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19:祭りの夜 3

真田の隣を歩きながら、は緊張した心をほぐすように辺りを見渡す。
左右に家々が立ち並ぶ路地は、確かに似たような景色が続いていて、切原が何度来ても迷うというのも分からなくはない気がした。
しかし家々が立ち並んでいると言っても、雑然とした雰囲気ではない。
歴史のある優しい感じの日本家屋が多く、全体的にとても閑静でなんだかとても落ち着いた町並みといった感じだ。

、あれが俺の家だ」

彼の声が聞こえ、はっとして顔を前方に向ける。
その瞬間の目に飛び込んできたのは、立派な門構えを持った大きな日本家屋だった。
この辺りはどれも大きな家ばかりだが、彼が指さしたのはその中でも一番大きくて立派な建物だ。

「え、先輩のおうちって、もしかしてあそこですか?」

思わずは歩みを止め、真田の顔を見上げる。
そんなに、真田が「ああ」と軽く頷いて返すと、は目を丸くして驚きを露にした。

「ええ! す、すごいですね……!! めちゃくちゃ大きくないですか……!?」
「建物自体はとても古いものだ。確かに大きくないとは言わんが、別にすごいということはないさ。……さあ、行くか」

軽く苦笑し、真田が歩き出す。

「あ、は、はい!」

もまた、慌てて真田に合わせて歩みを進める。
そのまま二人は揃って門をくぐり、中へと入って行った。

「今帰りました」

大きな横引きの扉を引いて開けながら、真田は大きな声で中に向かって声を掛ける。
――すると。

「お帰りなさい、弦一郎」

そんなやわらかい声と共に、家の奥から和服を着た優しそうな女性が姿を現した。
まるで絵に描いたような、上品で素敵な女性だ。
思わず、は見惚れたように動きが止まる。

「あなたがさんね。いらっしゃい」

そんな声が聞こえて、ははっと我に返る。
気が付くと、目の前の女性が優しく微笑み、こちらを見つめていた。
は、慌てて頭を下げる。

「あ、あの、初めまして! わ、私、立海大附属中学二年の、といいます。今日は本当にありがとうございます!」

緊張で思わず声が上擦ったのが、自分でも解った。
失礼はしていないだろうかと思いながら、はそっと恥ずかしくて熱くなったままの顔を上げる。
すると、その女性はが緊張しているのがわかったのだろう、それをほぐすようにもう一度ふんわりとした笑いを浮かべ、を見つめた。

「ふふ、そんなに緊張しなくていいのよ。さあ、どうぞ上がってちょうだい」
「ああ。、上がってくれ」

自分の靴を脱ぎながら、真田もまたに声を掛ける。
は「失礼します」ともう一度頭を下げると、言われるままに靴を脱いで上がり、振り返って脱いだ靴を揃えた。

「弦一郎、またすぐに出かけるの? もうすぐに始めた方がいいのかしら」
「そうですね、ゆっくりしている時間はあまり無いでしょう。蓮二たちと、五時に駅で約束しているので」
「そう、それは残念だわ」

背後で、彼らがそんな話をしているのが聞こえた。
そうだ、時間はあまり無いのだった。
少し焦って振り向くと、真田の母がそんなをじっと見つめていた。
それに気付いたが、どきりとしながら目を瞬かせると――

「……弦一郎がこんなに可愛らしい女の子のお客様を連れて来るなんて初めてだし、せっかくだからお茶でも飲みながらゆっくりお話したかったんだけど……時間が無いなら仕方ないわねぇ」

頬に白い手を添え、ふうと小さな溜息をついて、真田の母はそう呟いた。
その言葉に、の心臓が更にどくんと鳴る。

「私が初めてなんですか?」

思わず、そんな言葉が口を突いて出た。
しかしすぐに、何を聞いているんだろうと思いながらぱっと口元を抑える。
そんなの様子に、真田の母がくすくす笑って頷いた。

「ええ、この子ったら本当に女っ気が無いものだから。女の子のお客様は、あなたが初めてよ」

(先輩が女の子を家に呼ぶの、初めてなんだ……)

