真田は、庭でただひたすらラケットを振るっていた。
正直なところ、彼女を待っているだけの一時間にも満たないであろうこの時間に、わざわざ練習をする必要はないのだが――なんというか、心が全く落ち着かないのだ。
自分の家にあの彼女がいて、しかも自分の母に浴衣を着せてもらっている。そんな事実が信じられなくて、現実味が無い。
しかも、気を抜くと彼女の浴衣姿を想像してしまい、胸の動きが妙に速度を増してしまう。決して、浴衣姿が見たいなどという下心があって彼女にこんな申し出をしたわけではないのに。
ただ、数日前、友達のとお祭りで浴衣を着ようと言い合っていた彼女はとても嬉しそうだったから、着られなくなったことはきっと少なからず残念に違いないと思い、彼女が喜ぶならと勇気を振り絞ったのだ。
本当に、断じて彼女の浴衣姿に拘ったわけではない。ないのだが――この妙な胸の高鳴りは何なのだろう。
これではまるで、やはり自分が彼女の浴衣姿を見たかったという下心があったみたいで、真田はなんだかものすごく恥ずかしい気分にかられた。
母に連れられて彼女が奥の和室へと消えてからも、全く心が落ち着かなく、どうすればいいかわからない。
そして結局真田が辿りついた結論は、テニスの練習をすることだった。雑念を振り払うには、一心不乱にテニスに打ち込むのが自分にとっては一番効果的なのだ。
時間を忘れて、真田はただひたすらにラケットで空を裂いた。
ラケットが走る音と自分の息遣いだけが周囲に響き、だんだん気持ちも落ち着いてきたような気がする。
真田は一旦手を止め、大きく息を吐いた。
そして、噴出していた汗を拭おうと、ラケットを小脇に挟み、片手で帽子を取ってそのまま額の辺りをぐっと拳で擦る。
その時――背後で誰かの気配を感じた。
「せ、先輩……!!」
同時に小さな声が聴こえ、反射的に真田は振り向いた。
――その瞬間、視界に飛び込んできたその姿に、思わず真田は息を呑む。
視覚も、言葉も、心臓も、時ですらも、自分を取り巻く全てのものが、止まってしまったような気がした。
すぐ側の縁側に居たのは、清楚な色合いの浴衣に身を包み、髪を丁寧に整えた彼女だった。
一体、いつの間にこんな近くに居たのだろう。
少し恥ずかしそうにほんのりと頬を染めながら、袖の中から覗かせたちいさな手を口元にやって、彼女は窺うようにこちらを見つめている。
(……)
彼女は、明らかにいつもと雰囲気が違うような気がした。
しかし、こんな感情は初めてで、なんと声を掛けてやったらいいのか分からない。
言葉も無いまま、真田はただ立ちすくむ。
そんな真田に、彼女は会釈するように頭を下げた。
「あ、の、……お、お待たせ、しました」
「あ、ああ……」
彼女に返事はしたものの、やはり言葉は続かない。
目の前の彼女をどう扱っていいのかわからないあまり、真田の頭は完全に真っ白に染まってしまった。
「あ、先輩、帽子が」
ふいにそんな声が聞こえて、真田はハッとする。
気が付くと、自分が先ほどまで握っていたはずの黒い帽子が、いつの間に手を離れて地面に落ちていることに気が付いた。
「し、しまった。落としたか」
真田は慌てて屈み、拾おうと手を伸ばす。
しかしその瞬間、強い風が吹いた。帽子はその風に流され、縁側の方へと転がっていく。
「む……」
「あ……」
帽子を見ていた、二人の声が重なった。
真田は慌てて、帽子を追って縁側へと近づく。
しかし――その瞬間。
帽子を追っていた真田の視界に、ふわりとが舞い降りてきた。
彼女もまた帽子を追って、縁側から素足のまま庭へと降りたのだ。
真田は、思わず手を止めてしまった。
結局、真田の帽子を先に手にしたのは、彼女の方だった。
そして、帽子についていた土を優しく払うと、それを真田に差し出した。
「はい、先輩。飛ばされなくて、良かったですね」
「あ、ああ」
頷いて、彼女の顔を恥ずかしそうに見ながら、帽子を受け取る。
その時、真田は彼女の耳に光っていた「それ」に気付いた。――硝子の花だ。
どこかで見たことがある、と思ったのは、ほんの一瞬だった。
直後、すぐにその記憶が涌きだすように蘇ってきた。
そうだ――あれは一ヶ月ほど前のあの日、自分が彼女に贈ったものだ。
