ドアを開け、幸村は真っ直ぐエレベーターに向かって歩いた。
しかしふと振り返って、後ろからついてくるを見る。
彼女はほんの少し緊張しているように見えた。
きっと、初対面の自分と二人きりになるというのは、少なからず緊張するのだろう。
くすりと笑って、幸村は彼女に声を掛ける。
「さん、着いてきてくれてありがとう」
そう言って笑いかけると、もまたそれに応えるように、にこりと笑った。
「いえ、気にしないで下さい。ていうか、あの、四本くらいなら一人でも持てますから、私一人で行ってきますよ。先輩、皆と話してて下さい。きっと皆も、幸村先輩ともっと話したがってると思いますし」
「大丈夫、皆とは結構電話やメールで話してるからさ。それに今は俺、キミと話したいんだよね」
キミがどんな子で、真田のことどう思ってるかもよく知りたいしね――そんなことを思いながら、幸村は再度笑いかける。
真田の気持ちは、なんとなくではあるが分かったけれど、彼女の方はまだ何も知らないのだ。
柳から彼女のほうも満更ではないようだとは一応聞いたものの、やはり自分でも確認しておきたかった。
しかし、そんなことを幸村が考えているとは微塵も思っていないであろうは、何の疑問もなさそうに笑顔で幸村を見上げた。
「それって、さっき言ってたことですか?」
「ん? さっき?」
「はい、皆がちゃんと練習してるか知りたいって……」
「ああ、そうだね」
彼女の言葉に、幸村は軽く頷く。
実のところ、それは一人を連れ出す口実だったのだが。
そんなことは、わざわざマネージャーになったばかりの彼女に確認せずとも、部長の自分が一番よく解っている。この時期に、レギュラーの皆が真面目に練習をしていないわけがないのだ。
いくら自分が入院してしばらく戦列を離れていると言っても、自分は立海テニス部の部長であり、皆のことは誰よりもよく見てきたつもりだ。
自分の強さを過信して、こんな大切な時期に少しでもふぬけた練習をするような輩など、一人もいない――それは自信を持って言える。
(ふふ、でもこの話題は利用できそうだね)
そんなことを思いながら、幸村は笑って彼女に尋ねる。
「どう? 皆、真面目に練習やってる?」
幸村のその問いに、は少しも間を置かず、笑って答えた。
「勿論ですよ」
「即答したね。ほんとかい? キミが何を言ったか、皆にはちゃんと内緒にしてあげるよ」
「本当ですよ。先輩達も切原君も、皆すごいです。練習量だって半端じゃないのに、手なんか抜かずにいつも全力でやってますよ。見てるこっちがびっくりしちゃうくらいです」
そう言うと、彼女は「ほんと、すごいですよね」と付け加えて、無邪気に笑う。
まるで小さな子どものように、すごいすごいと連呼する彼女がなんだか微笑ましく思えて、幸村も思わず笑みを零した。
「そんなにすごいんだ?」
幸村の問いには全力で頷いて、言葉を続けた。
「はい! でも一番すごいと思ったのは、あれだけハードな練習をしてるのに、皆とってもいい表情してることかなあ。本当に皆テニスが大切で、大好きなんだなーって思います。『好き』と『努力』と『強さ』が全部連立出来てるんですから、皆本当にすごいですよね」
どこか嬉しそうに言うの瞳は、笑ってはいるがとても真っ直ぐだった。
幸村にとっては、彼女の言ったことは今更誰かに言われずとも分かっていることだったけれど、マネージャーになったばかりの彼女が「それ」をちゃんと感じてくれていることが、なんだかとても嬉しかった。
(どうやら、皆の言う通り、本当にいい子みたいだね)
そんなことを思いながら、幸村はふふっと笑みを零した。
やがて、二人はエレベーターホールに着いた。
幸村は、エレベーターのボタンを押して待ちながら、言葉を続ける。
「さん、マネージャーやってみてどう? 結構大変じゃない?」
「そうですね。始める前、切原君に大変だってことは聞いてたんですけど、あんなに大変だとは思わなかったっていうのが本音ですね」
そう言って苦笑したに、幸村は優しい調子で問い掛けた。
「辛くない?」
「疲れたなって思うことは、あります。でも、辛いと思ったことは無いかな」
幸村の質問に、彼女は迷うことなく首を振り、言った。
そして、笑顔で言葉を続ける。
「今まで、私ずっと帰宅部だったんですよ。だから、確かに慣れない生活で、身体の疲れっていうのはやっぱりあるんですけどね。でも、今までこんなに何かに集中したことってなかったから、疲れるのも気持ちいいって思えちゃうんですよね。それに、皆とってもいい人たちばかりで、いろいろ助けてもらってるから、辛いとは思わないですよ」
