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17:転機 3

とにかくその場を離れたくて、行き先もろくに確認せずに飛び乗ったバスは、幸運にもいつも使っているバスだったようだ。
車内アナウンスでバスの行き先を聞き、は少しだけホッとしたが、すぐに待ってくれていたのことを思い出して慌ててにメールを送る。
「ごめん」とメールを打ち終えて携帯を仕舞うと、自己嫌悪のあまりの目がまた潤んだ。
にもあんなに応援してもらっておいて、そんな彼女を放って帰るような真似をしてしまった。
だけではない、切原や柳だってあんなに応援や心配をしてくれたりしたのに――それも全て裏切ってしまったようなものだ。
彼らにも、いくら謝っても足りない。

(私、もう本当に最低だ……)

自分の行動で、一体どれだけの人に迷惑をかけたら気が済むのだろう。
そんなことを思いながら、は揺れるバスの窓に頭を預けた。

◇◇◇◇◇

やがて、バスは家の近くのバス停に着いた。
もう六時半を回っているのに、夏が近づいているからだろう、周囲はまだ少し明るい。

(こんなぐしゃぐしゃの顔、誰にも見られたくないのにな……)

知っている人に会わないようにと願いながら、は顔を伏せ重い身体を引きずって家に帰る。
しかし、家族は誰もいなかった。
鍵が掛かったまま、家の中はしんと静まり返っていた。

「母さん、買い物にでも行ってるのかな……」

そう呟きながら、鞄から鍵を取り出してロックを解除し、家に入る。
こんな状態の自分を見た家族から何があったのかと聞かれたら、一体なんて答えればいいのだろうと悩んでいたので、この状態は正直ありがたかった。
少しホッとしながらリビングに鞄を置き、その足で台所で向かうと、冷蔵庫を開けて極端に乾いた喉にペットボトルのジュースを流し込む。
けれど、味がしない。
自分がいつも飲んでいる、大好きなジュースのはずなのに、まるでただの水でも飲んでいるかのような感覚がする。
なんだかとても気持ち悪く感じて、思わず口周りを着ていたジャージの袖で何度も乱暴に拭った。
すると、袖に少し赤いものが走ったのが見えて、は手を止める。
指先でそっと唇の端を抑えて手を離すと、ほんの少し血が滲んでいた。
あまりにも乱暴に擦りすぎたのだろう。しかし、不思議と痛みは感じなかった。
今切ったばかりの口の端も、一時間ほど前に打って擦りむいたままの膝も足も、どこも痛くない。
ただ、胸の奥だけが酷く痛くて、苦しくて――は両手でぎゅうっと胸の辺りを抑えながら、台所の中でうずくまった。

脳裏に浮かぶのは、烈火の如く怒った先ほどの彼の顔。
自分に対しては勿論、他の人に対しても彼のあんなに怒った姿は見たことがなかった。
あれ程の顔をするということは、よっぽど彼は腹を立てたのだろう。
自分が犯してしまったあの行動は、もしかしたら彼が何より大切にしているテニス部の活動を全て滅茶苦茶にしていたかもしれないのだから、彼が怒るのは当然だと解っている。
しかも、きちんと謝ることもせず、彼の前から逃げてきてしまったのだ。彼に完全に軽蔑されてもおかしくはないし、嫌われてしまっても仕方ない。
解っている。全部解っているのだけど――失ってしまったものが余りにも大き過ぎて、「仕方ない」と簡単に切り捨ててしまうことはどうしても出来なかった。

の目に、もう何度目になるか分からない涙が溢れてきた。
昨日までは、彼に嫌われたかもしれないという予感はあっても、まだ「もしかして違うかもしれない」という希望が持てた。
でも、もうそんな希望すら持てない。全て終わってしまった。取返しもつかない。
あの優しい笑顔を向けてもらえることも、気さくに話し掛けてもらえることも、隣に並びながら彼の横顔を見上げることも、そんな自分に気付いた彼が優しく笑いかけてくれることも――もうきっと、二度とない。

