は、自分の性格をよく分かっていた。
今日を逃せば期末試験の関係でしばらく彼には会わないし、少しでも先延ばしにしてしまったら、きっとまた決意が揺らぐに違いない。だから、彼に全てを尋ねるとしたら、今日の放課後しかないだろう。
それに、もし自分にとって辛い結果になったとき、しばらく彼と会わないで済むというのはありがたいかもしれない、とも思っていた。
ホームルーム終了の鐘の音は、にとっては始まりの音でもあった。
部活へ行く準備をし終わると、昼休みからずっと高鳴りっぱなしの胸をぎゅっと抑えて、は大きく息を吐き、呼吸を整える。
そうやって気持ちを落ち着けていると、が側に駆け寄ってきての肩を叩いた。
「、頑張ってね! 今日は帰る時間とか、私待たせてるとか、そんなの一切気にしなくていいからね!」
からのあたたかい激励に、胸がいっぱいになる。
こんなに応援してくれるのためにも、どういう結果になろうとも、絶対に今日決着を付けよう。
そう思いながら、は彼女に微笑みを向けた。
「うん、ありがとう、!」
に手を振り、そのままは教室を出て更衣室に向かった。
彼と話をするのはきっと部活が終わった後になるだろうから、とにかく部活の間はそのことは意識しないようにして、いつも通り全力で頑張ろう。彼とのことが気になって部活に力が入らないなんてことになったら、それこそテニス部をあんなに大切に思っている彼に、顔向けが出来ないから。
慌しく急ぎながら、階段を駆け降りる。
開始時間が近づいているわけではなかったけれど、心の中に溢れる何かがを強く急き立てたのだ。
――しかし。
一階まで降りたところで、の足が金縛りに合ったようにぴたりと止まった。一号館から二号館へと向かう、渡り廊下の途中――たくさんの学生が行き交うその中に、見慣れた背中を見つけたのだ。一縷の乱れもなく整然と鞄を背負い、ゆっくりと歩いていくあの大きな背中は、間違いなく真田のものだった。
(真田先輩……!)
一瞬、息が止まった。
今、心の準備もない状態で彼の姿を見るのは心臓に悪いと思いながら、妙に汗ばんだ手で高鳴る胸をぎゅっと抑え込む。
(……どうしよう……)
話は部活が終わった後にするつもりなのは変わらないけれど、今ここであの背中に話し掛けることが出来れば、きっと大きな勇気に繋がるような気がした。
(よ……よし、予行練習!!)
そう思いながら、は拳を握り締める。
そして大きく頷くと、そのまま彼の背中に向かって走った。
縮まってゆく距離に反比例して、自分の心臓が壊れそうなほど高鳴っていくのが分かる。
やがて、声が届きそうなほどその背中が近くなったところで、は大きく息を吸った。
「あの、真田先輩!!」
彼の名前を、力いっぱい呼んだ。
途端、その背中がぴたりと止まり――彼がゆっくりと振り向いた。
「……!」
驚いたように見開かれた彼の視線と、の視線が交錯する。
それだけでは言葉を失い、思わず自分から顔を伏せてしまった。
(やっぱダメだ……先輩の顔、見られないよ)
先ほどまでの覇気はどこに行ってしまったのだろう。自分が情けなくなりながら、は唇を噛む。
でもここまで来て、今更逃げるわけにはいかない。あんなに応援してくれた親友のためにも、そして何より自分のためにも――こんな「予行練習」の段階で怖気づいている訳にはいかないのだ。
は、持っていた鞄の持ち手をぎゅっと握り締めた。
「あ、あの、先輩……今日、部活が終わった後、お時間ありますか」
俯きながらではあったけれど、勇気を振り絞って一生懸命言葉を紡いだ。
顔が上げられないから、彼の表情はおろか、こちらを向いてくれているのかどうかすら分からない。
それに、一言毎に彼の返事を待つような心の余裕も無くて、ただひたすらには言葉を続けた。
「あの、ほんのちょっとだけでもいいんです……先輩に、その、お話があって……」
ここで断られてしまったら、彼に「話がある」と言いだすことすら、もう二度と出来ないような気がした。
どうか話だけでも聞いて欲しいと祈りながら、は鞄を握っていた手に更に力を込める。
しかし、彼から言葉は返って来ない。数秒の沈黙が、にとっては何十分もの長さに感じられた。
用事でもあって、駄目だったりするのだろうか。それとも、もう話すらしたくないほど、自分は嫌われてしまったのだろうか。