「いい人ばかりって、テニス部の皆のこと? ……でも、ちょっと苦手だなって思う人もいるでしょ?」
「いえ、いないですよ。皆本当に優しいですもん」
「ほんと? でも、流石に真田は怖いでしょ?」
そう言って、幸村はくすくすと笑う。
すると、全く間を置かず、彼女は返答した。
「真田先輩、優しいですよ」
少しの躊躇いもなく、彼女は言う。
その迷いのない様子に、思わず幸村は問い返した。
「え、もしかしてあいつ、キミには全然怒らないとか?」
「まさか! しっかり怒られてますよ。今では大分減りましたけど、それこそ始めたばっかりの頃は、結構いろいろありましたね」
その言葉とは裏腹に、彼女は何故か楽しそうに笑う。
まるで、怒られるのが嬉しいと言わんばかりに。
「でも、真田先輩は意味なく怒ったりしないですから。怒る時にはいつもちゃんと理由があるし、それを改善したら必ず認めてくれますし。それに、怒られるって言うのはそれだけ私のこと、見ていてくれてるってことでもあるじゃないですか。自分だって練習があるのに、すごいですよね。あと、マネージャーの仕事のことだけじゃなくて私の体調のこととか、あと勉強のことまで、いろいろと気にかけてくれますし……とっても優しい人だと思います」
どこかはにかみながらも、とても嬉しそうに頬を染めて真田のことを語る彼女の様子に、幸村は目を瞬かせる。
今の彼女の言葉ひとつひとつや、この表情――柳や切原にわざわざ聞くまでもなく、彼女が真田に明確な好意を抱いているのが分かる。
彼女が真田のことをどう言うのか聞いて、そこから彼女の真田に対する感情を少しでも読み取れればとは思ったけれど、ここまで分かりやすいとは思わなかった。
そういえば、真田が初めて彼女のことを語ったあの時も、頬を染めたりはしていなかったものの、こんな嬉しそうな表情をしていたような気がする。
無意識に同じようなことをしている二人に、思わず微笑ましさを感じて、幸村は笑った。
(ふふ、この二人、結構お似合いなんじゃないかな?)
そう思うと、なんだかとても嬉しくなってしまった。
何かと誤解されやすい真田のこともちゃんと理解してくれているようだし、彼女ならあの気難しい親友と上手くやれるのではないだろうか。
そしてきっと、彼を癒し支えてくれるようなそんな存在になってくれるのではないかと、幸村は思った。
その時、チンと小さな音が鳴って、エレベーターの扉が開いた。
「あ、来たね」
幸村とはそのままエレベーターに乗り込み、一階まで降りた。
そして売店へと向かい、売店の側に並んでいた自動販売機コーナーで足を止める。
「さて、と。何がいいかな。残ってたのはジュースばかりだったから、お茶とかがいいかな? 真田や柳なんかは、ジュースよりお茶やコーヒーの方がいいだろうし……」
そう言いながら、幸村は財布から取り出したお金を自販機に入れた。
自販機のボタンが光ると、人差し指をボタンの前で右往左往させながら、幸村が尋ねる。
「ねえ、さん。何がいいと思う? 皆、何が好きだったっけ」
そんな幸村の問い掛けに、は少し困ったような表情で答える。
「えっと……私、先輩達の好きなものってよく知らないんですよ」
「あ、そうなんだ。そういえば、まだ入部してから一ヶ月ほどしか経ってないんだっけ」
その問いに、は首を縦に振った。
「はい。だからまだ、メインの仕事を覚えるのが精一杯で……先輩達とそういうお話ってしたことなくて。やっぱりマネージャーとしては、そういう好みも把握しておくべきなんでしょうか」
そう言って、は苦笑した。
「ふふ、そうだね。分かってるに越したことはないと思うけど、無理はしなくていいよ。メインの仕事を覚えてもらう方がずっと大切なんだし。それに、雑談する暇もないほど一生懸命仕事に取り組んでくれてるってことだよね。ありがとう、さん」
「いえ、本当にまだまだなので……。早く一人前になって、先輩たちに認めてもらえるよう頑張りますね」
そんなの言葉に、幸村は思わず手を止める。
そして、彼女の目を見つめながら、幸村は言った。
「そんなの、もう皆とっくに認めていると思うけど?」
「……え」
幸村の言葉に、一瞬驚いたようにの表情が止まる。
「俺だって、入院してても立海の部長だからね。さっきの君と話してるときの皆の顔を見てたら分かるよ。大丈夫、皆は君をちゃんとマネージャーとして認めているよ」
「そうなんですか……? だ、だったら嬉しいですけど」
にわかには信じられないという風な表情で、は瞬きを繰り返す。
そんな彼女に「本当だよ」と優しく笑いかけながら、幸村は自販機のボタンを適当に押して、四本分の飲み物を買った。