――次の日。
まだ梅雨入りしていない六月最初の日曜日は、よく晴れてとても気持ちが良かった。
は、昨日真田と決めた待ち合わせの場所で、ドキドキしながら彼を待っていた。
現在、駅前の時計は十二時半を指している。
真田との約束の時間は十三時――ずいぶん早く来てしまったと思いながら、は気持ちを落ち着かせるように息を吐く。
それにしても、すごいことになってしまった。
まさか、彼と休日に二人きりで出掛けることになるなんて。
(ああ、緊張する――どうしよう……)
思わず、は胸に手を当てる。
鼓動が速い。顔が熱い。
確実に意識していることを恥ずかしく思いながらも、ドキドキが止まらなくて、そしてどこかほんのりと嬉しさを感じてしまっている自分に気付く。
(……ああもう、何考えてるんだろう。今日は部活の用事なのに)
気を紛らわせるように、は自分が持っている小さなバッグに視線を落とした。
これは今年のお正月に一目惚れして、お年玉をはたいて買ったものだ。
テニス部のマネージャーになってからは一度も使う機会はなかったけれど、自分が持っている中でも一番のお気に入りで、「とっておき」の時以外は使わないと決めていた。
どうしてこんなものを持ち出してしまったんだろう。
更に、服装に関してはもっと激しい葛藤があった。
部活の用事だから服装に拘るのはおかしいと思いつつも、彼に見せるのだと思うとすんなりと選ぶことが出来なくて、昨日一時間以上も掛けて、なんとか今の服を選んだのだ。
しかし、それだけ時間を掛けても不安は尽きない。
(へ、変じゃないかな……。もう、いっそのこと制服の方が気にしなくていいから良かったのに)
実は、昨日真田と今日の待ち合わせなどを決めていた時、彼と服装の話もしたのだ。
やはり部活の用事だから制服だろうかと、一旦は制服にしようと二人で決めたのだが、その時唐突に話に加わってきた柳と切原に「休日に制服は無いだろう」と言われて、何故か私服で行くことになってしまったのだ。
しかし、制服ならこんなに悩まずに済んだのにと思うと、は少しだけ柳と切原が恨めしくなった。
(でも、もう着てきちゃったんだし……考えたって仕方ないよね)
そう思いながら、は再度駅前の時計を見る。
約束の時間までは、まだ二十分以上もあった。
きっと彼はまだしばらくは来ないだろうなと思った、その時だった。
「!」
ふいに、彼の声が聞こえたような気がした。
驚きながら、は辺りを見渡す。
すると、向こうから慌てて走ってくる彼の姿が見えた。
「先輩!」
は軽く手を振り、真田が来る方向に近づく。
程なくして、見慣れない私服姿の真田がの側にやってきた。
「先輩、おはようございます」
「ああ、おはよう。」
ほんの少しだけ荒い息を吐きながら、少々俯いて真田は息を整える。
そんな彼を側で見つめながら、は彼の私服姿に胸を高鳴らせた。
(うわあ……先輩、私服だともっと大人っぽく見える……)
そういえば、制服と部活ジャージ以外の彼の姿は初めて見た。モノトーン系の色合いのとても落ち着いた服装で、背の高い彼にとても似合っている。
つい口に出そうになった「かっこいい」と言う言葉をぐっと飲み込み、はただ頬を熱くさせた。
すると。
「すまない、もしかして俺は時間を間違えたか? 一時の約束だと思っていたのだが」
真田が自分の腕時計をまじまじと見つめ、焦るように眉をひそめて口を開いた。
「え? 一時で合ってますよ」
がきょとんとした顔で答えると、真田は目を瞬かせた。
「……では、お前が時間を間違えたのか? まだ十二時四十分にもなっていないが……」
「いえ、別にそういうわけじゃ……」
そう言って、は不思議そうな表情で真田を見つめる。
そんなを見て、真田は苦笑を浮かべた。
「、お前はいつもこうなのか? ずいぶん早いんだな。俺も待ち合わせの時間よりは早く着く方だが、お前には負けるようだ」
「あ、あの、すみません……えっと、特にすることもなかったので早く出て来ちゃったんです」
しまったと思いながら、は慌てて言い訳を口にする。
