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14:思いがけない1日 13

二人だけになった病室で、幸村と柳が顔を見合わせる。
そして、二人は同時に大きな溜息を吐いた。

「一体、何があったんだろう。この二時間ちょっとの間に」

幸村の言葉に、柳が首を横に振る。

「分からん。しかし、『何かがあった』ことは間違いないだろう。弦一郎の奴、帰るまで一度もと目を合わさなかったからな。それどころか、顔すら見ないようにしていたふしがある」
「うん。さん、最初の方は普通だったのに、最後の方はあまり話してくれなくなったって言ってたよね。柳、どう思う?」

その問いにふむと呟いて、柳は口元に手を当てながらじっと考え込む。
そんな柳を横目で見ながら、幸村は言葉を続けた。

「真田が、何かの拍子にさんが嫌になって、それで急に話さなくなった――なんてことはありえないよね?」
「……ないな。何か気に食わないことがあったのならば、弦一郎ならはっきりとその場で言うだろう。全く親しくない相手ならともかく、一度はあそこまで懐に入れた相手に対して何の意見もせず自分の中で自己完結して、『もうこいつとは話さないでおこう』などと思うような、心の狭い奴ではないからな」
「うん、俺も同意見だね。だとすると――『話さなくなった』んじゃなくて、『話せなくなった』と考えた方がしっくりくるな」
「ああ。これは、もしかすると弦一郎の奴……」
「気付いた、かもね」

そう呟いて、幸村がにっと笑う。
それに同調するように、柳も嬉しそうに頷いた。

「真田はおそらく初恋だろうからね。好きだって自覚しちゃって、今までみたいに話せなくなるとか、目も合わせられないとかさ。真田ならめちゃくちゃありそうな気がするしね。――ただ、さんの方が少し気になるかな」

そう言うと、幸村はベッドの淵から立ち上がり、暮れ始めた日の光が差し込む窓の側に移動する。
視線を窓の外に落とすと、丁度病院の正面口から出てきた彼女の姿が見えた。
彼女は何かを吹っ切るように、走って駅の方へと向かっていく。

さん、絶対気にしてるよね。さっきの真田の態度」

柳は座ったまま幸村を目で追い、軽く頷いて言葉を続ける。

「ああ、あの弦一郎の態度には、間違いなくショックを受けていたな」
「うん。だから俺さ、あの状態なら、ちょっと揺さぶりを掛けたらあの子も自分の気持ちに気付いてくれるかなって思ったんだけど……上手くいかなかったみたいだな」
「精市、あの質問は『揺さぶり』どころではなかったぞ、流石に直接過ぎだ」
「はは、ちょっと急ぎ過ぎちゃったかな」

くるりと振り向いて窓の淵に寄りかかり、幸村は苦笑した。

「急がずとも、そう遠くはないだろう。弦一郎は十中八九気付いただろうし、の方も迷いがあるだけで、あと一息といったところだろうし」

そんな柳の言葉に、幸村はうーんと悩むような声を上げる。

「迷ってるだけならいいんだけど……さん、俺の質問に一瞬怒っただろ? あれが、なんか引っかかるな。照れて怒ったって感じじゃなかったんだよね」
「確かに、あの声の荒げ方はらしくなかったな。何か思いつめているようにも見えた」
「うーん、さんの方は、もう少し時間が掛かるかもね。手ごわいのは、もしかしたら真田じゃなくてさんの方かもしれないな」

そう言って幸村は溜息をひとつ零すと、眉間に軽く皺を寄せながら口を尖らせた。

「あーもう、あの二人ってばなんであんなに回りくどいんだろう。無事にくっついたら、全力でからかってやる」

そんなことを言う親友に軽く苦笑して、柳もまた、どこか気がかりな表情を浮かべながら大きな息を吐いた。

◇◇◇◇◇

家に帰るとすぐ、は自室に上がってベッドの上に身を投げ出した。
なんだか、酷く疲れた。
いつもの部活の何倍もの疲労感を感じて、は大きな溜息をつく。

幸村の病室を出てからも、は真田の態度が急に変わった原因をずっと考えていた。
しかし、やはりあれ以外の――プレゼントを貰った時に自分が泣いてしまったこと以外の原因は思いつかない。
彼の態度が完全に変わったのは、あのプレゼントの一件後であることは間違いないのだ。

あのプレゼントを渡してもらう前までは、確かに彼は優しかった。
からかうようなことは何度も言われたけれど、あのやり取りはむしろ彼をとても身近に感じていられて、すごく嬉しかったのだ。
しかし、あのプレゼントの直後に、彼の態度は一転した。
向こうから話を振ってくれることはほとんどなくなり、こちらから話をしても全く続かない。
それどころか目線すら何度も逸らされたし、その表情も強張っていて眉間には皴すら寄っていた。
どう考えても、彼に距離を置かれたとしか思えなかった。