よく見れば、彼女の髪に付いているのも、あの時のものだった。
真田の心臓が、今まで以上に速度を増した。
彼女は、これがあの時のものだとわかっていて着けているのだろうか。
それとも、ただ浴衣に合うと思ってたまたま持って来ただけで、深い意味は無いのだろうか。
ふとそんなことが脳裏を掠めたが、すぐにそんなことはどちらでもいいと真田は思った。
この硝子の花の髪飾りとイヤリングを、彼女が揃いで着けた姿を見たいと思った――あの時の自分の願いが、こんな形で叶った。
それだけで、充分嬉し過ぎる。
――ああ。やはりあの時思った通りだ。彼女によく似合っている。 ……とても、可愛い。
そう思った瞬間、真田は先ほどまで戸惑っていた、自分の心が晴れたような気がした。
そうだ、「可愛い」のだ。
イヤリングも、髪飾りも――勿論、浴衣も。
とても彼女に似合っていて、可愛い。
思わず――本当に思わず、真田の顔から笑みが漏れた。
「せ、先輩? どうしたんですか」
真田の表情の変化に気付いたが、目を瞬かせて真田を見上げる。
そんな彼女の仕草すらも、真田は可愛いと思った。
恥ずかしくて、到底言葉には出来ないけれど。
彼女から受け取った帽子を被りなおし、真田は表情を隠すように、つばをぐっと下ろす。
「な、なんでもない。俺もそろそろ準備をしなければな。……少し待っていてくれ」
そう言って、真田がの隣をすり抜けようとした、その時。
「……ねえ、弦一郎」
ふいに彼女のものではない声が聞こえて、真田はハッとする。
そちらに視線をやると、彼女の背後の縁側に、自分の母親がいることに気がついた。
その瞬間、顔がかあっと熱くなる。
まさか、いまの一部始終を母に見られていたのだろうか。
「か、母さん。いつからそこに?」
真田はなるべく平静を装った声で、母に言った。
しかし、母はそんな息子の様子を見透かしたように、くすくすと笑う。
「あら、ずっとよ。さんと一緒に来てずっと後ろにいたのに、気が付かなかったの? よっぽど母さんのこと、目に入っていなかったのね」
わざとらしい言葉に、真田の顔は更に熱くなった。
自分の母ながら、こういうことにはとても鋭い人だ。
きっと全て見抜かれている。浴衣姿の彼女に言葉を失ってしまうほど見惚れたことも、自分の彼女への想いも。
真田は、恥ずかしさをごまかすように大きく咳払いをしてから、言葉を返す。
「の影になっていたので、見えなかっただけですよ」
「まあ、そういうことにしておいてあげてもいいけれど」
(本当に、この人は……!!)
これ以上余計なことを言わないでくれと、真田はくすくすと笑う母に睨むような視線を向ける。
そんな息子の視線に気付いているのかいないのか、彼女は表情を変えずにそのまま笑って言葉を続けた。
「ねえ弦一郎、せっかくだから、あなたも浴衣を着たらどう?」
「……浴衣を?」
それは、とても唐突な提案だった。目を丸くしてぽかんとしている息子に、真田の母はくすりと笑って頷いた。
「そう。あなたも一緒にお祭りに行くんでしょう? せっかくじゃないの」
「い、いや、しかし……」
まさか自分も浴衣を着るだなんて、全く考えてもみなかった。
戸惑いながら、真田は瞬きを繰り返す。
「祭りに着ていくような浴衣など何年も着ていませんし……大体、今の俺に着れる浴衣などあるのですか?」
「大丈夫、あなたの背丈なら大人用で充分だから。お父さんのもあるし、すぐに用意できるわよ」
「……し、しかし」
別に浴衣を着るのが嫌なわけではなかったけれど、浴衣姿の彼女を連れ立って、自分も浴衣を着るというのはなんだか少し恥ずかしかったし、何よりこれから会う柳や切原に、思い切りからかわれるのも目に見えていた。
少し考えてみたが、やはり「恥ずかしい」という気持ちが先に立ち、真田はやはり断ろうと顔を上げる。
――その時。
「ねえ、さん。あなただって、弦一郎の浴衣姿見たくない?」
真田の母は、ふいにに話を振った。
はぱっと振り返り、真田の母を見る。
「え?」
「か、母さん! そんなことを言われても、彼女が困るでしょう!!」
いきなり彼女に話が飛んだので、真田は慌てて母を制止した。
