――7月第3週目の日曜日。
全国中学生テニストーナメント関東大会、開幕。
その日、はいつもの朝練以上に早く目が覚めた。
とはいえ、県大会の時に感じたような不安や緊張感からの目覚めではない。
皆の試合が見られることが、純粋に嬉しくてわくわくして、ついつい早く目覚めてしまったのだ。
関東大会なら、県大会の時以上に実力者も揃っているはずだ。
そんな強豪相手に、彼らがどんな試合をするのか、魅せてくれるのか、それがただ単純に楽しみだった。
顔を洗い、朝食を済ませ、昨日済ませておいた準備万端の鞄を手にする。
そして、母に見送られ、家を飛び出した。
いつも通りバスに乗り、集合場所の学校へと到着した。
時間には充分余裕があるが、何故か妙に気が焦って仕方がない。
大急ぎで校内へ足を踏み入れ、は部室に向かって走った。
「はぁ、はぁ……」
息を切らせて、部室の扉の前まで駆け込む。
――すると。
丁度その瞬間扉が開き、中から出てきたのは、真田と柳だった。
彼らは既にテニス部ジャージに身を包み、もう準備万端といった風だ。
きっと自分が一番だろうと思い込んでいたは、荒い息を吐きながらも面食らったように目を瞬かせた。
「では、行ってくる。準備の方は頼んだぞ、弦一郎」
「ああ、分かった。そちらもよろしく頼む」
そんな言葉を交わして、二人が正面を見る。
その瞬間、の姿に気付いたようだ。
先に声を掛けてきたのは、柳だった。
「おや、。おはよう」
柳の涼しげな声に続き、真田もまた、に笑顔を見せる。
「おはよう、。ずいぶん早いな」
「……おは……よございま……」
は、膝に両手をつきながら、上がりきった息でなんとか挨拶をし、笑顔を返した。
「せんぱいたち、はやい、ですね」
途切れ途切れになりながらも、声を絞り出す。
その様子でが必死で走ってきたのが分かったのだろうか、真田と柳は微笑ましそうに笑みを零した。
「お前こそ、少し早過ぎではないのか」
「そんなに急がずとも、集合時間までにはまだだいぶ時間があるぞ」
「はい、でもなんか目が覚めちゃって……」
そう言って、だいぶ落ち着いてきた胸をとんとんと軽くたたきながらが笑うと、真田が少し目を細める。
柳は、そんな二人の様子を見比べ、くくっとからかうような笑みを浮かべて口を開いた。
「しかしいいタイミングだったな、。まだ俺達二人しか来ていないうえに、俺はこれから職員室へ最終報告に行ってくるから、少しの間弦一郎と二人きりだぞ。存分にイチャつくといい」
わざとらしくそう言って、柳はにやりと笑う。
その途端、と真田の顔が、一様に赤く染まった。
「こ、こら蓮二!! 朝っぱらから、な、何を言っとるか!」
「そ、そうですよ!! こ、こんな大切な日に、そんなこと……」
真っ赤な顔で揃って抗議の声を上げる二人を一瞥し、柳は微笑む。
そして、そのまま彼は職員室へと歩いて行ってしまった。
柳の姿が見えなくなってから、残された二人は、顔を見合わせる。
「全く……蓮二のやつ……」
「こんな日でも、通常運転ですね」
二人はそう言って、まだ少し赤い顔のまま苦笑し合った。
部室に入り、真田とは会場へ行く準備を始めた。
とはいえ、昨日のうちにほとんどの準備は済ませてあったので、準備とはいってももう一度確認をする程度だ。
すぐに全ての確認をし終えると、二人は空いている椅子に座って息を吐いた。
「それにしても、先輩たち早いんですね。私が一番だと思ったのになあ」
「はは、慌てて走ってくるほど、一番になりたかったのか?」
「いえ、走ってきたのは、ただ、なんだか落ち着かなかっただけなんですけど」
が苦笑してそう言うと、ぴくりと真田の眉が動く。
「……落ち着かなかっただと? まさかまた、俺たちが負けるかもしれないなどと思っているのではあるまいな?」
「まさか!! 先輩たちが負けるだなんてありえないです!! そんなこと、もう全然思わなくなりました!」
真田の言葉には慌てて両手を振ると、はふふっと笑い、続けた。
「県大会の前までは、もしかしたら負けたらどうしようって思ってたこともありましたけどね。でも、今は先輩たちの強さはよく分かってますもん」
彼らの実力、練習量、そして想いの深さ。あの時は断片程度にしか分からなかったものが、今は本当によく理解できる。
彼らは、全てがとても強い。
テニスの実力も精神力も、卓越しているのだ。
県大会でも、関東大会でも、そしてきっと全国大会でも、負けることなどあり得ない。
お世辞でもなんでもなく、心の底から、はそう思っていた。
「今は逆に、先輩たちが負ける姿の方が想像できないですよ」
そう言って、は頬を緩める。
負けるわけがない、そう言い切って不安など微塵も見せないを、真田はちらりと見つめてから視線を落とし、小さな声で呟いた。
「そこまで信用されると、それはそれでくすぐったい気もするがな」
その言葉に、はまたくすりと笑った。
「そこまで信用させたのは、先輩ですからね。真田先輩が強過ぎるせいで、先輩が悪いんですよ。……あ、別に悪くはないですけど」
自分の言葉にツッコミを入れ、口を押える。
そんな彼女を真田がくすりと微笑ましそうに見つめると――その温かい視線に照れたのか、はわざと視線を外すように目を伏せた。
そして、少しの間二人きりの部室に沈黙が流れる。
水を打ったようなその静けさがなんだかとても恥ずかしい気がして、は自らその雰囲気を壊すように、捲し立てた。
「ていうか、本当もう先輩強過ぎですってば! 先輩、負けたことあるんですか!? 私想像できないです!!」
ただ沈黙を破りたい一心で、はそんな言葉を笑って口にした。
しかし、その瞬間、真田の表情がぴくりと止まった――ような気がした。
(……真田先輩?)
