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14:思いがけない1日 8

しばらくして、がレジから戻ってきた。
しかしその手には紙切れが一枚あるのみで、買ったはずの本がない。
どうやらレジも混んでいたようだったので、プレゼントの包装待ちだろうかと思いながら、真田は彼女に尋ねる。

、本はどうした?」
「あ、今混んでるらしくて、少し時間下さいって言われちゃいました」

そう言って、彼女は苦笑した。

「ああ、やはりそうか。先ほど俺が行った時も混んでいたからな」
「すみません、先輩。三十分くらいは掛かるみたいで……」

は、申し訳なさそうに眉をひそめて言う。そんな彼女に、真田は優しく笑いかけた。

「別にお前のせいではないだろう。まだ幸村から連絡も入らないし、気にすることはない。しかし、三十分か。どうするか……」

そう呟きながら、真田は考え込む。
すると。

「――あの」

小さな声で、彼女が声を掛けてきた。
何かを言いたそうにしている彼女に、真田は耳を傾ける。

「どうした、どこか行きたいところでもあるのか?」
「えっと……今、これレジで貰ったんですけど」

彼女の手の中には、先ほどからずっとチケットのような紙切れが握られている。
真田は少し背をかがめ、その紙切れを覗き込んだ。

「なんだ、それは?」
「あの、今、隣の催し物会場でガラス工芸展をやってるらしいんですけど……千円以上買った人に無料チケット配ってるらしくて、くれたんですよ。それで、その……」

上目遣いで真田を見上げながら、一生懸命言葉を綴る
そんな彼女を微笑ましく思いながら、真田は彼女の言葉の続きを奪う。

「――行ってみたいんだな?」

は、言葉の先を読まれたことに一瞬怯んだような表情をしたが、やがて遠慮がちにこくんと頷いた。

「はい、綺麗そうだし、観てみたいんですけど」

そう言うと、彼女はまた窺うように真田を見上げて、言葉を続ける。

「……もし良かったら、せっかくですから先輩も一緒に行きませんか。あの、一枚で四人までいけるらしいんですよ。もちろん、先輩が嫌でしたら私一人で行ってきますけど……」
「ふむ、ガラス工芸か。いいじゃないか」

真田がそう言うと、の目がぱっと見開いた。

「先輩も、行ってくれますか?」
「ああ、ガラス工芸などそうそう見られるものでもないし、なかなか涼しげだ。俺も興味があるぞ」

その言葉に、彼女が嬉しそうに表情を緩め、口を開く。

「ありがとうございます!」

そして彼女は、とても小さな声で呟くように「良かった」と言って笑った。
その表情は、本当に心から嬉しそうだ。一緒に行くことを、彼女はそんなに喜んでくれているのだろうか。

(い、いや、きっと深い意味はないのだろう。は、一人で行くよりは誰かと一緒に行った方が楽しいと思い、そこにたまたま俺がいただけの話だ)

自分にそう言い聞かせて、真田は大きく咳払いをする。

「それじゃ、先輩、早く行きましょう!」

そんな声が聞こえて、はっと我に返ると、満面の笑顔の彼女が目に飛び込んできた。
早く行きたくてうずうずしているのか、彼女の足はもう隣の催し物会場に向いている。

「あ、ああ」

真田が慌てて頷くと、は嬉しそうに頷き返し、少々早足気味に歩き出した。そんな彼女の背中を見つめながら、真田は微笑ましそうにその後を追う。
やがて、催し物会場の入り口前で二人は足を止めた。
ロープや簡単な衝立で軽く仕切られただけの入り口の奥には、既に展示品がいくつか顔を覗かせている。
外から簡単に覗いてしまえることや、無料チケットを配っていること、それに実際の見学料自体も大した金額ではないから、もともと入場でお金を取るのが主な目的ではないのだろう。
そうなると中もそんなに大したことはないだろうが、彼女はきっとそれでも楽しそうに見て回るのだろうなと、なんとなくそんなことを思いながら、真田はをちらりと見やった。
するとワクワクしたような笑顔でこちらを見ていた彼女と目が合い、ほんの少しだけどきりとする。

「で、では、入るか」
「はい!」

真田の言葉に彼女は嬉しそうに笑って頷き、手にしていたチケットを入り口のカウンターにいる女性スタッフに手渡した。
そして、入場するなり彼女は何かを目に留め、大きな声を上げる。

「うわ、先輩、あれすごいですよ!」

その声につられて、真田もまた彼女の視線の先を追った。
その瞬間視界に飛び込んできたのは、会場の中央部に置かれている、ガラス製の大きなイルカのオブジェだった。

「ほう、あれは……イルカ、か?」
「そうだと思います、先輩、もっと近くに行ってみましょう!」

彼女はそう言うと、はしゃぎながら中央に鎮座している大きなイルカへと駆け寄って行く。

、あまりはしゃぐなよ!」

慌てて真田が声を掛けると、彼女は「はあい」と笑って返事をする。
いつも以上に落ち着きのない彼女に苦笑を漏らしながらも、その無邪気さがなんだかとても可愛らしくも思えた。