嬉しかった。
浴衣を着せてもらうと言う理由があるにしても、自分は彼の家に呼ばれた初めての女子なのだ。
その事実が本当に嬉しくて、の胸はどんどん速度を増す。
そんな自分を抑えるように、きゅっと掌を握った。

「か、母さん。そんなことはどうでもいいので、早く準備に入っていただけませんか!」

その場の空気を断ち切るように、真っ赤な顔で真田が叫ぶ。
焦る息子の様子がおかしかったのか、真田の母はくすりと笑みを零した。
そして、「はいはい、わかってますとも」と彼に返しながら、和服のすそを抑えて踵を返す。

「……それじゃ、さん、こちらにいらして」
「あ、はい!」

は大きく頷いて、その後を追う。
一人玄関に残された真田は、どこか心配そうな顔つきでこめかみのあたりを抑え、「全く、あの人は……」と小さな声で呟いた。

◇◇◇◇◇

「さあ、入ってちょうだい」

明るく言いながら、真田の母は和室の襖を引く。
「失礼します」と頭を下げながらもそれに続くと、和室の隅の姿見の前で、彼女が手招きをした。

「それじゃ、早速始めましょうか。浴衣を貸してちょうだい。あなたも服を脱いで準備してね」

そう言って、彼女はにっこりと笑い手を差し出す。
その綺麗な手に、は持っていた紙袋を手渡した。

「はい、これです。よろしくお願いします」

紙袋を受け取り、彼女は中から丁寧に折りたたまれた浴衣を取り出した。

「あら、いい柄ね。あなたみたいな可愛らしいお嬢さんには、とっても似合いそうだわ」

ゆっくりと腕に抱きかかえるように浴衣を持ち、それを綺麗な畳の上に広げ形を整えていく。
そんな仕草も優雅で、は服を脱ぎながら、思わずほうっと息を吐いた。

(先輩のお母さん……素敵な人だなあ……)

静かな和の雰囲気を携えていて、立ち居振舞いひとつひとつがなんだかとても絵になる気がした。
また、この家自体が歴史ある日本建築のせいか、落ち着いていてとても優しい雰囲気を持っている。
彼のお母さんも、彼が住むこの家も、彼の持つとても落ち着いたあたたかい雰囲気に通じるものを感じ、なんだかとても納得したような気分になった。

「小物も下着もちゃんと入ってるわね、これだけあれば充分よ。……あなたが準備したの?」
「い、いえ、私の母が全部用意してくれたんです」
「そうなの。ちゃんとしたお母様ね。緊急の用事で大阪に出かけることになったのだと、弦一郎から聞いたけれど……」
「はい、出張で父が忘れ物をしてしまって、それで母も出かけることになってしまって……。でも、そのせいで……あの、先輩のお母さんにまでご迷惑掛けてしまって、本当にすみません」

申し訳無さそうに頭を垂れるに、彼女はふふっと笑い掛けた。

「あら、気にしないでちょうだい。あなたはテニス部のマネージャーをしてくれているんでしょう? いつもあの子がお世話になっているのだから、こんなことくらいなんでもないわ」

その言葉に、はとんでもないと慌てて顔を上げる。

「そんな、部でいつもお世話になってるのは私の方です! 先輩はいつも私に仕事を教えてくれるし、気に掛けてくれるし、本当に私がお世話になってばっかりなんです。おかげで、最近はやっとちょっとマネージャーらしいこともできるようになりましたけど、ほんと全部真田先輩のおかげで……」

そこまで言って、言葉が止まった。
彼のお母さんに、何を必死になって力説しているんだろう。
しかも、着替えの途中のこんな格好で。

「……あ、あの、とにかく、先輩にはいつも本当にお世話になっていまして……あの、ありがとうございます」

なんだか、何を言いたかったのか分からなくなってきた。
恥ずかしくなって、それをごまかすようにまた深深と頭を垂れる。
そんなを可愛らしく思ったのか、真田の母はくすりと笑みを零した。

