彼の姿が見えなくなると、途端に心細くなった。
早く戻ってきて欲しいと思いながら、はもう一度コートの方に目をやる。
コートの中では、まだあの二人が我が物顔で歩き回っていた。
しかも誰も来る様子がないので気が大きくなっているのか、彼らの行動はだんだん大胆になってきている。
テニスシューズでも運動靴でもない、普通の靴でコートを歩き回ったり、審判台やネットポストなどを笑いながら蹴ったりしているその様子は、本当に真田達と同じテニスプレイヤーなのかと疑いたくなるほどだ。
(……やだな……早く出て行ってくれないかな)
そのコートは、部員みんなが毎日一生懸命整備している大切なコートだ。
テニス部員どころか立海生でもない人に入り込まれるだけでもあまりいい気分はしないのに、あんな風に荒らされるなんて――本当に気分が悪い。
「やっぱ、今年も優勝は立海なんだろうな」
「だろーな。ここに勝てる学校なんてねーだろ? 勿論、俺達もだけどさ!」
「なんつーの、才能が違うっつーの? いいよなあ、バケモンみたいな才能貰って生まれてきた奴らはよ。マジ羨ましーわ」
「俺達がどんなに練習しても、あいつらには敵わねぇんだろうな。ホント、あいつら少し才能分けてくんねぇかな。有り余って腐るほど持ってんだろーしさ!」
彼らはそう言って、またゲラゲラ笑った。
しかし、はその言葉に強い憤りを感じて、痛くなるくらいに掌を握り締める。
(……確かに、先輩達は才能があったかもしれないけど……才能だけじゃないのに!)
才能だけであんなに強くなれたと思われているなら、とても心外だ。
彼らが普段どれだけ血の滲むような努力をしていると思っているのだ。
それを無視して「才能」の一言で皆の全てをまとめられてしまうのは、今までの皆の練習や努力全てを否定されたみたいで、は無性に腹が立った。
飛び出して、一言言ってやりたかった。
こんなところで羨ましがっている暇があるなら、自分の学校に帰って死に物狂いで練習しろと、思いっきり叫んでやりたかった。
でも、それはしてはいけないと彼と約束したから、はそうしたい気持ちを一生懸命抑えて、ただ彼らを見張るだけに留める。
(早く先輩帰ってきて……)
祈るようにそう思いながら、彼が去って行った方向を振り返ってみる。
しかし、まだ真田の姿は見えない。
――その時。
「おい、誰かラケット忘れてんぜ!」
コートの中から聞こえてきたその声に、はっとは振り返る。
(ラケット!?)
嫌な予感がして、コートの中を覗きこむ。
――思わず、の息が止まった。
彼らの手の中に握られていた「それ」は、真田が先ほど審判台に立てかけた、いつも彼が使っている大切なラケットだったのだ。
「ぎゃはは、テニス部員のくせにラケット忘れていってんのかよ? 立海の部員にも、ダッセーのがいるんだな!」
――違う、忘れていったわけじゃない。
「だいぶ使い古してんなー。王者だろ? もっといいの買えっつーの!」
――使い古されているように見えるのは、彼がいつも必死で練習しているからだ。
どれだけ使っても手入れはいつもちゃんとしているし、彼はそのラケットを本当に大切に扱っているのに。
知らないとはいえ、言いたい放題の二人に腹が立って腹が立って仕方がない。
そもそも他人のものとはいえラケットをそんな風に扱えるなんて、この人たちは本当にテニスプレイヤーなのだろうか。
こんな人たちに、彼の大切なラケットが好き勝手弄ばれているなんて、もう本当に耐えられない。気持ち悪い。これ以上、触れないで欲しい――
そんなことを思い、の苛立ちが頂点に達した、その時。