(全く、あいつは……)

そんなことを思いながらくすりと笑って、真田もまたガラスのイルカの置物の側へと歩み寄る。
一メートルくらいはありそうな大きなガラス製のイルカは、きっとこの展示会の主役なのだろう。周囲をロープで守られながら、青から透明へと変化する見事なグラデーションを身に纏い、そのイルカはまるで周囲に誇示するように雄大に泳ぐ姿を見せていた。

「ほう……これはなかなか、壮観だな」

思わずそんな言葉を漏らした真田の隣で、も感嘆の声を上げる。

「すごいですよね……生きてるみたい。ガラスで出来てるなんて、思えないです」

彼女のその言葉に「ああ」と頷きながらも、真田の視線はいつの間にかイルカからへと移っていた。
展示用ロープすれすれの位置まで近づき、感動したようにその両手を合わせながら、彼女はきらきらと目を輝かせてガラスのイルカに魅入っている。
そんな姿が、何故か真田の視線をとらえて放さなかったのだ。
――しかし。

「うわっ!」

彼女の唐突な声に、真田ははっとして我に返る。

「どうした、

真田が目を瞬かせながら尋ねる。
すると彼女は、その口元に手を当てながら、とても驚いた声を上げた。

「先輩、このイルカ値段ついてますよ! えっと……一、十、百、千、万……え、な、七十万!? うわーたっかーい!!」

いきなり様子が変わったその声に少し驚きながら、真田ももう一度、そのガラスのイルカを凝視する。
すると、確かにイルカの側には仰々しい値段表示のプレートが付いており、その中には「¥700,000―」の数字が踊っていた。
その値段に、流石の真田も一瞬息が止まる。

「……すごい額だな」
「で、ですよね……ちょっと高過ぎじゃないですか?」
「いや、名のある工芸家が手がけた一点ものの作品などは、高いものだぞ。特にガラスでこの大きさともなると、なかなか同じものを二つ三つといわけにはいかないだろうからな。高価なのは当然かもしれん」

真田がそう言うと、は目をぱちくりと瞬かせながら、一歩後ずさった。

「……もし壊したりなんかしたら、弁償ですよね、やっぱり……わ、私、近づくのやめときます……なんか壊しちゃいそう……」

先ほどの恍惚とした表情は消え、彼女は苦笑しながら後ずさりして、ガラスのイルカの周りを保護していたロープから離れ出した。
そんな彼女に、真田は思わずくくっと笑う。

「そうだな、お前は案外抜けているから、近づかない方が懸命かもしれんな。お前が豪快に転んで、展示用のロープもろともあのイルカを張り倒すということが無いとも限らん」

そう言って、真田はからかうように笑った。
そんな真田に、はほんの少し頬を膨らませながら、むっとした表情を向ける。

「……先輩、はっきり言いますね。確かにそうかもしれないですけど、少しくらいフォローしてくれてもいいじゃないですか」
「すまないが、根が正直に出来ているものでな。嘘はつけんし、つかん主義だ」
「う……更に追い討ちをかけます……? た、確かに有り得そう過ぎて自分でも否定はできませんけど……」

はそう呟き、眉をひそめて口を尖らせた。
そんな彼女を可愛らしく思いながら、なだめるように真田は言う。

「そうだな、悪かった。流石のお前と言えど、あんなに大きなイルカを巻き込んで破壊するほどドジではないか。まあ、いつぞやのように一人で転んで頭を打ったり腰を打ったりする程度か?」

彼女が過去にしたことを思い出し、真田は笑う。
そんな真田の言葉に、の顔は真っ赤に染まった。

「や、やだ! た、確かにそんなこともありましたけど、もう忘れてください!!」
「いや、あれはなかなか忘れられるものではないぞ?」
「いいから忘れてください!!」

そう言いつつ、は更に頬を染める。
そんな彼女が面白くて可愛くて、真田は更に笑みを零した。

「はは、少しからかっただけだ。そう怒るな」
「もう、先輩! 私、先に行きますからね!!」

少しふてくされ気味に言うと、彼女は先の方へと早足で歩いていった。
その背中を見つめ、真田はまたくくっと笑う。

――本当に、見ていて飽きない奴だ。

そんなことを思いながら、真田はゆっくりの後を追った。
そして、その次の展示物である大きな花瓶のような壷のようなものの前で、足を止めている彼女に追いつく。

、それはなんだ?」
「なんでしょう、大きな壷かな? 模様とか、すごく綺麗ですよね」
「ああ、綺麗だ。……しかし、先ほどのイルカよりも壊しやすそうだな。頼むから壊すなよ?」

