二人は、帰っていく笹岡の背中を無言で見送る。
やがて彼の姿が完全に見えなくなると、数歩前にいた彼女がゆっくりと振り返り、落ち込んだ表情で真田の側に戻ってきた。
「……真田先輩。先輩のことも、先輩と私が付き合ってることも、誤解して欲しくないと思うのは、私の我が侭なんでしょうか……」
は真田の前で足を止め、ぽつりと呟く。
「そうだな、俺の事はともかく、俺たちが部活に私情を持ち込んでいるような付き合い方をしていないと証明するには、やはり一定の結果が必要なのだろう。それまでは、誤解されても致し方ないな。結果も出していないのに分かってもらいたいというのも、おこがましい考えだろう」
「……そう、ですよね……」
真田の言葉に元気の無い声で返すと、はしゅんとして俯いた。
彼女には、今の言い方は少しきつかっただろうか。
こういう言い方しか出来ない自分に情けなくなりながらも、真田は必死で言葉を探した。
「、そう気に病むな」
「はい」
彼女は真田の言葉に頷いてはみせたものの、やはり相当に落ち込んでいる様子だ。
元気付けてやりたいが、上手い言葉が見つからない。
そもそも、自分は女子の扱い方というものを未だによく分かっていないのだ。
彼女と出会うまで、自分の周りには同性の友人ばかりだったし、女子と積極的に関わる事もなかったので、女子への声のかけ方や扱い方など分かるわけもない。
今までは、そのことで不自由を感じたり、困った事はほとんどなかったけれど――今は違う。彼女が傍にいる。
極力彼女を傷つけたくないし、優しく、大切に扱ってやりたい。
しかし、ああでもない、こうでもないと考えてはみるが、考えれば考えるほど気の利いた言葉など出てきそうになかった。
辺りは完全に真っ暗になり、空気がしんと静まり返る。
その静けさがなんだか妙に恥ずかしくて、真田は視線を逸らし、無意味に咳払いをした。
(俺は一体何をやってるんだ……)
自分の情けなさに、思わず額を押さえる。
彼女を安心させてやる事も、支えてやる事も出来ないなんて、情けないにも程がある。
要は結果さえ出ればいいのだが、その結果が出るのはもう少し先だ。
しかし、その結果が絶対的なものだと信じさせてやる事が出来れば、彼女の不安は拭い去ってやれるに違いない。
真田は、逸らしていた視線を再度に向けた。
その瞬間彼女と目が合い、心臓がどくんと鳴ったが、真田はそのまま両の手でぐっと彼女の双肩を掴む。
そして――辺りに真田の大きな声が響いた。
「いいか、この俺が必ず三連覇を果たして『結果』を出す。誰にも文句を言わせない結果をだ。だから、そんな顔はするな……俺を信じろ!」
それは、自分自身でも空気を振動させたような感覚を覚えるほど、とても力強い言葉だった。
少し力み過ぎたかと恥ずかしくなったが、真田はそのままじっと彼女の目を見る。
すると、次の瞬間、彼女が頬を染めこくんと頷いた。
「……はい、信じます」
そう言って、彼女ははにかんだように微笑んだ。
暗くてもはっきりと分かるほど真っ赤な顔をしながら、柔らかく笑う彼女の姿は、真田の心臓を思い切り刺激する。
激しく高鳴ってゆく自分の心臓をはっきりと自覚しながらも、真田はそれをごまかすように咳払いをし、彼女に背を向けた。
――彼女が可愛過ぎて、正直なところ自分でもどんな顔をしているのか分からない。
無意識に口元を押さえ、何度も何度も咳払いを繰り返す。
なんとか心臓と心を落ち着けていると、ふいに腰の辺りで何かが引っ張られる感覚がした。
はっとして振り返ると、目に飛び込んできたのは、彼女がその小さな手で真田の制服のシャツを掴んでいる姿だった。
彼女のその行為は、せっかく落ち着かせていた心臓を、更に刺激した。
脈動する音が、外に漏れ聞こえているのではないかと思えるほどだ。
真田が完全に身体を硬直させていると、彼女は小さな声で呟くように言った。
「真田先輩、ありがとうございます。先輩、ちょっとかっこ良すぎです。……もう、どうしよ……ほんと、だいすきだ……」
そう言い終わると同時に、シャツが引っぱられる感覚が消えた。
真田がそっと振り返ると、彼女は真っ赤な顔でその口を恥ずかしそうに抑えていた。
どうやら最後に紡いだ小さな囁きは、真田に伝えるというより思わず出てしまった言葉のようだ。
「……す、すみません、私……」