頭の中に嫌な想像ばかりが浮かぶ。
その場を逃げ出したくなる衝動を必死で抑えて、はひたすら彼の言葉を待った。
やがて、彼の咳払いの音が聞こえた。
そして。
「……あ、ああ。分かった。で、では、部活が終わった後に……な」
そう言って、彼の言葉は途切れる。
いつもの彼らしくない歯切れの悪い言い方だったけれど、今のには充分な言葉だった。
「ありがとうございます!」
はそう言うと、思い切り頭を下げる。
そして、ずっと伏せていた顔を恐る恐る上げて、彼の顔を見た瞬間――彼と目が合った。
その途端、自分の顔がかあっと熱くなる。
「そ、それじゃあ私着替えに行ってきますね!」
ごまかすように大袈裟に笑って、は彼の返事を待たずに走りだした。
そのまま渡り廊下を突っ切ると、二号館の校舎の柱の影に回り込み、その足を止めた。
まだ、手が震えている。
は、片手を鞄から放すとその掌でそっと顔を覆った。
――彼に話を聞いてもらえる。それだけで、涙が出そうなほど嬉しかった。
どんな結果になっても、ちゃんと話を聞いてもらえるなら、きっと後悔はしないで済みそうな気がする。
そんなことを思いながら、は大きな息を吐いて、泣きそうな顔で笑った。
◇◇◇◇◇
その日の放課後練習が始まった。
太陽の光を利き手で遮りながら、は眩しいくらいに透き通る青空を見上げる。
こんなに晴れたのは、本当にいつぶりだろう。
は、練習の後のことはなるべく考えないようにしながら、マネージャーの仕事に勤しんでいた。
少しでも考えてしまうと、やはりどうしてもドキドキしてしまうのは抑えられない。
しかし今日の部活が終わった後、彼にちゃんと話を聞いてもらいたいからこそ、きっちりけじめをつけて今は仕事のことだけを考えようと思った。
ドリンク準備も、コート整備も、洗濯も、部室掃除も、備品整理も、練習補助も、スコア取りも、何もかも無心で全力を込めてやった。そのおかげかあっという間に練習時間は終わり、部活の終了時刻となった。
部員全員がコートに集まり、真田が最後の挨拶をする。
「皆も知っての通り、明日からは期末試験前で部活動が休止となる。分かっていると思うが、この期間は決して遊ぶ為の期間ではない。全力で試験勉強に勤しみ、テニス部員として恥じない結果を残すように。それから、部活がないからといって全く身体を動かさないようでは、例え数日程度といえど確実に身体は鈍る。決して自主練習も怠るな。以上!」
「ありがとうございました!!」
整列する部員たちの、大きな返事がコートに響いた。
挨拶が済むと、部員たちはコートの片付けを済ませ、自分のラケットやタオルなどを手に部室の方へと戻っていく。
そんな中、は誰よりも急いで部室へと戻ると、置いておいた自分の荷物を手にした。これから真田と話をするつもりだけれど、彼との話にどの程度時間がかかるか分からなかったから、先に取っておいた方がいいと思ったのだ。
荷物をぎゅっと抱きしめて、自分を落ち着かせるように部室の外で一呼吸する。
そして、もう一度彼のいるコートに向かって戻り始めた。
「お疲れ様、さん」
「お疲れ様です、さようなら!」
コートに向かう途中で、すれ違うテニス部の部員たちがに挨拶をする。そんな部員たちに返事をしつつ、は走ってコートに戻った。
途中、ジャッカルや丸井、柳生と仁王ともすれ違った。彼らとも挨拶を交わし、更には走る。
――その時。
「……!」
切原の声が聞こえて、思わずは足を止める。
すると、コートから部室に戻ろうとしている切原と柳の姿が目に入った。
「頑張れよ!」
「弦一郎はまだコートに居る。行ってこい、」
そう言って、切原と柳は優しく笑った。
どうやらこの二人は全ての事情を知っているらしい。そのことに驚いて、かあっと一気に顔の熱が上がったけれど、もうそんなことはどうでもいいような気がした。
二人が心から応援してくれているのは、その優しい表情を見れば分かる。
「……はい、ありがとうございます!」
そう返事をすると、はにっこりと笑う。
そしてまた、そのままコートに向かって全力で走りだした。
やがて、はコートの近くへと戻ってきた。足を止め、息を整えながら、外からそっとコートの中を見る。
