真田の家からバス停までの道を、は真田の隣に並んで歩いた。
彼の側を歩いている自分がなんだか信じられなくて、緊張して強張りそうな身体をなんとか前に進める。
一時間ほど前に彼に迎えに来てもらい、二人一緒に歩いた道は何も変わらないはずなのに、あの時とはまた雰囲気が違う気がするのは、二人が浴衣などという非日常的な装いをしているせいだろうか。
ふと、は隣を歩く彼を横目で見上げた。
相変わらず、背が高くて堂々としていて、何から何まで「真っ直ぐ」な人だ。
男物の浴衣がよく似合っていて、とてもかっこいい。
否応無しに、心臓がドキドキしてしまう。
(私、どう考えてもかすんじゃうよねえ……)
は自分の姿に視線を落とし、苦笑を漏らす。
彼のお母さんはとても可愛く仕上げてくれたけれど、やはり彼の側にいるととても見劣りするような気がした。
「歩きにくくないか?」
歩みが遅くなったを気にとめたのか、ふいに真田がに声を掛けた。
家を出て二人きりになってから初めての彼の声に、の心臓がどくんと鳴る。
「あ、えと……そ、そうですね。少し、歩きにくいかな。浴衣って、ホントに久しぶりだから」
――歩きにくいのは浴衣のせいだけではなくて、緊張しているせいもあると思うけれど。
そんな自分をごまかすように、は苦笑を浮かべて言葉を続けた。
「でも、そのうち慣れると思いますから。ごめんなさい、歩くの遅くて」
「い、いや、浴衣は慣れていなければ歩きづらいものだ。無理して早く進もうとすると怪我をしかねんし、ゆっくりと今歩けるペースで歩けばいい」
そう言って、真田は優しく笑う。
そんな気遣いの溢れた言葉に、はまた胸が高鳴るのを感じながら、笑顔で頷いた。
「先輩は、浴衣に慣れてる感じですね。でもさっき、しばらく浴衣は着てなかったって言ってませんでしたっけ」
「確かにこういった浴衣を着るのはかなり久しぶりだが、俺は趣味で居合をやっていてな。普段から居合の鍛錬の際に胴着を着ているから、和服自体には慣れ親しんでいると言えるかもしれんな。とはいえ、胴着と浴衣では和服と言っても全然違うものだし、居合の際には袴を着用するので、動きやすさはあちらの方が断然勝るが」
「へえ……」
感心したような声を上げて、はまたちらりと彼を見る。
「居合」というものはどういうものなのだろう。胴着を着るというのだから、きっとスポーツや武道の類だろうとは思うけれど。
それにしても、テニスといい、職員室の側に飾ってあった書道の作品といい、その「居合」といい、彼は思った以上に多趣味で、いろいろなことが得意のようだ。そして彼のことだから、他にもまだまだ得意なことがあるのだろう。
テニスをしている時以外の彼は、まだまだ知らないことも多いのだと改めて思う。
少し寂しい気もしたけれど、今は彼のことが少しでも知りたかった。間髪入れずに、は彼に尋ねる。
「居合ってどんなものなんですか?」
「……知らないか?」
真田は、の顔を横目で軽く覗き込みながら、尋ね返してきた。
――もしかして、居合を知らないことは恥ずかしいことだっただろうか。
「あ、あの……はい。すみません」
自分の無知が恥ずかしくなって、はつい視線を落とした。
「ああ、いや。別に謝る必要はないぞ。そんなに身近なものでもないだろうしな」
慌てたように早口で言いながら、真田は苦笑する。
そして、彼は小さな咳払いをすると、居合について説明を始めた。
「居合は、日本刀を使った古くからある日本の武道のうちのひとつでな。抜刀術ともいって、抜刀の際の動作で相手を切りつける、刀術のひとつなんだが――」
そこまで言って、ふいに真田の言葉が止まる。
どうしたんだろうと、もまた真田を見上げた。
