次の瞬間、すぐに彼の携帯電話が鳴った。
その小さな電子音が、ものすごい破壊力を持っての心臓に突き刺さる。
「来たか」
小さな声で彼が呟いたが、その声すらももうの耳には届いていない。
あのメッセージを読んで彼が引いたりしませんようにと、ただひたすらに願うだけで精一杯だ。
しかし真田は、そんなの様子など気がつきもせず、自分の携帯電話のディスプレイを覗き込んでいる。
彼が携帯のボタンを押す音が聴こえるたびに、痛みにも似た感覚がを襲った。
やがて、目当ての画面にたどり着いてしまったのだろう、彼の携帯のボタン音が完全に止まり、二人っきりの部室内が無音に包まれる。
――そして。
真田が、に問い掛けた。
「、知っていたのか? 今日が俺の誕生日だと」
彼の声には、明らかに驚愕の感情が混じっている。は、携帯を握り締めている手に更に力を込めた。
「あ、あの……切原くんから、昨日聞いて!」
自分の緊張や混乱が彼にばれないかと冷や冷やしながら、はまるで言い訳するように言葉を続ける。
「すみません、さっきから言わなきゃ言わなきゃと思ってたんですけど、なんかタイミングを逃してしまった感じで……」
そう言っては、ははっと大袈裟に笑った。内心はもう完全に混乱していて、この場から逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。
けれど、まだ肝心のプレゼントを渡していない。
今この機会を逃してしまえば、もう絶対に渡すチャンスはないだろうと、は思った。
(わ、渡さなきゃ。今しかない、今しか……)
は、暴れまわる心臓を抑えて携帯をポケットに押し込んだ。
そのまま机の下に置いてある鞄を覗き込むように屈み、震える手で鞄を開けてその手を突っ込む。
その瞬間、中に入っている包みに手が触れた。
「それで、あの、これ――!!」
包みをひっ掴みながら言って、はそのまま勢いに任せ、プレゼントを机の上に出そうとした。
しかし、その瞬間――机の下で盛大にガツンと鈍い音が鳴り響いた。
プレゼントを机の上に出そうと頭を上げた拍子に、が机の裏で頭を打ったのだ。
同時に、声にならない声がの口から発せられる。
「っーーーー!!」
「どうした!?」
驚いた真田の声が聞こえた。
「ちょ、ちょっと……打ちました……」
真田の言葉になんとか応え、はよろよろと机の下から這い出す。
その片手にはなんとか抱きしめるように件のプレゼントを持っていたが、それを渡す余裕などあるわけがない。打ったところが熱を持って、鈍い痛みを訴え始めた。
はもう一方の手で打った頭を抑えると、なんとか椅子に座り直して、再度顔を伏せた。
(なんだか、前にも同じようなことがあったような気がするんだけど……)
初めてこの部室で彼と対面した時、ホワイトボードのペン受けで腰を打ってうずくまったあの光景が嫌でも脳裏によみがえる。どうして自分は、彼の前でこんな姿ばかり見せてしまうんだろう。
痛いわ情けないわで、は伏せたままの顔を上げることができなかった。
「大丈夫なのか?」
ふいに、彼の声が聞こえた。――しかも、かなり近くで。
反射的に顔を上げると、の本当にすぐ傍に彼が立っていた。慌てて、は表情を隠すように、顔を元に戻す。
「あ、は、はい大丈夫です! ちょっと頭打っただけですから!!」
打った頭を抑えながら、は必死で叫ぶように言う。
しかしそんなを見て、真田は大きな息を吐いた。
「今のは、ちょっとという音ではなかっただろう。全くお前は……。見せてみろ」
彼の少し呆れた声が聴こえてきたかと思うと、ぶつけたところを抑えていた方の手が、ふと何かに取られて頭を離れた。
そして、代わりにもうひとまわり大きな手が、の頭に触れる。
それが彼の手だと気がつくのに、そう時間は掛からなかった。
「……少し、コブになっているか……?」
そう言いながら、彼は優しく確かめるようにの頭を撫でる。
頭に触れている手も、の手を退けるように取った手も、ほんの少しあたたかくて――そしてとても優しかった。
しかしあまりにも突然で予想外だったため、の挙動は完全に硬直した。
思考が真っ白に塗りつぶされ、何も考えられない。
あんなに強く自己主張していた痛みすら、一瞬途切れてしまったほどだ。
「頭だからな、とりあえず冷やした方がいいだろう」
そう言って彼は両方の手を離すと、くるりと踵を返し、部室の隅に設置してある冷蔵庫に近寄った。
そして、中から何かを取り出そうと背をかがめ、じっと冷蔵庫を覗き込む。
その大きな背中を見ていると、の中で先ほどの優しい掌の感触が、急に現実味を持ち始めた。
同時に身体の熱がじわじわと上がっていき、心臓の音も加速度を上げてゆく。
(い、今、先輩に頭撫でられた……!!)
