たった一通のメールにが心の全てを奪われてから、数分。
少しの間、は廊下の壁にもたれかかって心を落ち着けていたが、やがて大きく息を吐き、また部室に戻るために動き出す。
まだ心臓はドキドキしているが、心は大分落ち着いてきた。そのかわりに湧き上がってくるのは、もっともっと頑張りたいと思う気持ちだ。
先ほどの彼との会話で、彼がどんなに心配してくれているかを知ることが出来た。彼はあんなにも自分のことを見ていてくれた。心配していてくれた。は、それが嬉しくてたまらなかった。
早く一人前のマネージャーになって、彼にもっと認められたい――そんな気持ちが全身から溢れ出して止まらない。
もっともっと、今まで以上に頑張ろう。出来る限りの努力をしよう。
勿論、優しい彼にこれ以上心配を掛けたくないから、先ほど言われた通り身体のことはちゃんと気をつけようと思うけれども。
軽い足取りで部室へ戻る道を歩いていると、その途中ではコートに向かう仁王や柳生、ジャッカルと顔を合わせた。どうやら自分が部室を出た後、入れ違いになったらしい。
しかし、まだ練習が始まる時間までに十分くらいはあるはずなのに、彼らはもう準備を済ませて練習に向かっているようだ。県大会一週間前ということで、やはり皆の気合も増しているのだろう。
は彼らと笑顔で挨拶を交わすと、先ほどあったいろいろな出来事で浮かれていた自分を引き締めるように、ぎゅっと掌を握って気合を入れ、全力ダッシュで部室へと戻った。
程なくして、は部室に着いた。息を落ち着けてから軽くノックをすると、中から複数の声が返って来た。彼らに入室の許可を取って、ゆっくりとドアを開ける。
部室の中には、先ほどすれ違った三人以外のレギュラーも皆既に揃っていた。
いつもなら練習時間ぎりぎりに駆け込んでくる切原でさえも、もう着替えを終え、自分のラケットのガットを握ってその調子を確かめながら、練習に備えている。
みんなのやる気と熱意をひしひしと感じながらが入室すると、その姿を見るなり、丸井と切原がほぼ同時に挨拶をした。
「よぉ、。おっはよーさん」
「おはよー、!」
「おはようございます、丸井先輩。切原君もおはよう!!」
笑顔で彼らに挨拶を返すに、丸井が何故か悪戯っぽい笑みを浮かべてつつっと近寄ってきた。
そして、こっそりと小さな声でに話しかける。
「な、知ってっか? 今日って真田の誕生日なんだぜぃ」
丸井が唐突に言い出したその言葉に、は内心少しどきっとしながらも、平静を装って頷く。
すると、そのやり取りを見ていた切原が、笑って会話に入ってきた。
「あーそれ、俺もう言ったっすよ」
「うん、ね。昨日、切原君から聞いたよね」
切原とは、顔を見合わせてははっと笑い合う。
「なんだ、知ってたか。……なあ、あいつ何歳になったと思う?」
噛んでいたガムをぷうっと膨らませながら、丸井が笑ってそんなことを言った。その言葉に、は目を丸くして丸井の顔を見る。
「ええ、何歳って……真田先輩、三年生だから十五歳でしょう?」
「いやいや、あの顔が十五の顔かよ。ぜってーごまかしてるって、アイツ。俺は実年齢は三十くらいじゃねーかと睨んでるんだけどよ、赤也はどう思う?」
話を振られた切原は、にひひと笑って丸井の言葉に悪乗りする。
「いやいや、あれは三十五くらいはいってるっしょ」
「……ほう、面白そうな話をしているな。誰が何をごまかしているだと?」
唐突に、彼らの背後でそんな声が聴こえた。
三人がゆっくり振り向くと、そこには腕を組みながらこちらを睨んでいる真田がいた。
丸井が膨らませていたガムがぱちんと弾け、彼と切原は同時に顔を引きつらせる。
「げっ……真田! あ、俺もうコート行っとくわ。じゃなーお先!!」