すると、まだ少し残っている部員たちの中に、真田の姿を見つけた。彼はまだジャージ姿のまま、ラケットを手にコートに立っている。
その姿を見つけただけで、の胸がどくんと鳴った。
が立ち止まっていると、最後までコートに残っていた他の部員たちが、真田に挨拶をした。
彼がそれに挨拶を返すと、その部員たちはコートの外に出てにも声を掛けた。
「あ、さん。お疲れ」
彼らのその声で気付いたのだろう――コートの中にいた真田が、こちらを見た。
その瞬間、の心臓がんどん高鳴りを増し始める。
それを抑えながら、なんとかは目の前の部員に返事をした。
「お疲れ様でした!」
がそう言うと、彼らはそのまま部室へと向かって帰っていく。
コートの中にいる真田を見ることが出来なかったので、はついその部員たちが部室に戻っていくのを目で追ってしまった。
彼らの姿が大分小さくなったところで、やっと意を決してはもう一度コートの中に顔を向ける。
すると、いつの間にか真田が持っていたラケットを一番奥のコートの審判台に立てかけるように置いて、そのままの方へと歩み寄ってきていた。
(ど、どうしようどうしよう)
彼がこちらに向かって一歩近づくごとに、緊張が高まって手が震える。その震えを抑え込むように、は持っていた荷物をきつく抱きしめた。
そうしているうちに、とうとう彼はコートを出て、の側までやって来た。
そしてゆっくり息を吸い、に向かって話し掛ける。
「……お疲れ様だったな、」
「は、はい! 先輩も、あの、お疲れ様です!!」
なんとか返事をしたが、緊張で声が上擦っているのが自分でも分かる。
更にこの後にどう続けていいのか分からず、はまた黙り込んでしまった。
すると、真田は小さな咳払いをし、続けた。
「その、部活が始まる前に言っていた、話、なのだが……ここでは目立つから、少し場所を移動してもいいだろうか」
そう言って彼はまた咳払いをすると、付け加えるように言う。
「ま、まあ、この時間になって誰かがコートに来るということはないとは思うのだが。誰かが忘れ物でもしたと思って、探しに来る可能性などが、無きにしも非ずだからな」
「あ、そうですね……じゃ、じゃあ、どこか移動、しましょうか」
慌ててがそう言うと、真田は「ああ」と小さく頷いてそのままの側をすり抜け、歩き出した。少し距離をあけてその後をも着いていく。歩いている二人の間には、会話は全く無かった。
少しして、そんなにコートからは離れていない、しかしあまり人目に当たらないような体育倉庫の側で真田は足を止める。
「余り遠くに行っても仕方ないから、この辺にしておくか」
そう言って、彼が振り返った。
その瞬間、先ほどから高鳴り続けているの心臓が爆発的に速度を増す。
とりあえずも彼に合わせて足を止めたが、到底返事すら出来るような状態ではなかった。
とにかく心を落ち着けようと試みて、何度も息を吸って、吐く。しかし、落ち着こうと思えば思うほど逆に心臓は高鳴っていき、言葉も出てこなかった。ただひたすら、どうしよう、どうしようと心の中で繰り返すだけで、全く言葉が口から音となって出て来てくれないのだ。
――何やってるんだろう、下校時刻だってすぐだし、そんなに時間はないのに。早く、聞かなくちゃいけないのに。
そんな自分を情けなく思いながら、は荷物をぎゅっと握り締める。
心の中で焦りばかりが増した。
どこか遠くでかすかに聞こえていた、下校途中の生徒たちの話し声はいつの間にか聞こえなくなっている。
また彼からも言葉が発せられることはなく、完全に静寂が辺りを支配し、二人の間に流れる空気は更に張り詰めたものになってしまった。
――私のこと、ずっと避けていましたよね。
どうして避けるんですか。
私は先輩に何かしたんでしょうか。
もししたのなら、何をしてしまったのか教えていただけませんか。
たったこれだけを聞けばいい。
難しいことではないはずなのに、どうして言葉が形にならないのだろう。
の時間の感覚は、完全に失われていた。
彼と二人でここに移動してきてから、実際は十分程度しか経過していなかったが、にとっては一体何時間経過したのかわからないほどだ。
(このままじゃ、真田先輩に迷惑をかけちゃうだけだ……がんばれ、がんばれ私!)
