BACK NEXT TOP

未来編:Sugar 4

夕方の十七時を回った頃、私はなんとか自分のアパートに帰ってきた。
今朝はあんなに嬉しくてドキドキした気持ちで出かけたのに、それとは対照的なくらいに落ち込んだ気持ちを抱えながら、アパートの鍵を締める。
そして私は、そのままベッドに向かい、ばたんと身体を倒した。
今日はっきりしたのは、やっぱり先輩が私に隠し事をしていること。それは軽いことではなくて、私の今後の人生に関わってくるような、あの先輩が言うのをためらってしまうような、とても大きなことだということ。
――そして、彼は私に内緒で、知らない女の人に会っている。

「でも……今日の電話の人は絶対にあの人だって決まったわけじゃないよ、ね……」

あの後の用事だって、もしかしたら全然関係ないことかもしれないし。
やっぱり、あの真田先輩が女の人と――なんて、信じられないもん。そう思いたかった。
顔を上げて、部屋の壁に飾ってあるフォトフレームを見る。
そこには、特に思い出深い写真や、大切な写真を厳選して入れてあった。

初めて彼に出会った年――私が中二で彼が中三の時の、テニス部の全国大会の準優勝のときの写真。
どうしても欲しくて、こっそり手に入れようとした彼の校外学習の時の写真。
学年が違う私には買えなかったから、桑原先輩にお願いして買ってもらおうとしたっけ。……結局バレちゃって幸村先輩たちにからかわれたんだけど。
高校のときの合宿の写真や、卒業式の写真。
最近のものでは、彼がプロとして初めてコートに立った時の写真なんかも入っている。

こうやって見ると、私は先輩とものすごく長い時間を過ごしてきたと思う。
本当にいろんなことがあった。
楽しい思い出は勿論だけど、辛かった思い出だって全くないわけじゃない。
けれど、いつも最後は彼のあたたかい気持ちに包まれて、やっぱりどんなことがあっても彼じゃなきゃダメなんだって思い知らされて――ずっとこのまま彼と一緒に居るんだって思ってた。
うん、彼とは伊達に十年近く一緒に居たわけじゃない。中学時代からずっと二人で培ってきた思い出と絆は、簡単には揺るがないって、信じたいよ。

そんなことを思いながら、私は身体を起こした。
ゆっくりと立ち上がり、その足で部屋の隅に行く。そして私は、アクセサリーボックスを――彼から貰った物を全て仕舞っているあの箱を手に取った。
ずっしりと感じる重みは、そのまま私たちが重ねた年月の重みだ。
そう、私と先輩との間には、たくさんの思い出があるんだから。

箱をそっとテーブルに置いて、中を開いた。
その途端、この十年間で彼が私にくれた、たくさんの贈り物たちが顔を覗かせ、私はそれらをそっと手に取る。
貰った時の数々の思い出が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇ってくる。
渡してくれた時の彼の恥ずかしそうな笑顔も、言ってくれた優しくてあたたかい言葉たちも。

――大丈夫、だ。今までもこれからも、きっと何も変わらない。

自分に言い聞かせるように心の中でそう繰り返しながら、私はアクセサリーボックスの中身を見続けた。
彼から貰った思い出を確認するように、ひとつひとつ手にとっては、箱の側に並べる。
思い出せば思い出すほど、なんだか私の心も満たされていった。
箱の中身が減っていくとともに、少しずつ心も軽くなってきたような気がした、その時だった。

「……あれ?」

あることに気が付いて、私はふと手を止めた。
一番の宝物――彼からの最初の贈り物の、硝子の花のイヤリングが、無い?

「え、嘘」

焦りながら、慌てて残っていた箱の中身を一つずつ外に出していく。
少しずつ箱の底が露になっていくけれど、お目当てのものは一向に出てこない。
先ほどとは一転して、中のものが減れば減るほどに私の焦りも増す。
同時に、手の動きも加速した。
そして、結局最後まで見つからないまま、とうとう箱の中は完全に空になってしまった。

やっと生まれ始めていた安心感は潮が引くようにどこかへ消え去り、どくどくと心臓が嫌な鼓動を打ち始める。
薄っすらと浮き出た額の汗を手の甲で拭うと、今度は箱の外に並べていた中身を、再度一つ一つ探り始めた。

