「――話聞いてってばー!」
そんなの声が聞こえてきたのは、真田が仲間達と部室で着替えていた時だった。
突然叫んだ彼女に、部室にいたレギュラー達は驚いて顔を見合わせる。
一体何事かと耳を澄ませると、どうやら彼女は誰かと言い合いをしているらしいことが窺えた。
「――くんは、真田先輩のこときら――なの」
「――別に嫌いまでとは――けど……にが――」
真田は、途切れ途切れに聞こえてくる声を、耳をそばだてて拾う。
最初の彼女の一声以外は、二人とも声のトーンを落として話しているらしく、話の内容全ては聞こえない。
けれど、どうやら自分のことを話しているらしいということだけは、なんとなく分かった。
そして、あまりいい話をされているわけでは無いということも。
「……と話しているのは、一体誰なんだ?」
誰とも無しに真田が呟くと、同じように会話を聞きながら着替えていた柳が、冷静な声で答える。
「この声は、2年の笹岡だな」
柳の分析に、切原もシャツのボタンを留めつつ頷いた。
「確かに、俺のクラスの笹岡っぽいっすね。あ、勿論も同じクラスっすけど」
「笹岡か……」
2−Dの笹岡といえば、少し浮ついたところはあるが決してテニスの腕は悪くなく、切原とともに次代を担う来年のレギュラー候補の1人になるのではないかと、真田が考えていた生徒だ。
そのため彼に声を掛ける回数は自然と多くなったし、その際に厳しく当たる事も少なくなかった。
どうやら鬱陶しがられているらしい事は薄々気付いていたが、彼への期待と今後のことを思えばこそだったのだが、と真田は小さな溜息をつく。
とはいえ、正直な所彼に――いや、彼以外の人間も含め、自分に深く関わりのない他人にどう思われようと、どうでも良いというのが本音だ。
分かってもらえないのは残念だが、その時にそうするべきだと思って行った自分の言動の価値が下がるわけではない。
自分自身が後悔の無い、誰にも恥じない生き方をしていれば、それに対する他人の評価などどうでもいいし、自分の信念に基づいた行動の結果は自分自身が率先して示せば良いことで、誰が何を言おうと、最終的にそれで文句の付けようのない結果を残せば良いだけだ。
(も、放っておけばよいものを)
彼とどういうなりゆきでそんな会話に至ったのかはわからないが、相手によっては大きないざこざになる可能性もある。
残念ながら自分には敵が多く、こういうことはこれからも起こり得るだろうから、一度彼女には話をしておく必要があるかもしれない。
そんな事を思いながら、大きな溜息を吐いた真田に、ジャッカルが問い掛けた。
「真田、出て行かなくていいのかよ?」
そう言って、ジャッカルは声のする方を心配そうにちらちらと見る。
「うむ――」
今聞こえてくる限りでは、どうやら笹岡に悪く言われているのは自分だけのようだ。
その自分が出て行くと、余計に雰囲気がまずくなったりはしないだろうか。
笹岡ならば女子に手を上げるようなことは無いだろうし、もう少し様子を見た方がいいような気がする。
「もう少し様子を見よう。こんな話を俺が聞いたと分かれば、笹岡は勿論、も気まずい思いをするだろうしな」
そう言って、真田は苦笑した。
すると、柳もそれに頷いて同意する。
「そうだな、お前が口を出さなくて済むのなら、その方がいいかもしれん。しかし、様子によってはすぐに出ていけるよう、弦一郎は着替えを急いだ方がいい」
「ああ、勿論そうするつもりだ」
真田は着替えの手を速めながらも、外の様子に神経を集中させた。
他のメンバー達も、外の様子を少しでも拾えるようにと、極力音をたてずに手を動かす。
そんな中の様子を知る由もなく、二人は会話を続けた。
「――テニスあんなに強いし――ものすごく力尽くしてる――」
「怖ぇーもん――……それとこれとは別――」
「――は、すごい人――怖いのは――真面目に部活に取り組んで――」