怪我をしていないか確かめる為だと、彼に全く他意はないのだと分かってはいたけれど、身体と思考はそれとは関係なしに暴走を加速させてゆく。
しかし真田は、がそんなふうに慌てていることなど気が付きもせず、冷静に冷蔵庫から何かを取り出すと、くるりと振り向いた。
「これでも当てておけ」
彼が手にしていたのは、打ち身などを冷やす為の保冷剤だった。
それを差し出しながら、彼は再度に近寄ってきた。
「すみません……」
はそれをプレゼントを抱えている手と反対の手で受け取る。
色々な意味で熱い掌に、ひんやりとした保冷剤の感触がとても気持ち良い。
は、それをそのまま頭に当てた。
「顔が赤いな、大丈夫か? もし気分が悪いようだったら、職員室に行って先生にきちんと診てもらった方がいいと思うが……。休みとはいえ、どなたかはいらっしゃるはずだ」
顔が赤いのは、絶対に頭を打ったせいなんかじゃないと思いつつ、は首を振る。
「大丈夫です、意識はしっかりしていますし、気分も別に悪くはないです。これを当てていれば充分だと思います」
「そうか、ならば良かった。――ああ、しかしその保冷剤は、何かで包んでから当てた方がいいな。ちょっと待ってろ」
真田は自分のロッカーからタオルを一枚取り出すと、の前の机の上に落ちるように放り投げた。
慌ててはそれを拾い上げる。
「ありがとうございます、先輩」
そう言って、受け取ったタオルで保冷剤をくるみ、再度頭に当てる。
しかし、彼のタオルだと思うと一層顔が熱くなった。
「安心しろ、洗濯してある新しいやつだから綺麗だぞ。それにしても、前にもこんなことがあったが……お前はしっかりしているのかと思ったら、突然こんなドジをやらかすな」
そんなことを言いながら、彼はまた側に寄って来ると、の近くにあった椅子に腰掛けて机に片肘をついた。
「す、すみません……先輩には、情けない姿ばっか見せてますね……」
「いや、ある意味楽しませてもらっているがな」
いつもの彼からは、想像もつかないほど気さくな感じで、くくっと笑う。
その様子にどきりとして、は顔の熱をまた少し上げながら、赤い顔で口を尖らせた。
「も、もう、どういう意味ですか、それ?」
「ん? いや、その、なんだ。変な意味ではなく……ああ、そういえば、先ほどから何を握り締めているんだ?」
が口を尖らせたからだろうか、苦笑しながら急に彼は話を変えた。
ドキッとして、は無意識に自分の腕に力を込める。
(そうだ、これ渡さなくちゃ……)
は、頭に当てていた保冷剤を一旦机に置いた。
そして、両手でプレゼントの包みを持ちなおし、真田の前におずおずと差し出す。
「えっと、これ、先輩に……」
言葉が上手く出なくて、はそこで止まってしまった。
「俺に?」
少し驚いたような声で、真田が言う。その言葉に、は無言でこくんと頷いた。
「……もしかして、誕生日のか?」
言葉が足りない自分の代わりに、彼が言葉を補って問い掛ける。
はもう一度頷くと、必死で言葉を綴った。
「大した物じゃないんですけど、先輩にはいつもお世話になっているので……」
そこでまた言葉が途切れた。どうやら、もう声は出そうにない。
その代わりに、は包みを持っている両手を、真田の方に向かって更にぐっと伸ばした。
