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「おおおおおああぁぁ!!」


幸村の重い咆哮が背後で響いている。8人は無言で立ちすくみ、病室の扉を見ることすら出来ず、彼の発する音をただただ背中で受けた。

彼は、知ってしまったのだ。自分の置かれている状況を。
かけがえのない何より一番大切にしていたものを、自分の意志とは無関係に、無抵抗に、失ってしまうかもしれない――そんな彼に誰が何を言えるというのだろう。

ある者は爪が食い込んで血が出そうなほど強く手を握りながら、ある者はただ力なくへたり込みながら、ある者は唇をぐっと噛み締めながら。
皆、なすすべもなく、ただその声を聴いていた。

もまた、どうしていいのか分からなかった。何も考えられなかった。
なのに双眸からはとめどなく雫が溢れて出てくる。
それを押し留めるかのように、両の掌で顔を覆った。

そうしていると、騒ぎを聞きつけたらしい看護師たちが慌てて廊下の向こうから駆けて来た。
彼女らは真田たちを目に留めると、慌てて「何をしているの」と声を掛ける。
しかし、真田は声が出ない。出せなかった。真田だけではなく、誰も。いつも冷静な、柳ですら。
そこにいた誰もが動揺していることを感じ取った看護師は、大きな息を吐いて、首を振る。
そして、患者が興奮しているから全員外すように、と重い声で告げた。

それから。
皆は言われるまま無言でその場から立ち去り、病院の外に出た。
しかし、病院から離れることも出来なくて、幸村の病室の真下にある、芝生の広がる憩いの場所のようなところで誰ともなく立ち止まる。
そして、真田と、柳は木製のベンチに座り、他の者は芝生の上に直接腰を下ろして、声もなくただうなだれた。
見上げれば彼の病室の窓は見えたが、窓は閉ざされておりカーテンも閉められていて、幸村の病室の中の様子を伺い知ることは出来ない。
それでも、8人はそこから動けなかった。

どれくらい時が経っただろうか。
どこからともなく、音階のない低い音が振るえて響いている――その音の鳴る方に、自然とみんなの視線は集まった。
しかし、その音の発生源となっている当の本人は気が付かないのか、ずっと顔を伏せたままだ。
そんな彼に声を掛けたのは、柳だった。

「……弦一郎、お前の電話じゃないか」

その言葉に、スイッチが入ったようにハッと真田は顔を上げる。
無言でポケットを探って自分の携帯を手に取り――目を見開いて、真田は挙動を止めた。
ディスプレイにあったのは、幸村の名前だったのだ。

「ゆき、むら」

思わず呟いたその名前に、そこにいた全員が同様に目を見開いて真田の方を見る。
隣に座っていたもまた、手のひらを胸の前で握りしめて、真田の横顔を見つめた。

震え続ける携帯を見つめ、それでも真田は動けない。
心なしか、少し震えているようでもあった。
そんな彼に促すように、柳が再度、静かに「弦一郎」とだけ声を掛ける。
彼はその声には何も答えなかったが、やがて意を決したように、手にしていた携帯の応答ボタンを押してその機体を耳元へと運んだ。





「……もしもし」

いつも通りに聞こえるように。
動揺しているこの心中を、彼には極力悟られないように。
真田はそう思って声を振り絞ったが、やはりいつもの力強さは無かった。

『……真田?』

彼の声が聞こえ、真田の心臓がどくんと鳴る。
先ほどの激しく錯乱した様子とは違い、だいぶ落ち着いたようだ。
真田は少しだけほっとしたように、息を吐いた。

「ああ、俺だ、幸村」
『……うん』

頷く声だけ聞こえて、幸村の言葉が止まる。
しかし真田もまた、何を言えばいいのか分からなかった。
何か言わなくてはと、真田は滅茶苦茶になった頭を落ち着かせようとしながら言葉を探すが、何を言えばいいのか皆目見当もつかない。
それは幸村も同じなのか、二人の無言の時間はしばらく続いた。
そして周りの仲間もまた、携帯から聞こえる音を少しでも拾おうと、微動だにせずただ必死に耳をそばだてている。
風の音だけが、静かに流れた。

そして。
やっと口を開いたのは、幸村の方だった。
先ほどの咆哮が嘘のように、とても穏やかな声で、彼は言葉を紡ぎ始める。

『さっきは、すまなかったね。興奮してしまって。無様な姿を見せてしまった』
「そんなことはない!」

幸村のその言葉に、真田は思わず立ち上がって声を荒げた。
内容が分からない他の皆がびくりとして目を見開いたが、真田はそのまま続けた。

「そんなことは誰も気にしていない! だから謝る必要など、お前が気にする必要など全くない!!」
『ふふ、そうかい。あんなに酷いこと言ったのになあ。ありがとう、真田、……皆も』