彼らは持っていた真田のラケットを、笑いながら思いっきり強くネットポストに叩きつけた。
ガキィンと甲高い音が鳴ったその瞬間、の頭の中は真っ白に染まった。
「もうやめて!!」
思わず、立ち上がってそう叫んでいた。
もう、自分の行動にも感情にも抑制は効きそうに無い。
は持っていた荷物をその場に放り出すと、そのまま一人でコートの中へと走りだしていた。
「やべ、誰かいるのか!?」
男のうちの一人が、まずそうに叫ぶ。
そんな彼らの近くに走っていくと、は躊躇せずに彼らが掴んでいたラケットに手をかけた。
「それに触らないで、返して!」
「なんだよお前!」
そう言いながら、男はにラケットを取られまいと力を入れる。
持っていたラケットを高く持ち上げ、をラケットから振り切ると、更に高く上げてから遠ざけた。
「立海のヤツかよ……おい、やばくね?」
もう一人の男が気まずそうに顔を引きつらせ、ラケットを持っている男に話し掛ける。
しかしラケットを手にしている男は、なんでもなさそうに「こいつ一人くらいなら大丈夫だろ」と言い放って、いやらしく笑った。
そしての方を見ると、嘲笑うような笑みを浮かべ、真田のラケットを見せびらかすように振った。
「これ、お前のか? 返してやってもいいぜ。取れるもんならな」
彼らの言葉に、はぐっと奥歯を噛み締めると、もう一度ラケットを持っている彼に向かって手を伸ばした。
「パス!」
全力で手を伸ばすを嘲笑うように、男はそのラケットをもう一人の男の方に投げ渡す。
そのラケットを目で追った瞬間、思わずは躓いて転倒してしまった。
「つっ……」
少し膝が擦りむけた。
それでも、はもう一度立ち上がって彼らに向かっていく。
彼がいつもあんなに大事にしているラケットを、閃光のようなまぶしいテニスを見せてくれる、あのラケットを――もうこれ以上一瞬たりともこの男たちに触られたくなかった。
「返して!」
そう叫んで、は身体ごと思いっきり男にぶつかっていった。
その瞬間、なんとかラケットが手に触れる。
掴もうとしたその時――その男のラケットを持っていなかった方の手では思いっきり突き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
「やっべ、今マジ取られそうになったわ」
そう言って、男はもう一人の男と顔を見合わせて笑う。
「返してよ……」
仰向けになった身体をなんとか起こしながら、は声を振り絞った。
すぐに立ち上がることが出来ず、座り込んで膝をついた状態で顔だけを上げて、二人を睨みつける。
「お願いだからやめて。それを乱暴に扱わないで。返して!」
泣きたかったけれど、ここで泣いてしまうとこの二人を更に調子付かせるような気がした。
が涙を堪えて強く二人を睨みつけると、彼らは少し怯んだような表情で、一瞬だけ気まずそうにする。
しかし、すぐにまた嘲笑うような顔つきをすると、の顔を睨み返した。
「こんな使い古したラケット一本ぐらいで、グダグダ言うんじゃねーよ」
そう言って、彼はラケットヘッドを思いっきり乱暴に、何度も地面に叩きつける。
――その瞬間、の頭の中で何かが切れた。
ラケット「ぐらい」だなんて、そんな言い方をしてしまえる人たちが、皆と同じテニスプレイヤーだとは思いたくない。
「やめて! そんなことして恥ずかしくないの? あんたたち、最低!! テニスプレイヤーとしてだけじゃない、人として最ッ低!! そんなんだから、テニスだって上手くなれないんでしょ、才能とかじゃなくて、それ以前の問題なのよ!!」
思いっきり大きな声で、はそう吐き捨てる。