「……先輩、どうしたんですか?」
不思議そうにが尋ねると、真田は少し決まり悪そうな表情でを見る。
「いや、こんな話をしてもつまらなくはないかと……」
小さな声で苦笑した真田に、は思わず足を止め、慌てて首を振った。
「そんなことないです!!」
強い調子で、思わずそんな言葉を口走ってしまった。
しかし、すぐにははっとする。
恥ずかしくなって顔を熱くさせながら、あたふたと取り繕うように言葉を重ねた。
「あ、あの、私、あんまり物知らないし……先輩のお話は、聞いてていろいろためになるから……あの」
そんなことを口走りながらも、その場をごまかすような言葉を重ねれば重ねるほど、は自分が情けなくなった。
今更何を取り繕う必要があるのだろう。今夜、勇気を出すのではなかったのか。
こんな調子では、また同じことの繰り返しになってしまう。
は、ぎゅっと掌を握り締めた。
「……ていうか、あの、先輩の話を聞きたいんです」
は、かあっと顔が熱くなるのを感じた。
心臓もどんどん早くなっているのが分かる。
でも、ここまで言ってしまえば同じだと自分に言い聞かせながら、は言葉を続ける。
「私、真田先輩のこと、もっともっと、知りたいんです。だから、先輩の趣味の居合いのことも、よく知りたいです……聞かせてくれませんか」
そう言って、は真田の顔を見上げる。
彼の顔は、ほんのりと赤く染まっていた。
「ありがとう、」
小さな声でそう返すと、真田はふっと優しく微笑った。
「……そう言ってくれるなら、いくらでも話そう」
「は、はい! お願いします!!」
が頷くと、真田もまた真っ赤な顔で頷き返す。
そして、二人は会話を再開するとともに、再度歩き出した。
「そ、そもそも、居合というのはだな」
真田は、居合いの基本を説明すると共に、それがどんなに奥深い武道で、自分が興味を持っているかを話してくれた。
祖父が道場をしている関係もあって、昔から居合に慣れ親しんでいたという話や、居合いの経験をテニスに生かしているのだという話。
そんな彼の話から、まさに彼の人生や性格や価値観などを感じ取れたような気がして、は思わず嬉しくなりながら聴き入ってしまった。
上手い言葉は返せなくて、相槌を打つことしか出来なかったけれど、話の途中に不意に目が合うと彼は優しく微笑ってくれる。
そんな彼の様子に照れながらも、もまた笑って返し、いつのまにかとても和やかな雰囲気が二人を包んでいた。
そうしているうちに、いつの間にかバス停に着いてしまった。
時刻表を確認すると、まだ少し時間があるようだ。
誰も居ないバス停で、二人はベンチに並んで座った。
彼の居合いの話ももう終わってしまったようで、少しの間、二人は無言で目の前の道路を見つめていた。
――しかし。
彼がふいに、その静寂を破った。
「……お前の」
彼が言いかけた言葉が、上手く聞こえなかった。
一体なんだろうとドキドキしながら、は真田を見る。
「は、はい?」
が尋ねるように語尾を上げると、真田は大きな咳払いをする。
そして。
「……お前の話も、聞きたいんだが……」
呟くように言うと、真田はどこか赤くなった顔を、そっとに向けた。
「先輩……」
「俺も、お前のことをもっと知りたい。……駄目、か?」
その言葉の意味が分かった瞬間、の脈は爆発的に速度を上げた。
が真田のことを知りたいと望んだのと同じように、彼もまたのことを知りたいと言ってくれているのだ。
嬉しさと恥ずかしさと混乱で、の頭はいっぱいになった。
「……あ、は、はい!」
暴れまわる心臓を抑えて、なんとかはこくんと頷く。
しかしすぐに、何を話したらいいのだろうと焦り始めた。
(え、えっと……先輩に話せるようなこと、何かあったっけ……!?)
