そして、あれから約一カ月が経ち――三月。
大学院の学位授与認定も無事貰うことが出来、本当にもう修了式を待つだけとなった。
そして。
遠征やらなんやらで、ずっと会えてなかった先輩が、以前の埋め合わせをしたいと言ってデートに誘ってくれたのは、院の修了式をもう間近に控えた、三月も下旬に差し掛かろうという頃だった。
この一カ月の間、あの女の人は一体誰だったんだろうなんてずっと一人でうじうじと考えてたくせに、彼からのそのお誘いだけですごく嬉しくなって、そんな悩みはどこかに飛んでいってしまった。
私も本当に現金なものだ。
こないだの映画はまだやっていたけれど、私が一度観てしまっているから、別の映画を見てお昼ごはんでも食べて、その辺をゆっくり歩いてみようかって。
先輩とそんなデートをするのはとても久しぶりだったし、何より彼が私を誘ってくれたことが嬉しくて、前日に新しい服まで買いに行っちゃった程だ。
デート当日は、気持ちいいくらいにとてもよく晴れた。
私のアパートまで迎えに来てくれた彼は、いつもと変わらない笑顔で私を連れ出してくれた。
「今日は何を観るか決めてあるんですか?」
私の問いに「ああ」と頷き、彼は続ける。
「もしもの種、というタイトルらしい。実は俺も詳しい内容はよく知らんのだ。幸村に、この映画は絶対お前と二人で観るべきだと勧められてな」
先輩は、そう言って苦笑しながら私にチケットを見せた。
確かにタイトルだけじゃちょっと中身の予測がつかないかも。
「へー、幸村先輩のお勧めなんですか。どんな映画でしょうね」
「さあな。あいつが子どもじみた悪戯心さえ出していなければ、まともな映画のはずだ」
真田先輩は、そう言って更に苦笑を重ねる。
悪戯好きでお茶目なあの幸村先輩だったらありえるかもしれないと、私達は顔を合わせて笑い合い、映画館に入った。
映画は、とても面白かった。
少しファンタジックなヒューマンドラマ、っていうのかな。
順風満帆で何の不満もない人生を送ってきた一人の男の人が、ふと「これでいいんだろうか」って疑問を持つことから話は始まって、人生を考えるために旅に出た先で不思議な老人に会い、自分の人生に少しの変化を与えるという「もしもの種」をもらう。
旅から帰って半信半疑で小さな鉢植えに種を植えると、種が芽吹いて成長するにつれて、男の人の人生に少しずつ変化が訪れていくんだけど、それは幸せな変化だったり、不幸だったり様々で、その度にドキドキしたり、はらはらしたり、ちょっと笑ったりした。
鉢植えはやがて見たこともないような一輪の花を咲かせ、そして枯れてしまう。その頃には主人公は今までと全く違う道を歩むようになっていて、でもそれは本当に種のせいだったのか、それとも最初からこういう運命だったのか、それは分からないままで。
けれど、どんな人生でも幸せを見つけようと自ら行動し続けた主人公に、私は感動して泣いてしまった。
映画を見終わると、昼ご飯には少し遅いくらいの時間になっていた。お腹も結構すいていたので、遅めの昼食を取るために、そのまま私達は近場のファミレスに入る。
注文を済ませて一息つくと、自然と話は先程の映画の話になった。
「……なんだか不思議な映画でしたね。面白かったです」
「そうだな……」
「あの主人公、強かったですね。いつでも前向きで、見ててすごく応援したくなっちゃった」
印象に残っていたシーンを思い出しながら、私は続ける。
「ほら、主人公のふるさとの家が高速道路建設で無くなっちゃうってとこあったじゃないですか。あのシーンって……」
そんなことを話していて、ふと、私は言葉を止めた。
先輩がなんだかじっと何かを考え込んでいて、私の言葉が耳に入ってないように見えたからだ。
「先輩、どうかしましたか?」
私が尋ねると、彼はふっと顔を上げた。
「ん? あ、いや……すまない。少し、考え事をしていた」
そういって、彼は苦笑する。
「いえ、別にいいんですけどね」
さして気にも留めず、私が先程の話を続けようとした、その時。
彼が、少し神妙な顔つきで口を開いた。
「……、お前は今のままでいいと思うか?」
――今の、まま……?