は、やっと気付いた。
あの場所がどんなに大切だったか、彼の存在がどれだけ大きかったか。
――そして、自分が彼に抱く想いが、決して尊敬だけではなかっただろうことも。
しかし、今更そんなものに気付いてもどうしようもない。
彼にとってはもう、自分の事など軽蔑の対象でしかないだろう。

あの時、どうして飛び出したりしてしまったんだろう。
どうして、泣いたりしてしまったんだろう。
どうして、ちゃんと謝らなかったんだろう。
どうして、逃げ出してしまったりしたんだろう。
どうして、自分はこんなに馬鹿なんだろう――

止まらない後悔と自己嫌悪でぐちゃぐちゃの顔を伏せながら、はうずくまったまま足を抱えて、また嗚咽した。

――そのとき。
かすかに何か音が鳴ったような気がして、はふと頭を上げる。
何の音かと思いながら周囲を見渡していると、もう一度「その音」は鳴った。
電子的で単調な、聞き慣れたその音が玄関のチャイム音だと気付き、はゆっくりと立ち上がる。

(誰か来たのかな……)

漠然とそう思った後、はとても嫌な気分になってしまった。
こんなぼろぼろの状態で、人に会いたくなんてない。
家族と顔を合わすことすら、今は億劫なのに。

そう思っていると、もう一度チャイム音が鳴った。
出たくはなかったけれど、家の中の電気がついているのに居留守を使うような勇気も無い。
は台所にあったタオルで慌てて顔を拭くと、リビングに出てインターフォンの確認ボタンを押した。

――瞬間。
カメラに映った人物に、の全てが完全に硬直した。
そこに映っていたのは、彼――真田だったのだ。

「せんぱ……い?」

何が起こったのか分からず、は呆然と立ちすくむ。
どうして彼がここにいるのか、一体何をしに来たのかも分からない。
けれど、確かに今、彼が家の前に居る。居てくれている――そう思った瞬間。
はインターフォンに応答もせず、そのまま玄関に駆け出していた。
玄関の電気もつけず、とにかく急いで靴だけを履き、慌ててドアを押し開ける。
その途端目に飛び込んできた姿は、やはり間違いなく、真田だった。

「……先輩……」
……」

真田は、突然出てきたに一瞬怯んだような顔して視線を逸らしたが、すぐにまたの方を向き直す。
そして、ゆっくりと頭を下げた。

「……突然、すまない」

いつもの彼らしくない、とても小さな声だったけれど、確かに彼の声だ。
ちゃんと謝ることもせず、逃げ出してすべてを放りだしてきてしまったはずなのに、今、数歩先のすぐ手の届く距離に彼がいる。
今のこの機会を逃せば、もう二度と彼に向かい合うことはできないとは思った。
玄関から飛び出し、彼の目の前まで走り出ると、はそのまま衝動的に叫んで頭を下げた。

「ごめんなさい!!」
!?」

彼が驚いたような声を上げる。
しかし、は頭を下げたまま、ひたすら謝罪の言葉を続ける。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

心の中に積もる後悔を吐き出すように、ただ叫んだ。
どんなに謝っても自分のやったことが何一つ無くなるわけではないけれど、どうしても謝らずにはいられなかった。

……ちょっと待ってくれ! 俺は、別にそんなつもりで来たわけでは――」

焦った声で、真田はを制止する。
しかし、は顔を伏せたまま、首を横に振った。

「お願い、謝らせて下さい。謝ったからって一度やったことが取り戻せないのは分かってます、けど私……どうしても先輩に……」

――謝りたいんです。
最後の言葉は、涙が混じって声にならなかった。

……」

呟くように言って、真田は何かを思うように少し黙り込む。
やがて、彼は大きく息を吐いた。

「分かった、聞こう。……言ってくれ」

そんな彼の言葉に、は思わず胸がいっぱいになった。
滲み出る涙を手の甲で拭って、はこくんと頷く。
そして、気持ちを吐き出すように、ゆっくりと言葉を綴り始めた。

「先輩……さっきは……さっきは本当に……すみませんでした。絶対に動かないって約束したのに……あんなことして……」

震える声をなんとか繋げ、は喉の奥から言葉を絞り出す。

「私、あの行動が、どうなるかなんて考えもしなくて……本当に考え無しで馬鹿だったと思います……。先輩が怒るのは当然です。なのに、私先輩が怒ってる最中に逃げ出すようなことまでしちゃって……」