「いえいえ、そう言ってもらえると嬉しいわ。あの子最近、テニス部でのことはほとんど教えてくれなくなったから、普段学校でどう過ごしているのか全然分からないの。ありがとう、さん。……それじゃ、始めましょうか。こちらにいらして。服はその辺りに置いといてくれて構わないから」
「は、はい! よろしくお願いします!」

脱いだ服を畳み、邪魔にならないように部屋の隅に置くと、はおずおずと彼女の前に歩み出る。

「それじゃ、まず裾よけと肌襦袢から着けますよ。苦しかったら言ってちょうだいね」

そう言って、彼女は持っていた裾よけをの腰に優しく巻き付け始めた。


着付けは、ゆっくり、でも確実に進んでいった。
裾避けと肌襦袢を着けた後は、優しく浴衣を羽織らせてくれた。
浴衣の色が自分の身体に乗り、裾の形を整えて腰紐が掛かると、姿見に映る姿が一気にそれらしくなっていく。

聞いていた通り、真田の母は着付けがとても手馴れているようだ。
彼女の手は、止まることも迷うこともなく、手早く、それでいてとても優しく進んでいく。
それは、真田がテニスの練習をするときの、迷いの無い力強い様子と似ているような気がして、さすが親子だなあと思いながらは感嘆の息を吐いた。

「苦しい? 腰紐、もう少し緩めた方がいいかしら」
「あ、いえ大丈夫です」

軽く首を振って、は自分の前で屈んでいる彼女を見ると、微笑んで言葉を続けた。

「あの、先輩とやっぱり似ていらっしゃるなって思って」

その言葉に、真田の母は顔を上げる。
そして、そのまま立ち上がって両手でおはしょりを整えながら、口を開いた。

「あら、そう? 私、あんなに堅苦しくはないつもりだけど」
「あ、そういうことじゃなくて……! あ、いえ、先輩が堅苦しいってことでもないんですけど!!」

慌てて声を上げ、は無意識に右の掌をぶんぶん振る。

「あ、ごめんなさい、ちょっと動かないで」

の腰に手を添え、彼女は慌てずにその動きを制止させる。

「ご、ごめんなさい!!」

叫ぶように言うと、は機械のように動きを止めて正面を向き、何故かついでに息まで止めてしまった。
のお腹の動きでそれが分かったのか、彼女はおかしそうにくすくすと笑みを零す。

「息してちょうだい、苦しいでしょう。……ごめんなさい、別に怒ったわけじゃないのよ」
「は、はい、すみません」

恥ずかしくて頬を染めたまま、は肩の力を抜き、一度大きく息を吸って吐く。
そんなを見て、真田の母は手を止めないまま笑みを重ね、冗談めかして言った。

「そんなに怖かった? やっぱりあの子と私、似てるのかしら」
「そういう意味じゃないんです、ごめんなさい。あの、なんていうか、着付けって難しいと思うんですけど、その……すごく手早いし綺麗だから、先輩のテニスしてるところと似てるかなって思って。……それに、先輩もおばさんも、全然怖くなんて無いです。すっごく、優しいなあって思いますよ」
「ふふ、ありがとう」

の言葉に、真田の母はくすりと笑って礼を言う。
しかし、はそれを社交辞令と取られたと思い、慌てて言葉を続けた。

「ほ、本当です! だって、先輩は私のためにおばさんに浴衣着せてくれるようにお願いしてくれたし、おばさんだって、それを引き受けてくれたじゃないですか。私、本当にすごく嬉しかったんです。……とっても優しいんだなって、本当に思いましたよ」

少し恥ずかしそうに、は言う。
真田の母はそんなの顔をそっと見つめると、どこか嬉しそうにあたたかく笑った。
そして、作業の手を止めないまま、真田の母は続ける。

「ありがとう、そう言ってもらえると私も嬉しいわ。……ねえ、さん。良かったら、あの子のことをもっと教えてくれない? あの子ったら、最近はほとんど部活の話や学校の話をしてくれなくてね。人様に悪いことをする子ではないと思うけど、あの子とっても無愛想でしょう? 周りの方にどう思われているのか、本当に心配なの」

そう言って、真田の母は頬に手を添え、ふう、と息を吐く。
そんな彼女に、少し頬を染めたが、ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら口を開いた。