どうやら彼女は、必死で真田を庇っているようだ。
しかもだんだん力が入ってきているのか、その声が大きくなってきている。
次第に、の力説は、耳を澄まさなくとも部室の中全体に聞こえるようになってきた。
「それは……その、いろいろ事情があるの。でも真田先輩は本当にすごい人なんだよ。怒るのだって理由が無きゃ怒らないし、自分のこと以外も気を配ってるからついつい口だしちゃうかもしれないけど、本当はものすごく優しい人なのに……」
テニスが強い、いつも力を尽くしている、気を配っている――とにかくすごい人だと、は必死で第三者の笹岡に語っている。
本人に聞こえているとは全く思っていないのだろう、恥ずかしくなるほど熱の篭もった褒め言葉の嵐は、まるで彼女からの恋文のようだ。
真田は、なんだかとても顔が熱くなった。
そして。
「笹岡君は、真田先輩のこと誤解してる。もうちょっと、真田先輩の事ちゃんと見てよ」
が強い口調で言ったその言葉は、部室内にはっきりと響き渡った。
その瞬間、全員の無言の視線が真田に集まった。
彼らの視線が無性に恥ずかしくて、真田はその全ての視線を交わして天井を見る。
しかしその雰囲気に耐え切れず、どうすればいいか分からなさそうに喉を鳴らしたその時、丸井がぽつりと呟いた。
「……、真田にベタ惚れ過ぎだろぃ」
その言葉が皮切りだった。
皆の表情が一斉にニヤニヤとした笑みに変わり、次の瞬間、真田はからかいの的となった。
「真田、お前さんは幸せモンじゃのう。これだけ言われりゃ、男冥利に尽きるじゃろ」
「羨ましいっすね副部長!」
切原がつつっと側に寄って来て、肱で真田を突付く。
「う、うるさい。鬱陶しいからやめんか!」
彼の手を払って、睨みつけた。
しかし顔が真っ赤なせいか何の効果もないようで、後輩のからかうような笑みは止まらない。
「いいことじゃありませんか。真田君とさん、本当にお似合いですよ」
「ああ、最初はびっくりしたけどな。いい組み合わせだと思うぜ」
そんな柳生とジャッカルの言葉は、本人たちがからかっているつもりが無い分、殊更真田の恥ずかしさを増幅させた。
なんと返せばいいのかわからず、真田が黙り込んでいると、追い討ちをかけるように柳が口を開く。
「弦一郎、ここまで想ってくれる奴はそうそういないぞ。彼女を大切にしてやれよ」
「そ、そんなことは、今更お前らに言われんでも分かっとる!」
吐き捨てるように言い、真田は真っ赤な顔で咳払いをひとつ落とす。
それは、巷で言われるような「鬼の副部長」とは程遠い姿だったけれど、レギュラー達はそんな真田の姿をとても微笑ましく見つめていた。
――その時。
「なーんだ、そーいうこと。なるほどね、あの真田副部長もやっぱり男ってことかぁ」
今までとは様子の違う笹岡の声が聞こえ、真田は顔を上げる。
すると、再度彼の冷たい声が聞こえてきた。
「へーへー、お熱い事で。副部長、この時期に彼女作るなんて余裕だよなあ」
「幸村部長は入院中だってのに、ちゃっかり自分は彼女なんか作ってるなんて、ちょっと真田副部長を見る目が変わったわ、うん」
「そんな言い方しないで! 真田先輩は部活に私情を持ち込んだりしないよ!!」
どこか小馬鹿にしたような笹岡の言葉の直後、聞こえてきたのはの悲痛そうな反論。
しかしそれを鼻で笑って、笹岡は彼女に返した。
「マネージャーに手をだすのは、私情を持ち込んだとは言わないわけ?」
そこまで聞いて、やっと状況が掴めた。
笹岡が、真田がと付き合っていることを知り、批判しているのだろう。
他の皆も状況がわかったらしく、先ほどまで和やかだった部室内の雰囲気は一転した。
「笹岡の奴、何言ってんだ! 副部長、気にすることねーっすよ!」
「そうだぜ真田、気にすんなよ」
切原やジャッカルの言葉に、他の皆も同調するように頷く。
レギュラー達の想いは、皆同じのようだ。
伝わってくる彼らの気持ちに、真田は思わず目を細める。