まただ。
この前幸村のお見舞いに行ったとき、病院の屋上でほんの一瞬見せたあの表情を、また彼はした。
がなんだか心がざわつくような感覚を覚えた、その時。
コンコンとノック音が響き、二人だけの時間は終わりを告げた。
部室に来た仁王に二人きりでいたことをからかわれ、真田が怒り、一緒になったらしい柳生がそんな彼らの仲介に入る。
その後に来たジャッカルは朝から何事かと目を丸くし、その後入ってきた丸井と顔を見合わせた。
そして職員室に行っていた柳が戻ってきた直後、最後に駆け込んできた切原をみんなで遅いと責め立てる。
これから大きな大会が始まる朝とは思えないほど、いつも通りの朝だった。
一般部員も揃い、そろそろ出発というとき、職員室から校長や教頭、他の部活の顧問までが揃ってやって来た。
気づけば、テニス部以外の生徒たちも集まってきている。
今日は休日だというのに、わざわざテニス部を見送るためだけに来た生徒もいるようだ。
――本当に、期待されてるんだ。
今まででも何度も何度も感じてきた、テニス部に対する期待。
学校内外に漂う、テニス部は勝って当然という雰囲気。
それは、ただのマネージャーのでさえ、大きな重圧だと感じるようになっていた。
だからこそはあまりそれを考えないようにしていたのだが、今まさに目の当りにした気がする。
勿論、真田たちが負けるとは思わない。
思わないけれど――この期待は、正直、重い。
そんなことを考えてしまい、震える手でぐっと荷物を握りしめる。
しかしそんなの気持ちなど知る由もなく、校長はにこにこ笑って真田に手を差し伸べた。
「真田君、そしてテニス部の諸君。関東大会17連覇、期待しているよ。幸村君の分まで、しっかり頑張ってくれ」
「はい、勿論です。任せてください。お見送り、ありがとうございます」
その手をぐっと握り返し、重圧など感じていないかのように、真田は力強く答える。
この重圧の中、こんなにもはっきりと言い切ってしまえるなんてさすが彼だ。
どこまでこの人は完璧な人なんだろう。
感嘆の息を漏らしながら、はその姿をじっと見つめた。
――うん。大丈夫だ。彼なら負けるわけがないもの。
そして、テニス部のメンバーは、関東大会へと出発した。
関東大会の会場となるアリーナテニスコートは東京都にあるため、県大会の時とは違って立海大附属中からはやや距離が離れている。
そのため、わざわざ学校がバスを用意してくれており、テニス部のレギュラーは勿論、非レギュラーのメンバーも含めて全員でそれに乗って会場へと乗り付けた。
途中、少し道路が渋滞していたりもしたのだが、立海大附属の試合は午後からの遅い時間に設定されていたため、特に支障もなく会場に着くことができた。
「うわーすごい人…!!」
それが、バスから降りた途端のの第一声だった。
県大会の時も多かったが、それ以上の人数かもしれない――そんなことを思いながら辺りを見渡していると。
「何してんだよ、。後ろつかえてる。ジャマ!」
後ろから切原の声が聞こえて、はっと我に返る。
「あ、ごめん」
が慌ててバスから離れると、バスの中からダラダラと切原が下りてきた。
「はー疲れたぜ!」
大げさに背伸びをし、ラケットバッグを地面に下ろす彼に、は心配そうに声をかける。
「途中結構混んでたもんね。大丈夫? 試合は午後からだけど…」
「たりめーだろ、つか今すぐ試合したってストレートで勝てるっつーの」
そう言って、切原は余裕たっぷりの笑みを見せた。
彼らしい言動に苦笑を浮かべ、「その調子なら大丈夫だね」とは息を吐く。
そうしているうちに、メンバー全員がバスから降りていた。
真田の号令で一箇所に集まって移動すると、立海大附属のメンバーは軽いミーティングを始めた。
本日の天気、温度、湿度、体調の報告、対戦校「銀華中」の軽いデータと、一試合目のオーダー発表。
それが済めば、オーダーに参加しているレギュラーメンバー全員で選手登録。
スムーズに事は運び、試合時間まで一旦解散となった。
