日はとっくに落ちて、外は真っ暗だ。
いくら三月の下旬と言っても、この時間はやっぱり寒い。
あまり厚着もしてこなかったので、震える身体を自分の腕で抱き締めて、私はとにかく歩いた。
どこに行こうとか、何をしようとか、そんなことは全く考えていなかった。
ただ今は真田先輩に会いたくなくて、アパートから少しでも離れることだけを考えていた。
ふらふらと歩いているうちに、駅に着いた。
とりあえず落ち着きたいし、何か飲もうかな。
目についたコーヒー専門店に入り、コーヒーを注文してから、一人席に腰を下ろす。
そして、運ばれてきたコーヒーを一口だけ口にすると、私は大きな溜息をついた。
そろそろ、真田先輩が私のアパートに着いた頃だろうか。
そこに私が居ないのを知ったら、先輩は一体どう思うだろう。怒るだろうか。失望するだろうか。
彼が私に失望する顔が頭に浮かんで、思わず私は掌をぐっと握り締めた。
飛び出してきちゃって、本当に良かったのかな。話、ちゃんと聞くべきだったのかな。
でも――やだ。あの女の人の事なんか、聞きたくない。
先輩と別れなきゃいけないかもしれない話なんか、絶対に絶対に聞きたくない!
ああ、私超矛盾してる。さっきは彼に説明しろって言っておいて、いざ説明するとなったら聞きたくないって……笑っちゃうよね。
本当に私は成長していないな。
十年前にも、こんなことがあったよね。彼に思いっきり怒られて、嫌われたかもしれないって彼の前から逃げ出した。
本当に私、変わってない。
……こういうところがダメで、先輩は私のこと、嫌になっちゃったのかな。
大きな溜息をついて、意味もなくプラスチックのマドラーをくるくる回した。
これからどうしよう。今日はアパートには帰れないし……実家に戻ろうかな。
でも実家も、先輩が来てしまうかもしれない。
そんなことを考えながら鬱々としていると、鞄に入れていた携帯が震えた。思わず、私は肩をびくっとさせる。
恐々とした気持ちで鞄から携帯を取り出し、ディスプレイを覗き込んだ。
かけてきたのは、やっぱり真田先輩だった。
震えている携帯を手にしながら、じっと見つめる。
やはりどうしても、電話に出る気にならない。――彼の声を聞く気になれない。
そんなことを考えているうちに、携帯のバイブがぴたりと止まった。先輩が電話を切ったのだろう。
先輩相手に居留守なんか、使ったことあったっけ。
彼の名前を見て、こんなに悲しい気持ちになったことも無かったよね。
だって私にとって先輩はとても大切な存在で、何よりもかけがえの無い人で、ずっとずっと私の心の支えだったから。
忙しくてほんの少ししか会えなくても、その少しの間だけでも彼のただ一人の特別な女の子として傍に居られるなら、それだけで良かった。
それは、彼も同じなんだと思ってたのに……先輩は、そうじゃなくなっちゃったのかなあ。
どうして、今のままじゃ駄目なのかなあ……。
そんな事を思いながら、再度少しぬるくなったコーヒーに口をつけたその瞬間――また、携帯が勢いよく震えだした。
今度も真田先輩だろうなと思いながら、携帯を再度手にとって覗き込む。
しかし予想に反して、今度は真田先輩ではなかった。
そこに表示されていたのは、幸村先輩の名前。
このタイミングで掛かってくるということは、もしかしたら真田先輩が幸村先輩に連絡したんだろうか。
私の居場所を知らないかとか聞きまわって、私の事を探してるのかな。
……でも、今日観たあの映画を真田先輩に薦めたのは、幸村先輩だって言ってたっけ。
あの映画は、自分の人生を見つめ直して、ただ同じ事を繰り返すだけの人生から脱却するお話だった。
先輩、あの映画を見て「この映画を幸村先輩が薦めた意味が分かった気がした」とも言ってたから、もしかしたら幸村先輩は真田先輩の事情を全部分かってるのかもしれない。
分かった上での電話だったら……幸村先輩の電話も、今は取れないよ。
私は携帯を鞄の奥に突っ込むと、コーヒーの残りをぐっと飲み干して、店を飛び出した。