無いわけが無い。
ここ数年、あれは外には着けていっていないし、箱から取り出して見ても必ずちゃんと大切に仕舞ってるはずだ。
絶対に無くなるはずが無いのに、どうして――。
そんなことを思いながら、何度も何度も中身を引っ繰り返した。
箱に入っていた袋は全部開いて、間違って紛れ込んでないか確かめた。
――でも。
何度見ても、あの硝子の花のイヤリングだけが、無い。

「なんで……」

よりによって、なんでこんな時に見つからないんだろう。
なんだかとても怖くなって、私は必死で箱の中身の出し入れを繰り返した。
それでもやっぱり無い。
箱だけじゃなくて机や床やチェストの中、ベッドの下やシーツの隙間、台所やお風呂場まで――とにかく、アパートの部屋中ありとあらゆるところを探した。
けれど、無い。

「……なんで、無いの。嘘、嘘でしょ……」

私は、どうしたらいいのかわからなくなってしまった。
あれは、私にとっては真田先輩との絆の始まりのようなものだ。
今までずっとずっと大切にしてきたし、無くなるなんてことあるわけが無い。無いのに――実際、見当たらない。

彼との絆の始まり。
無くなるはずの無いもの。
それが、忽然と姿を消した。
まるで何かを象徴してるみたい――そう思ってしまった瞬間、目の前が真っ暗になって、息が止まった。

「嫌だ……!!」

そこらじゅう引っ繰り返してぐちゃぐちゃになってしまった部屋で、私は立ち尽くす。
それでも、一生懸命意識を立て直して思考を巡らせた。

――落ち着け、私。思い出せ。 最後に見たのは、いつだった? このアクセサリーボックスを開いて、最後にあのイヤリングを見たのは――

そうだ、思い出した!
二月に真田先輩が部屋に来た時、この箱を開けて中に入ってるものを二人で見たんだっけ。
それ以降は開けた記憶はほとんどないし、開けたとしてもすぐ手に取れる場所にあるお目当てのものを出したらすぐに箱は閉じた。あのイヤリングに触れた記憶もないから、無くしようがない。
だとすると、無くしたのはあの二月ごろのはず。

私は、必死で思い出し続けた。
二月に先輩が来たのは二回あって、どちらの日もこの箱を開けて中身を見た。
一回目は先輩が外国遠征から帰ってきた日の夜で、あの日は実際にイヤリングに触った記憶がある。
あの時にはまだ確かにこの箱の中にあったんだから、無くなったのはあの日以降なのは間違いないよね。
無くしたのは、その時なのかな。ちゃんと元に戻したつもりだったけど、戻せてなかったのかな。
もしそうなら、その数日後に先輩が来たとき――彼を映画に誘ったあの日の夜には、もう無かったことになるけど。
あの時は少し彼の様子がおかしくて、私はずっとそのことが気になってたから、箱の中身のことまではよく覚えていないけれど、もしかしたら真田先輩はあったかどうか、覚えているかもしれない。

――うん、真田先輩に聞いてみよう!

私は慌てて、鞄の中から携帯を取り出した。そして、リダイヤルから彼の携帯番号を呼び出し、すぐに発信ボタンを押す。
もう、頭の中は一刻も早くあのイヤリングを見つけたい、なんでもいいから手掛かりが欲しいという思いでいっぱいだった。

焦る気持ちを抑えながら、呼び出し音を聞く。
でも、なかなか繋がらない。
呼び出しに気付かないのか、どこかに置いて出かけちゃってるのか――それとも、出られない理由でもあるのか。
一瞬嫌な想像が頭を過ぎったけれど、首を振ってその思いを四散させた、その時だった。

『――もしもし。? どうした』

やっと、繋がった。
焦る余り、私は挨拶すらせずそのまま用件を切り出す。

「あの、先輩、硝子の花のイヤリング見てませんか!?」
『イヤリング!?』

私の問いに、とても驚いたような彼の声が返って来る。

「そうです、私が大事にしてた硝子の花のイヤリング……先月先輩が私のアパートに来たときに見せましたよね。アクセサリーボックスの中に入れてたはずなんですけど、見当たらないんです!!」

なんだかもう支離滅裂になりながらも、私は必死で尋ねる。

「先輩に、一番最初にもらったあのお花のイヤリング……今見ようと思ったら何故か見つからなくて……どこにいったのか全然分からないんです!! 最後に先輩が来てくれたあの日、あったかどうかだけでも憶えてませんか!?」

泣きそうになりながら、私は言う。
あの時にあったのかどうかだけでもいい、少しでも情報が欲しい。
彼が知らなければもう絶望的だ。どんなに小さなことでもいいから、聞かせて欲しかった。

――けれど。
少し無言の間があってから、彼はごほんと咳払いをした。
そして。

『あ、ああ。そんなことか。……き、気にするほどのことではないだろう』

彼は、確かに――確かに、そう言った。

思わず、私は自分の耳を疑った。
彼がそんな反応をするとは夢にも思わなかったからだ。
あのイヤリングが無くなってしまったことは――先輩にとって、「そんなこと」なの? 気にするほどのことじゃないの……?

