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18:寝ても覚めても 2

「どうした弦一郎、職員室に用事か?」
「ああ。次の時間のプリントを取りに来るよう、先生に言われていてな」

の背後で、柳と「彼」が話しているのが聞こえる。
そう、この声だ。
少し低くて、力強くて、優しい――大好きな声。
ほんの数日振りなのに、まるで長い間ずっと会っていなかったような感覚がした。
そのせいなのか、ただ声が聴けただけでも心臓がうるさいほどに高鳴っていく。
しかし、あんなに会いたいと、顔が見たいと思っていたのに、何故かは振り返ることが出来なかった。
まるで強い金縛りにでもあってしまったかのように、体が動かない。

(ど、どうしよう、どうしよう……!!)

「副部長、ちはっすー」
「こんにちは、真田先輩」

がパニックになっているその隣で、切原とは普通に真田に話し掛けている。
早く振り返って自分も彼に挨拶をしなければと思うものの、体が完全に固まってしまって全く自由にならない。

(何してんの私……これじゃ、先輩に失礼だよ……!!)

ぎゅっと掌を握り締めて唇を噛み、何度も大きく息を吸って、吐く。
そして、は意を決して振り向き、そのまま顔を上げて柳の隣に立っている彼を――真田を見た。
その瞬間、視線が合った。
彼は一瞬少しひるむように瞬きをして以前のように視線を逸らしたが、小さな咳払いをすると、すぐにもう一度の方を見る。
そして心なしか少し紅潮しながら――そっと優しく微笑んだ。

その笑顔を見た瞬間。
は、冗談や比喩などではなく、本気で自分が壊れてしまうのではないかと思った。
頭が沸騰する。顔が熱い。心臓が痛くて、息が苦しい。
学校で、こんなに優しい彼の顔を見たのはいつぶりだろう。
なんだか泣きたいくらい嬉しい気持ちと、ドキドキする気持ちが絡み合って、どうしていいか全く分からなかった。
思わず俯いて視線を逸らし、不自然に両手を絡み合わせて弄りながらも、なんとかは声を振り絞る。

「……あの……こ、こんにちは、先輩……お、ひさしぶり、です」
「あ、ああ……そ、そうだな……ひ、ひさしぶり、だな」

そんなぎこちないやりとりで、会話は途切れる。
二人は互いに視線を逸らしたまま、明らかに赤面し合い、動かなくなってしまった。
それを側で見ていた柳達は、顔を見合わせて苦笑する。
そのまま放っておけば、休み時間などすぐに過ぎてしまいそうだった。
柳は、動かないままの片割れに声を掛けた。

「弦一郎、そういえば試験の最終日なんだが、何か用事はあるか」
「な、何だ? 試験の最終日?」

隣からいきなり話し掛けられて焦ったのか、真田は目を瞬かせながら、慌ててその視線を柳に移す。

「最終日というと、今週の金曜日か。部活は――」

思い出すように言いかけた真田の言葉を、柳が受け継ぐように言う。

「無いぞ。まあ、出来ない、と言った方が正しいが。試験期間の最終日までは、全ての部活動は一切禁止だからな」
「そうだったな。ならば予定らしい予定は無いが」

真田がそう言うと、柳はにいっと笑う。
その瞬間、は柳が何を言いだすのかなんとなくわかった気がして、心臓がどくんと鳴った。

(も、もしかして柳先輩、お祭りに真田先輩を……)

がそう思ったのと、柳があのポスターを指差したのはほぼ同時だった。

「弦一郎、赤也たちが『これ』に行くそうなんだが。どうだ、俺達も行かないか」
「ん?」

柳の指先を追うようにして、真田の視線が祭りのポスターに注がれる。
そして、真田はじっとそれを見つめた。

「駅前の七夕祭りか」
「試験の最終日だし、次の日からまた部活も始まるだろう? 息抜きには丁度いいじゃないか」
「ふむ、まあ……な」

真田がそう言うと、柳はふっと笑って更に言葉を続けた。

「それにこういった祭りはどうしても遅くなるだろう? いくら赤也がいるとはいえ、を夜遅く帰すのはいろいろと心配だろう。着いて行ってやらないか?」
「……たちも行くのか?」