(あのプレゼントは、先輩にとっては誕生日プレゼントのお返しとか、マネージャーを頑張っていることへのご褒美とか、そういうことでしかなかったんだよね。なのに、私が大袈裟に泣いちゃったから……先輩引いちゃったんだろうな)

自分が彼に特別な好意を持っていると勘違いされて、彼がそのことに困惑――いや、それどころか迷惑にすら感じたのなら、唐突にあんな態度になったことの説明はつく。
つまり彼は、そういう目では見られたくないということなのだろう。

「違うのにな……」

まるで誰かに言い訳するように、独りごちた。
彼のことは、一人の人間としてすごい人だと尊敬している。
そういう意味で好きかと聞かれたら、好きだと全力で答えるだろう。
でも、違う。
恋愛感情そういうのではないはずなのだ。
ただ、彼と過ごす時間はとても楽しくて心地良いから、あの時間を失いたくないだけで――

そう思いながら、は上半身を起こして自分の体の側に転がっていたバッグを引き寄せ、中に入っていた二つの包みを取り出した。
ひとつは自分で買った髪留めで、もうひとつは――彼から貰ったあのイヤリングだ。
そっと二つの袋を開け、掌の上に並べる。
おそろいのガラスの花のイヤリングと髪留めは、やはりとても可愛くて綺麗だったけれど、見ていると何故か胸が痛くなって涙が溢れた。

――お願い、先輩。
先輩のこと、これからも絶対に好きになんてならないから。
マネージャーとして、これからも精一杯頑張るから。
今まで通り、ただ普通にお話させてもらえるだけでいい。
それ以上のことは、何も望まないから。
だから、お願い――私のこと、避けないで。

祈るようにそう思いながら、は溢れた涙をそっと拭った。

◇◇◇◇◇

日が暮れ、鮮やかな月が辺りを照らす。
真田は、そんな明るい月の光の下、自宅の庭で一心不乱にラケットを振るっていた。
から逃げるように病院を去ってから、わき目も振らずまっすぐ家に帰ったのだが、帰路の途中も頭の中はずっとぐちゃぐちゃのままだ。
気づいてしまった彼女への恋心は、今の真田にはとても持て余すものだった。
色恋など柄でもないと自分でも思うし、関東大会も近いこんな大切な時期に何を浮かれたことをとも思うのだが、今更彼女への想いを否定することは出来そうにもない。
しかも、その想いに対して自分自身どう対処すればいいのか分からない余り、当の彼女を思いきり傷つけてしまった。
彼女が好きだと思う気持ちと、傷つけてしまった彼女に申し訳ないと思う気持ちと、そんな自分をとても情けなく思う気持ちと、柄でもない想いを抱いた自分を恥ずかしく思う気持ち――いろいろなものが頭の中で混ざり合って、本当にどうすればいいのか分からなかった。
そんな頭を空にしたくて、真田は帰ってからずっとラケットの素振りを続けていたのだ。
テニスの練習に集中している間だけは、そういったごちゃごちゃしたものを少しでも忘れていられたから、夕食を食べた後も再度庭に出て、ただひたすらにラケットを握っていた。

「……弦一郎、そろそろ切り上げたらどう? もうすぐ九時になるわよ」

ふとそんな声が聞こえて、真田は手を止める。
すると、縁側から少し心配そうな顔でこちらを見つめている母親の顔が目に入った。

「もうそんな時間ですか」
「ええ。大会が近くて力が入ってしまうのはわかるけれど、程ほどになさいね」
「……はい、ありがとうございます」

真田の母は、縁側に近づいてくる息子を優しい眼差しで見つめる。
そして、縁側にたどり着いて腰を下ろし、置いていたタオルを手に取って首にかけた真田に、母は自分が手にしていた新しいタオルを手渡した。

「新しいのを使いなさい、もうそちらのタオルは汗だらけで、使い物にならないでしょう」

そう言って笑うと、母は真田の首に掛かっていたタオルを取り上げる。
軽く頭を下げて礼を言いながら、真田は手渡された新しいタオルで軽く額を拭こうとし――その瞬間、真田の手が止まった。

「……これは」

思わずそう呟きながら、はっとして手の中のそれを見つめた。
見覚えのある、綺麗な黄色の、とても手触りのいいタオル。
それは、ストラップの他に彼女から貰ったもうひとつの誕生日プレゼントだった。
それに気付いた途端、かあっと顔が熱くなって、思わずその手が止まる。

「どうしたの? 弦一郎」
「い、いえ……」

いきなり動作が止まった自分の顔を、側に立っていた母が不思議そうに覗き込んできた。

「このタオルがどうかしたの? 見慣れないタオルだとは思ったけれど、普通にあなたの部活用のタオルと一緒に置いてあったから何も考えず持って来たのだけれど……使ってはいけないタオルだったりしたのかしら」