一瞬意味がわからなくて、私は無言で瞬きを繰り返す。
すると、彼は更に言葉を続けた。
「人生というのは、その時点でうまくいっているからといって、これから先も同じようにうまくいくとは限らないものだ。変化を恐れるあまり、今の状況から動かないでいてはいけない――先程の映画は、多分そういうことが言いたかったのだと俺は勝手に思っている」
少し遠い目をしながら彼は言うと、幸村がこの映画を俺たちに見せたがった思惑もなんとなく分かった気がしたぞ、と付け加えて、また少し苦笑を浮かべる。
そして、息を整えるように小さな咳払いをすると、まじめな顔で私を見据えた。
「俺もお前も、ずっと変化のない同じような人生を歩いてきたように思う。とはいえ、今までの人生はとても幸せだったと思うし、今振り返っても満足しか感じ得ないがな。 しかし……そろそろこの辺りで、変化があってもいいのかもしれん」
先輩のその言葉に、私の心がどくんと鳴った。
彼の言い方は、まるで自分の現状を変えたいみたいに――今まで私とずっと一緒に過ごしてきた人生を、ここで終わりにしたいと言っているようにも聞こえたから。
そして。
同時に、この間見てしまった知らない女の人の姿が私の脳裏を掠め、私の心臓が加速度を増していく。
「……私は、そうは思わないです……」
首を振って、私は小さな声で答えた。
「変化は必ずいい結果をもたらすとは思わないし、私は現状で十分幸せですもん。自分の学びたいことを学んで、友達に恵まれて、毎日が充実してるし……それに」
そこまで言って、彼の顔をじっと見つめる。
十年も前から、大好きな人。大好きで大好きで仕方がない人。
この人を失うくらいなら、人生に変化なんかいらない。彼を失うことで手に入る幸せがもしあるのだとしても、それは私にとって幸せでもなんでもない。
ずっとずっと、このままでいい。
「例え頻繁に会えなくても、こうやってたまに先輩の顔が見れて、声が聞けて、それだけで十分です。これ以上の幸せ、私は知りません」
私は、妙に汗ばむ自分の掌を、ぎゅっと握り締めた。
――どうか、あなたも同じ想いでいて。これからもずっと変わらずに、私と共にいる道を選んで欲しい。
どこか必死になりながら、私が訴えるように彼の眼を見つめると、彼はわずかに眉をひそめた。
「、そういう考え方も分からないでもないが……しかし俺は……」
彼が何かを言いかけたその時――突然、張り詰めた空気を切り裂くように、彼の携帯電話が鳴った。
先輩は少し気まずそうに咳払いをすると、自分のポケットを探り、携帯電話を取り出す。
「……こんな時に、一体誰だ」
そんなことを言いながら、彼は自分の携帯のディスプレイを見た。
――その瞬間。彼の瞳が大きく見開かれたのを、私は見逃さなかった。
「……誰、ですか?」
恐る恐る尋ねた私の顔を、彼は一瞬ちらりと見たけれど、すぐに視線を逸らしてしまった。
「い、いや、その……し、知り合いなんだが」
「知り合い?」
「ああ、知り合い、だ」
焦りながら、彼はどうしたらいいのか分からない感じで視線を泳がせる。
「出なくていいんですか?」
「出るが……こ、ここでは、まずい」
そう言うと、彼は携帯をぎゅっと握り締めた。
そして。
「すまない、外に行ってくる」
そう言い残すと、私の返事も待たずに彼は外へと出て行ってしまった。
――あの人だ。
何の根拠もないけど、そんな気がした。
だって、いつもの先輩なら「知り合い」とか曖昧な言い方しないもん。
ここではまずい、と彼は言った。
勿論、お店の中だからっていうのもあるんだろうけど……一番の「まずい」理由は、私が目の前にいたからじゃないの?
嫌だ、彼を疑いたくない。そんな風に思いたくない。
信じなきゃ――
そう自分に必死に言い聞かせつつも、私は自分の心が濁ってゆくのを感じて、ぐっと唇を噛み締めた。
やがて注文した料理が来たけど、それでも先輩は帰ってこないままだ。
何にも考えることが出来なくなってしまった私は、お料理から立ち上ってくる湯気をただただ見つめていた。
そして、それから少ししてから先輩が戻ってきた。
電話に出る前とは打って変わって、晴れ晴れとした、とても嬉しそうな笑顔を浮かべている。
あの人と話せたのが、そんなに嬉しいのかな。……って、まだあの人と決まったわけじゃないのに。
「すまない、遅くなったな。先に食べておいてくれても良かったのに」
「いえ……」
軽く首を振ったけれど、笑顔は作れなかった。
それに、電話の相手を尋ねる勇気もなくて、私はそれをごまかすようにお料理に手を伸ばした。
「……食べましょうか」
「ああ、そうだな」
そう言って、食事を始めた。
でも、全く味はしなくて、ただ口を動かすだけ。
この空気を重苦しく感じているのは、私だけなんだろうか。
それとも、先輩も?