『その、なんだ。そのうち見つかると思うぞ、うむ』

ははっと事も無げに笑って、彼は言う。
何を言ってるんだろう。
だって、私があれをどれだけ大切に思っているかってこと、先輩は誰よりも一番よく知ってるはずだ。
なのに、それを無くしてしまったことを「気にするほどのことじゃない」なんて、どうして言ってしまえるの?
……どうして、そんな風に笑えるの?

私は完全に絶句して、何も言葉を返せなかった。
黙り込んでしまっている私に気付かないのだろうか、彼はそのまま軽い調子で言葉を続ける。

『まあ、そのうち出てくるだろう。必死になって探す必要はない。無駄なことはするな』

必死になって探す必要はない、無駄なことはするな。信じられない言葉がどんどん続いた。
彼の声がどこか遠くに聞こえ、私の頭の中が真っ白に染まっていく。
彼にとって、あのイヤリングはそんな程度の物になっちゃったんだろうか。初めてのプレゼントなんか――私との思い出なんか、もうどうでもいいんだろうか。

なんだか自分が惨めになり、もうどうしたらいいのかわからなくなった、その時。
携帯の向こうで、一瞬誰か違う人の声がした。
くすくすと笑うような――軽やかな鈴が音を立てたような声。
それは、確かに女の人の声だった。

「……先輩、今、誰といるんですか。なんか、声……したんですけど……」

気のせいであって欲しいと、全く関係のない通りすがりの女の人の声がたまたま聴こえただけかもしれないと、心のどこかでそう祈りながら私は尋ねた。
でも、その問いに彼は一瞬言葉に詰まる。
そして咳払いをしてから、少し上擦ったような声で答えた。

『い、いや、今は……ちょっと、知り合い、とな』

――「知り合い」、か。
通りがかりの人だとか、お店の店員さんだとか、気のせいだろうとか、それっぽい嘘なんていくらでも考え付きそうなものなのに、そんなみえみえのごまかし方しか出来ないのはいつもと変わらないんだね。
その程度のごまかし方しかできないくらい嘘をつくのが下手な先輩も、先輩の可愛いごまかし方も、いつもなら大好きだけど――今日の下手なごまかし方は、到底「好き」だなんて思えないよ。
辛いよ、先輩。
泣きそうになりながら、私はぎゅっと携帯を握り締める。
もう、こうなれば直接聞くしかないと思った。

「その知り合いの人って……女の人、ですか?」
『ん? ……あ、いや、まあその……なんだ』

今までの軽い調子から一転し、彼の声の様子が変わった。
なんだかとても不自然なくらい、焦った声。

「……あの、先輩。ひと月前に、私が映画に誘ったのおぼえてますか?」
『あ、ああ、おぼえているが……』
「先輩はあの時人と会うから無理だって言ってたから、映画はと一緒に見に行ったんです。でね、その時、私見ちゃったんです。綺麗なオープンテラスのカフェで、先輩が女の人と会ってるの」

私がそう言うと、一瞬、電話の向こうの彼の息が止まった。
そして。

『……見たのか!?』

彼は、とても驚いた声で、叫ぶように言った。

「見ました。……跡部さんもいましたけど。あの時、先輩は人と会うとしか言ってくれなかったですよね。あの女の人のことも、跡部さんのことも隠しましたよね。どうして隠したんですか?」
『……い、いや、それは……』

今まで聞けずに溜め込んでいた疑問を、彼にぶつける。
でも彼は、電話の向こうで、困ったように歯切れの悪い言葉を漏らすだけだ。

「今一緒にいるのも、その人なんじゃないですか? 一体誰なんですか? 雑誌記者の人とかですか?」

お願いだから、説明して欲しい。
お前何か勘違いしてるだろうって、何言ってるんだって笑って欲しい。
なんなら怒ってくれたっていい。
祈るようにそんな思いを抱えながら、私は淡々と尋ねた。

