真田は、持っていた荷物を彼女が取り易い位置まで下げるため、一旦軽く腰を折って前かがみになった。
「それでは、上のプリント類だけ持ってもらえるか?」
そう声を掛けると、彼女は「はい」と頷いて、その両手を伸ばしてきた。
彼女の細い腕が、小さな掌が、自分の胸元に伸びてくる。
それだけで、真田の心臓の鼓動は何倍にも高鳴った。
(……何を考えているんだ、俺は……)
なんだか恥ずかしくなって顔を上げれば、今度は一生懸命荷物を取ろうとしている彼女の顔が目に入り、顔が一層熱くなる。
思わず視線を逸らしそうになったが、もし持っているこの荷物が崩れでもしたらすぐに対応出来ないのは危ないと、真田はそれをなんとか留まった。
自分の側で彼女の髪が揺れている。
こんなに近くに、彼女が居る。
ついこの間までわざと彼女に近寄らないようにしていたから、こんな近距離で接するのは本当に久しぶりだった。
嬉しいけれど恥ずかしいような、でもやはり嬉しいような――そんなどこかふわふわした感情が、自分の心を柔らかく刺激する。
そうしているうちに、自分の腕の中にあった一部の荷物が彼女の手に移った。
少々軽くなった腕でもう一度荷物を持ち直し、真田は腰を伸ばす。
「ありがとう、高槻。すまない」
「あ、い、いえ。本当にこれだけでいいですか? もうちょっと持てますし、ノート何冊か持ちましょうか?」
「いや、充分だ。本当にありがとう」
真田がそう言うと、彼女は少し俯いて視線を逸らし、「いいえ」と首を振った。
そして、真田は咲花とともに、自分の教室に向かって歩き始める。
こうやって彼女と隣に並んで歩くのは久しぶりだった。
おそらく、一ヶ月程前の幸村の見舞いの時以来のはずだ。
あの時は自分の想いに気付いたばかりでどうしたら良いのかわからず、何も話せなくて彼女を傷つけてしまったけれど――あんな過ちは絶対に繰り返すものかと、真田は自分自身に言い聞かせる。
「手伝ってもらって、本当に悪かったな」
横目で彼女を見ながら、真田は声を掛けた。
「あ、い、いえ。これくらい気にしないで下さい」
彼女はそう言うと、少し笑って続ける。
「ほんとに、あの、大したことじゃないので。こんなの、テニスボールいっぱい入ったカゴに比べたら軽いですから! 余裕です!!」
妙に早口になりながら、彼女は言う。
その様子に、思わず真田は笑みを零しながら、「そうか」と返した。
そしてまた、少しだけ無言の時間が続く。
真田が少し焦り気味に何を話せばいいだろうと思っていると、やがて階段に差し掛かった。
「高槻、足元に気をつけろよ」
「は、はい……ありがとうございます。あの、先輩も気をつけて下さいね」
そんな会話を交わして、今度は階段を上り始める。
しかし、二人の間はやはり無言だった。
また変に誤解させてはいないだろうかと、焦りだけがどんどん増していく。
なんでもいいのだ。
部活のことでも、試験のことでも、なんでも。
例え少しくらい挙動不審になっても、きっともうそんなことで彼女は引いたりはしないだろうから――そう自分に言いきかせて、真田は咳払いをした。
「そ、そういえば、試験まで残り二日ほどだが、試験勉強は進んでいるか?」
振り絞ってやっと出てきたその質問に、彼女がぱっと顔を上げた。
「……し、試験勉強ですか? ……うーん……そ、そうですね……」
そう呟いて、彼女の言葉が止まる。
ふと、真田が横目で見ると、本気で悩んでいるらしい彼女の顔が見えた。
「……その様子では、あまりはかどっていないようだな」
苦笑して、真田は言う。
すると、慌てて言い訳するように咲花が口を開いた。
「ま、全くじゃないですよ!? た、ただちょっと……」
ちょっと、と言ったまま、彼女の言葉が途切れた。
どうしたのかと、真田はもう一度彼女の顔を見る。
「どうした?」
「あ、いえ……その、ちょっと……最近いろいろと、か、考え事をしちゃって頭がいっぱいで……なかなか集中出来ないというか……あ、あはは」
どもりながらそう言うと、咲花は大袈裟に笑う。
頭がいっぱいになるほどの考え事――それは、もしかして――。
自分の頭に一瞬生まれた浮かれきったその予想を、真田は首を振って四散させる。
それに、その言葉の意味はともかく、彼女が何かをごまかして隠そうとしている姿はとても可愛らしい。
こうやって話すのは久しぶりだが、隠し事が下手そうなのは相変わらずだなと思うと、真田は思わず笑みが零れた。
