真田は、本気で自分が情けなかった。
彼女がまた悲しそうな顔をしている。
しかも、そんな顔をさせているのは十中八九、自分自身なのだ。
先ほどまであんなに賑やかに談笑していた相手が、急に黙り込んで無表情になり、顔すら見て来なくなったら、誰だって気になるだろう。
それに、彼女はとても優しい子だ。もしかしたら、自分が何かしてしまったのではないかと思いながら、内心戸惑ったり悲しんでいるかもしれない。
しかし今の真田には、それをフォローしてやることは、どうしても出来そうになかった。
彼女と視線を合わすだけでも顔が熱くなり、挙動不審になりそうになる。
声も心なしかどもってしまっているし、ましてや笑い掛けられたりなどすれば胸が刺されたような感覚がして、心臓の音が外部に聞こえてしまうのではないかと思うほど、緊張がどんどん高まってゆく。
こんな状態でまともな話などできるわけがないし、無理をすれば、自分自身も今気付いたばかりのこの想いを、彼女本人に気付かれてしまうのは時間の問題だろう。
まだ自分でもきちんと把握しきれていない、どうすればいいのか、どうしたいのかも分からないようなこんな状態で、他の人間や、ましてや本人に知られるようなことになるのは、何があっても絶対に避けたかった。
自分勝手な都合で、彼女には全く関係ないことだと分かってはいるのだが。
(……駄目だ。今日はこれ以上一緒にいても、を傷つけることしか出来ない)
真田は、膝の上に載せていた掌をぎゅっと握り締めた。
――そして。
「すまないが、用事を思い出した。先に帰らせてもらうぞ」
そう言うと、真田はすっくと立ち上がった。
「え、真田?」
「いきなりどうしたんだ、弦一郎」
幸村と柳の驚いた声が重なる。
そして、明らかに動揺し眉をひそめたもまた、不安そうな表情でこちらを見たことに真田は気づいたが、そちらには敢えて一瞥もくれず、二人の方だけを見て言葉を続けた。
「来たばかりなのにすまないな、幸村。また今度寄らせてもらう」
幸村と柳に軽く会釈するように片手を上げ、そのまま真田は閉まっていたドアのノブに手を掛けた。
すると。
「真田先輩、あの」
自分の背中に投げかけるように、彼女の声が聞こえた。
どきりとして、真田はドアを開こうとするその手を一瞬止める。
今振り返って一度だけでもいつものように笑いかけてやれば、きっと彼女の不安な気持ちを少しくらいは拭い去ってやることができるだろう。
それは分かっているのに、意識すればするほど、彼女に向けて笑顔など作れる気はしなかった。
「、今日は本当にご苦労だったな。気をつけて帰れよ。……ではな」
結局、振り返らずにそう言い残すと、真田はそのままドアを開けて病室を後にした。
◇◇◇◇◇
情けない。
情けない情けない情けない。
自分がこんなに弱い人間だとは思わなかった。
エレベーターのボタンを押して待ちながら、真田は大きな溜息をつく。
彼女はきっと混乱しているだろう。
いきなり態度が変わってしまったことをおかしく思い、もしかしたら自分が何かやってしまったのではないかと、心を痛めているだろう。
せめて一言でもいいから、フォローすることが出来なかったものか。
そんなことを思いながら、真田が額に手をやった、その時だった。
「真田先輩!」
背後から名前を呼ばれて、真田ははっと顔を上げる。
恐る恐る振り向くと、そこは少し息を切らせた彼女が立っていた。
「……」
まさか彼女が追いかけて来るとは思っていなくて、驚きを隠せないまま、真田は呆然とした表情でを見つめる。
少し泣きそうにも見えるような表情で、彼女は真田の側に駆け寄ってきた。
「先輩、あの……」
そう言うと、彼女は俯いて黙り込む。
追いかけてきたのはいいものの、どうやら言葉が続かないようだった。
(やはりは、俺の様子がおかしいと気にしているのだな)
申し訳ないと思いながら、真田は掌をぎゅっと握り締める。
こんなに彼女に心配させておきながら、自分はそれでもまだ「どうしたらいいのか分からないから」と理由にもならない理由をつけて、彼女を傷つけ続けるつもりなのか。
――せめて。
せめて一言だけでも、彼女に言わなければ。
嘘でもいいから、彼女がこれ以上気にしなくて済むように、何らかの言葉を掛けなければ――そう思いながら、真田は握っていた掌に更に力を込めた。
「い、いきなりすまなかったな、。ひとつ用事があったのを思い出してな。どうしても、今日中に済ませなければならない用事なんだ。本当にすまない」