柳の言葉に、真田が反応する。
ああ、と頷く柳を横目に、真田は視線をに戻した。
彼の視線を感じて、はまた俯いてしまったが、なんとか慌てて「はい」と返事をする。
しかしその声はとても小さく、その後の言葉も続かなかったので、そんなの代わりにが真田に話し掛けた。

「あの、と私と赤也君で行こうと思ってたんですけど、先輩たちも良かったら行きませんか? 人数は多い方が楽しいですし」
「真田副部長、ま、息抜きってことで」

切原もそう言って、にいっと笑う。
真田は少し考え込んでいたが、やがて顔を上げて再度咳払いをした。

「……そ、そうだな。赤也たちだけでは心配でもあるし……行くか、蓮二」
「ああ、それに俺達も祭りなど久々じゃないか。俺たちにとっても、いい息抜きになりそうだ」

そう言いながら、柳は何か言いたげな目で、にっこりと笑う。
真田は少し恥ずかしそうに、そんな柳から視線を逸らした。

――真田先輩も一緒に、お祭りに行けるんだ……!
そう思うと、の心が跳ねた。
とても嬉しいけれど、どうしたらいいのかわからないような、そんな不思議な気持ちになりながらも心臓のドキドキが止まらない。
そんなことを思っていると、の腕を引っ張って声を掛けた。

「ね、。お祭りさ、浴衣着ない?」
「浴衣?」

その言葉に、は目を瞬かせる。
すると、はにっこり笑って頷いた。

「うん、浴衣! せっかくのお祭りだし! ね?」
「う、うん、いいけど……」
「よし、決まり! 約束だからね、!!」

の両手を取り、ぶんぶんと嬉しそうに振ってウィンクをする。
そんなにつられるように、も微笑んだ。

「ほう、浴衣とは風流だな。いいじゃないか、なあ、弦一郎」

そう言って、柳は何かを含むようににいっと笑い、真田の肩を叩く。
真田は薄っすらと顔を赤く染め、そんな柳から目を逸らした。

「そ、そろそろ俺は職員室に行くぞ。ではな」

真田はそう言うと、逃げるようにその場を離れ、職員室のドアを開けて中に入って行った。
しかし、彼の姿は消えてしまっても、の心臓はうるさく脈打つばかりだ。

――数日振りに、やっと彼に会えた。
しかも、あんなにも優しく微笑んでもらえた。
そして、試験が終わったら、彼と一緒にお祭りにも行ける。

嬉しくてしょうがなくて、どうしても勝手に頬が緩んでしまう。
そんな顔を両手で抑えると、その頬の熱さが自分の手に伝わってきた。

(……私、情けなさ過ぎ……)

彼のことでこんなに一喜一憂する自分に恥ずかしくなっていると、が笑ってそっと耳打ちした。

「良かったね、。思いっきりお洒落して行こうね!」
「う、うん……」

のそんな言葉に更に恥ずかしくなりながらも、はぎこちなく頷いて笑う。
そんな二人の隣で、切原は頭の後ろで両手を組みながら、苦笑して呟いた。

「俺はせっかくの祭りが副部長と一緒だなんてショージキカンベンだけど、ま、仕方ねーか」
「安心しろ赤也。流石の弦一郎も、おそらく祭り当日はお前どころではないだろうさ」
「そーだといいんすけどねえ」

切原と柳は、そんなことを言って笑い合う。
その会話の意味を深く考えるだけで、またの顔が熱くなった。
自分に都合よく考えてはいけないと思うのだけども、どうしても今の状況では期待の方が膨れ上がってしまう。