これでは、まるで彼との待ち合わせをとても楽しみにしていたみたいだ。
――いや、楽しみにしていなかったとは決して言えないけれど、それを彼に悟られたくなかった。
「ごめんなさい、先輩」
「何故お前が謝る必要があるんだ。すまないな、お前より先に着こうと思って早く出たつもりだったから、お前の姿を見て少し慌てただけだ。気にしないでくれ」
「いえ、こっちこそ勝手に早く来ちゃっただけです。すみません、気にしないで下さいね」
そう言って、二人は笑い合った。
「では、行くか。あの店はこのすぐ近くだったな」
「はい!」
元気良くが頷くと、真田がふっと笑って歩き出す。もまた慌てて隣に並び、歩調を合わせた。
休日に、私服で並んで彼の隣を歩いている――そう思うだけで、なんだか胸がドキドキした。
部活の用事なんだからと何度自分に言い聞かせても、その音が彼に聞こえないか心配になるほど高鳴った心臓は、全く収まってくれそうにない。
(あーもう、やだ……なんでこんなにドキドキしちゃってるんだろ)
そんなことを思い、一人で自問を繰り返していると、ふいに彼がに話し掛けた。
「せっかくの休日だと言うのに、すまなかったな。本当に無理はしていないか?」
「え、無理? 私がですか?」
きょとんとした顔で自分を指差しながら尋ねると、真田は「ああ」と小さな声で頷いた。
「本当に大丈夫ですよ。私、そんなに体力なさそうに見えます?」
「そんなことはないが、お前は自分の体調には結構無頓着そうだからな」
その言葉と表情には、心配してくれている彼の気遣いが溢れていて、は更に胸を高鳴らせた。
(先輩って、ほんと、面倒見良くて優しいよね……)
しかしそう思ったのも束の間、すぐには逆に彼のことが心配になってしまった。
彼だって、せっかくの休日返上で休む暇もなく過ごしているのは同じのはずだ。なのに、いつだって人のことばかり気にして、彼自身はちゃんと自分の身体を気遣っているのだろうか。
以前幸村が言っていた。真田は責任も心配事も一人で背負い込んで、人に頼ることを知らない――確かにその通りだと思う。彼がいつか潰れてしまわないか、不安に思うときがあると言っていた幸村の気持ちが、とてもよく分かるような気がした。
「先輩こそ、大丈夫なんですか?」
思わず、は真田に尋ね返した。
「ん? 何がだ」
「無理してませんか? 先輩、普段だって私なんかより数倍動いてますよね。練習の時も自分の練習だけじゃなくて、他の人の練習だって見てあげてるじゃないですか。やっぱり、今日くらい休んだ方が良かったんじゃないでしょうか」
「俺は大丈夫だ。お前とは身体のつくりが違うからな、心配するな」
「確かに私と先輩じゃ、先輩の方がずっとずっと体力あると思いますけど、それでも人間なんだから際限が無いわけじゃないでしょう?」
心配そうな瞳で、はじっと真田を見つめた。
真田は返答に困ったように、言葉を詰まらせる。
「……先輩はいつも私のことを心配してくれますけど、私からすれば、先輩だって自分の身体のこと考えてないように見える時があるんです。幸村先輩だって同じようなことを言ってましたし、私だけじゃなくて、きっと皆そう思ってると思います」
は、ぎゅっと掌を握り締め、訴えるように言った。
「先輩。私前に先輩と約束しましたよね。自分の身体のことを考えるのも、マネージャーの仕事の一つだと思って、ちゃんと気をつけますって。私、絶対に約束守りますから、先輩も約束してください。絶対に無理はしないって」
必死そうな顔つきで言葉を紡いだを、真田は何かを思うように、無言で見つめる。
――そして。
「……分かった。もともと気を付けてはいるつもりだが、俺も自分の体力を過信しているところが無いとは言えん。自分の体調には十分に気を付け、絶対に無理はしないとお前に約束しよう」
そう言うと、真田はとても柔らかな微笑みを浮かべた。
は、思わずその表情にドキっとしながらも、言葉を続ける。
「約束ですよ?」
「ああ、俺は一度約束したことは必ず守る主義だ。……お前こそ、約束は守れよ」