用事なのだと、強調するように言う。
しかし言葉を重ねる度に、なんだか嘘臭さが増す気がして、妙に顔が熱くなる。
「……そうなんですか」
「ああ、用事がなければ、もっとゆっくりしたかったんだが」
それ以上は、もう言葉が続かなかった。
同じく彼女も言葉が出てこないようで、やがて二人の間の言葉が消えた。
今自分の言った嘘臭い言い訳で、彼女の不安が拭い去れたとは思えない。
けれど、これ以上言葉も出てこない。
どうすればいい――真田がそう心の中で自問した瞬間、二人の側でチンと小さな音が鳴った。
そんな些細な音に大袈裟なほど驚いて、真田とは同時に顔を上げる。
それは、エレベーターが到着した音だった。
「き、来たようだな」
そう言うと、真田はそのまま扉が開いたエレベーターに乗り込んだ。
「お前も気をつけて帰れよ。ではな、」
真田は、そう言いながら一階のボタンを押す。
まだ何か言いたそうな彼女の表情が目の端に見えて、ちくりと心は痛んだが、真田はそのままドアが閉まるのを止めなかった。
しかし、ドアが完全に閉まろうとした、その瞬間だった。
「先輩!! あの、今日は本当にありがとうございま――」
彼女が、叫ぶように言った。
その言葉は、ドアの閉まる音と共に掻き消える。
しかし、その言葉は真田の耳の奥でいつまでも消えそうにはなかった。
――最後の最後まであんな態度をとってしまった俺に、それでもありがとうと言ってくれるのか。
真田は、熱くなった自分の顔を掌でそっと覆った。
◇◇◇◇◇
エレベーターの扉が閉まり、真田の姿が完全に見えなくなった。
胸が締め付けられるような感情を抑え込むように、はぎゅっと自分の服のすそを握り締める。
――すると。
「!」
背後から名前を呼ばれ、がはっとして振り向くと、そこには柳の姿があった。
「柳先輩……」
そういえば、突然帰ると言いだした真田がどうしても気になって、つい衝動的に追いかけてしまったけれど、残された柳と幸村はきっとびっくりしただろう。
これでは彼と自分の間に、何かがあったみたいじゃないか――そんなことを思いながら、は慌てて口を開く。
「あ、すみません、あの……」
真田を追って飛び出した言い訳をしようと思ったけれど、上手い言い訳は見つかりそうになかった。
すると、言葉に困ってまごついているの代わりに、柳が口を開いた。
「弦一郎の奴、本当に帰ったのか」
「はい、どうしても今日中にしないといけない用事があるんだそうです」
柳の言葉に頷いて、は先ほど真田が強調していた言葉をそのまま伝える。
しかし自身は、あの言葉を百パーセント信じることは、どうしても出来なかったのだが。
――本当は、もうこれ以上自分とは一緒に居たくなくて、帰りたくなっただけではないだろうか。
そんな風には思いたくなかったし、彼の言葉を疑うなんてことはしたくなかったけれど、先ほどの彼の様子は明らかにおかしかったと思う。それに、彼にそう思われる心当たりが、にはひとつだけあったのだ。
(やっぱり、先輩がおかしかったのは、あのせいじゃないのかな……)
あんなに楽しかった、ガラス工芸展でのひと時。
ガラス工芸展を見終わるまでは、彼はとてもよく喋ってくれたし、何度も優しく微笑いかけてくれた。
しかし今思えば、あの直後から彼の様子はおかしくなったような気がするのだ。
その時にあったことといえば、「あれ」ぐらいしか思い当たりがない。
胸がずきんと痛んで、は思わず俯いて唇を噛む。
「……。とりあえず、一度精市のところに戻らないか」
柳の優しい声が聞こえて、はっとは顔を上げる。
目が合うと、柳は優しく微笑んだ。
「そうですね」
もなんとかぎこちない笑顔を作って頷くと、二人は幸村の病室へと戻っていった。
◇◇◇◇◇
「……で、一体何があったんだ、弦一郎と」
病室に戻って腰を落ち着けるなり、柳が真面目な顔でに尋ねた。
「……えと……」
柳の言葉に、は困ったような表情で眉をひそめる。そんなに、次は幸村が言葉を掛けた。
「確かに、来た時からあいつちょっとおかしかったような気がするけど……今日一日ずっとあんな感じだったわけじゃないよね?」
幸村の問いに、は首を縦に振る。
「はい、最初は普通におしゃべりとかしてました。けど、最後の方はなんていうか……あんまり話してくれなくなった感じがします」
先ほどの真田の様子を思い出すと、胸がまたずきんと痛んだ。
