笹岡との話を終え、は当初の目的通り、手塚という人物の試合を観るためにAコートに向かう。
しかし、初めて来た場所で地図もよく分からず、は右往左往してなかなかその場所に着けない。
笹岡と別れてから、もう体感で10分以上は経っている気がする。
こんなことでは肝心の試合に間に合わないと、の焦りが増した。
(手塚さんの試合、終わってないといいけど……とにかく急がなきゃ……)
手塚。
その名前を聞くたびに、彼が少し訳有り気な反応を示した選手。
一体どんな人なのだろう。
真田にとって、どういう人なのだろう。
心が通じ合っても、まだまだ真田弦一郎という人のことを、自分は知らない。知れていない。
手塚という人のことも含めて、彼に関するいろいろなことを、もっともっと知りたい。
そんなことを思いながら、はひたすら会場内を走り回った。
やがて、少し向こうの方に、ひときわギャラリーの多いコートがあるのが目に入る。
その人の多さは、他のコートとは比べ物にならないレベルだ。
まだかなり離れているのに、その歓声はものすごくて、他のコートの応援の声すらかき消すほどだった。
きっとあそこだ、とは直感し、慌てて足を向けた。
近づいていくと、「氷帝!氷帝!」と叫ぶ声がどんどん大きくなっていく。
対して、相手の学校――青学、と言ったはずだが――の名前はあまり聞こえては来ない。
それに少しの違和感を感じながら、は人の間をかき分けて、コートに近寄る。
目の前が開けて、コートで戦う二人の選手が見えた瞬間――は、瞬時にその試合の気迫に呑みこまれてしまった。
――すごい。
今まで見たどの試合よりも、ラリーのスピードが速い。
動きが俊敏で、ボールの動きを目で追うのがやっとだ。
ストロークも力強く、更にとても技巧的なショットが随所に挟まれる。
自分のレベルでも分かる。――二人とも、うちのレギュラーに劣らない、ものすごい実力者だ。
お互い相手の出方を探り探り打ち合っているのだろうか、なかなか双方ポイントは入らない。
得点ボードを見ても、ゲームはまだ半分も進んでいないようだ。
始まったばかりなのだろうか。
(そういえば、真田先輩たちはどこにいるんだろう)
先に行っていたはずだから、もうとっくに着いているはずだ。
笹岡と自分が話していた時間や、コートを探すために迷っていた時間を含めれば、2〜30分以上は経っているのだから。
は、大勢のギャラリーの中から真田たちの姿を探した。
――見つけた。柳と切原も側にいる。
見慣れた黄色いジャージに加え、あの高身長は流石に目立つ。
踵を返し、再度人ごみをかき分け、3人のいた反対側の斜め向かいに向かって、は一目散に走り出した。
「……先輩!」
が声をかけると、一番に柳が気がつき、振り向いた。
「ああ、。来たか」
「ずいぶん遅かったじゃん」
切原もに気づいたが、真田は気付かないのかじっとコートを見つめている。
それだけ集中しているという事なのだろう。
それを邪魔するのは気が引けて、はそれ以上真田には声を掛けなかった。
「あの、柳先輩。どちらが手塚さんですか?」
「眼鏡をかけている方だよ。青学の部長だな。相手は、氷帝学園の部長の跡部だ」
(あの人が、手塚さん……)
力強く且つとても技巧的なプレイをしている。確かにものすごい実力者だ。
勿論、その彼と拮抗している跡部も、それに負けないテクニックを持った上級者のようだが。
昨日病院の屋上で話してもらったことを思い出し、はその評価通りだと納得した。
二人とも、うちのレギュラーが一目置くのはよく分かる。
やはり、手塚という人は、真田と何か関係があるのだろうか。
そっと、は真田を見た。
しかし、真直ぐコートを見据えている彼の、その表情は見えない。
彼は何を思いながら、この試合を見ているのだろう。
「試合、すごいですね」
「そうだな、このレベルの試合はそうそう見ることはできないだろう。しっかり見ておくといい」
柳がそう言った瞬間、ギャラリーが湧いた。
どちらかがゲームを奪取したのだ。
「これでやっと3−3か。均衡は崩れないな」
柳の呟きに、切原がふわあと欠伸を漏らす。
「しっかし長い試合っすよね。俺なら1セット15分以内で終わらせてやんのに」
「え、始まってどれくらい経ってるの? てっきりまだそんなに経ってないのかと……」
そのの問いに、冷静に柳が答える。
「いや、俺達がこのコートに着いてすぐ始まったから、もう既に30分は経過しているはずだ」
「え、そんなに!?」
思ったよりも、ずっと長い時間が経過していたようだ。
すると、驚いたのその声で、真田がやっとの存在に気づいた。