彼は自嘲気味に笑う。
それを振り払うように、真田は語気を強めた。

「そんなことは誰も何も気にしていない、だからお前も何も気にしなくていい!」
『うん、分かった。ありがとう』

そう言って、また彼はふふっと笑うと、言葉を続けた。

『真田、まだ、病院の近くにいるのかい?』
「……ああ」
『やっぱりね、そんな気がしてたんだ。みんなも、まだ一緒……なんだろうね』
「ああ、全員、まだ一緒にいる」

このまま帰れるわけがないだろう、と言いかけて、真田はその言葉を飲み込んだ。
何を言っていいのか分からない、混乱めいた頭の中で、少しでも彼を責めているように聞こえる言葉は使ってはいけないという理性がなんとか働いたのだ。
真田は大きく息を吐き、言葉を変えて、続けた。

「……できれば、お前の顔を一目見て帰りたい。皆、そう思っている」

勝手に皆の気持ちを代弁してしまったが、皆も同じ気持ちであるだろうという確信はあった。
真田が顔を上げて見渡すと、周囲を取り囲んでいる皆は、力強く首を縦に振った。
それに少しの心強さを感じて、真田は更に幸村に尋ねた。

「今から戻っても……会いに行ってもいい……だろうか」

しかし。
その問いに、電話の向こうの彼の挙動が止まったのが分かった。
少し押し黙り、彼は小さな声で「ごめん」と呟いた。

『今日は、無理、かな。悪いけど……』
「そう、か。こちらこそ、無理を言った。すまない」

やはり彼は、多少落ち着いただけで、心中は先ほどと何も変わっていないのだろう。
仲間の顔が見られないほど、絶望の淵にいるのだ。
そんな彼に、無理強いをすることは出来ない。

「落ち着いてから、日を改めてまた見舞わせてもらおう。今日はお前もゆっくり休んで……」
『……ごめん。真田』
「いや、お前が気にすることはない。謝らなくて――」

真田は、幸村が自分の感情で顔も見せず帰らせてしまうことを謝罪しているのだと思った。
しかし。
幸村の謝罪の意味はそうではなかった。
真田の言葉を遮り、彼は言った。

『俺、手術、しない。ごめん』

驚くほどとても静かに、感情の読めない声で――確かにそう、彼は言った。
一瞬真田は、その言葉の意味が分からなかった。いや、分かりたくなかったのかもしれない。
頭が真っ白だ。脈拍がどんどん加速する。

「……な、にを……」

口を突いて出た言葉はそこで音を失う。
真田の様子がおかしくなったことに気付いた皆もまた、何があったのか、幸村は何を言ったのかと焦りを露わにし始めた。
電話の向こうの幸村は、念押しするように繰り返す。

『だからさ、俺手術、しないから』

手が震える。言葉も出てこない。
頭の中が、完全に真っ白だった。

『いいんだ、もう』

電話の向こうの幸村の声は妙な明るささえ感じて、逆にもう彼が心を決めてしまったことが嫌でも伝わってくる。

手術をしない。
それはどういうことか。
幸村がこれ以上体を治さないということだ。
自らの意志で、全てを放棄するということだ――そして。

(もう二度と、幸村は……戻らない気なのか――)

真田の頭の中で、今までの記憶が駆け抜けた。
幸村というかけがえのない友との記憶。
今まで培ってきた、彼との絆。
そして、彼と築くはずだった――夢。
彼はそれを全て諦めてしまうと言うのだろうか。

――そんなことが、あっていいものか!

そう思った瞬間。
真田は携帯を握りしめたまま、その場を駆け出していた。

走ってはいけない場所だとか、一緒にいた仲間たちのことだとか、そんなことはもう考えられなかった。
ただたすら無意識のまま足を進め、先ほど追い出された場所へと舞い戻る。
そして、躊躇もせず、力任せにそのドアを開けた。

「……真田」

病室にいてベッドの縁に座っていた彼は、真田の姿を見た途端、目を見開いて全ての挙動を止めた。
しかし、すぐに彼は顔を伏せ、震える声で言った。

「今日はもう会えないって言ったのに……仕方のないやつだな、君は」

そう言って彼は、ははっと笑い声を零した。
しかしきっと表情は笑ってなどいない。顔を伏せているから分からないけれど、おそらく――いや、間違いなく。
全身で真田のことを、いや全てを拒否してしまっている。
そんな彼をじっと見つめて、真田は問い掛けた。

「本気なのか」
「……ああ。電話で言った通りさ。本気だよ。手術は受けない」

彼の言葉に、真田の心臓が凍り付く。
その時、後ろから他のメンバーが追い付いて来た。

「そんなことを言わないでくれ……手術しなければ、お前は……日常生活にすら、戻れないままかもしれないんだぞ」
「でも、テニスが出来ないくらいなら、みんなといっしょに戦えないなら…もう、それでいい。このまま、しんだって、いい」