「考え事、か。勉強に身が入らないほど、一体何を考えているんだ?」
「……すみません。それはちょっと……言えないです」
そう言うと、彼女は顔を真っ赤に染めて俯いた。
そんな姿は更に真田の胸を強く刺激したが、それを何とか胸に留めて言葉を続ける。
「隠されると余計気になるな」
「そ、そうですよね……あの、えっとですね……えと……」
困ったように眉をひそめながらも、彼女は一生懸命に言葉を紡ごうとし始める。
――こういうところも相変わらずだ。
人に頼まれたらなかなかノーと言えないところも、感情をすぐ表面に出してしまうような、子どもっぽいけれど可愛らしくて素直なところも。
しばらくの間疎遠になってはいたが、彼女らしさは全く変わらない。
自分が惹かれた、あのままの彼女だ。
そう思うと、真田は笑みが止まらなかった。
「……先輩……私のこと、からかってますね……?」
そう言って、彼女は赤い顔で少し口を尖らせた。
「からかってなどいないさ」
そう言いながらも、真田はまたくすりと笑う。
今度は、彼女の反応に笑ったのではない。久々のこの雰囲気が、少し懐かしくて、嬉しかったのだ。
しかし彼女は、これがからかいから生まれた笑みだと思ったのだろう。
口を尖らせたまま、彼女は小さな声で呟くように言った。
「う、嘘ばっかり。ほら、先輩笑ってるじゃないですか」
彼女は、そう言って更に頬を染め、可愛らしく口を尖らせる。
彼女のそんな仕草は再度真田の胸を思い切り刺激したが、胸の中で高鳴る何かを一生懸命押し留めて、真田は前を向き、咳払いをした。
「……それでは、お前の望み通り、からかっているということにしておこう。これでいいか?」
わざと意地悪く言い、真田は笑う。
「なんですか、それ……。もう、先輩はやっぱり意地悪ですね」
「『意地悪』とは失礼だな」
「だって意地悪ですもん。すっごくすっごく意地悪です!」
意地悪と連呼しながらも、彼女がくすくす笑う声が聞こえてくる。
「はは、お前がからかい甲斐が有り過ぎるのが悪いんだ」
「ほら、やっぱりからかってたんじゃないですか」
そう言うと、彼女は小さな声で「もう」と呟いた。
可愛らしい小さな溜息をついた咲花に、真田は無言で笑って返す。
二人の会話はそこで止まったが、もう先ほどのような気まずい沈黙ではなかった。
階段を上がる二人の揃った足音が、なんだか妙に心地良く聞こえるほどだ。
ほんの少し、そんな足音が二人の会話に取って代わっていたが、少しして彼女が小さな声で言った。
「……真田先輩、相変わらずですね」
「お前も、な」
そう返すと、真田はそっと隣を歩く咲花を見る。
すると、彼女と目が合った。
彼女は頬を染め、ぱちぱちと瞬きを繰り返したが、やがて、はにかんだままそっと微笑んだ。
少しぎこちない印象はあったが、その表情や様子から感じられるのは、以前と同じ――いや、以前以上のあたたかさだ。
彼女も同じ気持ちでいてくれているというのも、やはり自惚れではないかもしれない。
ついそんなことを思い、真田は顔を熱くさせながらも、応えるように彼女に優しく笑い返した。
◇◇◇◇◇
やがて、二人は三年の教室が並ぶ階まで上がってきた。
階段を上がり終えて足を止めると、咲花がきょろきょろと左右に首を振る。
きっとどちらに進めばいいのか分からないのだろう。真田は、咲花に声を掛けた。
「高槻、俺の教室はこちらだ。すまないな、後少しだ」
「あ、はい!」
そう言いあって、二人は更に廊下を進む。
そして、3―Aの表示がある教室の前で、真田は足を止めた。
「ここだ、高槻」
真田の声に、咲花もまた足を止める。
そして、真田に続いて少々躊躇いがちに教室に足を踏み入れた。
「お邪魔します」
真田に続いて咲花が入った途端、教室に残っていた数人の生徒が、とても珍しいものでも見るように二人を見る。
視線を集めているのに気がついたのか、咲花は緊張したように顔を強張らせた。
「あ、あの……先輩、これどこに置きましょうか」
「教卓の上にでも置いておけばいいだろう。ここまで運んでもらって、本当にすまなかったな」
「いえ」
首を振って笑うと、彼女は持っていたものを教卓の上に置く。
すると。
「おや、高槻さんではないですか」
そんな声が聞こえて、真田と咲花は同時に声のした方向に首を向けた。
そこには、柳生の姿があった。
「あ、柳生先輩。あ、そっか。柳生先輩、真田先輩と同じクラスでしたね」
「ええ、そうですよ。高槻さんは、どうされたのですか?」