「……ありがとう。お前たちの気持ちには、感謝する」
そう言って、真田は軽く頭を下げる。
しかし実のところ、こういった批判が出てくることを、真田は覚悟していたのだ。
レギュラーメンバーはありがたくも好意的に見ていてくれているようだが、何しろ、時期が時期だ。
真田自身、もし3ヶ月ほど前の自分が今の自分を見れば、「そんなことをしている時か」と怒鳴りつけていたに違いないし、他人にそう思われても仕方の無いことだと思う。
――だから、言い訳はしない。結果で示すのみだ。
着替えを終え、真田は息を吐く。
責められるのは仕方が無いが、この件で責められるべきは自分であり、気持ちに応えてくれた彼女は何も悪くない。
ただ自分の陰口を叩かれているだけならば、二人の話に割って入るつもりはなかったが、こうなれば仕方が無い。
笹岡と話をしようと、真田は部室のドアノブを握る。
「副部長、俺も行きますよ!」
切原が言う。
しかし真田は、軽く首を振ってその申し出を断った。
「いや、俺一人でいい」
そう言うと、真田は切原だけでなく他のメンバーの顔も見つめ、言葉を続けた。
「皆疲れているところすまないが、全員笹岡が帰るまで部室から出ないでくれないか。多対一になるようなことは避けたい」
おそらく、笹岡は今の話を真田に聞かれていたことは気付いていないだろう。
そんな時に自分が出ていけば、きっと生きた心地がしないくらい驚くはずだ。
その上他のレギュラーメンバーまでがぞろぞろと出て行けば、彼が部活に居辛くなるだろう。
この件で彼を責めるつもりはなかったし、彼を追い詰めるような真似は極力避けたかった。
「これは俺の問題だ。俺自身がなんとかする」
そう言って、真田は強い眼差しで皆を見つめる。
少しの静寂の後、頷いたのは柳だった。
「うむ、その方がいいだろう。お前達が部活に私情を持ち込んでいないと証明するためにも、俺たちは口を出すべきではないだろうな」
その言葉に、他のメンバーも納得したように首を縦に振る。
そして、最初に助力を申し出てくれた後輩も、同じように頷いた。
「分かったっす。でも、もしなんかあったら何でも言ってくださいよ。俺、笹岡と同じクラスっすから」
「……ああ。ありがとう、赤也」
真田は、切原や他の皆に向かって、ほんの少し目を細める。
そして、真田はドアノブを掴んだ手にぐっと力を入れて、そのままドアを押し開けた。
「――それ以上、彼女を責めるな」
強い口調で言いながら、真田は部室のドアを後ろ手で閉める。
その瞬間、と笹岡の表情が驚愕に包まれた。
「真田先輩……!」
「副部長……!!」
二人の声が重なる。
真田はそんな二人の顔を交互に見てから、の側へと近寄った。
「すまない、話は聞かせてもらっていた」
「き、聞いてたんすか……副部長……」
やはりとても気まずそうに眉をひそめ、声を震わせながら、笹岡が言う。
「ああ、聞くつもりはなかったが、聞こえてきてしまったのでな」
「真田先輩……」
どこか不安そうな瞳で、が真田を見上げる。
そんな彼女を少しでも安心させようと、彼女の肩に優しく手を置き、真田は無言で頷く。
そして、真田は顔を上げ、笹岡の顔を見据えた。
「笹岡、俺は言い訳をするつもりは無い。確かに今はとても大切な時期だ、そういう意見もあるだろうことは覚悟していた」
真田は極力冷静に、いつものようにきつくならないように努めた。
批判されて怒っているのだと思われれば、彼にこちらの考えは届かない。
「……それでも、彼女の支えが俺を更なる高みへ上げてくれると信じて、俺は彼女との交際を選んだ。それが正しかったかどうかは、必ず結果で示す。三連覇を成し遂げるという形でな」
そう言って、真田は再度を見つめた。
出会ってまだ数ヶ月だが、彼女の優しい想いに、言葉に、そしてこの小さな手に、何度癒されたか分からない。