何も喋ってくれなければ、目を合わせることすら――いや、こちらを見ることすらしない、あんな彼は初めてだった。
コート脇で初めて話した時も、部室でマネージャーをやらせてくれとお願いした時も、部活でミスをして怒られた時でさえも、彼はいつでも真っ直ぐ自分を見てくれたのに。
そんなことを思いながら、はしゅんとして俯く。
そんなを、幸村は首を傾げて覗き込んだ。
「うーん……さん、何か心当たりはある?」
その言葉に、はまた眉をひそめる。
――心当たりなら、ある。
ガラス工芸展を見終わり、最後に彼がイヤリングをプレゼントしてくれたあの時、思わず泣いてしまった。
プレゼントは勿論、何より彼に「マネージャーとしてとてもよく頑張っているから」と言ってもらえたことがものすごく嬉しくて、気付いたら目から涙が溢れていた。
でも、あの涙は彼には重かったのだろう。
きっと彼にとっては、あれは本当に他意のないプレゼントだったのだ。
なのに、それに対してあんなに感動して涙なんか流されたら、重く感じて引いても当然かもしれない。
もしかしたら、特別な好意でも持たれているのではと思って彼が困惑し、距離を取ろうとして急にそっけなくなった――そう考えれば、全て辻褄が合うのだ。
「……さん?」
黙り込むを見て、幸村が声を掛ける。はっとして、は顔を上げた。
「あ、はい、あの」
そこで言葉は止まる。
しかし、心配してくれる二人には申し訳ないけれど、この話を彼らにすることは、どうしても出来なかった。
もし真田がそっけなくなった理由が本当に自分の予想通りだったとしたら、彼からプレゼントを貰っただなんて話を彼の親友である幸村や柳に吹聴すれば、彼は更に嫌がるかもしれないし、もっと距離を置かれてしまうかもしれない。
それは――それだけは、絶対に嫌だ。
しかし、じっと見つめてくる幸村と柳の視線に耐え切れず、はまた無言で俯く。
すると、ふいに幸村が口を開いた。
「ああ、ごめんね。話しにくいことなら無理して言わなくてもいいよ。たださ、真田の様子がおかしかったのは明らかだし、そのことをさんも気にしてるみたいだからさ。何かあったなら、話を聞いてあげられるかなって思っただけなんだ」
そう言って幸村は苦笑すると、柳に「ね」と同意を求め、笑いかけた。
それに優しく頷き、柳は幸村の言葉を受け継ぐ。
「、俺も精市も弦一郎とは長い付き合いだし、あいつの思考や行動パターンくらい予想はつく。あいつは分かりやすい性格をしているしな。今は言えなくとも、もしお前が弦一郎のことで悩んでいることがあるならいつでも相談に乗ってやるから、話せるようになったらまた話を聞かせてくれ」
柳の言葉の後、幸村ももう一度にっこり笑いながら首を縦に振った。
二人の心遣いに、は思わず胸がじいんとして、ほんの少し頬が緩む。
彼らが心から心配してくれている気持ちが伝わってきて、そのおかげで真田のことで苦しかった気持ちが少し和らいだような気がした。
「柳先輩、幸村先輩、ありがとうございます。私は、大丈夫ですから」
そう言って、は笑った。
「本当?」
幸村の言葉に、はもう一度笑顔で頷く。
「はい、本当に大丈夫です。ありがとうございます」
「まあ、弦一郎が無口になったからと言って、あまり気にしないことだ。あいつが無口になることなんか別に珍しくもなんともないぞ」
「そうだよ、むしろさんはあの真田とよく喋っている方だよ。言っとくけど、真田があんなふうに気さくに喋るのは、女子ではさんだけだからね。三年の女子でも、こんなに喋る子いないよ?」
幸村の言葉に、胸がドキッとした。
瞬きを繰り返しながら、はそっと幸村を見上げる。
「……そ、そうなんですか?」
「うん。ほら、真田って見た感じ怖いでしょ? 無駄に迫力あるって言うか。あれでどうしても、周りから一歩引かれる面があるんだよね」
苦笑しながら、幸村は柳に視線をやる。
すると、柳も苦笑しながらそれに頷いた。
「弦一郎は、誤解されやすい奴だからな。しかも本人がそれを気にしないから、余計に接し難い雰囲気を作っているのだろうな」
「それに、真田自身別にべらべら他人と喋るような人間じゃないしね。まあ、俺達やテニス部の他のレギュラーとは話すけどさ。男子でも本当に気心の知れた一部の人間だけだし。女子では、かなり珍しいよね。というか、さんが初めてだと思うよ」
「あ、あの、それはきっと私がマネージャーだからです。真田先輩は責任感が強い人だから、頼りない私を気にかけてくれてるんだと思います」