「ああ、。来ていたのか」
「はい、さっき」
の返事を聞くと、真田は「そうか」と頷いてまたコートに視線を戻す。
も真田にはそれ以上何も言わず、柳に問いかける。
「それだけ時間が経ってるのに、まだ決着ついてないんですね」
「ああ、両者ともかなりの実力者だからな。ただ、跡部がわざと持久戦を仕掛けているようではあるが」
「わざと? ……どうしてですか?」
「おそらく、手塚の体への負担を狙っているのだろう。手塚はどうやら、腕に爆弾を抱えている」
冷静に柳は続ける。
「このまま長時間プレイしていたら、手塚は選手生命にも関わるだろう。その前に焦って攻め急いでくるのを狙っている――というところか」
「そんな!」
思わず、は驚いて口元を抑えた。
選手生命を賭けさせる、そんな冷酷な策をしかけてくるだなんて――
「酷い……」
は、誰に言うでもなくぽつりとつぶやいた。
すると、それを耳にした真田が、どこか冷たく言い放った。
「それも立派な策だ。跡部を責めることはできない。――それに、手塚もそれを受けて立っている」
策。そうかもしれない。
でも、それを酷いと思ってしまうのは、自分が甘いのだろうか。
試合は、拮抗したまま進んだ。
正に一進一退の攻防で、お互い持てる力のすべてを出し合っている。
両方とも知らないプレイヤー同士の試合なのに、は一時たりとも目が離せなかった。
――そして、どれくらい時が経っただろうか。
とうとう、ゲームカウント6-5、マッチポイントを迎えた。
(きっともうこのまま、手塚さんの勝利で終わる――そしたら青学が勝って、このチームと、ウチが当たるとしたら、決勝……か)
あと1球。
特に何事も起らずマッチポイントまで来たことにどこかホッとしながらも、はもう、手塚の勝利を疑わなかった。
しかし――「異変」は、その時起こった。
手塚が、ボールを上げて打とうとしたその瞬間、声にならぬ声を上げて肩を押さえ、うずくまったのだ。
彼の周りに、同じチームの人が駆け寄ろうとする。
しかし、彼はそれを強く制止した。
まだ、試合は終わっていない、と。
彼はまだ、続けるつもりなのだ。
(……あの状態で、まだやるつもりなの……?)
信じられない気持ちで、はコートの中を見守る。
一度手塚はベンチに下がった。やはり、棄権するのだろうか。
いや、した方がいい。するべきだ。してほしい。
他チームの、知らない選手なのに、は願うように思う。身体の震えが止まらなかった。
「あの感じじゃもう跡部とまともに戦えるとは思えない。致命的だ」
「あーあ。手塚さんに引導を渡すのは俺だったのになあ」
柳と切原が言う。
しかし――真田は。真田だけは、そうは思っていないらしい。
「いや、まだ分からんぞ」
そう言って、じっと手塚の座っているベンチを見据えていた。
(真田先輩は、まだあの手塚って人が試合を続けると、――勝つと、思っているの……?)
あの状態で試合を続けるなんて、どう考えても無茶だ。
あの痛みにゆがんだ顔を見ていれば、数日休めば復活するようなレベルの怪我ではないことは分かる。
選手生命に関わる――すなわち、今後テニスができるかどうかすらかかっているはずなのに。
真田は、それでも手塚が試合を続けると思っている。
それは彼が手塚という人物を深く知っているからこそなのだろう。
やはり、ただならぬ関係ではないに違いない。
――やはり、聞きたい。
は真田に向かって、一度は諦めた問いを、おずおずと口にした。
「……真田先輩は、あの手塚って人と、どういう関係なんですか?」
その瞬間、ぴくりと真田が反応し――ゆっくりと振り返っての顔を見た。
しかし、すぐに答えは返ってこない。
真田は何かを思うように口を閉ざしていたが、ややあって、やっと口を開いた。
「奴とは、少し……因縁がある。またいつか、話そう」
それだけ言うと、どこか複雑そうな顔つきで、真田はふっと目を細めた。
そして、すぐにまた、手塚のベンチの方に視線を戻してしまった。
――教えてくれなかった。
それはただ、今この短い時間に話せるほど簡単な話ではないからなのか、彼が自分に話したいことではないのか。
それは分からないが、ただ言えることは、今は聞けない、ということだ。
は胸にちくりとしたものを感じたが、それを一生懸命胸に押し留めた。
前にも自分に言い聞かせたはずだ。恋人だからと言って根掘り葉掘り聞く権利などない。
彼はいつか話すと言ってくれた、それでいいじゃないか。彼が話してくれるのを待とう。
が自分にそう言い聞かせていた、その時――ギャラリーが、湧いた。
ベンチから手塚が出てきたのだ。
(うそ、あの人、まだやるの!?)