これから、どうしよう。
アパートには帰れないし、実家だって多分先輩は思いつくだろうから、行けないし。
他の先輩達に相談するわけにもいかないし、おそらくの方にも切原君を通して話は行っているだろうな。
あっちは駄目だ、そっちも駄目だと考えながら、私はただあても無く歩き回る。
その間に、電話は何度も震えた。
真田先輩は勿論、柳先輩だったり、切原君だったり、だったり――。
きっと皆心配してるんだ。
分かってるのに、それでも逃げ回ってる自分が本当に情けなかった。
そのうち、着信にメールが混じり始めた。
メールの着信欄も、電話と同じくいろんな人の名前が並んでいる。
その中でも一番多かったのは、やっぱり真田先輩の名前だった。
見るのが怖い。
でも、これだけ送ってきてくれるメールを全て無視することも、私には出来なかった。
声を聞くのではない分、まだメールの方がまし……かな。
大きく息を吸って、私は並んでいるメールのひとつを開いた。
「今どこにい」
たったそれだけだった。でも、最後までちゃんと打てていない。
よっぽど慌てて打ったんだろうなって思って、思わず私は泣きそうな気持ちのまま、彼らしいと笑った。
そのまま私は、次のメールへと移る。
「大切な話がある」
――大切な話。
どくんと胸が鳴って、手が震えた。怖くなって、読み飛ばすように次のメールへと進める。
そして。
「お前に謝らなければいけない」
次に出てきたその文章でたまらなくなって、私はものすごい速度で連打し、メールの表示を消してしまった。
大切な話も謝罪の言葉もいらない。やっぱり聞きたくない。
そうしている間に、また新しいメールが飛び込んできた。
メールを受けるのも恐くなった私は、とうとう携帯の電源を切ると、ポケットの奥に埋めてしまった。
なんでこんなことになっちゃったんだろう。
この十年間、あんなに楽しかったのに―― まるで走馬灯のように、今までの思い出が頭の中を駆け巡った。
初めて出会った中学生時代、初めて先輩の試合を見たときのこと。
先輩が私を好きだと言ってくれたあの瞬間。
幸村先輩の欠けた状態で迎えた関東大会、まさかの先輩の敗北で、二人の仲までおかしくなってしまったときのこと。
それでも、全国大会を経て、再度強く繋がることができたのも、まるで昨日の事のようだ。
先輩の卒業式では、泣いてしまった私の涙を先輩が優しく拭ってくれて、聞きかじりで第二ボタンをくれたりしたんだよね。
ブレザーだから第二ボタンはあんまり関係ないんじゃないのって、他の先輩たちに言われて慌ててた先輩がすごく可愛くて、もっともっと大好きになったっけ。
高校でまた一緒に部活出来た時も嬉しかったなあ。
逆に一番辛かったのは、数年前に先輩が短期留学した時かな――先輩があんなに遠くに行ってしまって長い期間全く会えなくなったのは、初めてだったから。
でも、あれはあれで思い返せば幸せだったんだと思う。
例え遠くに居ても、彼の気持ちはいつだって私に向いていたんだから。
本当にいろんなことがあった。
楽しい思い出は勿論、ほんのちょっと辛いのもないわけではないけれど、今思えば、どんな時だって先輩と一緒にいられるだけで私は満たされていたんだ。
やっぱり、真田先輩が大好きだ。
さっきの電話で先輩のこと大っ嫌いなんて言っちゃったけど、本当に嫌いになれたら――ううん、いっそのこと先輩のことを全部忘れてしまえたら、どんなに楽だろう。
また溢れてきそうになった涙を、ぐっと握った手で拭う。
こうして逃げ続けるわけにはいかないんだってこと、本当は分かってる。
彼の気持ちが本当に変わってしまったのなら、逃げてどうなるものでもないんだから。
一度決めたことは曲げないし、振り向きもしない。悔しいけど、それが真田先輩なんだもん。
――そんなところが、大好きだったんだもん。
変わらないのだから、私はどうにかして気持ちの整理をつけなきゃいけないんだ。
今夜は、真田先輩の思い出に浸って思いっきり泣こう。