「すまない、あの人の言うことは気にしてくれるな。大体、俺が浴衣を着たところで別に面白くもなんとも無いしだな」
なんだか訳が分からなくなりながらも、とにかく彼女に迷惑を掛けたくなくて、真田は必死で捲し立てる。
しかし、次の瞬間彼女が発したのは、思いも寄らない言葉だった。
「……見たいな……って言っちゃ、駄目ですか?」
その言葉に、真田の動きが止まった。
は少し恥ずかしそうに頬を染めながら、小さな声で続ける。
「面白いとかじゃなくて、先輩、絶対似合うと思うので……先輩が嫌じゃなければ、先輩の浴衣姿、見てみたい……です」
そこまで言って、彼女の言葉は止まる。
恥ずかしそうに俯いた彼女の表情が、どんどん赤く染まっていくのが見えた。
真田の心臓が、どくんと鳴った。彼女にこんな風に言われて、断れるはずも無い。
しかし気の利いた言葉も出て来ず、真田は小さな声で「……わかった」と頷くのが精一杯だった。
そして、そのまま靴を脱ぎ、真田は縁側へと上がる。
「母さん、用意してくれますか」
「分かったわ、奥の和室で待っていてちょうだい」
「分かりました」
そんな会話を母と交わし、真田はそのまま家の中に入ろうとしたが、ふと足を止めて振り返った。
そして。
「すまない、。急いで準備するので、この部屋に上がって少し待っていてくれ」
未だ庭にいる彼女にそう声を掛けてから、真田は用意の為に中へと消えていった。
◇◇◇◇◇
「えーっと……これとこれ、どちらがいいかしらね」
和箪笥の中から男物の浴衣をいくつか取り出し、真田の母は嬉しそうに言う。
そんな彼女を見ていた真田は、少し呆れたように息を吐いた。
「別にどちらでもいいですよ。そんなに変わりはないでしょう」
「あら、あなたの為に選んでるんじゃないわよ? こういう時は、男は女の引き立て役ですからね。あの子の浴衣の柄に合うものを選んでいるだけよ」
そんなことを楽しそうに言う母の背中を一瞥し、真田は「そうですか」と呟く。
なんだかとても嬉しそうだが、母は彼女をそんなに気に入ったのだろうか、それともただこうやって浴衣を選ぶことを楽しんでいるだけなのだろうか。
そんなことをなんとなく思っていると、母がふいにとんでもないことを口にした。
「ねえ、弦一郎。あなた、あの子とお付き合いしているわけではないの?」
その質問に、思わず真田はぶっと噴出した。
「な、何をいきなり!!」
叫ぶように言って、真田はその顔を真っ赤に染めながら、動揺を露にする。
「だって、あなたたちの様子を見ていても、どちらか分からないんだもの。ただの先輩後輩という間柄ではなさそうな雰囲気は感じるのだけど……あ、でも、あなたはあの子のことが好きだっていうのは、とてもよく分かったわよ」
そう言って、母がくすくす笑う。
――またか。親友たちにも見抜かれていたのに――自分はどれだけわかりやすいのだろう。
真田は、熱くなった顔を片手で軽く覆って溜息をつく。
そんな息子に、母は作業を続けながら同じ質問を繰り返した。
「それで、どっちなの?」
「……今のところ、そのような関係ではありませんよ」
「『今のところ』、ね」
息子の言葉を耳聡くとらえ、真田の母は嬉しそうに笑う。
もう、真田は言い返すこともしなかった。
やがて選び終わった母から、真田は浴衣を受け取った。
そして、紺色の浴衣を急いで纏い始める。
ある程度は自分で着ることが出来たが、流石にちゃんとした浴衣の帯の結び方はよく分からなかったので、それだけは母に手伝ってもらった。
「こんなものかしら」
馴れた手付きで帯を形作り、母は一歩引いて息子の全身を見る。
そして、満足そうに頷いた。
「うん、なかなか。あなたは背丈があるから、やっぱり和服は映えるわね。さんの隣に並んだらとても絵になりそうよ」
「あんなに綺麗に着飾った彼女とつりあうとは、到底思えませんがね」
真田は、そう言ってため息にも似た小さな息を吐く。
すると。
「あら、やっぱり綺麗って思ってたのね。……なら、ちゃんとそう言ってあげなさいな」
真田の母が、呆れたように言った。