そう言って、柳生が真田と咲花を見る。
その言葉に咲花が答えるよりも早く、真田が口を開いた。
「あ、ああ。職員室の前で会ってな。俺が先生に頼まれたノートやプリントを大量に抱えていたら、彼女が手伝ってくれると言ってくれて、ここまで一緒に運んでくれたんだ」
「そうなのですか。うちのクラスの荷物を運んで下さったのですね、わざわざありがとうございます」
柳生がそう言って笑うと、咲花もまた、「いいえ」と笑って返す。
「お会いするのは三日振りですかね。お元気そうで何よりです」
「はい、柳生先輩も。……たった三日なのに、なんだか久しぶりな気がしちゃいますね」
「まあ、今まで部活で毎日顔を合わせていましたからね。ほんの数日だけでも会わなければ久しぶりと感じるのは、当然かもしれませんね」
和やかに談笑する二人を見て、真田は自分の心が激しくざわつくのを感じた。
しかし、すぐにただの嫉妬だと気付き、思わず自己嫌悪に陥る。
(……たるんどる、な)
自分の中で、彼女という存在がどんどん大きくなっているのが分かる。
もしも彼女が自分以外の誰かのものになったら、自分はどうなってしまうのだろう。
ふとそんなことを考えてしまって、とても怖くなった。
――近いうちに、必ず彼女に想いを告げよう。
真田が決意を新たにして、ぎゅっと掌を握り締めていると。
「それじゃ、私そろそろ戻りますね。真田先輩、柳生先輩、失礼します」
そんな声が聞こえて、真田は、はっと我に返る。
「ええ。それでは、また」
柳生が優しく笑って、咲花に声を掛けた。
「あ、ああ」
続いて真田も頷くと、彼女はにこりと笑って軽く手を振り、踵を返す。
「それじゃ!」
そう言って、彼女はそのまま教室を出て行った。
しかし真田は、なんだかとても居ても立ってもいられなくなった。
最後の方は彼女はずっと柳生と話していたから、自分とはほとんど言葉を交わしていない。
こんな状態で別れることに、なんだかとても後ろ髪が引かれたのだ。
思わず廊下に出て、どんどん遠ざかっていく彼女を見たその瞬間――真田はつい、その背中を追いかけた。
◇◇◇◇◇
階段の踊り場近くで、真田は咲花を呼び止める。
「高槻!」
「は、はい?」
驚いた顔で振り向く彼女に、真田の胸がどくんと跳ねた。
「……あ、いや」
焦りながら真田は目を瞬かせたが、覚悟を決めて側まで近寄り、小さな咳払いをする。そして、ややあってから、おもむろに口を開いた。
「こんなところまで荷物を一緒に運んでもらって、本当に悪かったな。ありがとう、とても助かった」
そう言って、真田はまた大きく息を吸う。
しかし、言いたかったのはこれだけではなかった。
お礼のほかにもうひとつ、先ほどの約束を――試験明けの祭りを楽しみにしていると、彼女に伝えたかった。
もう二度と彼女に変な誤解をさせたくなかったから、ほんの少しでも、自分の中にある彼女のへの好意を伝えておきたかったのだ。
高鳴る心臓を抑えて、真田は言葉を綴った。
「それから――その。……祭り、なんだが。関東大会前の、いい息抜きになると思うのだ」
「あ、はい、そうですよね」
「ああ……それに、俺も祭りなど久しぶりだしな。悪くないと思っている」
上手く言葉が纏まらない。
一体何が言いたいのだ、と内心で自分自身に突っ込みを入れながら、真田は小さな咳払いを二、三度繰り返す。
そして、真田はぎゅっと拳を握り締めた。
「――だから、その……お、お前と行けるのを、楽しみにしているぞ」
少し回りくどかったが、やっと言いたかったことを口にすることが出来た。
しかし、ほっとした気持ちよりも、彼女は今の言葉を聞いてどう思ったのだろうという不安の方が勝り、真田の脈はどんどん速度を上げる。
言うのではなかっただろうか、と真田が思った瞬間だった。
「……は、はい。私も……私も、あの、先輩と一緒に行けるの……とっても、楽しみ……です」
咲花が、小さな声でそう言った。
顔を上げると、俯く彼女の頬が、耳が、完全に赤く染まっているのが見えた。
その様子だけで、必死で紡いでくれたその言葉が、彼女の心からの本心だと分かる。
なんだか頭がくらくらするほどの熱を感じて、真田も顔を真っ赤に染め、言葉を失った。
「それじゃ、あの……失礼します」
そう言うと、彼女はそのまま逃げるように階段を下りていった。
しかしいつまで経っても、真田の心の中では、自分と一緒に行けるのが楽しみだと言ってくれたあの彼女の声が、ずっとずっと消えることはなかった。