「お、俺も行くっす!!」
早口でそんなことを口走って、丸井と切原は慌てて自分のラケットを握り締め、外へと駆け出して行く。
あっという間に見えなくなったそんな二人を、がぽかんとした表情で見送っていると。
「全く、あいつらは……たるんどる!」
お決まりの台詞を吐きながら、苦い顔をした真田が溜息をひとつ落とした。
その様子を横目で見ながら、は苦笑を漏らす。
「弦一郎、、俺も先にコートに行っているぞ」
そう言って、真田やと共に部室に残っていた柳もまた、ラケットを手にする。
「ああ」
「はい」
二人が返事をすると、柳は涼しげな表情でふっと笑って、部室を後にした。
そして、部室には真田との二人が残される。
先ほどの再現のような状況に、の心臓がまた早く動き始めた。
が何を話せばいいんだろうと思っていると、軽い咳払いをして、真田が先に口を開いた。
「そういえば、先ほどお前の携帯にメールを送ったのだが……」
「あ、はい、見ました。ありがとうございました」
彼からのメールを思い出して、の頬が少し赤く染まる。しかし真田はそれに気付かずに、言葉を重ねた。
「いや……礼を言うのはこちらの方だろう。それに、こういうことはやはり顔を見て言わねばならなかった。すまなかったな。それから、プレゼントを本当にありがとう、」
とても真摯な彼の言葉が、ひとつひとつ心に伝わってくる。
先ほどのメールだけでも、あんなに心を締め付けられるほど嬉しかったのに、更に顔を見てまで言ってくれた彼の心遣いが本当に嬉しくて、頬が勝手に緩んだ。
「いえ……あ、あの、あんなふうにお礼を言われるのも、嬉しかったですよ。先輩、メール苦手って言ってたのに……」
先ほどのメールを思い出して、ははにかむように微笑う。そんなをちらりと横目で見て、真田は少し照れたような表情で言った。
「そ、そうか。いや、携帯が目に付いたので送ったんだが、やはりメールは苦手だな。上手い文章も思いつかず、あんな風になってしまったが……とにかく、本当にありがとう。気を遣わせてしまったな」
「いえ、先輩にはほんとお世話になってますし、全然大した物じゃないので、気にしないで下さい。ほ、ほら、さっきも、迷惑かけちゃいましたしね」
先ほど真田から受け取った、タオルで包まれた保冷剤を顔の前でちらつかせながら、は苦笑する。
「打った頭は、もう大丈夫なのか?」
「はい、おかげさまで! もう全然、痛みもないです」
「そうか、それは良かった」
そう言って、真田が優しげな表情で目を細める。その表情にドキドキして、は僅かに目線を逸らした。
「本当に心配をお掛けしてすみませんでした。この保冷剤、冷蔵庫に戻しておきますね」
「ああ。それではそろそろ俺もコートに向かうか。お前はいつも通り、ドリンクの準備を頼む。今日はレギュラー分だけでいいから、作り過ぎには気を付けるようにな」
「はい!」
笑顔で頷いて、は足早に冷蔵庫へと近寄り、扉を開けた。
保冷材をタオルから剥がして取り出し、タオルを床に落とさないように自分の腕に掛けると、保冷剤を冷蔵庫の中に戻す。そして、その扉を閉めながら、は腕の中に残されたタオルを見た。
このタオルは彼が貸してくれたものだけれど、もしかして彼が今日の練習で使うために家から持って来たものではないだろうか。
基本的に部の通常練習の際に使うタオルは、部員がそれぞれ家から持ち込んだものに名前を書いて数枚ずつ部室に保管しており、それを毎日洗って使い回している。毎日毎日大量の洗濯物を持ち帰ると負担になる部員もいるだろうと、数年前の先輩が考案し始めた制度だそうだ。