すると、目の前の男は顔を紅潮させ、怒りを露にした。
「……うるせぇんだよ!」
そう言って、目の前の男が持っていた真田のラケットを大きく振り上げる。
――その時だった。
「やめろ!!」
どこからか、「彼」の声が聞こえた。
先輩の声だ――そう思った次の瞬間、目の前で振り上げられていたラケットが自分に向かって落ちてくるのが、スローモーションで見えた。
「、危ない!」
「避けろ!」
違う方角から響いてきたのは、柳と切原の声だ。
しかし、それはもうの耳には届いていない。
聞こえたのは、彼のラケットが空を切り裂いて落ちてくる音だけだ。
殴られる――は、ぎゅっと目を瞑った。
――しかし、覚悟していた衝撃は違う形で訪れた。
横から飛び込んできた強い力が、自分の身体を抱えて地面に押し倒したのだ。
背中が地面に擦れるような感覚と、上から押さえつけられるような重みがを襲う。
そして、ラケットが地面を叩きつける音が響いたのは、その直後だった。
「弦一郎、! 大丈夫か!!」
遠くから、柳の声が聞こえた。
「お前たち、どこの生徒だ!!」
怒鳴るような教職員の声も聞こえる。
そして、ラケットをその場に投げ捨て、「やべぇ!」と口走りながら慌てて逃げるように去って行く足音も。
(え、え……何、何が起こってるの、今)
混乱する頭を一生懸命整理しながら、おそるおそる、は目を開けた。
最初に目に飛び込んできたのは、空。
そして、その視線をゆっくりと横に動かすと、真田の横顔が目に入った。
「真田……先輩……?」
何が起こったのか、全く理解出来ない。は呆然としながら、ただぱちぱちと目を瞬かせる。
すると、彼の身体がゆっくりと動いた。
「大丈夫か、。……怪我はないか」
身体を起こしながらそう言うと、彼はの側で片膝を立てた状態で座り込み、息を吐いた。
自分の身体に感じていた重みがなくなり、はやっと事態を理解する。
彼が咄嗟にの身体に覆い被さるようにして飛び込み、振り下ろされたラケットから守ってくれたのだ。
そう気付いた途端、の顔が真っ青に染まった。
「だ、大丈夫ですか!? 大丈夫ですか、先輩!?」
慌てても上半身を起こすと、悲痛な顔つきで彼の顔を覗き込んだ。
「怪我……怪我とかしてないですか! 先輩、大丈夫なんですか!?」
半ばパニックになりながら、は叫ぶ。
「ああ、大丈夫だ。ギリギリだったが、ラケットは俺には当たっていない」
「本当ですか!?」
「ああ。俺自身は少し地面で手と膝を擦ったが、その程度だ。何も問題はない」
彼がそう言った途端、は全身の力が抜けた。
そして、振り絞るような小さな声で「良かった」と呟いた。
「――お前は、大丈夫なのか?」
ふいに彼の声が聞こえて、は顔を上げる。
「は、はい……私もちょっとだけ膝とか擦りむきましたけど、全然大丈夫です」
「本当か? どこも痛まないか」
「膝はちょっとだけ痛いですけど、本当に大丈夫です。先輩が守ってくださったお陰です」
そう言って、は笑う。
すると、彼は「そうか」と呟きながら、ホッとしたように頭を垂れた。
程なくして、コートの向こうから駆けて来た柳と切原が、二人の側に到着した。
「大丈夫か、二人とも」
柳の言葉に頷きながら、真田は無言で立ち上がる。
つられるように、も立ち上がった。
そんなに、切原が心配そうに声を掛ける。
「、膝すりむいてんじゃねーか。大丈夫かよ」
「うん、大丈夫。ありが――」
その言葉に頷きながら、が切原の方を見た瞬間、視界の端にあるものが飛び込んできた。
それは先ほどまであの二人の男たちが弄んでいた、真田のラケットだった。
(そうだ、先輩のラケット!)
