右側から入ってきたバスは、速度を落としバス停にいた二人の前に停車する。
そして、バスの自動ドアが開く音が軽やかに響いた。
「先に乗れ、」
「あ、はい」
真田に促され、はバスのステップに足をかける。
すると、すかさず彼の優しい声が聞こえてきた。
「足元に気をつけろよ」
「はい、ありがとうございます」
振り返り、は笑みを作って彼に頷き返す。
――しかし。
その表情を見た真田が、違和感でも憶えたように視線を止めた。
自身は普通に笑ったつもりだったが、どうやらそうではなかったらしい。
「……どうかしたのか?」
真田が、気にしたように問い掛ける。
そんな彼に、は軽く首を振った。
「あ、いえ。別に何でもないです」
そう言って、また笑顔を作る。
真田は、そんなを少し気にしたように見つめたが、「そうか」と小さな声で返し、そのままに続いてバスの中へと進んだ。
そして二人は、奥の方の二人掛けの座席に近づく。
「この辺りでいいか」
「はい」
が頷くと、彼は先に席に座るように促した。
彼の好意に甘え、軽く頭を下げて奥の方の席に座る。が座ったのを確認すると、続いて彼もその隣の席に腰を下ろした。
その瞬間、彼の身体と自分の左半身がかすかに触れ、どきりとしてが思わず身を縮めると、一瞬で彼との間に微妙な隙間ができた。
少し、あからさまだっただろうか。
そんなことを思い恥ずかしくなりながら、は隣にいる真田を見上げる。
すると、どうやら彼もこちらを見ていたらしく、思いっきり目が合ってしまった。
高鳴っていたの胸が、更に速度を上げる。
しかし、目が合ったことにどきりとしたのは、真田も同じだったようだ。
瞬きの速度が上がり、彼は思い切り動揺を露にする。
そのまま落ち着くように小さな咳払いをした彼は、やがてを見つめると、ふっと笑みを浮かべた。
それはとても優しくてあたたかい微笑で、はとてもドキドキしてその笑みが向けられたことを嬉しいとも思ったけれど、どうしても素直に喜ぶことができなかった。
彼の優しさの分だけ、先ほどの不安が罪悪感となって蘇り、胸が痛んだのだ。
自分が言わなければわからないのだから、と何度も言い聞かせるが、その度に胸を刺す棘は大きくなる。
は、無言で目を伏せた。
それ以上一言も会話を交わさないまま、バスが動き出す。
二人の間に流れる空気が、少し重苦しかった。
「……」
彼が、少々ためらいがちにの名を呼んだ。
どきっとして、は顔を上げる。
「は、はい」
再度、真田と目が合った。
すぐに彼は視線を逸らしたが、少しして、またを見つめる。
そして大きく息を吐くと、不安そうな表情でゆっくりと言葉を紡いだ。
「俺は、また何かお前を傷つけるようなことを、言ってしまっただろうか」
「え、ええ!?」
彼からの不安気な問い掛けは、にとって、あまりにも予想外だった。
驚くあまり、は思わず目を見開いて問い返す。
「な、何のことですか!?」
「……先ほどから少し、お前の様子がおかしい気がしてな。俺のことだから、余計なことを言ったのではと……」
眉根を寄せながら、真田はどこか不安そうに言葉を綴る。
その様子に、ははっと息を呑んだ。
――もしかして、今、全て態度に出てたのではないだろうか。
隠していることを彼に知られたらどうしようという、自分の不安や恐れが。
彼のことだ、理由はわからなくとも、表面上の様子の変化は敏感に感じ取っても不思議は無いし、それに本当に優しい人だから、一旦気付いてしまったらそのことを気にしないわけがないのに。
申し訳なくなって、は必死で首を振った。
「ご、ごめんなさい! 違うんです、先輩は別に、何も悪くないんです!!」
「……本当か? 正直に言ってくれて構わない。俺は無神経なところがあるようだから、お前を傷つけるようなことを言ってしまったのではないか?」
真田は、不安そうな瞳のまま、問いを重ねる。
そんな彼に、はさっきよりももっと力強く首を振った。
「違うんです、ごめんなさい。あ、あの、別の心配事をちょっと思い出しちゃって、それでちょっと、あの……」
「心配事?」
「は、はい。先輩のことじゃなくて、その……。えっと、その……あ、お母さん、ちゃんと大阪に着けたかなって……」
本当のことを言うことは出来ない。
だから、は咄嗟にまた嘘を吐いてしまった。
彼にまた嘘をついている――そう思うと、胸が更に激しく痛んだ。
彼の目を見ていられなくて、は目を伏せる。