けれど、ハードな練習をする時は汗をかく量も尋常ではなく、一日の間に数枚を入れ替えて使うこともしばしばだ。保管しているタオルだけでは足りなくなることもあるので、長時間の練習の時は、予備として別のタオルも持って来ている部員は少なくなかった。
彼が先ほど貸してくれたタオルは、きっとそのためのタオルに違いない。
(……先輩、今日の練習、タオル足りるかなあ)
そう思いながら、はふと先ほどのプレゼントを思い出した。あの中にはタオルが入っているから、もし足りないようならば使ってもらえばいいのではないだろうか。
「あ、先輩、今日の分のタオル、足りますか? 私がお借りしたこのタオル、予備のやつですよね?」
その声に、跪いてシューズの紐を結びなおしていた真田は、顔を上げての方を見た。
「ああタオルか」
彼は視線を元に戻し、跪いていた足を左右入れ替える。
「まあ、なんとでもなるだろう。気にするな」
そう言って、彼はもう一方のシューズの紐も結びなおし、ラケットを手に立ち上がった。
「では、先に行っているぞ」
「あ、あの!」
そのまま部室を出て行こうとした真田に、慌てては声を掛けた。
「えっと、さっきのプレゼントの中にですね、スポーツタオルが入ってるんです。もし必要になったら、良かったら使ってください」
プレゼントのことを自分から話題に出すのはなんだか恥ずかしくて、は自然と早口になってしまった。そんなに、真田はふっと微笑みかける。
「そうか、分かった。ありがとう」
そう言って、真田はそのまま部室を後にした。
今日だけでも何度目になるか分からない、彼からの「ありがとう」だった。
なんて幸せな気分にさせてくれるんだろう。こちらこそ、彼に「ありがとう」と言わなければならないかもしれない。
そんなことを思いながら、は自然とはにかんだ笑みを零す。
(よっし、がんばろー!!)
笑顔で拳を振り上げると、は早速ドリンクの準備に取り掛かった。
◇◇◇◇◇
今日の練習は、本当にハードだった。
常々、レギュラーたちは皆、県大会の優勝は当たり前であり大前提だと口にしている。
が初めてそんな言葉を耳にした時、その自信にひどく驚いたものだが――今となってはそれも納得できる。普段から、彼らの練習量は本当に半端ではないのだ。
彼らの実力はそのハードな練習に裏打ちされたものであり、それが彼らの揺るがぬ自信へと繋がっていることを、今のはよく分かっていた。
そして、今日は県大会に向けての最終調整ということで、その練習量と密度は普段の更に倍以上だった。
もまた、そんな彼らの熱気と気合に惹きつけられ、少しでも自分でできる仕事を見つけてサポートに回ったり、スコア取り練習を行ったりして、できる限りの力を尽くしたのだった。
――そして。
その日の練習は、つつがなく終了した。
「それじゃ、お疲れ様でした!」
満ち足りた気分で、は部室に残っていたメンバーに笑顔で挨拶をする。
いつもよりも疲れてはいたけれど、やりきったという気分で身体中を満たされ、とてもいい気分だ。
更衣室で着替えを済ませ、戸締りをして職員室に更衣室の鍵を戻す。
そして、そのままバス停へと向かったは、バス停の前で切原と真田と柳の姿を見つけた。
「あ、。おつかれー!」
が声を掛けるよりも早く、その姿に気付いた切原が声を掛けてきた。
つられて、一緒にいる真田と柳もの方を見る。
「お疲れ様、切原君。先輩たちもお疲れ様でした!」
笑ってそう言いながら、はバス停に駆け寄り、真田と柳に会釈するように頭を下げた。すると二人も、それに応えて挨拶を返す。
「ああ、お疲れ、」
「お疲れ様、」
とても優しい声で二人に労いの言葉を掛けられ、は微笑む。そんなに、切原が声を掛けた。
「、次のバスあと少しで来るぜ。ま、ただし駅までのだけどさ」