彼みたいな立派な趣味はないし、改めて話せるようなことなど、自分にあっただろうか。
一体何があっただろうと、は考え込む。
(趣味っていっても、今はテニス部のマネージャーが趣味みたいなものだし……えと……ど、どうしよう)
首をかしげたり、胸の前で腕を組んだり、顎に手を添えて斜め上を見上げたり。
はたから見れば挙動不審以外の何者でもない動作を繰り返しながら、はひたすら考えてみる。
――その時。
隣から、くくっと笑い声が聞こえた。
はっとして彼の方を向くと、おかしそうに笑っている彼が目に入り、は目をぱちくりと瞬かせる。
「せ、先輩、なんで笑ってるんですか?」
「いや、そんなに悩むほどのことかと思ってな」
そう言いながら、彼はさらに笑みを重ねる。
恥ずかしくなって、は顔を染めながらも、拗ねるように口を尖らせた。
「だって私、先輩みたいに立派な趣味とかないし……話せるようなことって何もないんですもん……今って、ほとんどテニス部のマネージャーのお仕事が趣味みたいなもんですし……」
「マネージャーの仕事が趣味なのか?」
そう問い掛けた真田に、は笑顔で頷いた。
「はい! 今は本当に、マネージャーの仕事が楽しいんです。ルールとか解ったからかな、試合見るのもすごく楽しいですし」
へへっと笑って、は言葉を続ける。
「洗濯とか掃除とかも、誰でもできる仕事かもしれませんけど、楽しいですよ。ドリンク準備だって皆が笑顔で『ありがとう』って言ってくれたりして、自惚れかもしれないですけど、こんな自分でも部の役に立ててるかなって嬉しくなりますし……。だから、最近はマネージャーの仕事が趣味みたいなものなんです」
それは、の心からの本音だった。
どんな些細な仕事だろうが、テニス部に関係する全ての仕事が、本当に楽しいと感じていたのだ。
それは、今までこれといった目的も無く日々を重ね、淡々と学校生活を過ごしてきた自分が、やっと手に入れた充足感だった。
しばらく真田に避けられていた間は、そのせいで部活の時間が辛いと思ったこともあったけれど、仕事自体を嫌だと思っていたわけではないし、それに今はもうそんな心配もいらない。
次の時間からは、もっともっと楽しめる自信がある。
「私、明日からの部活の再開が、本当に楽しみでしょうがないんですよ」
そう言って、は満面の笑みを浮かべる。
すると。
「……本当に、俺たちはいいマネージャーを得たな」
彼は呟くように言って、優しく笑う。
――の胸が、どくんと鳴った。
「あ、あの……ありがとう、ございます。先輩にそう言ってもらえるの、本当に嬉しい……」
あまりにもドキドキしてしまい、は顔を伏せる。
そんなをもう一度優しく見つめ、真田は思い出すように言葉を続けた。
「……今だから言えるが、最初お前が入ったとき、俺はお前をあまり信用していなかったんだ。……いや、お前がというわけではなくて、『マネージャー志望』という人間を、信用していなかったんだが」
真田の言葉に、はふと初日に部室で会ったときの彼を思い出した。
部室にいた自分を値踏みするように見つめ、切原に押し切られたのだったらこの話はなかったことにしてもらいたい、と言いだした彼は、確かに目の前の自分を信用していなかったに違いない。
たった二ヶ月ほど前の出来事なのに、なんだかとても懐かしい気がする。
数ヶ月後に彼とこんな風に浴衣を着て祭りに出かけるようになるなんて、あの時の自分が知ったらどれくらいびっくりするだろうと、はふふっと笑った。
「はい、それは私もすぐに分かりましたよ。先輩、最初に部室で私に何を言ったか憶えてます?」
「ああ。テニス部のマネージャーの仕事は大変だから、安請け合いで長続きするとは思えないというようなことを言ったな」
「そうそう。その上、続くかどうかもわからないマネージャーに仕事を教える暇なんてない、って言ったんですよ」
「……ああ、しっかり憶えているぞ」
「じゃあ、トドメの一言は憶えてますか?」
そう問い掛けて、は悪戯っぽく笑い、真田の顔を覗き込む。
すると、真田もまた理解したように笑って、「ああ」と頷き――二人は一呼吸置いて、同時に口を開いた。