信じられない気持ちで、はコートを見つめる。
やがて、試合が再開された――が、彼が打ったサーブの威力は、先ほどに比べて大分落ちていた。
やはり、もう極限の状態なのだ。
試合はタイブレークに突入した。
もう、手塚は満身創痍だということが、誰の目から見ても分かる。
なのに、彼のテニスの気迫は衰えない。いや、むしろ増してきている気がする。
双方のポイントは二桁を超え、それでもなお、シーソーゲームは終わらない。
は、途中からもうまともに見ていることができなかった。
激痛に顔をゆがませながら、選手生命を賭けながら、それでもコートの中の彼は戦い続ける。
痛々しい。何故、この状態になってまで彼はテニスラケットを離さないのだろう。
何故、チームメイトは、彼を止めないのだろう。
分からない。
無意識に涙をにじませ、はただひたすら、答えの出ない問いを繰り返した。
――その時。ある疑問がの頭を過ぎる。
もし、これから先、真田が試合中にこんな状態になってしまったら。
彼は、今の手塚のように、それでもコートに立つのだろうか。
(先輩は、きっと……手塚さんと同じことをするような気がする……)
例え自分を犠牲にしても、チームのために、コートに向かう気がする。
そうなった時、自分にそれを止めることはできるだろうか。
無理はしてほしくない。これからもテニスを続けて欲しい。
だからきっと、自分ならば絶対に止めに入りたいと思うだろう。
しかし――止めることは本当に正解なのだろうか。
それすら、分からない。
想像するだけで胸が痛くなり、更に涙が滲んだ。
はぎゅっと心臓のあたりを抑え、その感情を抑え込む。
(やめよう。そんなの、今考えたって仕方ないんだから。真田先輩がそんなことになるような試合、きっと――、ううん、絶対、起こること、ない)
半ば祈るようにそんなことを考え、が頭を振った、その時。
「ゲームセット! ウォンバイ氷帝学園跡部!! ゲームカウント7-6!!」
青空の中、高らかに審判の声が響き渡った。
手塚が、負けた。
真田は、どこか怒りにも見える表情をにじませ、「たるんどる」と吐き捨てる。
そして、その感情を四散させるように大きく息を吐くと、真田は自分の背後で目をこすっていたに気づいた。
「……どうした、。泣いているのか?」
そう言って、真田はの顔を見る。
しかしは、今の試合を見て泣いてしまったのを、なんとなく彼には気づかれたくなかった。
は、慌ててその場を取り繕おうとする。
「あ、いえ、あの、ちょっと目にゴミが入って」
そう言ってははっと笑って見せたが、真田にはそんなのごまかしなど通用しないようだ。
苦笑して、真田はの頭に優しく手をやった。
「嘘が下手だな、お前は。今の試合を見て、泣いてしまったのだろう?」
やはり、彼には見透かされている。
は、俯いて、小さく頷いた。
「手塚に、同情したのか」
「……分かりません。ただ、胸がいっぱいになって……見ていて、とても辛くなってしまって……」
素直に胸の内を告げる。
ただ、今の手塚の姿に、あるかどうかも分からない未来の真田の姿を重ねてしまったことだけは、言わなかったけれど。
そんなを見つめ、真田は静かに呟いた。
「お前は、優し過ぎるな」
そう言うと、を落ち着かせるように、その頭を優しくぽんぽんと叩いた。
その後、青学と氷帝の控え選手の試合が行われた。
は先ほどのショックが抜けきれたわけではなかったが、真田のおかげで少し落ち着くことができていた。
今度はしっかりとコートを見据え、青学と氷帝の最後の試合を観戦する。
この試合も、先ほどの試合に負けないくらいレベルの高い、ものすごい試合だった。
氷帝学園の控え選手の日吉という2年生の選手は、来年の氷帝次期部長候補で、新人戦で切原と戦ったこともあるという。
確かにものすごいテクニックだ。これだけのチームの次期部長候補と言われるだけのことはある。
それでも、日吉という選手を抑えて勝利を手にしたのは、なんと青学の1年生だった。
(あの子、すごい……1年生なのに)
あの小さな体で、ものすごいスーパープレイを見せた少年。
――憶えておこう。
青春学園、越前リョーマ君。
もしかしたら、いつかうちと当たるかもしれない。
は、その学校名と小さな少年の名を、深く心に刻んだ。