そこまで言うと、は胸の前でぎゅっと掌を握り締めた。
そして。

「本当にすみませんでした、先輩」

そう言いながら、今度は先程よりもっと深々と頭を下げた。
――すると。

「……顔を上げてくれ、

彼の言葉が聞こえ、がその言葉に応えるようにおずおずと頭を上げると、真田と視線が合った。
その瞬間、真田はどうしていいかわからないような表情を浮かべながら、やや視線を逸らす。
しかし小さな咳払いをしてから、また視線をに戻して、ゆっくりと言葉を続けた。

「俺は確かにお前の取った行動に怒ったが……どうか、そこまで気に病まないでくれ。俺もあんな言い方をして悪かったと思っている。お前は、俺のラケットを取り返そうとしてくれたというのに……」
「そ、そんな! 私は怒られて当然のことをしたんです、先輩が謝る必要なんてありません」

真田の言葉に驚いて、は必死で首を横に振る。

「それに、ちゃんと謝らずに泣いて逃げ出すとか……私、本当に最低なことしたし……」
「怖い思いをしたところに、あんなふうに強く怒鳴られれば逃げたくもなるだろう。間違ったことを言ったつもりは無いが、言い方を考えるべきだった。俺こそ最低なことをしてしまって、申し訳なかったと思う。それから、俺のラケットを取り返そうとしてくれて本当にありがとう、
「先輩……」

彼の気遣いが、痛いほどに伝わってきた。
は胸をいっぱいにしながら、もう一度首を左右に振る。

「先輩にそんな風に言ってもらう資格なんて、私には無いです。もしかしたら、私の行動で先輩たちの大会出場にまで支障が出てたかもしれないんですから……。最悪の事態にはならなかったとはいえ、どうなるか考えもしないであんなことしたんだもの。私はやっぱり怒鳴られて当然のことをしたと思います」

そうが言った時――真田の表情が、ぴたりと止まった。

「……ちょっと待ってくれ、。お前、もしかして」

そう言いかけて、真田は言葉を止める。
そして、何かを考えながら、呟くように独り言を言った。

「ああ、俺があの時、ああ言ったからお前は……そうか……」
「先輩? あの……」

どうしたんだろうと思いながら、は瞬きをして彼を見つめる。
すると、やがて彼は大きな息を吐いた。

……違うんだ」
「え?」
「俺が言ったあの時言った『取り返しのつかない最悪の事態』というのは、そうではなくて――」

一瞬、彼の言っている意味が分からなかった。
は、ぽかんとした顔で彼を見つめる。

「……あの、どういうことですか?」

そう言ったの顔を、真田は真面目な顔つきで見つめ返すと、やがてゆっくりと口を開いた。

「俺が言った『取り返しのつかない最悪な事態』とは、決して大会の出場停止などではない。そもそも、お前の取った行動がそれに繋がったかもしれないとも思っていない」
「え、でも……先輩が先生たちをわざわざ呼びに行ったのは、そういうことにならないように、ですよね……?」
「ああ。あの時もし俺が直接止めに入って奴らと暴力沙汰にでもなれば、両成敗になって大会の出場停止という可能性があると思った。しかしそれは『俺』だからだ。非力なお前が一人で止めに入ったところで相手に傷を負わせることもないだろうし、そのことで大会の出場停止などということはなかっただろうと思う。もしお前がそれを気にしているのなら、それは気に病まなくていい」

彼の言葉に、はぱちぱちと目を瞬かせる。
大会の出場停止に繋がるようなことをしたから、彼はあそこまで激怒したのだと思っていた。
では、彼があんなに怒りを露わにしてまで危惧した「最悪な事態」というのは、一体何だったのだろう。

「……じゃあ……どうして……」

小さな声で呟くように問うの顔を、真田はじっと見つめる。
そして彼は、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。