そんなことを思ってふと顔を上げると、先輩と目が合い、私は思わず下を向いてしまった。
あからさま過ぎたかな。でも……先輩の目を見るのが、なんだか怖いよ。
その時、彼が持っていた箸を置く音がして、同時に小さな咳払いが聞こえた。
「……その、」
彼の声に、びくっと私の肩が跳ねる。さっきの話の続きだったら、聞きたくない。
うまく返事も出来ず、私はただ自分の胸の音が高鳴っていくのを感じていた。
「この後のことなんだが」
「この後?」
さっきの話の続きじゃないんだ。少しだけほっとして、私は顔を上げる。
――しかし。
「すまないが、少々大切な用事が出来てしまった。もうあまり時間が取れないんだが……」
その言葉に、私はまた目の前が暗くなる感覚がした。
私との久し振りのデートをわざわざ中断してまで、何があるの?
まさか、あの人に会うんじゃないよね? 違うよね?
でも、大切な用事というのが一体なんなのか、彼が今から何をしようとしているのか、そんな簡単なはずのことがとても怖くて聞けなくて――私はただ、首を縦に振っていた 。
「分かりました。それじゃ、これで切り上げましょうか」
「あ、いや、今すぐというわけではないんだが」
「いえ、私もやらなくちゃいけないことあったの忘れてました。先輩も用事が出来たなら、丁度いいです。今日はもう、ここでお開きにしましょう」
そう言ってそのまま無言で目の前のプレートを食べつくすと、すぐに私は席を立った。
送ると言ってくれた彼の言葉を振り切って、レストランの前で逃げるように彼と別れる。
そしてそのまま、私はただぼんやりと近くの公園のベンチに座っていた。
今頃、先輩は何をしてるのかな。あの人と……会ってるのかな。
一カ月前に見たあの人の姿を、脳裏に思い出す。
とても綺麗な人、だったな。すらりとしていて、スタイルも良くて、いかにもキャリアウーマンって感じだった。
私とは違ってすごく大人っぽくて、跡部さんや――先輩の隣に並んだら、なんだかすごく絵になっていた。
思わず、あの女の人が真田先輩の隣に並んで立っている姿を想像してしまい、私はそれを振り切るようにぶんぶん首を振る。
ううん、絶対にあるわけない!!
あの真面目で真っ直ぐで、とっても優しい真田先輩が、そんなことできるわけないよ。
回りくどいことは苦手で、いつも真正面から気持ちをぶつけてきてくれて、曲がったことなんて絶対に出来ない。
それが私の知っている、十年間ずっと傍で見続けてきた真田先輩だもん。
もし、もしだよ。万が一、本当に万が一……ってこんなこと万が一でも億が一でも考えたくはないけど、もしも先輩の気持ちが本当に変わっちゃったのだとしても――それを私に隠したまま、二股みたいな状態で他の人にアプローチするなんてこと、彼の性格上絶対に出来ないはずだ。だから絶対に違うよ。
――でも、もしかしたら今日それを言おうとしたのかもしれない。
先程のレストランでの会話を思い出して、私の気分はまた沈んだ。
さっきのあの会話――電話で途切れてしまったあの会話が、どうしても気になる。
先輩は、やっぱり私に何かを言い出そうとしてた。とても言い出しにくそうではあったけれど。
「……なんだったんだろう」
確かにとっても気になるけど、素直にあのまま話を聞けば良かったとはどうしても思えなかった。
嫌な予感しか過ぎらなくて……やっぱり、怖い。
でも、気になるのも確かで――私、どうしたらいいんだろう。
先輩本人には、やっぱり聞けない。
じゃあ……先輩以外の人に、聞くしかないよね。
私はぎゅっと拳を握り締めて覚悟を決めると、自分の携帯を取り出した。
けれど、携帯のディスプレイにその名前を呼び出したところで、私の手は止まる。
――跡部さん。
跡部さんは先輩と一緒に世界を回ることも少なくないから、万が一何かあったときに連絡を入れられるようにと、連絡先を交換していたのだ。こんなことで使うことになるとは、思わなかったけれど。
二月のあの日、先輩とあの女の人が会っていた正にその場所に一緒にいたのだから、跡部さんなら全ての事情を分かっているはずだ。
何故先輩があの人と会ってたのか、そもそもあの人と先輩はどういう関係なのか――きっと全部知ってる。
私はしばらく固まっていたけれど、とうとう覚悟を決めて発信ボタンを押した。
携帯の向こうで、無機質な発信音が響いている。
出て欲しいような、出ないで欲しいような、そんな矛盾したことを思いながら、私は携帯をぎゅっと握り締めていた。
そして。
『もしもし、跡部景吾だ』