「はい、勿論です!」
頷いて、は嬉しそうに笑った。
そんな彼女を、真田は微笑ましそうに見つめる。
そして、とても小さな声で真田は呟いた。
「――心配してくれてありがとう、」
しかし、その声は街の雑踏に掻き消され、の耳には届かない。
「え? 先輩、今何か言いました?」
そう言って、不思議そうに目を瞬かせたに、真田は再度ふっと笑って、首を横に振った。
「いや、なんでもない。そんなことより、お前は本当に今日は無理をしていないんだな?」
「はい、本当です! 先輩も、本当に無理をしていないんですね?」
「ああ。本当だ」
そう言って、二人は笑い合う。
「よし、ならばこの話はこれくらいにして、行くか」
「はい!」
真田の声にが元気よく頷き、二人はまた歩き出した。
◇◇◇◇◇
やがて、二人は目当ての店の前に到着し、揃って中に入る。
ぐるりと店内を見渡しながら、は真田に話し掛けた。
「先輩、連絡はしてあるんですよね? レジに行ったらいいんでしょうか」
「ああ、昨日のうちに連絡はした。話は通しておくので、店員に声を掛けてくれと言っていたが――」
真田がそう言った時だった。
「いらっしゃいませ、何かお探しでしょうか?」
いきなり声を掛けられて、二人は同時にそちらを見る。
視線の先には、一人の男性店員が優しい笑みを浮かべて立っていた。
「あ!」
その顔を見るなり、思わずが声を上げた。
その店員は、以前が真田の誕生日のプレゼントを買う時に親身になって一緒に選んでくれた、あの彼だったのだ。
「こんにちは! ……って覚えてないかな」
思わず、笑顔では彼に声を掛ける。
すると、彼も思い出したのだろう、笑顔での言葉に答えた。
「ああ、この前の……! いえいえ、ちゃんと覚えてますよ」
「あの時は、本当にありがとうございました」
満面の笑みでお礼を言い、は頭を下げる。
それに応えるように、その店員もにこりと笑った。
「いえいえ。あの時のプレゼントは、ちゃんと渡せましたか?」
彼がそう言った途端――つい先ほどまで笑顔だったの顔が、一瞬でうろたえるような表情になった。
「あ、あの、ちょっと今その話は……!!」
は、焦って心臓が止まりそうになった。
この彼に選んでもらったプレゼントは、今隣に居る真田のために選んだものだ。
あの時あんなに必死で選んでいたことを、真田本人に知られるのはとても恥ずかしい。黙っておいて欲しいと目で訴えて、はあたふたと無意味に手を振る。
そんなを見て、彼はくすりと笑った。
「……ああ、もしかして……そういうこと、なんですかね?」
そう言って、と隣にいた真田の顔を交互に見つめ、またくすくす笑う。
どうやら、彼は全て分かってくれたらしい。
しかし、分かってもらえてホッとした気持ちより、全てを悟られた恥ずかしさが上回って、は顔を熱くさせた。
「あ、あの……とにかくあの時はありがとうございました」
「はい、お役に立てたなら良かったです」
そう言って、その店員はまたにっこりと笑った。
――その時。
「、知り合いか?」
ふいに、真田から声を掛けられた。
慌てて、は傍らにいた真田を見上げる。
「あ、はい。ちょっと」
「……そうか。随分と仲が良さそうだな」
そう言った真田の声は、いつもより低くてぶっきらぼうだった。
心なしか眉間に皺も寄っている。明らかに、先ほどと比べると彼の機嫌は悪くなっていた。
(あ、もしかして用事も済んでないのに関係ないことばっかり話してたから、呆れてるのかな……)
「すみません、前にちょっとお世話になったことがあったんです。ごめんなさい、先輩。用事もまだ済んでいないのに、おしゃべりばっかりしちゃって」
そう言うと、は店員の方を向きなおした。
「すみません、あの、昨日こちらに連絡させて頂いた、立海大附属中学テニス部の者です」
「あ、はいはい!! 聞いていますよ、レジの方へどうぞ。……貴方だったんですねー」
その店員は、陽気に笑ってをレジへと誘う。
「じゃあ先輩、私お金払ってきますね」
「ああ、頼む」
真田が頷くと、は彼に連れられて、レジへと向かった。