「あ、はい……えっと……先輩は、その……」

そこまで言って、一旦言葉を止める。
そして、ゆっくりと考えながら、少しずつ話を始めた。

「あの、私は先輩とは同じ学年じゃないんで、クラスでの様子とかはわかんないんですけど……部活では、皆からすごく信頼されてます。テニスの実力はうちの部でもトップクラスですし、ほんと、誰よりも強いんです。なのに、練習とか絶対力抜かなくて、仕事だって、副部長だし今は部長も兼ねてるからすごくいっぱいあるんですけど、忘れたりとか人に頼んだりとか絶対しないし……。そういう姿見てると本当にすごいなあって思います。先輩のそういうとこ、皆とっても尊敬してますよ」

たどたどしい口ぶりだが、それでも一生懸命は言葉を綴った。
部活での練習の様子はもちろん、副部長として彼がいつもどんなに部のために動いているか、県大会でどれだけ彼が活躍したか、入院中の幸村のことをどれだけ気遣っているか。
そして、に対しても、どれだけ面倒を見て、優しくしてくれているか――。

そんな言葉を綴っているうちに、恥ずかしがりながらもの表情が少しずつほころんできた。
嬉しそうに、は更に真田のことを語っていく。
真田の母は作業を着々と進めながらも、の話に無言で頷いて嬉しそうに聞きいっている。
浴衣の衿が形作られ、おはしょりの上にベルトを掛け――更に帯締めに入っても、による真田の話は続いた。
やがて、真田の母の手が止まる。いつの間にか、着付けのほとんどの工程を終えていたのだ。

さん、そろそろできるわよ」

そう言って、真田の母は四方からの姿を見つめ、チェックを入れながら微細な調整をしてくれている。
そんな姿を見ていると、は時間も忘れて無意識にべらべらと喋りつづけた自分が、急に恥ずかしくなった。

「す、すみません、調子に乗って喋っちゃって……」

顔を赤く染めながら少し俯いて呟くように言うに、真田の母はにっこりと微笑みかける。

「いいえ、私の知らないあの子のこと、いろいろ知れて嬉しかったわ。さん、たくさんお話してくれてありがとう」

優しい声でそう言って、真田の母はゆっくりと立ち上がった。
そして、の肩を優しく抱くように掴んで、「どう?」と微笑みながら、姿見にその姿を映させる。
鏡の中に、可愛らしい浴衣を着た、見慣れない自分がいた。

「ありがとうございます! すごい、こんなに綺麗に着せてくださって……」

少し興奮気味に、は頭を下げる。
――しかし。

「あら、まだ終わっていないわ」

真田の母は、そう言ってくすくす笑い、にウインクをした。

「え?」

その意味が判らずがぱちぱちと瞬きをすると、彼女はの背後から、その髪を優しく掻き上げた。

「髪もセットしなくっちゃね。せっかくこんなに可愛いんですもの。もっと可愛くして、弦一郎をびっくりさせてやりましょう」

その言葉に、の心臓がどくんと鳴った。
彼を驚かせるくらいもっと可愛くしようと言われ、頬が熱くなり、その赤みが増す。

「あ、あの、ありがとうございます」

照れているを、真田の母は微笑ましそうに見る。
そして、姿見に付いている小さな引出しを開け、中からブラシを取り出した。

「さ、どうしようかしら。やっぱりちょっとアップにして、うなじを出した方が可愛いかしらね」

手にしたブラシでの髪を優しく梳かしながら、彼女は続ける。

さん、こうして欲しい、っていう希望はある? 私の好みでやってしまってもいい?」
「あ、えっと……」

そう呟いて、はふと、ある物の存在を思い出した。
彼との思い出の、硝子の花の髪留め――できるなら、あれを使いたい。

「あの、私、髪留め持ってきてるんです。……使えるなら、使いたいんですけど……」

は、少し遠慮がちに言った。

「あ、そうなの。見せてもらえる?」

そう言って、真田の母がの髪から手を離す。
は頷いて鞄に近づき、中からふたつの小袋を出して、もう一度彼女の元に戻った。

「これ、使えるでしょうか」

イヤリングが入っている方の袋は姿見の前に置き、もう一つの方の中身を掌の上に出した。
少しひんやりとした硝子の感触を感じながら、何故か緊張気味に真田の母に見せる。

「綺麗ね。……硝子?」
「はい」

が頷くと、彼女は髪飾りを手にとり、じっと見つめる。
そして、にっこりとに笑いかけた。

「いいわね。あまり派手じゃないし、涼しげで浴衣に合うわよ。アップにして、髪の根元に留めたらとっても可愛いと思うわ。使いましょう」
「ほんとですか? ありがとうございます!」

