捨てるように言うと、真田はふんと鼻を鳴らした。
「そんなたわけた奴らに、俺たちが1ポイントも取られるものか」
「でも、棄権で負けたなんてちょっと怖くないですか?」
どのような理由で棄権したのかは知らないが、もし勝負してたらどうなっていたかわからない。
力を示すこともなくただ勝敗だけが決まったというのは、逆に不気味ではないだろうか。
「普通に戦って負けてるよりも、尚更、なんだか怖いような気が……」
口元にそっと手を添え、が不安そうに息を吐いた、その時。
「馬鹿者」
そんな真田の声が聞こえて、は顔を上げた。
瞬間視界に映ったのは――余裕たっぷりの彼の顔。
思わずとくんと胸が鳴り、の顔が熱くなった。
彼は、そんなに、力強い言葉で続ける。
「たとえ銀華が都大会で他の追随を許さない強さで優勝していたとしても、だ。そんなことは関係ない。俺たちの圧倒的な力をもって、ただ叩き潰すのみだ」
ぐっと拳を握り、すがすがしいほど自信に満ち溢れた表情を浮かべながら、彼は言った。
それは、の小さな不安を吹き飛ばすには十分すぎるほどだった。
は、柳、仁王、柳生、丸井、ジャッカル、切原――そして真田と幸村を、順繰りに見る。
誰一人として真田の言を否定するような顔はしていない。その通りだと言わんばかりの、自信に満ちた表情をしている。
それは、真田の言葉が、彼らの総意である証だった。
――ああ、そうだ。
彼らは「絶対王者」だ。
どんな学校の、どんな強者がかかってこようと、負けるわけがないのだ。
「すみません、先輩たちがものすごい人たちだったってこと、忘れてました」
先ほどまで少し不安そうだったの表情に、やわらかい笑顔の花が咲いた。
「先輩たちが、負けるわけないんですよね」
全幅の信頼をたたえて笑うに、真田も思わず目を細め、「ああ」とやさしく頷く。
そんな様子を、周りの皆もまたとても微笑ましそうに見つめた。