そしたら、明日は私から先輩に会いに行こう。
それで、彼の前で思いっきり「馬鹿」って言って、それで――ちゃんとお別れするんだ。
携帯を取り出して、改めて電源を入れる。
その瞬間入ってくる怒涛のようなメールに苦笑いしながら、私はメールの作成欄を呼び出した。
流石に、今の心境では直接電話なんか掛けられない。メールが精一杯だ。
大きく息を吸って、私は携帯に触れた。
「逃げ回ってごめんなさい。」
そんな書き出しで、ゆっくりと一字一字、震える手で打ち始める。
「今夜だけ時間をください。一人でなんとか気持ちの整理をつけてきます。そしたら、明日はちゃんと先輩のお話を聞きます。明日の朝またこちらから連絡するので、今日はもう探さないでください。」
そして。
「今夜だけは、まだ先輩の彼女でいさせてください。」
最後にこんな一文を付け加えた。
これは私自身への救済でもあり、ごまかしでもあった。
今はまだ、私は先輩の彼女なんだと、必死に自分に言い聞かせたのだ。
まるでどこか他人事のように「馬鹿だなあ」と笑いながら、私はそっと送信ボタンを押した。
そして、メールが確実に送信されたのを確認してから、もう一度携帯の電源を切ると、私は先ほど決めた場所へと向かった。
◇◇◇◇◇
時間は、もう十九時を回っていた。
ゆらゆらとバスに揺られながら、私は窓の外に広がる暗くなった景色を見つめる。それは、十年前何度も先輩と一緒に見た、懐かしい風景――立海大附属中学へと続く道だ。
大学のキャンパスとそんなに離れてるわけではないんだけど、今はもうこっちの方にはほとんど来ないから、なんだかすごく久し振りな気分だ。
『次は、立海大附属中学前――』
バスのアナウンスが流れて、私は顔を上げる。
そして、バスが止まったのを確認してから、バスを降りた。
バスが出発したのを見送ると、私は辺りを見渡した。
バス停を降りたらすぐに校門が見える風景は、当時と変わらない。
「懐かしいな……」
呟くように言って、私は歩き出した。
もう真っ暗だし、とっくに校門は閉まっている。
背伸びして敷地内を覗いてみると、数本の非常灯と、職員室に明かりが灯っているのが見えた。
この広い立海大附属中――ここで私は先輩と出会い、恋をしたんだ。
外壁に沿って、私は歩き出した。
そうそう、部活のロードワークのコースのひとつに外壁を周回するコースがあったっけ。
勿論私の力では一緒に走る事は出来なかったから、いつも校門前でストップウォッチや記録用紙を持っているのが私の役目。
部活の時は、副部長とマネージャーという立場上絶対にお互いを特別扱いしないようにって、必死で気を張っていたんだけど――それでも最初にコーナーを曲がってきて顔を見せるのが真田先輩だったりすると、一瞬胸が高鳴って頬が緩んでしまうのは抑えられなかった。
少し歩くと、私たちが中学の時に使っていた校舎が見えた。
二年の私は二階で、三年の先輩は三階。
学年が違うから普段の生活じゃほとんど会う事はなかったけれど、教室移動の時とかに偶然会えた時は嬉しかったなあ。
そうそう、まだ付き合う前に職員室の前でばったり会ったこともあったっけ。
あの時は切原君とが気を利かせてさっさと帰っちゃって、先輩と二人っきりになっちゃったんだよね。
その数日前に、確か私、先輩に告白紛いの事言ってて、何をどう話せばいいのかわからなくなったりして、本当にめちゃくちゃ焦ったんだっけ。
あと、和室――確か一号館にあったんだったかな。あそこは密かな「先輩スポット」だったんだよね。
先輩が書道の練習するためによく行ってるって教えてもらってから、偶然を装ってよく行ったっけ。
四字熟語の書をたくさん貰ったけど、ほとんど意味を知らなくて、その度に辞書で調べて、その意味に照れちゃったりしてね。
先輩、あの書のときだけはものすごく熱烈な言葉を贈ってくれるんだもん。
「掌中之珠」とか「比翼連理」とかさ。
辞書で調べて言葉の意味が分かった瞬間、もう死にそうなくらいドキドキしたんだよ?