またからかうようなことを言って、真田は笑う。
すると。

「もう、まだ言います? ……先輩、最近ちょっと意地悪くないですか」

そう言いながら、はすねた顔をして口を尖らせる。
そんな彼女を見て、真田は笑った。

「俺は意地悪か?」
「たまにですけどね。いつも優しいのに、たまーにちょっと意地悪いこと言って私をからかうじゃないですか」

彼女のその言葉に、真田はどきりとした。
優しい――真田が他人にそう言われることは、ほとんどなかった。
厳しいだの怖いだの、歳相応でないだの、そんな言葉を掛けられるのは不本意ながらも日常茶飯事で、聞き慣れてしまっているけれど、「優しい」という形容は、余りされた記憶はない。
なのに、今彼女は持ち上げるわけでも褒めちぎるわけでもなく、あんなにもすんなりと言ってくれた。
普段から彼女がそう思ってくれていなければ、こんな風には出て来ないだろう。
彼女の目には、自分はそう映っているということなのかと思うと、真田の胸が高鳴りを増した。

そして、「意地悪」という形容もだ。
意地悪いと言われることは、優しいに比べると珍しくはないが、彼女の言った「意地悪」という言葉からは悪意めいたものは感じられない。自意識過剰なのかもしれないが、どちらかというと親しみすら感じる気がする。
「意地悪」と言われたのに、こんなにもあたたかくて嬉しい気持ちになったのは、初めてだ。

「意地悪か……」

真田は、彼女の言った言葉をなんとなく呟くように繰り返す。
すると彼女は、何を勘違いしたのか、慌ててその小さな手を横に振った。

「あ、で、でも、先輩いつもはすっごく優しいですし、意地悪って言っても先輩が本当に私に意地悪しようとしてるとは思いませんし、あの、あの……」

「意地悪」と言われて傷ついたとでも思ったのだろうか、彼女は頬を少し染め、今度は申し訳なさそうに必死でフォローするようなことを言い始める。
そんな彼女を見て、真田は思わずくすりと笑みを零してしまった。
――すると。

「って先輩、またからかったんですか? もう!」

彼女はそう言うと、ふいっと顔を背けて先へと歩き出した。

(今度は、そういうつもりではなかったのだがな)

そう思いながらも、溢れてくる笑みは止まらない。
どこか微笑ましい気分で、先へ進む彼女を見つめ続ける。

今度は、小さな何かがいくつか載っている低い台の前で、は足を止めた。
彼女は台の上に載っている筒状の何かを手にとると、それを覗き込むように片目に当てる。
そして、その筒をゆっくりとくるくる回し始めた。

――万華鏡か?

真田がそう思った瞬間、彼女がその筒から目を離し、こちらを向いた。
そして嬉しそうに笑いながら、自分に向かって手招きをする。
真田は、またくすりと笑って、彼女の側へと移動した。

「先輩、先輩! 見てください、これすごく綺麗ですよ!」

自分が側に着くなり、彼女はそう言って笑った。

「総ガラスの万華鏡か。ふむ、風流だな」

真田は、彼女から万華鏡を受け取って、おもむろに片目にあてた。
その瞬間、視界にキラキラと光る原色の世界が広がる。

「素敵でしょう? 動かすともっと綺麗ですよ」

はしゃぐような彼女の声が聞こえて、真田は言われた通りに万華鏡をゆっくりと回転させた。
すると、その動きにあわせて、光の文様もその姿を変化させていく。

「ああ、確かに綺麗だ」

そう言って、真田は万華鏡を下ろし、を見る。
彼女は、他の万華鏡を手に取り、嬉しそうに笑いながら覗き込んでいた。

「万華鏡なんてすっごく久しぶりに見ました。こんなに綺麗なものだったんですね」

そう言うと、彼女も万華鏡を下ろし、無邪気な笑顔を真田に向けた。
先ほどは拗ねるような顔をしていたくせに、もうこんな笑顔を見せてくれるに、真田はまたくすりと笑う。

(万華鏡、か。……そういえば、こいつはまるで万華鏡のようだな)

真田には、がころころと模様を変える万華鏡と重なって見えた。
些細なことにも反応して、笑ったり、拗ねたり、驚いたり、感動したり、多彩な表情を見せてくれる彼女。
そんな彼女を見ていると、更にもっともっと構いたくなってしまうのだ。
次はどんな反応を見せてくれるのだろうと、思わず胸を高鳴らせながら。
まさにそれは、万華鏡を覗き込みながら少しずつ刺激を与えてその変化の様子を楽しむ感覚と似ている気がした。

「先輩、ずっと万華鏡で遊んでたい気もしますけど、次行きましょうか」

彼女の声が聞こえて、真田ははっと我に返る。
そして、「ああ」と返事をして、万華鏡を元の場所にそっと戻すと、彼女とともに次の展示物へと移動した。

初稿:2007/07/23
改訂:2010/03/23
改訂:204/10/24

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