――なんだろう、何かの音がする。
霞がかったような頭の中に、それはうっすらと響いてきた。
まるでモールス信号の音にも聞こえるような、断続的なカツカツという音。
これは――そうだ、試験の時とかによく聞こえる音。音のない静かな空間で、紙の上に文字を書く音だ。
――え、でも一体、誰が?
そう思った瞬間。薄ぼんやりとしていたの視界は、一気に明るさを取り戻した。
その直後、目の前にいる人物が視界に飛び込んでくる。――そこにいたのは、真田だった。
唐突に現れたその姿に驚く余り、頬杖を付いていたの手が机の上へと崩れ落ちて、大きな音を立てる。
「さ、真田先輩……っ!?」
大きな音との声に反応して、真田は書いていた手を止めて顔を上げた。
「、起きたのか。それにしても、今すごい音がしたな。どこか打ち付けたのではないか? 大丈夫か?」
彼はそう言っての心配をしてくれたが、当の本人は自分の手が机の上で激しい音を立てたことなど、気付いてもいなかった。
ただただぽかんとした顔で、目を瞬かせてじっと目の前の光景を見つめている。
何故、彼がいるのだろう。先ほどまでは、確かに一人だったはずなのに――事態の把握が全く追いつかない。
「……まだ完全に目が覚めていないようだが、大丈夫か?」
真田がそう言って苦笑する。そんな彼の言葉を、は頭の中で反復した。
(起きた……? 目が覚めた……? それって……え、私まさか……)
そういえば、仕事を終わらせて、昼ご飯を食べて、本を開いて――その後の記憶がない。
と、いうことは。
「……せ、先輩……もしかして、私、眠ってまし……た?」
そうであって欲しくない疑惑を、はおそるおそる口にする。しかし、真田は「ああ」と頷き、いとも簡単にそれを肯定した。
「少なくとも俺が来たときには、ぐっすりと気持ちよさそうに眠っていたな」
「ち、ちなみに、どれくらい前なんですか」
連続してが問い掛けると、真田は自分の腕時計を覗きこんだ。
「そうだな、十五分ほど前といったところか」
十五分もだなんて、自分が思っていたよりもずっと長い。
は、思わず追い討ちを掛けられたように頭を抱える。
(さ、最悪過ぎる……)
よりによって、彼に居眠りをしている姿を見られてしまっただけでもショックなのに、それが十五分も続いていたなんて、もう言葉も出ない。
変な顔をしていなかっただろうかとか、寝言を言ったりいびきをかいたりしていなかっただろうかとか、嫌な想像ばかりが頭を過ぎる。
(変な跡とか……あ、よ、よだれとか垂らしてないよね!?)
慌てては両手で口元を覆って確かめたが、どうやらそれは大丈夫のようだ。
ならば、頬に手の痕なんかはついていないだろうかと、今度は掌で軽く頬を擦ってみる。
頬は熱を持っていた。
これは、圧迫されていたからだろうか、それとも彼に見られて顔から火が出るほど恥ずかしいからだろうか。
(ああもう……私の馬鹿……)
悔いてもしょうがないのはわかっているが、悔やまずにはいられない。
は、机に突っ伏すように大きく俯いた。
もしかしたら変な痕がついているかもしれない顔を、彼に見せるのが恥ずかしかった。
それに痕がついてなかったとしても、こんなに熱を持っているのだからきっと顔は真っ赤だと思うし、どちらにしろ彼に見られたくない。
は、俯いている顔を更に両方の掌で覆って隠した。
そんな明らかに挙動不審になっているを見て、真田が不思議そうな表情を浮かべる。
「……、何をしている」
「え、あの……いえ」
彼の視線がこちらを向いていると思うと、尚更顔を上げることなど出来なかった。
彼に答えになっていない答えを返して、顔を隠したまま、縮こまるように背中まで丸める。
しかし、そんなの心中など知る由もなく、真田は言った。
「眠いなら、まだ寝ていていいんだぞ。まだ時間には早いからな」
どことなく優しげにそう言い、彼はふっと笑う。そして、手元に視線を戻し、続けた。
「他の部員が来る前には起こしてやるから、遠慮せずに寝ていろ。疲れているんだろう?」