慌てて落ちているラケットに近寄り、はそれを拾い上げる。
すると、フレームに大きく縦に擦ったような傷が入っていた。
その傷を見て、思わずの表情が曇る。
「」
真田がの名を呼んだ。
慌てて振り向き、はそのラケットを彼に差し出す。
「あの、先輩。これ、結構大きな傷入っちゃってますけど……今付いた傷なんでしょうか」
悲しそうに言いながら、はもう一度ラケットに視線を落とした。
「……かもしれん。まあ、この程度の傷ならば支障は無いが……」
そう言いながら、真田はの手にあったラケットを受け取る。
は彼の手にラケットが戻ったことに少しほっとしつつも、やはりその傷を見ていると心が痛んだ。
自分がもっと上手く取り返せていれば、彼の大事なラケットにこんな傷が付くこともなかったかもしれないのに。
そんなことを思いながら、は俯いて唇を噛み締めた。
「私がもっと早く、取り返せていれば……そしたらこんな傷……」
「……取り返す……?」
小さな声で真田がそう呟いた。
その隣で、柳がそれを覗き込みながら言う。
「まあ、それくらいの傷ならば練習や試合でも付くことはあるからな、使用するのに問題はないだろう。その程度で済んで良かったとすべきだな」
柳の言葉に、切原も「そっすね」と笑って頷く。
も少しホッとしたように表情を緩め、コートの中は和やかな雰囲気に包まれた――かのように見えた。
しかし。
「……」
先ほどから自分の手に戻ったラケットをじっと見つめ、何かを考えていた真田が、静かな声での名を呼ぶ。
そして、からの返答を待たず、彼は言葉を続けた。
「まさか、このラケットを取り返そうとして、自分からあいつらの前に飛びだしたのではないだろうな……?」
その言葉に、は慌てて顔を上げる。
「……え、あの……」
心臓がどくんと鳴った。
なんだろう――彼の声が、心なしか怒っているような気がする。
「どうなんだ」
返答を急かすようなきつい調子の言葉に、は肩をびくっと振るわせた。
そして、たじろぎながら小さな声で彼に言葉を返す。
「あ、あの……あの人たちがそれを勝手に触りだしたので……その、私」
あの時はただ無我夢中だった。
あの二人に彼のラケットを触られたくない、そう思った瞬間身体が勝手に動いていた。
そんなことを思い出しながら、は言葉を続ける。
「それで、早く取り返さなきゃ……って思って……あの……つい……」
――が、そう言った瞬間だった。
「この大馬鹿者が!!」
真田の激しい怒号が、コート中に響いた。
その激しい剣幕に、は驚きの余り目を見開いて静止したまま言葉を失う。
そんなに、真田は更に怒鳴り声を浴びせた。
「俺は何があってもあそこから動くなと言ったはずだ!!」
――そうだ。
そういえば、彼と確かにそんな約束をした。
自分のとった行動は彼との約束を破ったことになるのだと、今更ながらには自覚する。
「あ、あの……」
何か言おうと口を開いたが、言葉が、声が、上手く出てこない。
目の前の真田は、今まで見たこともないような剣幕で、本気で怒っている。
そんな彼を直視できずに、は薄っすらと冷や汗を流しながら俯いた。
「副部長、は副部長のラケットを守ろうとしたんじゃないすか! そんな言い方しなくても……」
「一番大切なことはなんだ、俺のラケットを守ることか? 違うだろう!!」
を庇うように割って入った切原を、真田はそう言って怒鳴り捨てる。
「落ち着かないか、弦一郎!」
側で見ていた柳も、眉をひそめて真田を止めに入ったが、彼はそれを振り切って強い調子で叫んだ。
「もう少しで、取り返しのつかない事態になっていたかもしれないんだぞ! 分かっているのか、!!」
その言葉に、はハッとする。
そういえば、直接あの男たちを止めるようなことをせず、彼がわざわざ大人を呼びに行ったのは、もし自分たちだけで解決しようとして万が一何かの問題が起これば、大会出場停止という事態に繋がるおそれがあったからだ。
あの時、彼らをすぐにでも止めたかったのは真田も同じだっただろうに、そうせずに冷静に判断し、彼は最良と思われる方法を取ったのだ。
――しかし。
もしかしたら、自分はそれを台無しにしていたかもしれないのではないだろうか。
(……私……なんてことしちゃったんだろう……!)