――私の、馬鹿。

熱い両頬を必死で抑えて、は自分をたしなめる。
そんなの様子を微笑ましそうに見つめながら、柳たちは顔を見合わせて微笑った。

「では、俺もそろそろ戻るか。……ではな、お前達。祭りに関しては、また連絡する」
「ういーっす」
「さようなら、柳先輩!」
「あ、や、柳先輩、さようなら!」

声を重ねた三人に柳は笑顔で手を振ると、そのまま彼は階段へと消えていった。
そんな柳の後姿を見送って、残された三人は向き合う。

「んじゃ私たちも帰りますか。、ノートは出せたんでしょ?」
「うん、なんとかね」
「なあ、。もう『アレ』は見なくていいのか?」

からかうように笑い、切原は先ほどが見ていた真田の書道作品を指差した。
途端に、の顔がまた赤く染まる。

「だ、だから違うって言ってるでしょ!」
「ごまかさなくてもいいって。気が済むまで見てていいんだぜ」
「もう! いい加減にしないと怒るよ、切原君!!」

そう言って顔を真っ赤にし、頬を膨らませるから逃げるように、切原はへへっと笑っての影に回りこむ。

「まあまあ、。赤也君も、あまりをからかわないの! ……じゃ、帰ろっか」
「そだな」

と切原は、そう言って廊下を歩き出した。

「あ、待って……」

そう言って、が二人を追おうと身を翻した瞬間――背後の職員室のドアが再度開いた。
そのドアの開閉音とともに出てきたのは、少し歳のいった男の先生だ。
先生は、ドアを開けて職員室の外に出ると、くるりと振り返って中にいる誰かに声をかける。

「すまんな。でもお前だったらそれくらい余裕でいけるだろう?」
「少々多いですが、まあ、行けないことはないでしょう」

そう言いながら先生に続いて出て来たのは、先ほど職員室の中へと消えた、彼――真田だった。
入っていった時とは違い、彼はクラスメイト全員の分と思われるたくさんのノートやプリントの束を抱えている。
思わず、の動きが止まった。

「頼んだぞ、真田」

そう言い残して、先生は職員室に入り、ドアを閉めた。
真田は小さな溜息をつきながらそれを見送ると、荷物を持ち直して正面を向き――その瞬間、目の前にいたと目が合った。
予想外の出来事に、二人の動きは完全に停止する。

「…………っと!!」

驚くように目を見開いて真田が動きを止めた瞬間、彼が持っていたたくさんの荷物のバランスが崩れた。
上のほうにあったプリントが数枚ほど宙に舞い、続いて他の物も真田の手から離れようとした、その時。

「あ!」

は声を発すると同時に、反射的に真田の側に駆け寄った。
彼の持っていた荷物を支えるように、が手を伸ばし抑えると、彼自身も両腕でバランスを取り、程なくして荷物は動きを止めた。
安堵の息をついて、はそうっと荷物から手を離し、自分の額の汗を拭う。

「す、すまない……ありがとう、

頭上からそんな声が降ってきて、ははっと顔を上げる。
すると、視界の中に彼の顔が飛び込んできた。
そういえば反射的に動いてしまったが、今自分は彼の近くに居るのだと気付く。
しかも、彼の抱えている荷物を抑えられるほど、傍に。
――かあっと顔が熱くなって、動けなくなった。
どうしたらいいかわからなくて、は視線を落とす。
すると、最初に落ちた数枚のプリントが廊下に散らばっているのが目に入り、慌てて膝を折ってそれを拾い上げた。

「ほ、本当にすまない、
「あ、い、いえ……気にしないで下さい。その状態じゃ先輩には拾えないですし。でも、これくらいで済んで良かったですよね、全部落としてたら大変でしたもんね」

俯いたままそう言って、何かをごまかすように笑いながら、は拾った数枚のプリントを綺麗に纏める。
すると、後ろからぱたぱたと近づいてくる足音がした。
――と切原だ。

「大丈夫ですか、真田先輩」
「すごい荷物っすね、副部長」
「ああ。プリントだけのはずだったのだが、お前なら持って行けるだろうと大量に押し付けられた」

真田は複雑そうな顔で二人にそう答えながら、腕を少しずつ動かしていた。
持っている大量の荷物を抱え直そうとしているのだろう。
拾ったプリントを彼に返そうと手を出したは、その荷物の量の多さに思わず動きを止める。

――手伝うべき、だろうか。

ふと、そんな思いがの脳裏を過ぎった。
確かに彼なら一人で持っていけなくはないのだろうけど、せめて上のほうのプリントの束だけでも別の者が運べば、大分楽になるんじゃないだろうか。

(まだ時間はあるし、三年生の教室に行って帰ってくる時間はあるけど……)

しかし、大変そうな彼を手伝ってあげたいとは思うものの、今彼と二人になるなんてどうすればいいかわからない。
ちゃんと会話するどころか、彼の側を着いて歩くことすら、平常心を持ってできる自信がなかった。

(ふ、二人っきりじゃなければいいんだよね)