「――早々に辞められるくらいなら、最初から入られない方がありがたい」
そんな二人の声が、見事に重なる。
思わず、二人は声を出して笑った。
「我ながら酷いな。せっかく申し出てくれた者への言葉ではないだろうに」
「私もあの時は、流石に少しむっとしちゃいました」
の言葉に、真田は苦笑した。
「すまなかったな。前にも一度言ったが、あれは本当に申し訳なかったと思っているんだ。まさか、こんなに真面目で頑張ってくれる者が来てくれるとは思っていなくてな」
彼の言葉に、は笑いながら首を振った。
「……私も前に言ったと思いますけど、あの言葉は本当に聞けて良かったなって思ってるんですよ。あれのおかげで、私最初から全力投球できたんだと思いますし……何より、先輩はすごくテニス部の事大切にしてるんだなあっていうのも分かったし……それがすごく刺激になったっていうのは、絶対にあると思います」
「……」
真田は少し恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうな表情で頬を緩めた。
「お前は本当に強いんだな」
「いえ、私は強くなんてないですよ」
は再度かぶりを振ったが、それを否定するように、真田は言った。
「いや、強いさ。少なくとも、お前は俺に潰されなかっただろう。……今までのマネージャー希望者みたいに、な」
その言葉に、は眉を顰める。
「そんな……別に今までの方も、先輩に潰されたわけじゃないと思いますけど……」
「いや、俺がいつもあまりにも厳しく叱るので、俺が辞めさせたようなものだと言う声があるのは知っているんだ」
自嘲気味に呟き、真田は顔を下げる。
彼の言葉は、少し自分を責めているような気がした。
は、そんな彼の横顔をじっと見つめた。
「あ、あの。そういえば私、この二ヶ月間でマネージャーの仕事のほかに、もうひとつ分かったことがあるんですよ」
「……ん?」
の言葉に、真田がもう一度の方を見る。
そんな彼の顔を見つめ返して、は自分の照れを隠すように笑みを作ると、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「先輩のこと、なんですけど」
「俺のこと?」
「はい」
少し驚いたように目を見開く真田に、はこくんと頷く。
そして、大きく息を吸った。
「あの……先輩は確かにとても厳しい人だけど、ただ厳しいだけの人じゃないんだってことです」
その言葉に、真田は目を瞬いた。
そんな彼を見ていると、どきりとして心臓がまた一段と早くなったが、はそのまま勢いに任せて言葉を続ける。
「私が知る限り、先輩が誰かを意味もなく叱ったことは一度も無いです。回数が多いのは、いつも周りを見ているからだし、厳しくなっちゃうのは、他人のことを心配したり、思ってるからこそだし……。先輩が持っている厳しさは、そのまま優しさに言い換えられると思うんです。だから……先輩はとっても優しい人、です。過去にそれに気づけなかった人はいたかもしれませんが、それを先輩が気にする必要はない……と思います」
言葉の端々で何度も照れ、俯いたり顔を上げたりを繰り返しながら、は真面目な顔でそう言った。
真田は、ずっと黙っての言葉を聞いていたが、その言葉が終わると、少しだけ押し黙る。
そして、やがて小さな声で「買いかぶりすぎだ」と呟き、顔を逸らした。
その表情は、照れているようにも見えた。
そして、また少しの間小さな静寂が生まれる。
風のそよぐ音が二人の間をすり抜けると、真田が再度声を紡いだ。
「ありがとう、」
とても優しい顔で、真田はに笑いかけた。
彼の言葉と笑顔に、の胸はどんどん高鳴っていく。
今なら、言えるかもしれない。――あなたが好きだと。
ぎゅっと掌を握り締め、は覚悟を決める。
そして、彼の方を向き、その言葉を口にしようと息を吸った瞬間――先に、彼が口を開いた。
「……がテニス部のマネージャーになってくれて、本当に良かった」
「先輩……」
言おうとしていたところに彼の言葉が重なり、は言おうとした言葉を飲み込んだ。