「いいのか?」
彼の言葉に、はまた無言で首を縦に振る。すると、真田がゆっくりと包みに触れた。
彼が確かにそれを握ったのを確認し、は包みを持っていた手の力を抜いて、少しずつ手を離した。
先ほどまでの談笑が嘘のように、部室の中がしんとしている。
なんだか妙に気まずかった。
は必死で何か言おうとしたが、やはりもう、声は出ない。
どうしたらいいのか分からなくて、は手持ち無沙汰になった手で机の上に置いてあった保冷剤を手に取り、再度こつんと頭に当てた。
「……」
静寂を打ち破り、真田がの名前を呼んだ。その瞬間、の心臓が大きく跳ねる。
「その――」
彼が、更に何かを言おうとしたその時。
コンコン、とドアのノック音が聴こえ、次の瞬間部室のドアが開いた。
「おはよう」
入ってきたのは柳だった。二人は、同時に勢いよくドアの方を向く。
「ああ蓮二か、おはよう」
「あ、お、おはようございます!」
部室の中に、なんともいえない微妙な空気が流れた。
それを感じ取ったのか、柳は怪訝そうな顔で二人を見つめる。
「……どうかしたのか?」
「いや、別にどうもしないが」
真田が柳に冷静に返事をする。
柳はまだ少し疑うような目で二人を交互に見つめたが、それ以上はもう何も追求してこなかった。
「……ふむ、ならばいいが。ああ、そうだ。弦一郎、誕生日おめでとう」
「ああ、ありがとう」
そう言いあって、真田と柳が話を始めた。
しかしは、なんだかこの場に居辛い気がしてたまらなかった。
「私、借りた鍵職員室に返してきますね」
思いついたようにそう言って、空いていた手で机の上に置いていた部室の鍵を握り締める。
片手には鍵を、そしてもう片手にはタオルに包まれた保冷剤をそれぞれ手にして、はそのまま部室を後にした。
◇◇◇◇◇
何かを振り切るように、は走った。
――とうとう、渡してしまった。
彼はどう思ったのだろう。慌てて出てきたので、表情を窺う余裕もなかった。
彼は、あのプレゼントに戸惑ったりしていないだろうか。困ったり、気持ち悪がったりはしていないだろうか。
それに、後から来た柳はあの雰囲気をどう思ったのだろう。何か変な勘違いをしていないだろうか。
そんなことで頭をいっぱいにしながら走り、やがては校舎の廊下までやって来た。
先ほどと同じように靴を脱ぎ捨て、そのまま廊下へと上がると、人気のない静かな廊下を足早に歩いて、再度職員室に着いた。
職員室の前で息を整え、軽く挨拶をして、キーボックスに鍵を返す。
そして、「失礼しました」と頭を下げ、職員室を出た――その時だった。
ポケットで、なにやら音が鳴った。
(……メールだ)
そう、それはメールの着信音だった。
保冷剤を握り締めている手と反対の手でポケットから携帯電話を取り出し、廊下を歩きながら片手で操作する。
親指の先で器用にボタンを押し、ぽんぽんとテンポよく表示を進めた。
そして、その内容の詳細を表示させた瞬間――は、その場で目を見開いて立ち止まってしまった。
『ありがとう』
そんな、たった五文字だけが、メールの本文の欄に並んでいた。
送信者の欄には、先ほど登録したばかりの――メールは苦手だと言っていた、彼の名前がある。
(……先輩……!!)