「……俺が怒ったのは、お前が自分の身も顧みず、ひとつ間違えれば大怪我をするかもしれないような危険を冒したからだ」

彼のその言葉に、の目が見開かれた。
驚く余り、完全に全ての挙動が停止してしまっているを見つめたまま、真田は言葉を続ける。

「ああいう馬鹿者どもは、かっとなれば何をするか分からん。実際、お前に向けてラケットを振り下ろすなどと、とんでもない行為をやらかしただろう。そんな危険な目に合うことが容易に想像できたから、俺は動くなと言ったんだ」

彼はそう言うと、ふう、と大きく息を吐いた。

「俺は、お前に一番優先すべきことを考えて欲しかったんだ。例え俺のラケットがあいつらに壊されたとしても、いくらでも替えはきく。ラケットの代わりなど、どうにでもなるからな。しかし、お前にもしものことがあったとしたらどうするんだ。お前はただ一人しかいないし、お前の替えなどどこにもいない」

真田は真剣なまなざしでまっすぐを見据える。
そして、強く希うように、に告げた。

「頼む。例えどんな理由があろうとも、自分の身を自ら危険に晒すようなあんな馬鹿な真似は、どうかもう二度としないで欲しい」

その誠意のこもった彼の声に、の全身が、心が、思い切り震えた。
あの時の彼の怒りの本当の意味を、は今やっと理解したのだ。

――ああ、あの時、彼があんなに怒ったのは、私の身体のためだったのだ。
大会でもラケットでもない。
ただのマネージャーである私の身体を心配したからこそ、あんなに怒ったのだ。
やっぱり、彼が好きだ。
強くて、真っ直ぐで、どうしようもなく優しい、この人が。

そんな想いが、溢れるようにの全てを支配する。
同時に、の目に熱いものが滲んで、ゆっくりと頬を伝った。

「……む……」

また泣き出したを見て、真田は困ったように眉をひそめる。

「ど、どうした、泣くな。俺は怒っているわけではないぞ、

あたふたと戸惑っている真田に、は両手で顔を擦りながら首を横に振る。
自分でもどうしていいかわからないけれど、ただ「好き」という想いだけが次から次へと溢れて、止まらなかった。
どうしても、何があっても、彼にだけは嫌われたくないと思った。
衝動的に、は言葉を紡いだ。

「先輩――お願い……私を嫌いにならないで……」

頭ではなく、心が喉を動かした。
何を言っているのか、自分でも良く分からない。
ましてや、その言葉を聞いて彼がどう思うかなんて考えることすらも出来ずに、はただ溢れる想いを口にしていた。

「お願いだから……嫌わないで……お願い……」
「…………」

ただひたすら、「自分を嫌いにならないで欲しい」と請い続けるを、真田はじっと見つめる。
やがて。

「……俺がお前を嫌いになることなど、ありえない」

声が少し震えてはいたが、とても力強くて意志の篭った言葉を、真田はゆっくりと紡いだ。
は思わず言葉を止め、顔を上げる。
そんなの顔を、彼は視線を逸らさずにじっと見つめ、更に言葉を続けた。

「今までだって、俺はお前を嫌いになったことなど、ただの一度もない。本当だ」
「先輩……」

驚愕の表情を浮かべて、は立ち尽くす。
しかし、すぐにその表情は曇った。
今まであんなにも避けられていたことを思い出し、すぐにその言葉を信じることが出来なかったのだ。

「……あんな態度を取っておいて、信じろ、という方が無理な話か」

の思っていることを察したのか、真田は眉をひそめながら、そう言って自嘲気味に笑う。はその言葉を肯定も否定もせずに、ただ黙り込んで俯いた。

「そうだな、信じられなくて当然だ。ここ一ヶ月ほどの間、俺がお前を避け続けていたのは確かだからな。そのことに関して、今更白を切るつもりは無い」

彼のその言葉が、の胸に突き刺さる。
やはり、自分は彼に避けられていたのだ。
分かってはいたが、彼自身からはっきりとその言葉を聞くのが辛かった。

「やっぱり、そうだったんですよね。私、先輩に何をしたんですか? どうして――」
「違う」

が言いかけた言葉を、真田が静かな声で遮った。
驚いては言葉を止め、彼の顔を見上げる。
すると、彼の貫くような眼差しに捕らえられ、は身動きが出来なくなった。
そんなに、彼は言葉を浴びせるように発する。