そう言いながら、何故か顔が熱くなる。一体、自分は何を言い訳しているんだろう。
「そうだね、それはあるかもしれない。けどね、さん。真田が君に見せる顔は、本当に優しいよ」
「ああ、長い付き合いの俺達でも驚くぐらいにな。、今日何があったかは知らないが、決して弦一郎がお前を嫌いになったなどということは有り得ないから、あまり気に病むな」
幸村と柳は、そう言って笑った。
ガラス工芸展の最後のことを思い出すと、はその言葉をまるまる鵜呑みにはできなかったけれど、それでも彼らが自分を励ましてくれているその気持ちが嬉しかった。
「はい、ありがとうございます」
そう言って、はぎこちない笑顔を作る。
少しの間、幸村は口元に手を当て何かを考える仕草をしながら、そんなをじっと見つめていたが――やがて、おもむろに口を開いた。
「ねえ、さん。ひとつ、聞きたいことがあるんだけど。いいかな」
「え、はい……なんでしょう?」
かしこまった様子で、いつになく真剣な幸村のその表情に、は少しどきりとした。
一体何を聞かれるのだろうと思いながら、は瞬きを繰り返して幸村の言葉を待つ。
幸村は、そんなをじっと見据えて、言葉を続けた。
「さんは、真田のこと、一体どう思ってるの?」
「……え」
幸村のしたその質問は、病室内に流れる空気や、の息をも、完全に凍りつかせた。
――今、何を聞かれたんだろう。
は、幸村の言った言葉をもう一度頭の中で繰り返す。
「どう思っているか」というのは、つまり――「そういう」意味、なのだろうか。
そして、わざわざこんな質問をするということは、やはり自分が真田に特別な意味での好意を持っていると、彼らに思われているのだろうか。
そう思い始めると、一瞬止まっていた心臓が、一気に速度を上げていった。
「え、ええと……あの」
ただでさえ真田自身に誤解された可能性があるのに、真田の親友である幸村や柳にまでそう思われてしまうのは絶対に避けたかった。
だから、毅然とした態度で「違う」と言わなければならない。
――もうこれ以上、彼に距離を置かれないためにも。
は、動揺して上手く出ない声を、なんとか振り絞る。
しかし、それは「毅然」とは程遠いほどに震えた、か細い声だった。
「ど、どう思ってるって、別に」
「別に?」
の言葉を反復しながら、幸村が表情を窺うように真剣な顔で覗き込んでくる。
そんな幸村から、は思わず目を逸らしてしまった。
「え、えっと、尊敬しています。とっても」
「それだけ?」
「それだけです、いけませんか!?」
むきになるあまり、つい語調がきつくなってしまった。
はっとして、は頭を垂れる。
「ご、ごめんなさい。でも、別にそれ以上のことは……ない、です」
――そう、違うんだ。
彼は、尊敬している先輩。それだけ。
そう思いながらも、胸が痛むのを感じて、ぎゅっと膝の上で両の掌を握り締める。
幸村はそんなを少しの間無言で見ていたが、やがて小さく息を吐いてから、優しい声で言った。
「……そっか。変なことを聞いてごめんね」
幸村の言葉に、はうつむいて表情を伏せたまま、無言で首を横に振る。
しかし、何故か胸の痛みは増していく。
そしては、なんだかとても泣きそうになってしまっている自分に気付いた。
(ダメだ、意味わかんない。なんで私泣きそうになってんの)
心の中が滅茶苦茶だった。もう何も考えられない。
二人の前で泣いてはいけないと思い、は立ち上がる。
「あ、あの、すみません。私も、そろそろ帰りますね」
今帰るのは質問から逃げたようなもので、もしかしたら幸村たちに余計誤解させてしまうのではないかとも思ったけれど、今ここで泣いてしまったら、それ以上に言い訳がつかないような気がした。
「慌しくてごめんなさい、幸村先輩」
「いや、気にしないで。今日はわざわざありがとう。気をつけて帰ってね」
そう言って、幸村が笑う。
幸村が何も突っ込んで来ずに、それだけを言ってくれたことにほっとしながら、は頷いた。
そんなに、柳も優しく声を掛ける。
「、送ろうか?」
「いえ、まだ明るいですし、大丈夫ですから。柳先輩はゆっくりしていってください」
無理やり笑顔を作ってそう言うと、は鞄を手にし、ぺこりと頭を下げた。
「また来ますね、幸村先輩。柳先輩は、また明日ですね。それじゃ」
「うん、また来てね」
「気をつけて、」
そう言ってくれた二人に軽く手を振ると、は逃げるように病室を出た。