「い、いえ、疲れてるとかそういうわけではないんですけど……」
――あなたにこんな顔を見せるのが恥ずかしいだけです。
そんなことが言えるわけもなく、は突っ伏したまま音もなく苦笑いをする。
すると、彼は思いもよらぬ言葉を口にした。
「無理はしなくていい。……なんなら、今日は帰ってもいいぞ」
――帰ってもいい。
今、彼が言ったその言葉に、思わずは耳を疑って顔を上げる。
「あ、あの、今帰っていいとか言いました?」
聞き違いではないのだろうかと、目をぱちくりさせながらは問い返す。
しかし彼は、その言葉を冷静に肯定した。
「ああ、どうやら雑用は全て終わらせてくれているようだし、今日はレギュラー練習だけだからな。お前がいなくても、なんとでも――」
「嫌です!」
は思わず顔のことなど忘れ、真田の言葉を遮って叫んだ。
その声に驚いた真田が、何事かと顔を上げる。
「す、すみません……でも、あの、そんなつもりで早く仕事終わらせたわけじゃないですから」
は、机の上に載せていた掌をぎゅっと握り締めた。
「お前がいなくても」――その言葉の響きが何だかとてもショックで、眉をひそめて拳を震わせ、は言葉を続ける。
「あの、私が出来ることはまだ少ないですし、スコア取りもまだまだ未熟で実戦では使いものにならないこともわかってます。だから、私が居ても居なくても先輩たちには余り関係ないかもしれません……けど、だからこそ、『練習』したいんです。先輩たちがテニスの練習するのと同じように、私だってマネージャーの練習をしたいんです」
必死に言葉を紡ぐの表情を、真田はどこか呆気に取られて見つめる。
しかし、すぐに自分の言葉が彼女を誤解させてしまったことを悟ったようで、真田は大きく息を吐き、前髪を掻き上げて言葉を綴り始めた。
「すまない、言い方が悪かったな。別に帰れと命令しているわけではない。ただ、俺はお前が疲れているのかと思ってな」
「大丈夫です、疲れてなんていません」
強い口調で訴えるように言うの顔を、真田は何かを考えるようにじっと見つめる。
そして、溜息をつきながら一度目を伏せ、手にしていた筆記具を置くと、再度真剣な瞳でを見据えた。
「……本当か? 俺の目には、今のお前は頑張り過ぎに見える。今日も一人で早く来て、複数の仕事を終わらせてしまったようだが……あれだけの仕事を終えるには、俺が来た時間の更に一時間以上は早く来ているはずだ、違うか?」
「た、確かに、それはその通りですけど……」
教えてもいないのに、真田は今日の自分の行動をほぼ正確に推察した。
それが余りにも正確過ぎて、は返答に詰まる。そのを諭すように、真田は言葉を続けた。
「、今日の練習が午後からなのには、ちゃんと理由がある。いくら大会前といえど、疲れが溜まっていては練習も効果を失うからだ。ましてや、疲れのせいで練習中に倒れてしまうようなことがあっては、意味がないだろう。……それは、俺達だけでなく、お前も同じなんだ。お前が部のために頑張ってくれるのは勿論嬉しいし、とてもありがたいと思っている。しかし、無理はしてもらいたくない。素直に疲れているなら疲れていると、負担に思っているなら負担になっていると言ってくれ――こんなところで、転寝してしまうほど疲れてしまう前に」
真剣な瞳で語る彼を見ていると、彼が心の底から自分を心配してくれていることがありありと伝わってくる。は、嬉しいと思うと同時に、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。
確かに自分は早く来たけれど、最初から仕事を終わらせることを目的として、早く家を出たわけではない。彼の誕生日のプレゼントを買おうと思って、それが思いのほか早く終わってしまい、時間が余っただけだ。
居眠りをしてしまったのも、そうだ。
昨晩は彼の誕生日のことが気になって眠れなくて、結果的に寝不足になってしまっただけで、別に身体に負担が掛かっているから居眠りをしたというわけではないのに。