しかし、の心中など知る由もなく、真田は先ほどとは打って変わって、柔らかい笑みを浮かべる。
その表情は、どこか安堵しているようにも見えた。
「そ、そうか。それなら良かった……ああ、いや。お前にとっては良くないな」
を気遣うように言うと、小さな咳払いをし、彼は続ける。
「大丈夫だ、。あの時間に新幹線に乗っていれば、もうとっくに大阪に着いているだろう。何かあれば連絡が入っていてもいい頃だ。だから、そんな不安そうな顔はするな」
そう言って、彼は再度優しくに笑いかけた。
嘘だと知らず、こんなに一生懸命励ましてくれる彼に、また内心申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
嘘をごまかす為に更に嘘を重ねているこんな自分に、殊更嫌悪感が募ったが、ここでまた不安そうな顔をしてしまえば、また彼に心配をかけるに違いない。は、なんとか自然の笑みを装いながら、彼に笑い返した。
「……そうですよね。ありがとうございます、先輩」
「いや。……しかし、こう言ってはなんだが、俺が傷つけたわけではなくて良かった。俺は口下手な上に気がまわらないようだからな」
苦笑しながら、彼が言う。
「そんなこと……」
は思わずそう呟いて首を振ったが、彼は「いや」と呟くと、と同じように首を振った。
「俺は本当に口下手だ。それを先ほどからずっと、痛感しているところでな……」
自嘲気味に言うと、真田はちらりとの方をみて、口篭もる。
そして、彼は動きを止めた。――真っ直ぐ、を見つめたまま。
動けば体が触れるほどすぐ隣にいる、それだけでもドキドキするのに、こんな風にじっと見つめられてが平常心でいられるわけがない。
頬は熱を帯び、鼓動がどんどん早くなる。
いつの間にか、は先ほどの不安など考える余裕もなくなり、ただひたすら彼の視線を感じて胸をざわめきたたせていた。
(せ、先輩……一体どうしたんだろう……)
ただじっと彼に見つめられることが、こんなに緊張するものだなんて――これでは心臓がもたない。
どうしようか、自分から何か言うべきだろうかと、が心の中でひたすら自問を繰り返していた、その時。
「……う……」
やっと、彼の口から声が漏れる。
しかし小さすぎたあまり、その内容はほとんど聞き取れなかった。
が思わず顔を上げて「え?」と尋ね返すと、彼はその顔を赤く染めながら、今度はもう少し大きな声で、その言葉を繰り返した。
「……似合うと、思う」
――似合う。
一瞬、その言葉の意味がよく理解できなかった。
無言で目をぱちくりさせ、が彼を見つめると、今度は彼の方が視線を逸らした。
「あの、何が……」
おそるおそる、彼に尋ねる。
すると、彼はちらりとこちらを向いたが、すぐにまた視線を逸らした。
そしてそのまま、やっと聞き取れるほどの小さな声で、彼は続けた。
「それだ――お前の、その、浴衣……だ。……とても、似合っているし、か、かわいいと……思う」
は、彼の言葉を頭の中で整理する。
浴衣と言うのは、自分が今着ているこれのことだ。
そう、つまり――彼は、浴衣が似合っていると、可愛いと褒めてくれたのだ。
言葉の意味を全て理解した瞬間、は、一気に沸騰しそうなほど体の熱が上がった。
「え、え、あ、あああ、ありがと……ございま……す」
声が震える。
例えお世辞だったとしても、あの彼にこんな風に言ってもらえるなんて――本当に、夢みたいだと思った。
「お世辞でも、嬉しい……」
「お、お世辞などではない! 先ほど、うちの庭でお前を見た瞬間から、そう思っていた。ただ、どう言えばいいかわからなくてだな……」
そう言って、彼は恥ずかしそうに頭を掻く。
そして、視線を逸らしたまま、真田はもう一度その言葉を繰り返した。
「本当に、似合っている。……とても」
彼がもう一度繰り返してくれた言葉は、先程よりも力が篭もっていた。は、嬉しさと恥ずかしさで熱くなった顔を伏せながら、絞り出すように彼に言葉を返した。
「ありがとう、先輩……あ、あの、先輩も、浴衣ものすっごく似合ってます……」
の言葉に、真田の肩が跳ねた。
からそう返って来るとは、思っていなかったのだろう。
「そ、そうか?」
「はい。あの、先輩背高いし、姿勢もいいし……似合ってるなって……あの、すっごくかっこいいなって……私もさっきからずっと思ってたんです」
「あ、ありがとう。改めてそう言われると照れるが……なかなか嬉しいものだな」