嬉しかった。苦手だといっていたメールを使ってまで、彼があのプレゼントのことで礼を言ってくれたことが、本当に嬉しくてたまらなかった。
力が抜けて、そのまま壁にもたれこむ。
は、ぎゅっと自分の携帯電話を握り締め、天井を仰いで――そのまましばらく、その場を動くことができなかった。
◇◇◇◇◇
一方その頃部室では、メールを打ち終った真田が、一仕事でも終えたように大きく息を吐いていた。
余りにも咄嗟の出来事で少々驚いてしまい、礼を言うことも出来なかったから、とにかく礼だけでもと思ったのだが――やはりメールは慣れない。
あんなもので良かったのだろうか。ちゃんと伝わっただろうか。
そんなことを思って、真田が自分の携帯を見つめていると、隣でジャージに着替えていた柳が、なにやら興味深そうに覗き込んできた。
「弦一郎、メールか? 珍しいな」
「……覗くのは余り趣味のいい行為とは言えんぞ」
そう言って僅かに眉間に皺を寄せ、柳の視線から逃げるように持っていた携帯を鞄に仕舞い込む。
メール送信なんて慣れない事をしている姿を見られたのが恥ずかしくて、少し顔が赤く染まった。
それをごまかすようにフンと鼻を鳴らして、真田もまたジャージに着替え始める。
そんな真田に、柳は興味深そうに食いついてきた。
「誰にだ? 精市か?」
「……いや」
「違うのか? ならば誰だ」
意外そうな表情で尋ねてくる親友に、真田は困った顔で口篭もる。
「いや……」
「どうした、言えないような相手か? ……まさか、女子か。そうか、そうだな。今日はお前の誕生日だ、何かあっても不思議はない」
そう言って、柳はからかうように笑う。そんな柳に、真田は更に顔を赤くして反論した。
「馬鹿なことを言うな、蓮二。俺はただ、プレゼントを貰った礼をだな……」
「やはり、プレゼントを貰ったのか。女子か? ……そういえば、先ほどからもなにやら貰っていたようだが」
「……ま、まあな、貰った。赤也から俺の誕生日のことを聞いたそうでな」
「そうか。といい、そのメールの相手といい、もてるじゃないか、弦一郎」
「からかうのはやめてくれ。だいたい、貰ったのはからだけだ」
声を荒げながら、真田が言う。すると、そんな彼に、柳は不思議そうな表情を浮かべて口を開いた。
「……では、今のメールの相手は、なのか?」
「ああ。礼を言おうとしたときにお前が来て、タイミングを逃してしまったからな」
「別にわざわざメールで告げなくとも、どうせすぐ戻ってくるだろう」
――ああ。そう言われてみれば、そうか。
柳のその言葉に、真田は思考が止まる。
礼を言えなかったと思っていたところに、たまたま携帯電話が目に付き、聞いたばかりのメールアドレスのことを思い出してつい送ってしまったが――そういえば、彼女はすぐに戻ってくるのだ。
別に急いで礼を言う必要はなかったかもしれない。それに、下手をすればメールに今すぐ気がつかないかもしれないから、後で自分の口から告げた方が良かったかもしれない。
あの時はただ早く彼女に礼を言わねばと、それだけを考えていたのだが、今となると余りにも自分の行動が衝動的に思えて、やけに恥ずかしい気分になった。
「……弦一郎?」
側にいる親友が、不思議そうな視線を自分に向けていることに気付いて、真田ははっと我に返る。
「まあ、礼は早いに越したことはないだろう」
まるで自分を納得させるように言って、真田は着替えを終え、椅子に座り直す。
そして、机の上に広げてあったままの、書き込み途中のオーダー表を手にとりながら、柳に言った。
「蓮二、そんなことよりオーダーを考えるのを手伝ってくれ。今日の帰りには、幸村のところへ報告に行きたいからな」
そう言いながら、真田は目の前の紙に意識を集中させた。
彼の様子を観察するように見つめていた柳は、どこか面白そうにふっと笑ったが、もうそれ以上は何も言わなかった。
そして彼もまた着替え終わると、真田の隣の椅子に腰掛け、何事もなかったように真田と共にオーダーを考え始めた。