――しかし。
大きな溜息をついて、彼が紡ぎ始めたのは――私が願ったのとは程遠い言葉。

『確かに、今俺はあの時の女性と一緒にいるが……まさか、お前に見られていたとは……』

彼がそう言った瞬間――私の心に、ひびが入ったような気がした。

「あの日、一体その人と何をしていたんですか?」

震える声でなんとか言葉を絞り出す。
でも、彼はその質問に答えられないのか、何も言ってくれない。
我慢できなくて、私は彼の返答を待たずに問いを重ねた。

「今日だって、久し振りに私と会ってたのをわざわざ切り上げてまでその人に会いに行ったってことは、何か理由があったんですよね? どうして? その人、一体どういう人なんですか? 先輩と、どんな関係なんですか?」

しかしそれでも、彼は押し黙ったままだ。
その沈黙がとても辛くて、痛い。
そして、ややあってから、彼はやっと返事をした。

『……すまないが、その人の事は、今は言えない』

――言えない。
まさか、こんな形の答えしか返ってこないなんて。
この期に及んで、まだ彼は隠し事をするのだろうか。

「どうして……どうして言えないんですか?」
『その人の素性を話すには、同時にとても大切な話をお前にしなければならないからだ。……到底電話などで話せるような内容ではない。直接会い、お前の顔を見て言わなければならない話なんだ』

神妙な声で、彼はそう言った。
今日のデートで先輩が言った、「そろそろこの辺りで変化があってもいい」という言葉。
跡部さんが言っていた、今の彼自身の状況や私の幸せを考えて、彼が悩みぬいて出したという決断。
無くなってしまった思い出のイヤリングを、「気にするほどのことでもない」と言って笑い飛ばしたこと。
そして、会っていたことをひたすらに隠し、発覚したらしたで直接私に言わなければならないとまで言った、女の人の存在。
――全てがもう、絶望でしかなかった。

目の前が真っ暗だ。
息も出来ない。
何もかも――ぐっちゃぐちゃだ。

「……先輩の馬鹿……」

そんな言葉が、私の口から漏れた。
彼が驚いたような声で「?」と問い掛けてきたけれど、それに構わず、私は溢れ出したものをそのまま口にする。

「私との思い出のイヤリングなんか、もうどうでもいいわけですよね! だって先輩はあんなに素敵な女の人と会ってるんですもんね!」

言葉が止まらない。
私は、電話の向こうの彼に溢れ出した全ての想いを投げつけた。

『ちょっと待て! ――』

彼の制止する声が聞こえる。けれど、もう私の暴走した感情は止まりそうになかった。

「先輩、ひどい……わ、私があのイヤリング、どんなに大切にしてたか……し、知ってるくせ……に……無駄、とか……」

いつの間にか溢れてきた涙をぐっと拭い、嗚咽で途切れ途切れになりながらも、私は続ける。

「それで、隠れて、女の人と、会……とか……せんぱ……ひど……」
、ちょっと落ち着――』

彼が電話口で何かを言おうとした。
けれど、今はとにかく彼の言葉全てを聞きたくない。
もう、少しでも彼と話していたくない――

「先輩なんか、大っきらい!」

そう叫んで、私は携帯をぶちっと切ると、それをそのままベッドの上に叩き投げる。
すぐに着信が入ってきたけれど、それを触ることも見ることもせず、私はただ一人で泣き崩れた。

携帯に着信が入り、着信音がしばらく流れて切れる。
それが何度か繰り返された後、今度は家の電話が鳴った。けれど、それはすぐに留守電に切り替わる。
そういえば、出かける前に留守電にしていってからそのままだったっけ――そんなことを思いながら私は立ち上がり、涙でぐしゃぐしゃになった目を掌で擦りながら、電話の側にゆっくりと歩み寄った。
留守を告げる機械的な女の人のアナウンスが流れて、発信音が鳴る。
そして、すぐに電話機の小さなスピーカーから聞こえてきたのは、やはり彼の声だった。

、いるんだろう!? 今から行って全部説明するから待ってろ、あと小一時間ほどで着く!!』

先輩、こっちに向かってるんだ。
――やだ、今は絶対に会いたくない。話なんか、聞きたくないよ……!

『いいか、絶対に――』

彼の言葉を遮るように、私は電話を取り上げる。
そして。

「来ても、いませんから!」

そう叫ぶと、私はすぐに電話を切った。
頬に伝っていた涙をもう一度乱暴に拭いながら、慌ててベッドに投げつけたままになっていた携帯を拾い上げる。
そして、携帯と財布だけを小さな鞄に入れて、アパートを飛び出した。

初稿:2010/10/03
改訂:2024/10/24

BACK NEXT TOP