もう一人くらいいれば、自分が黙り込んでも間は持つだろう。
自分はその二人の後を、物だけ持ってただ着いて行けばいい。
は顔を上げ、小さな声で切原に声を掛けた。

「ね、切原君。真田先輩、荷物大変そうだし……運ぶの手伝わない?」
「ん?」

切原が、振り返っての方を見る。
目が合った切原に、は懇願するような視線を送った。
少しだけ、間があり――やがて、切原がにいっと笑って首を二、三度軽く縦に振る。
分かってくれたのかと、がほっとした瞬間。

「あー、そういえばさ! 俺、次の授業で超苦手な英語の和訳、当たるんだったわ!」

切原は、わざとらしくそんなことを言った。
そして、に向き合い、更に早口で捲し立てる。

「なあ、お前も当たるんじゃなかったか? 俺ら早く教室戻って準備してた方がよくねー?」
「え、あ、そうだね。うん、そだそだ。私たち、こんなとこでぼーっとしてる時間なかったよね! すぐに教室帰らなきゃ!」

も切原の意図が解ったのだろう、そう言って彼女は切原の話に乗った。
楽しそうに笑って言い合うと、二人は揃ってと真田を見つめる。

「そーゆーわけなんで、俺達失礼するっす!」
、じゃあ先に戻ってるね!」

明るい調子でそう言い、二人は返事も聞かず、そのまま走って行ってしまった。
残されたは、唖然とした表情でそんな二人を見送ったが、すぐにはっと我に返る。

(き……切原君ー、ー!!)

あの二人のことだ、おそらく気を利かせてくれたつもりなのだろうけれど――今の自分には、彼との二人っきりの状況を喜ぶ余裕なんてない。
むしろ、どうしたらいいのかわからなくて妙な事を口走ったり挙動不審になってしまいそうだから、せめてどちらか一人くらい残って欲しかったのに。
しかしこうなってしまった以上、もうどうしようもない。
こんな状態の彼を放って帰ることは出来ないと、は覚悟を決めて顔を上げた。

「あ、あの……先輩」

声を掛けると、真田が視線をに向けた。
彼の視線を感じただけで、途端に顔が熱くなり、耐え切れずには俯いて視線を逸らす。
しかし、なんとか言葉だけは続けた。

「その、荷物なんですけど、……あの、良かったら、先輩の教室まで運ぶの手伝わせてください」
「ん? い、いや、気にしないでくれ。これくらい、一人で充分運べる」
「でも、また落ちるかもしれないですし……それに、そんなにたくさんの量、重いですし、視界も悪くて危なくないですか?」
「いや、しかし俺が頼まれた用事だからな。お前の手を煩わせるわけにはいかない。ありがとう、

そう言って、真田は少々ぎこちなく笑う。
でも、彼は自分の用事で人の手を煩わせてしまうことを良しとしない人だから、きっと遠慮しているに違いないと思った。
どうしようかとほんの少し迷ったが、は彼にもう一度言葉を掛けた。

「先輩。……前、無理はしないって約束しましたよね。あの、こういう時もあんまり無理しないで欲しいっていうか……。いや、先輩なら無理とか感じてないかもしれないんですけど、やっぱりそれ、一人で持ってくのは危ないと思いますし……私なんかでも手伝えば少しは楽になると思うし……出来れば、手伝わせていただきたいんですけど……だ、駄目ですか」

緊張のあまり、上手く言葉が纏まらない。
何を言っているのかわからなくなり、妙に恥ずかしくなって、それをごまかすようには無意味に自分の髪を弄った。

(あーもう! どうしてもっとちゃんと言えないの……)

黙り込む彼を前にして、の心臓がどんどん鼓動を速めていく。
やはりむしろ迷惑だっただろうかと、が自分の言動を悔い始めた、その時――彼が小さな咳払いをする音が聞こえた。
そして。

「……、ありがとう。で、では……その言葉に甘えさせもらっても、いいだろうか?」

そう言った彼を、はぱっと見上げる。
視線が合うと、彼は少し申し訳なさそうな表情をしながらも、優しく目を細めた。
その表情からは、決して迷惑そうな様子は伝わってこない。
思わずほっとして緩んだ顔を、はをそのまま真田に向けて、こくんと頷いた。

初稿:2008/06/16
改訂:2010/04/02
改訂:2024/10/24

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