彼女は今自分を心理的に支えてくれており、その支えが練習の励みや、精神的な癒しになっていることは、確かなのだ。
そしてきっとこれからも――彼女が傍にいてくれるなら、今まで以上の力を得ることができる。
都合のいい解釈だと言われるかもしれないが、今は彼女を傍に置くことが、自分のプラスになると信じている。
「しかしまだ結果が出ていない今、俺への批判は好きなだけしてもらっても構わない。……ただ、責めるのなら俺だけにしてもらいたい。彼女は、俺の気持ちに応えてくれただけだ。彼女は悪くない。責められるべきなのは、俺だけだ」
真田はそう言って、笹岡を見据えた。
彼は、何も言い返さず、決まり悪そうにただ視線を逸らす。
そして――空気がしんと静まり返った、その時だった。
「なんで、真田先輩だけが責められるべきなんですか! おかしいです!!」
何故か、唐突にが叫んだ。
その叫びに驚き、真田は慌てて彼女を見る。
すると、の目が潤んでいた。
「私だって……ううん、私の方が……」
小さな声でそう呟く彼女の瞳に、どんどん涙が溜まっていく。
真田は思わず膝をついて、彼女の顔を覗き込んだ。
「、ど、どうした」
何が起こったのか分からず、あたふたと戸惑う真田の前で、は手の甲でぐっと溢れてきた涙を拭い、言葉を続けた。
「私だって、こんな大切な時期に先輩の事好きになって、何も考えずに先輩と付き合うことを選びました。立場は同じ筈です。……ううん、今がどういう時期とか、周りの皆がどう思うかなんて、私は全然考えていませんでした。先輩はちゃんと、責められることも覚悟していたんですよね? だったら、むしろ私の方が考え無しで責められるべきです。私はただ、先輩と一緒に居たかっただけだから……」
そう言うと、彼女は肩を震わせ、はらはらと泣き始めた。
「なのに、先輩だけが責められるなんて絶対おかしいです……!」
「あ、い、いや、その、すまん……そういうつもりでは……」
まさか彼女がこんな反応をするとは思わなかった。
俯いてすすり泣く彼女の顔を覗き込み、真田は何度も「すまない」と繰り返す。
「一人でなんでも背負い込もうとするのは、先輩の悪いところだと思います。……私も、先輩と同じ立場に立ちたいです。だから、自分だけが責められるべきとか、言わないで下さい……」
「……」
彼女の言葉に、ぎゅっと心臓がつかまれたような気がした。
先ほど彼女は自分のことをすごいすごいと言ってくれていたが、彼女のほうが余程すごいと思う。
強さも、優しさも、あたたかさも、彼女には絶対に敵わない。
真田は、彼女がくれた言葉の全てを、彼女自身に返したかった。
無言で立ち上がり、真田は俯くの頭に触れる。
そして、いとおしそうに、何度も何度も頭を撫でた。
「……ありがとう、」
「先輩……」
が顔を上げ、二人の視線が合った。
驚いたようにお互い目を瞬かせたが、次の瞬間、目を細めて微笑み合う。
――その時。
「……あんたら、俺の事完全に忘れてるでしょ」
笹岡の声がして、はっと二人は我に返る。
慌てて二人がその声の主を見ると、彼はとても呆れた顔で、二人を見つめていた。
「ったく、なんか俺めっちゃ悪役じゃないっすか……あっほらし……」
ばつが悪そうに頭を掻き、彼はくるりと二人に背を向ける。
そして、「お疲れっした」と言い残し、校門に向けて歩き出した。
真田は彼に言葉を掛けようと息を吸った――が、言葉は出てこない。
言うべきことは言ったし、一体自分がこれ以上何を言えるのだろう。
(……後は、笹岡自身が判断することだ)
真田は吸った息をそのまま溜息として吐き出し、彼の背中をじっと見つめる。
すると、隣にいた彼女が駆け出し、彼に向かって大声を張り上げた。
「さ、笹岡君、本当にごめんなさい! でも、あの、明日もちゃんと部活来てね!?」
彼女の叫びに、一瞬彼の足が止まる。
笹岡は一瞬振り返りそうな素振りを見せたが、すぐにまた歩き出し、そのまま下校してしまった。