ぎこちなく言い合い、そこで一旦会話が途切れる。
恥ずかしそうに視線を逸らしてはいたが、二人とも、どこか嬉しそうでもあった。
浴衣を着て良かったと心から思いながら、がなんとか気持ちを落ち着けてようとしていると、彼が小さな咳払いを一つ落とした。
そして、彼はそのまま小さな声で続ける。
「あ、あと、『それ』もだ。それも、とても似合っていると……思う」
「それ?」
「……耳につけているそれと、頭につけている……その、硝子の、やつ……だ。あの日の物だろう……?」
あの日の物――その言葉に、思わずは自分の耳に触れる。
熱い自分の指先が、ひんやりとした硝子の花を揺らした。
「これ、あの……せ、先輩、あの日のやつって、気付いて……」
ドキドキする余り、の言葉は断片的に途切れる。
しかし、彼は少し焦りながらも、力強く頷いた。
「も、勿論だ! 気付かないわけが無いだろう」
彼は、これを忘れていなかった。
更に、「似合う」とも言ってくれた。
それは、彼にとっても「これ」が悪い思い出ではないのだという証しだった。
「良かった……もしかして、先輩はこれのこと思い出したくないんじゃないかって、怖かったんです。……そうじゃないんですね」
は、あまりの嬉しさで震えてしまう声を、一生懸命絞り出した。
すると、真田が焦ったように声を荒げる。
「な……そ、そんなわけがないだろう!? むしろ俺は、お前がそれを着けているところを見たくて――」
そこまで言って、彼ははっとして言葉を止め、口を抑える。
そして、顔を赤く染めながら、恥ずかしそうに目を泳がせた。
「あ……い、いや……」
言葉に詰まり、真田は少し困ったような表情を浮かべる。
しかしやがて大きな咳払いをすると、視線は外したまま、彼は言葉を紡ぎ始めた。
「……お前がその二つを揃いで着ければきっと似合うだろうと思ったし、実際に着けた姿を見たいとも思った。だから、あの日髪飾りだけを選んでイヤリングを諦めてしまったお前に、それを贈ってやりたいと思ったんだ。あの時は誕生日のお返しだとか、部活での礼だとか言ったが、それは言い訳だ。ただお前に渡す表向きの理由が欲しくて言ったに過ぎん」
とても言い辛そうにしながら、彼は言った。
そんな彼の言葉に、は赤く頬を染めて、思わず口元を抑える。
「だから、お前がその二つを揃いで着けている姿を見ることができて、俺は今とても嬉しいと思っている。……嘘じゃない」
「先輩……本当、に?」
「あ、ああ。もう今更、お前に嘘をつく必要も、何かを隠し立てする必要もないだろう……」
そう言うと、真田は片手で軽く顔を覆いながら、大きな息を吐いた。
その時。
「――次は終点です。お忘れ物がないようご注意ください――」
バスのアナウンスが流れて、二人ははっと顔を上げる。
「つ、着くようだな」
「あ、そ、そうですね」
顔をほんのりと赤く染めながらぎこちなく言い合ったが、そのまま、また二人は固まる。
その沈黙を打ち破ったのは、緊張した真田の声だった。
「……、今日祭りが終わって皆と別れた後、俺に時間をくれないか。……この前出来なかった、あの話の続きをさせて欲しい」
その言葉に、ははっと顔を上げる。
そこには、顔を真っ赤に染めながら、それでも必死でを見つめる真田の姿があった。
真摯な眼差しに心臓が止まりそうになりながらも、もまた、その瞳を逸らせない。
声は出そうになかったから、赤い顔のまま、ただ小さくこくんと頷いた。
「……ありがとう」
呟くように言い、真田は少しホッとしたように頬を緩める。
そして彼は顔を上げると、バスの到着に備えて前を向き姿勢を正した。
もまた座りなおすと、真っ赤な顔を伏せてぎゅっと掌を握り締める。
熱い。
顔も、身体も、心も、全てが熱くて熱くてどうしようもない。
彼がしたいと言っている話の内容は、十中八九、自分が彼にしようと思っていた話の内容と同じだろう。
もう絶対自惚れなんかじゃない。間違いなく、彼も同じ気持ちでいてくれている。
――だから。
余計なことは言わなければいい。
後少しで、彼に手が届くのだから。
あれほど望んで焦がれた幸せは、もう目の前にあるのだから。
都合の悪い過去のことなど、全て無かったことにして、忘れてしまえばいい――
は、自己暗示をかけるように何度も何度も自分に言い聞かせた。
そうしているうちに、やがてバスは終点の駅前へと入って行った。