耳まで真っ赤にしながら、自分の言葉に照れている彼女を見ていると、先ほど笹岡に対して一生懸命庇ってくれたあの言葉とあいまって、彼女への愛しい思いが溢れ出して止まらなくなった。
真田は思わず彼女の身体に両腕を回したい衝動に駆られたが、ここは学校という神聖な場所な上、今は部にとってとても大切な時期であるというのに、そんな事をするわけにはいかないだろうと、自分自身に必死で言い聞かせる。
その代わりに、俯いた彼女の顔に手を伸ばして、目の端に残っていた先ほどの涙の跡を、そっと指先で拭った。
「……ありがとうとは、こちらの言葉だ。俺などをあんなに庇ってくれて……本当に嬉しかった」
そう言って、真田は彼女に微笑みかける。
すると、彼女は目を瞬かせた。
「先輩……あ、え、あ、そか、聞いてたんですよね、今さっきの……」
どもりながら、彼女は再度とても恥ずかしそうに眉を寄せる。
そんな姿も可愛くて、真田はまたくすりと笑った。
「ああ、全部聞いていたぞ」
「ああああ、もう忘れてください〜!!」
は片手で顔を覆い、もう片手を無意味に左右に振る。
それを見つめてははっと笑ったが、すぐに真田は真面目な表情を浮かべて、先ほどの懸念を口にした。
「……しかし、。ああいうことを言われても、これからはどうか放っておいてくれ。お前の気持ちは本当に嬉しいが、その為にお前がいざこざに巻き込まれたり、傷ついたりするのは、俺の望むところではない」
真田の言葉に、の動きが止まる。
そして、彼女はゆっくりと顔を上げ、問い返してきた。
「それは、先輩が悪く言われていても……ってことですか?」
「ああ」
「それが完全に相手の誤解だったとしても?」
「そうだ」
気持ちは本当に嬉しいのだぞ、と念を押すようにもう一度繰り返し、を見つめる。
しかし、納得できないのだろう、彼女は首を縦に振ろうとしない。
眉根を寄せ、口を尖らせて俯きながら、黙りこんでしまった。
こういうところは頑固だな、と真田は苦笑いを浮かべる。
「、頼むから分かって欲しい」
「でも、先輩は本当はとっても優しい人なのに……一方的に誤解されっぱなしなのは、嫌です……」
悔しそうに声を震わせ、が呟いた。
その顔を見ていると、彼女が自分を本当に想ってくれているのが伝わってきて、胸が熱くなる。
彼女がこれだけ自分のことを想い、気遣い、こんなにもあたたかく、愛してくれている。
その想いさえあれば、他人の評価など何だというのだろう。
例え100万の他人に嫌われても、このという少女が自分のことを分かってくれていれば、自分は幸せなのに。
真田は、目を細めた。
「俺にとって本当に大切な者達がちゃんと俺自身を理解してくれているのだから、それで充分なんだ。そんなことより、もし俺が原因でお前が傷つくような事があったら、そちらの方が俺は悔やんでも悔やみきれん。どうか、俺のことを思うなら、分かって欲しい」
そう言って、真田はじっとの目を見つめる。
俺のことを思うなら――なんて、少しずるい言い方だというのは承知していたが、こうでも言わなければ、彼女はまた同じことを繰り返すだろう。
それだけは、どうしても避けたかった。
彼女は、何か言いたそうに口を開いたが、結局言葉にはしないまま、また口をつぐむ。
そして頭を垂れ、少しの間無言で考え込んでいたが、やがて彼女は、こくりと首を縦に振った。
「すまない、。……ありがとう」
そう言って、真田は頭を下げる。
すると、彼女は顔を上げ、小さな声で囁いた。
「先輩。私は、誰に何を言われたって、真田先輩の味方ですからね」
彼女はその顔をほんのりと染めながら、どこか必死そうにその言葉を紡いだ。
その言葉も、表情も、とてもいとおしくてたまらない。
「……百人力――いや、億人力だな」
そう言うと、真田は彼女に手を伸ばし、その頭にそっと触れた。
触れた瞬間、その頬が更に赤く染まったが、真田の無骨な手を嬉しそうに受け入れ、彼女は笑う。
真田もふっと微笑み――二人は、幸せそうに顔を見合わせた。
しかし、甘い静寂はほんの一時のことだった。
次の瞬間、大きな音をたてて、部室のドアがガタンと開く。
そして。
「おーいお二人さん。申し訳ないがのう、タイムアップじゃ」
そんな聞き覚えのある声とともに、騒がしく出て来たのは、お馴染みのレギュラーの面々だ。
「なっ……!!」
「……っ!!!」