とても嬉しそうに破顔しながら、は言う。
真田の母は、そんなの髪にもう一度優しくブラシを入れる。
そして、慣れた手付きでの髪を丁寧にアップにしてまとめ、硝子の花を根元に飾りつけた。

「こんなものかしら。……そういえば、そちらの袋には何が入ってるの?」

髪の形を整えながら、彼女が問い掛ける。
は、彼女が自分の髪から手を離したのを確信してから、おずおずとその袋を手に取った。

「こっちは……イヤリングなんですけど……あの、これとおそろいで……お気に入り、なんです。でも、着けたことがまだ無くて、せっかくだから着けたいなって思って……」
「おそろいのイヤリング? 素敵ね、見てもいいかしら」

彼女の問いかけに「はい」と頷いて、は袋を傾ける。
その途端、光を反射してきらめきながら、二つの硝子の花が転がるように出て来た。

「あら、綺麗! 髪飾りと同じモチーフなのね」
「はい……あの、着けてもいいでしょうか」

窺うように尋ねたに、真田の母は笑顔で首を縦に振る。

「勿論よ。派手なものならこの浴衣にはあまり似合わないけど、これくらいだったら控えめで丁度いいわ。髪飾りとお揃いというのもいいわね」
「そうですか、良かった!」

嬉しそうに頬を緩めながら、はゆっくりとイヤリングを着け始めた。
その様子を見つめ、真田の母は微笑ましそうに言う。

「お気に入りなの?」
「……はい。可愛いし、ちょっと思い出もあって……とっても大切な物なんです」

小さな声でそう言いながら、は二つのイヤリングを着け終えた。
留め具の感触を耳で感じ、少し照れたように片手でイヤリングの一つを弄ぶ。
――彼は、気付いてくれるだろうか。

「可愛いわよ、似合ってる」

そう言って、真田の母がすっと立ち上がった。
そして。

「ちょっと待っていてちょうだい」

笑いかけてそう告げると、そのまま彼女は和室の襖を開け、どこかへ行ってしまった。
突然の行動に、少し驚いてぱちぱちと瞬きをしていると、程なくして彼女は戻ってきた。
その手には、なにやらいろいろ入った小さな篭を携えている。

「ごめんなさいね、お待たせ。どうせここまで可愛くしたんだもの――もう少しだけ、おめかししたらどうかと思って」

彼女はの側に寄り、篭の中からコンパクトのようなものを取り出した。
それを見せて、彼女はふふっと笑う。

「――お化粧。どう、やってみない?」

その言葉に、は少し驚いて目を瞬かせた。

「え、わ、私、お化粧なんてしたことないです……」
「大丈夫、私がやってあげるから。貴方は若いから、勿論しなくても充分可愛いんだけど……ほんの少し、軽く色を乗せてあげたら、浴衣にも映えると思うの」

コンパクトのようなものと化粧ブラシを手に、にっこりと笑う真田の母を見つめながら、はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
お化粧だなんて、ずいぶんと大人の行為のような気がするけれど――自分のような子どもがそんなことをして、似合わないと笑われたりはしないだろうか。

そんな不安な気持ちが、胸の中でざわめきたつ。
しかし、それと同時に、どこか興味があるのも確かだった。
本当に可愛くなれるなら。
何より、もし彼に可愛いと思ってもらえるなら――やりたい。やってみたい。

「……こんな、私なんかがお化粧して、本当に大丈夫でしょうか? ……に、似合わなくないですか?」
「大丈夫、絶対に似合うわ。貴方の歳に合った、可愛いらしいお化粧をしてあげるから、私を信じて」