は、真っ青になった。
自分の行動が、真田だけでなく、部で頑張っている皆の全てを台無しにしたかもしれない。
それも、彼のラケットを守りたいだなんて――とてもおこがましい、自分勝手なエゴで。
今更ながら、自分の犯したことの怖さに手が震えた。
考えなしだった自分が、本当に情けなくて恥ずかしくて、許せない。
そんなことを思いながら呆然として動けないでいるに、真田はもう一度きっと鋭い目つきで睨み、叫ぶように言った。
「!!」
「ご……め……なさ……」
声を振り絞って謝ろうとした――けれど、声にならない。
その代わり、溢れてくる後悔は目から滴となって落ちた。
「お、おい、……」
おろおろと戸惑う、切原の声が聞こえた。
そして――真田が息を呑む音も。
ずるい。これでは泣き落としだ。
これほどのことをしでかしておいて、ちゃんと謝ることすらも出来ず、ただ泣くだけなんて最低だ。
そう思うのに、何も出来ない。
こんな自分を、目の前の彼はどう思っているんだろう。
今度こそ、愛想をつかされたかもしれない。
あれだけ避けられて、やっと話をきいてもらえると思ったところでこんな騒ぎを起こして。
しかも謝ることも出来ずただ泣くだけだなんて、今度こそ、本当に嫌われて軽蔑されても仕方ない――
そう、思った瞬間。
は、全力でその場を駆け出していた。
「!」
「待てよ、!」
後方で柳と切原の声が聞こえたけれど、もうは止まることが出来なかった。
コートの外に放り出した自分の荷物を拾い上げ、無我夢中で校門に向かって走る。
そして、着替えもせずに体育のジャージのままで出発しようとしていたバスに飛び乗り――最後部座席に腰を下ろしたは、人目も気にせずただひたすら嗚咽を漏らした。
◇◇◇◇◇
彼女の涙を見た瞬間、自分の全ての思考と器官が停止して、真田は一歩も動けなくなってしまった。
決して泣かせるつもりでは無かったのだ。
ただ、もう少しで彼女が取り返しのつかない怪我をしていたかもしれないと思ったら、つい興奮して吐き出すように言葉をぶつけてしまった。
そんなことを思い、ただ呆然と突っ立つ真田に、柳が責めたてるように怒鳴る。
「何を呆けているんだ、弦一郎! 追いかけないか!!」
その声で、真田ははっと我に返る。
そして、持っていたラケットをその場に置き、全力で彼女の去っていった方向に向かって走ったが、バス停までたどり着いても彼女の姿はもうどこにも見えなかった。
(俺は……俺はなんて言い方をしてしまったんだ……!)