電子音が途切れ、真田先輩よりもちょっと高い、余り聞き慣れていない声が私の耳に届いた。
途端に、緊張して私の胸がその速度をぐっと上げる。
「あ、あの……です。です。分かりますか」
『アーン? 分かるに決まってんだろうが。真田ンとこで十年も彼女やってる、物好きな女だろ』
――真田ンとこで十年も彼女やってる。
いつもなら恥ずかしくも嬉しいと思える跡部さんらしいそんな言い方が、今はなんだかちくりとする。
『おい、返事がねえが、違うのか? その名前で俺様の連絡先を知ってそうな女は、そいつくらいしか心当たりが無えぜ』
跡部さんの声に、はっと我に返る。
慌てて、私は電話口で頭を下げた。
「あ、い、いえ、合ってます。その『』です。すみません」
『だろ。ま、声で分かるけどな』
くくっと笑い、跡部さんは続けた。
『で、俺様に何の用だ? 真田と掛け間違えたってオチでも無さそうだが』
「……ちょっと、あの……跡部さんに、聞きたいことがあって。今、少し時間いいですか」
恐る恐る尋ねた私に、跡部さんは「ま、少しならな」と笑った。
『で、どうした?』
「……あの……」
口を開きかけたけれど、うまく言葉がまとまらない。
どういう風に聞けばいいんだろう。
あの時会ってた女の人って誰ですか、じゃ突拍子無さ過ぎるかな。
でも、真田先輩はまだ私のこと好きですよね、って跡部さんに聞くのもおかしな話だろうし……一体何をどう聞いたらいいんだろう。
「あの……」
言いよどみながら、私はああでもないこうでもないとひたすら言葉を探す。
すると、なかなか言い出さない私の様子を変だと思ったのか、跡部さんの方から私に尋ねてきた。
『おいおい、どうしたってんだ。そんなに聞き辛いことなのか?』
「……いえ、す、すみません」
しまったなあ、もうちょっと考えをきちんとまとめてから電話を掛けるべきだった。跡部さんだって忙しいのに、早くしなきゃ……。
『真田じゃなく俺様に掛けてきたってことは、それなりの理由があるんだろうが。どうした、真田のことか?』
「はい……あの、あの……真田先輩、先月くらいから、ちょっと様子がおかしい気がして」
やっと口をついたのは、その程度の言葉。肝心なあの女の人のことには触れられてないけど、もう勢いに任せて言うしかないと思った。
「なんだか、私に隠し事してるような気がして……あの」
私の言葉に、電話の向こうの跡部さんの声が止まる。
そんな跡部さんの様子に心臓がまた高鳴りを増したけど、私はそのままなんとか続けた。
「いつもの真田先輩とは明らかに違う気がするっていうか……その……ちょっと、気になってしまって。あの、跡部さん、何かご存知でないかなって思って……」
私がそこまで言い終えた、その時。
電話口の向こうで、ハァ、と大きく息を吐く音が聞こえた。
そして。
『……もしかしてアンタ、真田からまだ何も聞いていないのか』
跡部さんは、そう言った。
こういう言い方をするってことは――やっぱり、彼は私に何か隠し事をしてるってことなんだ。
「聞いて……ません」
震える声で私が答えると、跡部さんが電話の向こうで小さな舌打ちをしたのが聞こえた。
そして、かすかに聞こえるほどの声で、「真田の野郎、まだ何も言えてないのか」とも。
「それって、やっぱり真田先輩は私に隠し事してるってことなんですね?」
私の問いに、跡部さんは少しだけ押し黙ったけれど、すぐにまた息を吐いて、彼は言葉を続けた。
『してるかどうかって聞かれりゃ、ま、答えはYESだな』
「それって――」
一体何なんですか、と尋ねようとしたその時。
『悪いが、詳しい内容までは言えねぇぞ。……それは、真田がアンタに伝えなきゃいけねえことだ。勝手に俺様の口から言っていいことじゃねえ。だろ?』
跡部さんは、神妙な口ぶりでそう言った。確かに正論で、私は返す言葉もなくなってしまう。
『ま、焦らなくても、必ずアイツの口から直接告げられる日が来るさ。それももう、近いうちにな』
「そう……ですね。すみませんでした」
そう言って、私が電話を切ろうとしたその時。
『……真田からその話を聞いたら、アンタ絶対驚くだろうが、真田の野郎も昨日今日決めたことじゃねえ。今のあいつ自身の状況やアンタの幸せ――いろんなことを考えて 、悩んで悩んで悩みぬいてやっと決めたことだ。決して軽い気持ちで言ってるわけじゃねえから、そこんとこだけはしっかり分かってやってくれ』
跡部さんは、そんな、とても意味深なことを言った。
そして。
『少し喋り過ぎたな。じゃあな』
そう言い残して、跡部さんは電話を切った。