出端はくじかれたが、彼が言ってくれたその言葉は本当に嬉しくて、は笑って返す。
「こちらこそ、テニス部のマネージャーになれて、本当に良かったです。先輩、あの時私がマネージャーになることを許可してくれて、本当にありがとうございました」
「礼を言うのはこちらの方だろう。ああ、それに赤也にも礼を言わなければならないかもしれないな。お前に声を掛けてくれたのは、赤也だからな」
「あ、私もそれは思います。私を誘ってくれた切原君に、お礼言わなくちゃなって……」
は、ドキドキした胸を落ち着けるように息を整えながら言葉を返し、彼の話に耳を傾ける。
「あの頃、あれだけ連続してマネージャー志望者に辞められて、実のところ俺はもうマネージャーはいらないだろうと思い始めていたんだが……赤也は本当によく諦めずに探してきたものだ。今となっては、その諦めの悪さに心から感謝しなければな」
思い出すように言いながら、真田は目を細める。
「私の前に、マネージャー志望の人ってそんなにたくさん居たんですね」
「ああ。四月初めからお前が入った五月までの間でも、片手程はいたのではないか。……まあ、今までのマネージャー志望の者たちは動機からして不純なやつも多かったから、続かなかったのは当たり前と言えたかもしれないが」
「不純?」
「ああ。好きなやつがテニス部にいて、そいつに近づく為にマネージャーになったとかな。勿論、お前のようにマネージャーそのものに興味があって来てくれた者もいるにはいたんだが、まあ、数としては少数派だったな」
彼が苦笑しながら言ったその言葉に、は一瞬、心臓が凍り付いたような気がした。
自分がテニス部のマネージャーになろうと決意した理由は、二つある。
一つは彼の言う通り、マネージャーという仕事に、自分にも夢中になれる何かを見つけられそうな気がしたこと。
それは、いい。問題はもう一つだ。
切原に誘われて見に行った練習試合で、初めて彼のテニスする姿を見て、惹かれ、彼のことを知りたいと思った――それも確実に、自分がテニス部のマネージャーになろうとした動機ではなかったか。
いや、むしろそちらの方が、動機としては大きかったはずだ。
好きなやつがテニス部にいて、そいつに近づく為にマネージャーになった――それが不純な動機というなら、自分は?
彼に惹かれ、彼のことが知りたくなったという点では、その人たちと何ら変わりはないのでは?
考えれば考えるほど、心臓がどくどくと嫌な感じに高鳴っていく。
このことを知ったら、彼はどう思うのだろう。
いつの間にか、膝の上に置いていた手が震えていた。
そんな掌をぎゅっと握り締め、俯きながら、恐る恐るは真田に尋ねる。
「あ、あの……やっぱり、先輩はそんな理由で入ってきた人たちのこと……良く思わなかったんです……か?」
「そうだな……あまりいい気はしなかったのは確かだ。例えどんな動機でも、それを表に出さず、滞りなく仕事をしてくれるのであれば問題なかったんだが、全員が全員、肝心の仕事についていけずに結局すぐに辞めてしまったからな。確かに良い印象は無いと言えば無いな」
動機が不純でも、仕事がちゃんと出来ていれば構わない――そういうことだろうか。
それなら、彼が「自分のもうひとつの動機」を知っても、自分を嫌うことはないだろうか。
(でも、良い印象はないんだよね……)
そう思うと、やはりどうしても怖い。
彼に嫌われるのも、軽蔑されるのも、絶対に嫌だ。
黙っていよう。黙っていれば、きっと、バレない――
必死に自分にそう言い聞かせ、は震える手を握りしめた。
(……だ、大丈夫だよ、黙ってればわからないから。先輩は、私がそんな理由でマネージャーになったなんて、知らないんだから……)
ぱちぱちと目を瞬かせ、不安を心の奥底に押し込める。
――その時。
「バスが来たようだな」
彼の声で、はハッと我に返る。
すると、彼の目線の先に、バスの姿が見えた。
「行こうか、」
彼は先に立ち上がると、に優しく笑いかける。
「は、はい」
頷いて立ち上がったが、はそんな彼の笑顔を真っ直ぐ見ることができなかった。