驚いた二人は、咄嗟に高速で距離を取る。
そういえば、彼らが部室に残っていたことをすっかり忘れていた。
なんだか無性に恥ずかしくなり、顔の熱が一気に上がった。
「お前ら、俺らのことすっかり忘れてたろぃ」
「すまないな、弦一郎。もう少しそのまま邪魔せずにいてやりたかったが、完全下校の時間まで、残り3分になってしまった。流石にこれ以上は厳しくてな」
そう言ったのは、真田の荷物を持って最後に出てきた柳だ。
彼は、苦笑しつつもどこか嬉しそうにそう言うと、持っていた真田の荷物を差し出した。
真田はそれを反射的に受け取りはしたものの、礼を言うことすら忘れて、震える声で尋ねる。
「……お、お前……ら……どこまで聞いて……」
「全部っすよー。笹岡との会話も、その後のもぜーんぶっす!」
そう言って、切原がにやりと笑う。
更に、追い討ちを掛けるように丸井が言葉を重ねた。
「つーか、笹岡にちょっと同情しちゃったよなあ。目の前であんだけあてつけられまくってよ」
「無自覚のバカップルというものは、げに恐ろしきもの……じゃな」
ニヤニヤと笑いながら、仁王も言う。
今度は、隣の部屋の電気と窓を確かめて出て来たジャッカルが、鍵を閉めながら苦笑した。
「こらこらお前ら、あんまからかうなって……二人とも好き合ってて、微笑ましいじゃねえか。な、真田」
フォローしてくれているつもりなのだろうが、冷静に言われるとそれはそれで恥ずかしい。
そんなことを思ってただ黙り込んでいると、今度はその矛先が彼女に向いた。
「それにしても、って本当に副部長の事好きなのなー。『大好き』とか『かっこ良すぎる』とかさ、もう聞いてて俺が照れたっつーの!」
「いくら付き合いたてだからって、ラブラブ過ぎるだろぃ! ま、真田もお前にめっちゃくちゃ参ってるみたいだし、お似合いだな」
切原と丸井が、恥ずかしがって持っていた荷物に顔を埋めているの側に寄り、顔を近づけてからかう。
――流石に、真田の堪忍袋の緒が切れた。
「お前らッ!!! いい加減にせんか!!!」
「それじゃーお先に失礼しまーす!!」
「まった明日なー!」
切原と丸井は、そう叫ぶと、逃げるように校門へと向かっていった。
それに仁王やジャッカルたちも続く。
しかし、その表情はとても楽しそうで、真田のカミナリなど何の効果もなさそうだ。
「全くあのたわけ者どもは……」
真田は、赤い顔のまま、眉間に皺を寄せて息を吐く。
すると、背後からくすりと笑う声がした。
真田が振り向くと、まだ残っていたらしい柳と柳生の姿があった。
「蓮二、柳生、おまえたちも俺たちをからかおうというのか?」
仏頂面で真田は言う。
すると、彼らはくすりと微笑った。
「そんなことはしませんよ。中学生として目に余るようなお付き合いの仕方でしたら、風紀委員としても示しがつきませんし一言申し上げるでしょうが、まさか真田君に限ってそれは無いでしょうし」
「ふむ、あの程度なら全く問題はない。むしろ、もう少し触れあっても許されるレベルだな」
「な、何を言っとるか!!」
顔を真っ赤にして怒鳴る真田が微笑ましいのか、柳と柳生は顔を見合わせて笑い合う。
遊ばれているような感覚がして、真田は額を抑えて顔を伏せた。
「お前たち、充分からかっているだろう……」
そう言った真田に、二人はまたくすくすと笑みを零した。
そして。
「……弦一郎、。忘れないでくれ。笹岡のように思う者も確かにいるかもしれないが、少なくとも、俺たちはお前たちの味方だからな」
「さんの存在は、今の真田君にとてもいい影響を与えていると思います。それは、レギュラメンバー全員の総意ですから。勿論、幸村君も含めてですよ」
柳と柳生は、そう言って優しく真田とを見つめる。
そして、「それでは、また明日」と、軽く会釈して校門へと向かって行った。
そんな柳たちの後姿を見つめ、真田は無言でそっと頭を下げる。
「先輩、絶対に三連覇しましょうね。……絶対に。そのためなら、私、なんでもしますから……」
そんな彼女の言葉に深く頷き、真田は拳をきつく握り締める。
(俺は、絶対に無敗で三連覇を成し遂げねばならん。俺に部を託して入院した幸村のためにも、俺を信じてくれる仲間たちのためにも、こんな俺を支えてくれる彼女のためにも――絶対にだ)
何があっても負けることは出来ないと、真田は決意を新たにした。