そこそこの時間があり、皆はどうするのだろうと、が皆の様子をうかがっていると。
「蓮二、今からでも青学と氷帝の試合は間に合うだろうか?」
「ふむ、朝一からだからな、すでに数試合は終わっているかもしれない。しかしお前が見たいのは、手塚の試合だろう? ならば、手塚はシングルス1の可能性が高いから、間に合うと思うぞ」
「……そうか」
真田と柳が、そんな会話をしているのが聞こえた。
そこに切原も飛び込んで行く。
「あ、先輩たち手塚さんの試合観に行くんすか!? 俺も行くッス!!」
――手塚。また、あの名前だ。
この前、病院の屋上で真田がなにか訳有り気な反応をした、あの名前。
この「手塚」という人がどんな人なのか、真田とどういう関係なのかが、はとても気になっていたのだ。
それに――あの幸村や真田が認めるほどの実力の持ち主なのだから、この目でその人のテニスも観てみたいとも思った。
「あの、私も一緒に行っていいですか!?」
思い立ったが吉日、とばかりにも手を挙げる。
すぐに優しく頷いたのは、柳だった。
「ん? ああ、構わないよ。手塚の試合なら、マネージャーとしても観て得るものもあるかもしれない。なあ、弦一郎」
柳は、微笑みながら真田に同意を求める。
真田は、無言でちらりとに視線をやり、その後、帽子のつばに手をやりながら、「ああ」と頷いた。
その姿にまた引っかかるものを感じなくはなかったが、あえてそれを頭の中で打消し、は真田たちに着いて行こうと彼らに近寄る。
「では、行こうか。青学と氷帝の試合はAコートだったはずだ」
「手塚さんの試合、終わってないといいんスけどね〜。他の奴らは見る価値ないだろーし」
そんな会話を交わしながら、3人が動き出す。
も、その3人に着いて行こうと歩き始めた、その時。
の目の端に、とある姿が映った。――笹岡だ。
レギュラーよりも早めに解散していた一般部員の彼は、気怠そうにジャージのポケットに手を突っ込みながら、時間をつぶすように歩いている。
あの部室前での一件後、忙しさにかまけて、は彼と話をすることができないままでいた。
真田の言っていたとおり、言い訳する必要はないと思う。
しかし、彼に言われたことをあれから何度もじっくり考えたは、彼にどうしても伝えたいことができていたのだ。
「手塚」の試合は観たい。観たいが――今はこのチャンスを逃したくない。
(少しだけなら……手塚さんの試合も間に合うかな)
「すみません、用事を思い出したので、先行っていてください!」
そう叫ぶと、はくるりと踵を返して、大分離れていた彼の姿を必死で追いかけた。
「……ァ、ハァ……」
「……なに。俺に何か用?」
が追いかけてきたのが分かったのか、笹岡は足を止めて振り返る。
「う、うん……あの……ハァ……ハァ……」
言葉を発したかったが、鼓動がそれを許してくれない。
ただ荒々しい息を吐きながら、は膝に手をついて息を整える。
「あ、の、ささおかくんに、言いたいこと、あって……」
なんとか少しずつ落ち着いてきた気がする。
大きく息を吐き、体勢を整えると、はまっすぐ笹岡を見据える。
そんなを、笹岡は怪訝そうな目つきで見返した。
「……なに」
「あの、この前のこと、なんだけど」
そう言うと、笹岡の眉間がぴくりと動いた。
そして、嫌味ったらしい表情を浮かべて、ははっと嘲笑うような笑みを零す。
「なに、まだ惚気たりないわけ?」
「ええ!? ち、違うよ、ただ、あの……私……笹岡君に、その……」
彼の嫌味に一瞬どきっとしたけれど、は怯まないようにぎゅっと手のひらを握りしめる。
そして――ぐっと息をのみこむと、ずっと言いたかったその言葉を告げた。
「お礼、言いたかったの」
「はぁ!?」
の発した言葉が意外だったのだろう、笹岡は目を丸くして、口をあんぐりと開いた。
「なんで礼? 意味わからん」
呆れたようにそう言う笹岡に、は少し恥ずかしそうに頬を染めながら、言葉をつづけた。
「理由は二つあるんだけど……まず一つは、笹岡君は私に大切なことを気づかせてくれたから」