そう思って、は意を決し、きっと顔を上げた。
――その時。
「……おい、流石に中に入っちゃマズイだろ」
「いいっていいって! バレねーよ!」
ふいにどこからか、聞いたことの無い声が聞こえた。
その声に、思わずは慌てて目を見開く。
(な、何? 誰か居るの?)
思わずきょろきょろと辺りを見渡したが、周囲には誰の姿も無い。
気のせいかと思っていると、ふいに真田が口を開いた。
「――コートに、誰かが来たようだ」
そう言って、真田は被っていた帽子のつばを上げ、コートの方を見つめた。
「え、コートに? 本当に誰か忘れ物でもして取りに来たんでしょうか」
彼のその言葉に、は身体を捻ってコートの方を向く。
しかし、の場所からでは植木が邪魔になってよく見えない。
もう少しよく見えるように、コートの方に寄ってみようとが動いた、その瞬間。
「待て、」
真田が、静かな声でを制止した。
思わずは真田の顔を見る。
すると、彼の顔からは穏やかさが消え、強い警戒心が露わになっていた。
その表情に、の肩がびくっと震える。
「先輩?」
「聞いたことの無い声だ。間違いなくテニス部員ではないだろうし、今ちらっと見えた様子では立海の生徒でもなさそうだった。不用意に顔を出さない方がいい」
彼は鋭い目つきでコートの方を見据え、ゆっくりとそちらに向かって歩み寄る。
その後を、も音を立てないように着いていった。
コートから死角になる場所にある植木の側で背をかがめ、二人はそっとコートを覗き見る。
すると、無人のはずのコートの中には、見知らぬ男子が二人立っていた。
歳は自分たちとあまり変わらなさそうだが、服装を見る限り立海の生徒ではないことは確かのようだ。
「それにしてもすごかったな、あいつら本当に同じ中学生かよ?」
「やっぱ立海に勝つなんて無理だな。いくら偵察なんかしてもここにゃ勝てねーわ!」
「おいおい、打倒立海のために偵察に行こうって言いだしたのテメーだろ! わざわざここまで来て、今更そりゃねーだろー」
「でもあんな奴らに、俺達凡人が勝てるわきゃねーよ」
そんな会話をしながら、二人の見知らぬ男子生徒はコートの中を歩き回っている。
「……どうやら、偵察に来ていたどこぞの学校のテニス部の生徒らしいな」
真田は、そう言って溜息をついた。
「偵察!?」
「珍しいことではない。力のある他校のデータを入手し、それを試合に生かして少しでも勝率を上げることは、勝つ為の立派な手段のひとつだからな」
冷静にそう言うと、真田は言葉を続けた。
「我が部は優勝候補だけあって、そういった偵察の数も多い。しかし、我が部の正確なデータをその辺の有象無象どもが取りきれるわけがないし、例え取られたところで負けるとも思わん。いちいち蹴散らすのも面倒だからと、特に重要な練習のとき以外は目につかなければ放っておいているのだが……誰もいなくなるまで待ってコートにまで入り込まれるのは、流石にいい気はせんな」
そう言って、真田がまた大きな溜息をついた、その時。
「つーかさあ、こいつらやっぱいいコートで練習してるよな。王者立海サマは羨ましいねえ!」
そんなことを言いながら、男のうちの一人が下品に笑って審判台を蹴った。
その行為に、思わずは「あ」と小さな声を漏らし、眉をひそめて口元に手をやる。
同じく真田も、眉間に皺を寄せて不快感を露にした。
「おいおい、あんまりでけー音立てるなよ」
そう言いながらも、もう一人の男もそれを咎める様子は無い。
それどころか、彼自身も土足でコート側のベンチに乗り、もう一方の彼の様子を見ながらニヤニヤ笑っている。
「……あまり品の良さそうな奴らではないな」
「先輩、あの人たち止めなくていいんですか」
「無論止めるが、俺達だけで止めようとしてもし万が一何か問題でも起これば、俺達まで大会出場停止に繋がりかねんだろう」
そう言うと、真田は溜息をついてゆっくりと腰を上げた。
「先輩?」
「教職員か、警備員を呼んで来る」
真田はそう言うと、真剣な目でを見つめて言葉を続けた。
「いいか、お前は絶対にここから動くな。あの馬鹿者どもが何をしようとだ。俺が戻ってくるまで、あいつらに見つからないよう、静かにここで待っていてくれ」
「は、はい」
頷いたに、真田も「よし」と頷いて返す。
そして彼は、音を立てないようにしながら、彼らに見つからないように小走りで校舎の方へと向かっていってしまった。