「俺がお前を避けていたのは、お前が俺に何かしたからでも、ましてや俺がお前を嫌いになったからでもない! むしろ……」

そこまで言って、真田はぐっと言葉に詰まる。
一度目を瞑り、唇を噛むと、真田は何かを決意したようにかっと目を見開いた。
そして。

「むしろ、むしろ俺はお前が――!」

力強い声で真田がそう言いかけた、その時――彼の背後で人の気配がした。
ものすごい勢いで、二人は真田の後方を向く。
すると。

「ただいま〜、遅くなってごめんね」
「お、お母さん!」

その声と共にその場に現れたのは、買い物袋を手にしたの母だった。
予想外の出来事に、完全に二人は硬直する。

「あら……、お客様? どなた?」

明るい調子でそう言いながら、の母は状況が飲み込めない様子で瞬きをする。

「あ、テ……テニス部の先輩……。副部長の……」
「ああ! いつもがお世話になってます」

そう言ってにこにこ笑いながら、の母は会釈するように真田に軽く頭を下げる。

「い、いえ……こちらこそ。こ、こんな時間に申し訳ありません」

ぎこちない調子で言い、真田もまた、帽子を取ってから頭を下げた。
そんな真田に「いえいえ」と笑って返し、母はのほうを向いた。

「部活の打ち合わせか何か? 暗くなったし、上がってもらって中でやりなさいな。もし良かったら、夕飯も食べていってもらったら? もう一人分くらい、作れるから」
「い、いえ! もうこれで失礼いたしますので……!!」

そう言って、真田は慌てて帽子を被り、ラケットバッグを背負い直す。

、遅くにすまなかったな。話は、また次の機会にしよう。で、ではな!!」

妙に早口になりながらそう言うと、真田はそのままの家の門を飛び出し、走って行ってしまった。

「せ、先輩!! ちょっと待――」
「ごめんなさい、もしかしてお母さん、何か邪魔しちゃった?」

は、何が起こったのかわからなそうに瞬きをする母と、どんどん小さくなっていく真田の後姿を交互に見る。
――そして。

「ごめん、ちょっと行ってくる!」

そう言って、は猛ダッシュで真田の後を追い掛けた。

◇◇◇◇◇

が前を行く真田に追いついたのは、丁度バス停のある場所だった。
しかももうバスは来ていて、彼も乗り込もうとしているところだ。
は全速力でバスに近づくと、必死で彼に声をかけた。

「せんぱい……っ!」
……!」

バスに乗り込もうとしていた真田が、その声に驚きながら振り返った。
しかし、真田の後に乗り込む人は居ない。彼が乗れば、もうバスは出発してしまう。
時間が無いのに、は彼に何を言えばいいのか全く分からなかった。
全速力で走ってきたので息が切れていたこともあって、は完全に言葉を失ったまま、立ちすくむ。
真田はそんなをじっと見つめていたが――やがて彼はふっと笑った。

「……、慌しくてすまなかったな。でも、先ほど言ったことは本当だ。何一つ嘘偽りはない。信じて欲しい」

優しい言葉と微笑みを向けられ、は胸がいっぱいになりながら、ただひたすら何度も頷いた。
それを少し嬉しそうに見つめながら、真田は続ける。

「それでは、また学校でな。試験、頑張ってくれ」

そう言い残すと、真田は軽く会釈をするように手を上げ、中に入っていく。
そして扉が閉まると、バスはそのまま出発してしまった。

バスは見えなくなっても、はそこから動くことが出来なかった。
胸の中が熱い。
彼が言ったこと、言おうとしたこと――その全てが熱を持って、の身体中を駆け巡っている。

――私は、彼には嫌われていない。
それどころか、もしかしたら、彼も私のことを――。

の心の中に、そんな小さな期待が生まれていた。
そして。
それは、バスの中にいる彼も同じだった。

初稿:2008/04/06
改訂:2010/03/29
改訂:2024/10/24

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