あー本当に懐かしいなあ。
全部まだ大切に取ってあるけど……明日全て終わったら、捨てなきゃ、かな。
残しててもしょうがないもんね。
更に歩いたところで、私は足を止めた。
外壁の向こうに、テニスコートが見えたからだ。
テニスコートと部室棟の海林館は、やっぱり一番たくさん彼と過ごした場所だから思い入れもひとしおだ。
初めて彼と会ったのもここ。
彼の試合する姿に一目惚れして、次の日切原君に頼まれてマネージャーになって……。あれが全ての始まりだった。
二度目に会ったのは部室だったね。
安請け合いならマネージャーは辞退してくれないかと言われてムカッとして言い返したり、まだ付き合う前、初めての先輩の誕生日にプレゼントを渡したりしたのもあの部室だった。
想いが通じ合ってしばらくしてから、初めて彼とキスをしたのもあの部室だったし、初めて自分用のジャージを作った時、出来上がってきたばかりの真新しいジャージを、彼だけにこっそりお披露目したのもあの小さな部室だった。
コートでは、関東大会連覇を逃した後で、先輩が皆に自分を殴らせたこともあったっけ。
あれは、正直本当に辛かったなあ。
私は先輩の敗北を悪い事だと思いたくなかったし、何よりあんなに力を尽くした彼を、絶対に責めたくなかったから。
でも、あの時彼が背負っていたものは、私が思っていたよりもずっとずっと重くて複雑だったんだ。
あの時私は、真田弦一郎という人のことを、分かっていたつもりで実は全く分かっていなかったことに気づかされたんだよね。
彼はいつでも甘えを許さない人だった。
自分に対しても、他人に対しても、現状で満足するということを決してしない人だった。
でも、私はそんな先輩に甘え過ぎていたのかもしれない。
先輩はいつも、私を厳しく優しく包んでくれた。
そっとフォローしてくれたり、私の至らなさを叱ってくれたりしながらも、必ずいつも私をあたたかく見つめてくれていた。
この十年間、私はそんな彼に守られてばかりだったような気がする。
一方私は、彼のそんな庇護が変わらない日常だと安心しきってしまって、いつも彼が傍にいるのが当たり前なんだって思い込んで――向上心を失ってしまっていたのかもしれない。
先輩は、いつだって今のままで満足する人ではなかったから、そんな私を見ていて、何か思うことがあったのかもしれないな。
考えれば考えるほど自分が情けなくなる。
こんなんじゃ、ダメだなあ。
せめて最後は胸張って真田先輩に向かい合えるように、明日はちゃんと話を聞こう。
そして――伝える言葉は、「馬鹿」じゃなくて、「ずっと私のことを支えてくれて、たくさんの素敵な思い出をくれて、本当にありがとう」だ。
私は、大きく息を吐いた。
想いはなんとか纏まっても、下を向くとやっぱり涙が零れそうになるから、せめて上を見ていようと顔を上げると、綺麗な月が見えた。
空気が冷えているからか、月は闇夜にはっきりと照らし出されている。
「綺麗……」
思わずそう呟いたその時、私の背後がいきなり明るくなった。
車が来たのかと思って慌てて道の端に寄りながら振り向くと、一台の車が私の側を通り過ぎていく。
いや、通り過ぎずに、その車は少し先で停車した。
――そして。
ばたんと車の助手席が開く音がして――
「――!」
声が、聞こえた。
この十年間大好きでしょうがなくて、それでも今晩だけは聞きたくなかった、あの声が。