「そっかー。ウチ方面の直通の路線は……あ、まだ来ないか。駅までのと、次の直通を待つのと、どっちが早いかなあ……」
バスの時刻表を覗き込みながら、は呟く。しかし、一番早く家に帰れるルートを模索しながらも、一人で帰るよりは途中まででも切原や真田達と一緒に帰ったほうが楽しそうだとも思い、は次のバスに乗ることに決めた。
「うん、次のに乗ろうかな」
がそう言ったとき、丁度バスがやって来た。
来たバスに乗り込み、切原が一番後ろの席の窓側に座る。続いて乗り込んだが切原の隣に座ると、の後に続いて乗った真田もまた、その隣に腰を下ろし、柳もそれに続いた。
そして、バスは出発した。
(……わ……せ、先輩隣に来ちゃったよ……)
思わぬ形で、真田と隣り合わせになってしまった。
彼との間に少しスペースはあるものの、少しでもバスが揺れれば彼と身体が密着してしまう。
彼とこんなに至近距離で接するのは、初めてではないだろうか。
なんだか彼側の自分の半身が妙にこそばゆい感じがし、無性に照れくさかった。
は視線を泳がせながら僅かに唇を噛み、やり場のない手でその口元を覆った。
どうしたらいいのかわからないの様子を感じ取ったのか、切原がの顔を覗き込み、ニッと笑う。
そして、彼は沈黙を打ち破ってに話し掛けた。
「なあ、。今日はスコア取りどうだった? 後半はほとんどスコア取りやってたよな」
「あ、うん。えっと……一番調子良かった時で七割まで行った、けど」
「七割!? すっげぇじゃん」
「でもあの時、柳生先輩も丸井先輩も、パワーリストの重り、いつもの三倍でやってたんだよ? いつもより大分スピードも落ちてたって、先輩達も言ってたもん。それ考えたら、それでまだ七割ってどうなのって感じ……」
は自分が情けなくなって、眉根を寄せる。
すると、隣にいた真田がふいに会話に加わってきた。
「いや、それでも確実に成果は上がっている。このままいけば、来週の県大会までとはいかなくとも、関東大会までには充分な精度になっているだろう。――なあ、蓮二」
「ああ、二〜三週間でここまで見極められるようになったことを考えれば、関東大会には充分間に合うだろうな」
二人の声が聞こえて、は反射的に顔をそちらに向ける。すると、柳の方を向いている真田の横顔が、至近距離で目に入ってきた。その近さに面食らい、は視線を逸らす。
「本当ですか? だったら嬉しいですけど……でも、やっぱり県大会までに出来るようになりたかったです」
そう言って苦笑したに、柳が優しく笑いかけた。
「ふむ。確かに弦一郎は県大会までにと言っていたな。しかし、実際は素人が一ヶ月も経たずに出来るようなことではないし、もともと弦一郎が無茶で意地の悪いことを言ったんだ。気にしなくていいさ」
「嫌味か、蓮二」
むっとした顔で、真田は柳に言う。しかしその後、気を取り直したようにの方に顔を向けて、口を開いた。
「……まあ、確かに俺は県大会まで、とは言ったがな。あくまでもその心意気で、という意味だ。そしてお前はその通りやってくれたと思う」
――彼がストレートに褒めてくれた。
驚きと嬉しさで、の心がまた激しく波打つ。
「ほ、本当ですか?」
「ああ、お前はよく頑張っているさ」
そう言って、真田は笑う。その表情には更に胸を高鳴らせながら、なんとか「ありがとうございます」と返し、嬉しさを必死で押し殺したまま頬を染めて俯いた。
「それに、県大会ぐらいのレベルなら、平均六割は取れている今のなら、ほぼ問題はないだろう。そう言う意味では、県大会に間に合ったとも言える」
「ああ、そうだな」
真田と柳がそんな会話をしていたが、にはどういう意味か分からず首を捻る。
しかしその意味を尋ねる暇もなく、やがてバスは駅前に着き、四人はバスを降りた。