口元に手を当て、母は何度も目を瞬かせる。

「い、いや……そういうわけでは」

そう言いながら、真田は焦った表情を隠すように、そのタオルでもう一度顔を拭く。
母は、そんな息子の姿に気付いたのか、上品にくすりと笑った。

「いい色のタオルね。あなたのテニス部のジャージの色と同じ色かしら」
「……ええ、まあ」
「弦一郎が買ったの? それとも、どなたかが下さったの?」

母の問いに、また手が止まる。
そして、心を落ち着けるように大きな息を吐くと、「……貰い物です」と小さな声で答えた。
すると。

「もしかして、女の子からかしら?」

ふふっと笑って言った母のその言葉に、真田は思わず赤面しながら咳込む。
その態度で分かったのか、母は「あらあら」と呟きながらも、嬉しそうに笑った。

「図星なのね。あなたみたいな朴念仁にも、そんな素敵なプレゼントをくれるような女の子がいるなんて、お母さん嬉しいわ。あなた、その歳であのおじい様に似てしまったみたいだから、ちょっと心配していたのよ」

母は、そんなことを心から嬉しそうに言う。
言い返すことも出来ず、真田は高鳴る心臓をごまかすように、何度も何度も顔を拭いた。

「弦一郎、もし恋人が出来たら、ちゃんと家に連れてきて紹介するのよ」
「な……!!」

恋人などと言われ、流石に焦って、真田は真っ赤な顔で側に立つ母の顔を見る。
すると、焦る息子の顔を面白そうに見つめ返し、真田の母はふふっと笑って言葉を続けた。

「大丈夫、あなたの選んだ子なら喜んで迎えてあげるから。その日がくるのを楽しみにしているわね」

そう言うと、「お疲れ様」と微笑み、古いタオルを手に部屋の中へと戻っていった。
そんな母の姿を見送り、真田はまた、大きな溜息をつく。

(……何故、今日に限ってこんな……)

まさか、気持ちに気づいたその日にこんなことを言われようとは思ってもみなかった。
重なった偶然に、真田の顔がまた熱くなる。
再度薄っすらと汗ばんだ額を手にしていたタオルで拭き、そのままそのタオルに視線を落としてじっと見つめた。
タオルの色が月の光に照らされて、なんだかきらきらして見える。
これは彼女が自分のために一生懸命選んで贈ってくれたものなのだと思うと、心臓がまた煩く高鳴りだした。

――もし恋人が出来たら、ちゃんと家に連れてきて紹介するのよ。

先ほどの母の言葉が頭にちらつき、同時に贈り主の彼女の顔が過ぎる。
そんなことがあるわけがないと思いながらも、そんな未来がもしあれば――などと矛盾したことを思ってしまう自分に気付いて、真田はぎゅっと手にしていたタオルを握り締めた。

「……あるわけがない……だろう」

今日のことを思い出し、自分に言い聞かせるように呟いた。
途中まではともかく、気持ちに気付いてしまった後からは、彼女を思い切り傷つけてしまった。
誕生日にプレゼントをくれたり、自分のことを優しいと言ってくれたり、ガラス工芸展を一緒に周ることになった時、あんなに嬉しそうな顔をしてくれた彼女。
今自分が彼女に感じているのと同じ特別な感情を、彼女が自分に対して抱いてくれていることは絶対にないだろうが、あの時点までは、少なくとも部活の先輩としてなら慕ってくれていたと思う。
しかし、最後のあの一連の件でそれもどうだか怪しくなってきたというものだ。
彼女にしてみれば、唐突に態度が豹変して意味が分からなかっただろう。

大体、彼女が今自分と親しくしているのは、自分が副部長で、彼女がマネージャーだからだ。――たったそれだけの繋がりでしかない。
彼女がマネージャーという仕事に完全に慣れてしまえば、もうこんな厳しくて堅くて流行の会話も出来ないような、何の面白みも愛想もない先輩とは、必要以上に親しくする必要などないだろう。
彼女の周りには、切原や柳や、他の部員達がいる。
幸村だって、会ったのは二回だけだが、既にもうとても親しそうだ。
彼女にとって、彼らは自分よりずっと話しやすいし接しやすいに違いない。
そんな彼らが近くにいるのに、彼女がこんな自分に構う理由などあるわけがないような気がする。
ましてや恋愛事の対象になど、思うはずもないだろう。

――そう思った瞬間。
自分で思ったことなのに、胸が締め付けられる思いがした。
尚且つ、大会も一月後に迫るこんな時期に、しかも親友が入院中のこんな時に、そんなことで頭を悩ませている自分に情けなくもなって、真田はタオルを握っていた手に更に力を込めた。

(俺は何を考えている……)

そんなことを思いながら大きく息を吐き、気を紛らわせるように空を見上げる。
しかし、いつのまにか空は大きな雲で覆われており、あんなにはっきりと浮かんでいた月すら、見えなくなってしまっていた。
陰鬱な空はまるで今の自分の心のようで、真田は重い溜息を吐いて、そっと目を伏せた。

初稿:2007/10/20
改訂:2010/03/26
改訂:2024/10/24

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