決して彼女に言ったことが間違っているとは思わない。
あんなことになるかもしれなかったから、あの時彼女に決して動くなと言い含めたのだ。
なのに、あんな無茶をして飛び出して、怪我までしそうになって――しかも、その理由が自分のラケットのためだなんて。
もしあの時、自分が少しでも遅れていれば、彼女は確実に怪我をしていただろう。
ましてや頭にでも当たっていれば、命すらどうなっていたか分からない。
そう思うと、無性に腹が立ったのだ。
どうなるか考えもせず、ラケットを取り返そうとした彼女にも、あの時彼女を一人置いていってしまった自分にも。
でも、結果的にそれで彼女を泣かせてしまった。
きっと彼女だってとても怖い思いをしただろうに、なんて言い方をしてしまったのだろう。
もう少し言い方というものがあったのではないだろうか。
悔やみながら、真田はとぼとぼとコートに戻る。
すると、真田の姿を見るなり、柳が問い掛けてきた。
「弦一郎、彼女は?」
「分からない。バス停まで追いかけたが見つからなかった。おそらく来たバスにそのまま乗って帰ったのではないかと思う」
「追いつけなかったか。……その様子では、ちゃんと話し合いもできていないのだろうな」
何も言い返せなかった。
そんな真田を見て、柳はこめかみを抑え、大きな溜息を吐く。
「だいたい、あの言い方はないだろう」
「そうっすよ、副部長……あんなキツイ言い方しなくても良かったんじゃないすか?」
「……俺は間違ったことを言ったつもりはない。あんな時は、何よりも自分の身を守ることを優先すべきだろう。ラケット一本のために自分の身も顧みずあんな無茶をするなど、馬鹿げているにも程がある」
真田は吐き捨てるように言いながら、置いたラケットを拾い上げた。
「確かにお前の言う通りだ。は状況を見誤った。しかし、彼女がお前のラケットを身を挺して取り返そうとしたことは事実だ。それに関しては、お前はに言うことがあるんじゃないのか」
柳の言葉に唇を噛みながら、真田は手の中のラケットをじっと見つめた。
あんなに怖い思いをしてまで、彼女はこの自分のラケットを一生懸命取り返そうとしてくれて、更に怪我をしても最後までこれを気にかけてくれた。
今までさんざん酷い態度をしてあんなにも傷つけたのに、それでも彼女はこんな自分と自分のテニスを、とても大切に思ってくれていたのだ。
(……)
彼女への想いが、胸の中で溢れ出して止まらなかった。
きつい言い方をして、泣かせてしまったことを謝りたい。
このラケットを守ろうとしてくれたことに、礼を言いたい。
――そして、今までの態度を詫びて、出来るならこの気持ちを伝えたい。
「……弦一郎。に、今晩電話かもしくはメールでもいい、出来るか? 明日からはもう部活動もないからな。出来れば今日中に、せめて先ほどのことだけでもいいから、何か言葉を掛けてやれ」
柳がそう言って、真田の肩を叩く。
しかし真田は、何か引っかかるように顔を顰めた。
「電話……か。いや、しかし……」
迷うように呟きを零し、真田は息を吐く。
――そのとき。
「赤也君!」
コートの外から、誰かが切原の名を呼んだ。
はっとして三人が顔を上げると、の親友、が駆けてくるのが目に入った。
「!」
切原が名を呼ぶと、彼女は携帯電話をその手に握り締めながら、慌てて切原の側に駆け寄って来た。
「赤也君、一体何があったの? 私、ずっと更衣室の前でを待ってたんだけど……今いきなりメール来て、びっくりして……」
少し息を切らせて切原に言いながら、は気にするようにちらちらと真田を見上げる。
「から? 何て?」
「『もうバス乗っちゃったから今日は一人で帰るね、本当にごめん』……って」
そう言って、は心配そうに表情を曇らせる。
切原は、その言葉に決まり悪そうに頭を掻いた。
「んー……まあな……」
曖昧に濁し、切原は呟く。
その横で、柳がに声を掛けた。
「……すまないな、。少しゴタゴタがあって、上手くいかなかった。しかし、弦一郎が今夜にでも電話なりメールなりするだろう」
柳はそう言うと、真田の顔を見つめた。
しかし、その顔を見返しながら、真田は戸惑うような表情をする。
電話やメールなどで、いいのだろうか。
そんなもので、本当に伝わるのだろうか。
――いや、やはりそれでは駄目だ。
「いや、電話もメールもするつもりはない」
「弦一郎!」
「副部長!!」
真田が首を振った直後、責めるような柳と切原の声が重なった。
それには返事をせず、真田は真っ直ぐの方を向く。
そして。
「、の家の場所と行き方を教えてくれ。お前なら知っているだろう? ……頼む」
そう言って、ぎゅうっと掌を握り締めながら、真田は深々と頭を下げた。