そう言って、真田の母は優しく微笑んでくれた。
そんな彼女に、は「お願いします」と深深と頭を下げた。

目を瞑って、真田の母に顔を預ける。
彼女の優しい指先や、ふんわりとしたブラシやパフの感触が肌に触れるたび、なんだかとても大人になった気がして、ほんの少しだけ緊張した。

――彼は、どう思うんだろう。
いつも子どもっぽいって思われているみたいだから、笑われたりしないだろうか。

そんなことを思っているうちに、やがて、彼女の手が自分の顔から離れた。

「はい、出来上がり。とっても可愛いわよ」
「あ、ありがとうございます」

生まれて初めての化粧に、少し恥ずかしくてくすぐったい気持ちを抱きながら、はまじまじと鏡を見つめる。
彼のお母さんは、言葉通り本当に薄っすらと仕上げてくれたようで、各所各所に色が乗っているのがわかる程度だ。
しかし、それだけでも印象は違う。

「わー……なんだか、私じゃないみたい……」
「いいわね、こういうの。うちは男所帯だから、こんな機会ないもの」

真田の母は、とても嬉しそうに言った。
そんな彼女に、も照れながら笑って返す。

「ありがとうございます。私も、こんなに綺麗にして頂いて、すっごく嬉しいです」
「こちらこそ! 年頃の可愛い女の子のおしゃれを手伝ってあげられて、とっても嬉しかったわ」

そう言いながら、彼女はゆっくりと立ち上がった。

「それじゃ、うちの馬鹿息子に見せに行きましょう。きっとあの子、驚いて腰を抜かすわよ」

真田の母が、悪戯っぽく笑って言う。
しかし、は完全に固まってしまった。

――彼、どう思うんだろう。似合わないとか思われないだろうか。

頭のてっぺんから、つま先までドキドキしてしまって、動けない。
そんなを見つめ、真田の母は微笑ましそうに笑う。

「大丈夫よ、さん。ものすごく可愛いわ。私がそう思うんだもの。……あの子は私と似てるんでしょう? 絶対大丈夫よ」

安心させるように言って、彼女はの手を取った。

「きっとあの子、庭でテニスの練習してるんだと思うの。さ、行きましょう」
「……は、はい」

が小さな声で返事をすると、真田の母はもう一度にっこりと笑いかける。
そして、の手を引きながら、和室の襖を開けて外へと歩き出した。

◇◇◇◇◇

とても綺麗な木製の廊下を渡り、は手を引かれるまま彼の母の後ろを着いていく。
先ほどとは違う和室を経由し、やがて、白い障子戸の前で彼女は足を止めた。
障子の向こうは、自然の光がきらめいているのが分かる。
きっと、この向こうが庭なんだろう。
そして、薄っすらと漏れ聞こえてくるこの音――空気を切り裂くような力強いこの音は、彼がラケットを振っている音だ。
いつも聞いているのだ、間違いない。

「やっぱりあの子、庭で練習してたのね」

外には聞こえないようにと、小さな声で彼女が言う。
彼がいる。そう思うだけで、心拍数がどんどん上がっていく。

「じゃ、さん。あの子、びっくりさせてやりましょ!」

そう言って、彼の母は悪戯っぽく笑いながら、そうっと音を立てないように障子を引いた。
その途端に見えた彼の背中に、は完全に足が止まる。
すると、声を掛けろといわんばかりに、真田の母はそんなの肩を叩いた。
――でも。
上手く、声が出なかった。
見て欲しい――いや、見ないで欲しい――心の中で葛藤がぐるぐる渦を巻いて、心臓はもうはちきれそうだ。
すると横にいた真田の母が、くすりと笑った。
そして、耳元で「大丈夫、可愛いわ」と小さな声で囁き、もう一度の肩を叩く。

やっぱり――見て、欲しい。
掌を握り締めて、は覚悟を決める。
そして。

「せ、先輩……!!」

振り絞るような声で、はその背中に声を掛けた。

初稿:2008/09/17
改訂:2010/04/11
改訂:2024/10/24

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