今はとても大切な時期で、こんな時に部活のメンバー同士で付き合うということが周りにどういう印象を与えるのか。
真田と気持ちが通じ合えて浮かれていただけの自分は、そんなこと考えもしなかった。
真田はそれを覚悟した上で付き合うことを決めてくれたのに、自分はただ、その幸せに浸っていただけだったのだ。
あの日の笹岡の言葉は、浮かれていた自分にその現実を叩きつけてくれ、気持ちを引き締めることを教えてくれたと、は思っていたのだ。
その気持ちを、はそのまま素直に告げた。
「……て、か、そんな深く考えて言ったわけじゃ、ねーし。腹立ったから言っただけのことだし……」
「うん、でも他の先輩たちはそんなこと言ってくれないからね。ああやって率直な印象を言ってもらえたのは、ありがたかったなって。今ごろになっちゃってごめんね。でも、ほんとありがとう」
そう言って、は深々と頭を下げた。
「や、やめろよそーゆーの。恥ずかしいっての! 顔あげろ!」
その声に、は慌てて頭を上げた。
「あ、ごめん」
「で、もう一つはなんなんだよ」
「もう一つは……笹岡君が部活辞めないでいてくれたこと。あんなことがあって、なんか居づらくなっちゃたんじゃないかと思ったから、もしかしたら笹岡君は部活辞めちゃうんじゃないかとちょっと思ってたの」
の言葉に、笹岡は吐き捨てるように言う。
「てか、俺が辞めようがどうしようが、には関係ないじゃんか。辞めて非難される覚えもないけど、辞めなくて礼言われる筋合いもねぇっつーの」
「そうかもしれないけど……。でも、笹岡君はこれからのテニス部に必要な人材だから、辞められたらやっぱり困るし。だから、辞めずにいてくれてありがたいよ。それに、真田先輩だって笹岡君が辞めずに部に残ってくれたこと、喜んでたと思うしね」
「真田副部長が、俺が辞めなくて良かったなんて、実際言ってたのかよ」
「口にはしてないけど、真田先輩は笹岡君のこと部に必要だって思ってるの、わかるもん」
真田は余り自分の気持ちをぺらぺらと喋るような人ではないし、そのことで不安に思うことは多々ある。
好きになればなるほど、分からないことだって増えている気もする。――気になっている手塚という人のことや、それ以外にも、きっと。
しかし、彼の様子を見ていて、分かるようになってきたことだってある。それは確かなのだ。
あんな言われようをされても、真田は笹岡に対して怒ってはいない。むしろ、それが当たり前だとすべて受け入れていた。
それは、笹岡を一人の人間として、真田が認めているからこそだろうと思う。
「なんだよ、それって結局お前の想像なんじゃん」
「あ、一応、根拠はあるんだよ? 真田先輩は認めてる相手には特に口煩く言っちゃう人なんだって、前に柳先輩が言ってた。私もそう思うの。だから、笹岡君が真田先輩のこと煩いって思ってたなら、それだけ声かけられてたってことなんだろうし、そういうことなんじゃないかなって。……上手く言えないけど」
そう言って、はふふっと笑みを零した。
すると、から目を逸らすように首をふいっと斜め下に向け、笹岡はつっけんどんに言う。
「……あんくらいのことで、辞めるわけねーだろ。俺だって、テニス好きでテニ部入ったんだからさ。勝手に辞めさすな」
「うん、ごめんなさい」
彼のそんな憎まれ口すらも、なんだか妙に嬉しい気がした。
は、笑みを零して少し恥ずかしそうにしている笹岡を見つめていた。
「用、そんだけ?」
「うん。ごめんね、呼び止めて。じゃあ、私も行きたいところがあるから、そろそろ行くね。また後で、集合時間にね」
「ああ、じゃーな」
今度はそんな素直な返事が返ってきて、はまた嬉しくなって笑う。
そして、軽く笹岡に手を振ると、当初の目的地へと向かって走り出した。
「ったく、どんだけ『真田センパイ』って連呼すりゃ気が済むんだよ、あいつは……」
去っていくの背中を見つめながらそんなことを呟くと、笹岡は意味もなくどこかいらいらと自分の頭を掻いた。