「あの子、着替えの時もずっと、あなたにどう思われるか気にしてたのに。あなた、さっきは結局浴衣には一言も触れてあげなかったでしょう。気恥ずかしいのはわかりますけどね、そういうのは言葉にしてもらわないと分からないし何も伝わらないわよ。せっかくお気に入りのアクセサリーまでつけておめかししたのに、何も言ってもらえなかったらあの子が可哀相でしょう」
「……お気に入りの、アクセサリー、ですか?」
何気ない母の言葉に、真田の手が止まる。
「それはもしかして、あの花の……」
「ええ、髪に付けていた硝子の花の髪飾りと、両耳のイヤリング。お気に入りの品で、今日、着けたかったんですって」
母の言葉に、真田の顔がかあっと熱くなった。
――お気に入り、ということは、彼女もあの二つを大切に思っていてくれたのか。
ということは、やはり「たまたま」などではないのだろう。
彼女は、これがあの日の品だと分かっていて、敢えて今日、着けようと思ったのだ。
(きっと、あれを着けた姿を、俺に見せようとしてくれたのでは――)
自惚れかもしれないとは思いつつも、どうしてもそう思わずにはいられない。
はちきれんばかりの嬉しさが、再度真田の胸を刺激する。
ドキドキと煩く高鳴る胸を抑えて、真田は少しの間、動けなくなった。
「……そういえば、さん、思い出の品って言っていたけど。もしかして……あなたが関わっていたりするの? まさか、あなたが贈ったもの?」
母が意外そうに言う。
それには上手く言葉を返せず、真田はふいっと視線を背けた。
「あらあら」
その態度で、全てが分かったのだろう。
真田の母は、微笑ましそうに口に手を当てて笑う。
「弦一郎、なかなかやるじゃないの」
嬉しそうに言いながら、真田の母は立ち上がった。
「その話、今夜にでも詳しく聞かせてね。それじゃ、私は先に行ってさんにお茶でも入れてくるわ。あなたも用意が全部済んだらいらっしゃい」
「……わかりました」
真田が頷くと、母はまたにこりと笑って、外の廊下へと消えていった。
一人残された真田は、もう一度大きく息を吐く。
今日、彼女があのイヤリングと髪飾りを着けてくれたのには、きっと意味があるに違いないと思った。
自分も勇気を出そう。
今日こそ――きっと。
真田は、決意するようにぐっと拳を握った。
◇◇◇◇◇
真田は、もう一度浴衣と帯をしっかり整え、自分の部屋に寄って財布を手にすると、彼女が待つ和室へと足を向けた。
そして、閉まっている和室の襖の前で一呼吸する。
中からは、楽しそうに談笑する彼女と母の声が聞こえていた。
「失礼します」
そう言って、ゆっくりと襖を開ける。
その瞬間、中にいた二人の視線が自分の方を向いた。
――ほんの少し、時が止まったような気がした。
「……ま、待たせたな」
少し照れ臭い気分になりながら、なんとか彼女に声を掛ける。
すると、彼女は俯いて、「いえ」と小さな声で応えながら首を振った。
しかし、それ以上は会話が続かない。
彼女が自分の浴衣姿をどう思っているのかが気に掛かるが、だからと言って自分から「似合うか」とも聞き辛く、真田は完全に動きが止まってしまった。
もしかしたら、彼女も先ほどこんな気持ちで居たのだろうか。
だとしたら、やはり一言言ってやれば良かった。本当に似合うと思ったのだし―― 頭の中でそんな後悔にも似た想いが回ったが、真田の喉は動かない。
そして彼女からも何も言葉が無いので、二人の間は完全に無音になった。
しかしそんな空気を打ち破ってくれたのは、真田の母の一言だった。
「それじゃ、そろそろ時間でしょう。二人とも、行ってらっしゃいな」
母に促され、二人は玄関に移動する。
先に下駄を履き、真田は玄関から出て彼女を待った。
「おばさん、本当にありがとうございました」
「こちらこそ。とっても楽しかったわ。また遊びに来てね」
楽しそうに会話をする二人を見ていると、ふいに母の視線がこちらを向いた。
「弦一郎、女の子の浴衣って着慣れてないと結構歩きにくいから、しっかりエスコートしてあげてちょうだいね」
「……ええ」
軽く頷いて、のほうに視線を向ける。
そして、彼女に声を掛けた。
「行こうか、」
「はい、先輩」
そう言って、少しぎこちない空気のまま、二人はバス停へと歩き出す。
真田の母は、そんな二人が見えなくなるまで、ずっと嬉しそうに笑って見つめていた。