彼の口から飛び出した「死んだっていい」という言葉。
それは、彼が生すら諦めてしまったという事実に他ならなかった。
真田はもう、頭の中が真っ白になって何も考えられなくなった。
そんな真田――いや、真田たちに、幸村は言う。

「お前たちなら、きっと俺が居なくても大丈夫だ。俺無しでもお前たちは前に進める。三連覇できるさ。いつか赤也も言ってただろ。オレが居なくても三連覇に死角はない、ってさ」

その言葉に、背後にいた切原が悲痛な顔をして声を上げる。

「あっ……れはそういうんじゃ……!!」
「いいんだよ、赤也。怒ってるわけじゃない。俺がいなくてもきみたちは大丈夫だ。俺を置いて……前に進めばいい」

そう言って、彼は病室の扉のところまでやって来た。
そして、何も言えないままの真田の身体をぐっと扉の外に押し出すと――

「……ごめん」

震える声でそう言って、そのまま扉を閉めてしまった。


それからはもう、誰もその閉ざされた扉に触れる勇気は出なかった。
何度も何度も振り返りはしたものの、真田たちはもうそのまま病院を後にするしかなかった。
病院の敷地を出て、駅についても誰も言葉を発せない。
皆、何を言えばいいのか、どうすればいいのかすらも分からなかった。
そのまま電車に乗り、地元駅に着く。
そして、いつも解散する場所で皆は無言で立ち止まり、一度顔を見合わせはしたが――そのまま解散した。




は、散り散りになっていく皆の姿を無言で見送った。――いや、見送るしかなかった。
自分でもどうしていいのか分からないのに、皆に掛ける言葉など見つかりようもない。
ぎゅうっと自分の服の裾を握り締め、唇を噛み締めた。
そんなに静かに声を掛けたのは真田だった。

「……。バス停まで送る」

そう言って、彼はゆっくりと歩きだした。
こんな時でも、彼はいつも通り自分のことを気遣い、送ろうとしてくれているのだ。
きっと誰よりも今、彼の心の中はぐちゃぐちゃだろうに。

(……先輩……)

こんなに苦しそうな彼に、何もできない自分がもどかしい。
助けたい、救いたいという気持ちがおこがましいのは分かっているけれど、何か出来ることは無いのだろうか。
こんな風にいつも自分が気遣われて与えてもらうばかりではなく、支えることはできないのだろうか。

は、以前自分が辛かった時のことを思い出した。
真田に避けられて、自分はどうすればいいのか、どうしたいのかすらわからなかった時――そうだ、あの時はが心配して話を聞いてくれた。
ただそれだけで気持ちも落ち着いたし、心の整理もついてどうしたいのかが見えた。
あの時のみたいに上手くできるかは分からないし、聞いたところで何か出来るわけでもないかもしれない。
けれど、こんな自分でも一緒に悩むことくらいはできる。
いつも支えてもらうばかりではなく、一緒にその想いを共有することで、少しでも彼の支えになれないだろうか。

「真田先輩」

は、勇気を出して先を行く真田に声を掛けた。

「……なんだ?」

いつも通りの優しい顔で、彼は振り返った。
しかしそれは見かけだけだ。彼はそう装っている。
その顔を見ていると、なんだかの方が泣きそうになった。
しかしは、その気持ちを抑えて、震える声で彼に告げた。

「今日は、私に先輩を送らせてくれませんか」

その言葉に、真田の両眼が見開かれた。
驚きを隠せないような彼の反応に、の心臓がどくんと鳴る。
おそらく彼はこのままならこの申し出を受けない。
けれど、は彼の口から何か言葉が出る前に自分の気持ちを彼にぶつけた。

「あの、私、どうしても今の先輩を一人にしたくないんです。今の先輩、どうしても放っておけない……」

は真田の目を真っ直ぐ見つめたまま、続ける。

「先輩はいつも私のことを守ってくれるし支えてくれるけど、私だって、先輩が辛いと思ったとき、支えられるような存在になりたい。先輩から一方的に与えられるだけじゃ嫌なんです。私が出来ることは本当に少ないけど、それでも出来る限りのことはしたい。今先輩のお傍にいて、お話することがそうだって思っちゃいけませんか? 私じゃ力になれませんか?」

必死で言葉を紡ぐを、真田は無言でじっと見つめ返す。
そして。

「……本当にありがとう、。流石に俺の家まで送ってもらうわけにはいかないが――それならば少しだけ、俺に時間をくれるか」

――そう言って、彼はふっと微笑った。


初稿:2024/05/21

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