(……でも、そんなこと、先輩に言えるわけないし……)
本気で心配してくれる彼の気持ちが、嬉しくも申し訳なかったけれど、まさか本当のことを言うわけにもいかない。なんだか居た堪れなくなって、は無言で真田から目線を逸らす。
すると真田は、再度おもむろに口を開いた。
「、お前がそんなに無理をするのは――俺のせいか?」
「え?」
突然の真田の言葉に、一体何を言い出すのかと思い、は思わず間の抜けた声を上げる。
しかし、そんなの心中など知る由もない真田は、そのまま言葉を続けた。
「初日だったか……俺はお前に酷いことを言ったな。お前がどういう人間かも知らなかったのに、安請け合いで引き受けたと決めつけ、長続きしないのなら最初から入るななどと言った。あの時の俺の言葉が、お前に要らぬプレッシャーを与えたのだろうかと思ってな」
彼は、自責の表情を浮かべながら溜息をついた。
そして。
「今更だが、申し訳なかったと思っている」
そう言って、ゆっくり頭を下げた。
「ちょ、せ、先輩!!」
がたんと音を響かせて、は慌てて椅子から立ち上がる。
「謝らないで下さい! そんなこと、私気にしてません!!」
確かにあの言葉は、に強い影響を与えた。しかしそれは、悪い意味でのプレッシャーなどでは決してない。謝ってもらう理由などどこにもないと、必死では言葉を綴る。
「……確かにあの時の先輩の言葉は、少し厳しいものだったかもしれません。だけどあの言葉のおかげで、私はこの部のマネージャーがどんなに大変かを前もって知ることが出来ましたし、先輩たちにとってこの部がどんなに大切であるかを知ることもできました。そのおかげでしっかりとした心構えが出来て、最初から全力でマネージャーという仕事に取り組めたんだと思います。だから、私はあの言葉に感謝しています」
信じて欲しいと、は訴えるような瞳で真田の瞳を見つめる。その瞳は、あの日真田にマネージャーをやらせてくれと頼みこんだ、あの瞳と同じものだった。
「あの、自分で言うことじゃないかもしれませんけど、確かに私は今全力でマネージャーの仕事やってると思います。でも、それが気持ちいいし、楽しいんです。何かに全力で打ち込むことが、こんなに楽しいなんて知らなかった。だから、私負担だなんて思ってないです。一日の終わりに疲れたなって思うことは、確かにありますよ。でも、なんというか……疲れは疲れでも、『心地いい疲れ』なんです。だから、辛いとか、負担だとか、そんなこと絶対にありえないです。だから、謝らないで下さい。お願いします」
そう言って、もまた頭を下げた。
すると。
「……すまない」
真田が、再度謝罪の言葉を口にした。
「いえ、だから謝らないで……」
「いや違う。今の謝罪は、お前にとって今の生活が負担になっていると、俺が勝手に決め付けたことに対してだ」
の言葉を遮るようにそう言うと、彼はふっと微笑み、続けた。
「お前がそんなにマネージャーという仕事にやりがいを感じ、楽しんでくれているとは思わなかった。……ありがとう」
真田が見せたその笑顔は、今までで一番と言ってもいいくらいに優しかった。その表情に、は胸がドキドキするのを感じながら、どこか恥ずかしそうに目線を逸らす。
「あ、あの、生意気なこと言ってすみませんでした」
「そんなことは思っていないさ。お前の本音を聞けて良かったと思っている。……しかし、お前が頑張り過ぎていると思っていることは、撤回するつもりはないぞ。いいか、無理はいかん。やはり、転寝してしまうのはどこか身体に無理が出ているのだろう。自分の身体のことを考えるのも、マネージャーの仕事のひとつだと思って欲しい」
ここまで言っても尚、彼は自分の身体を気遣ってくれるのか――本当に、なんて優しい人なんだろう。
は高鳴る胸を抑えながら、素直に頷く。
「はい、気をつけます。……先輩、ありがとうございます」
そう言って微笑むに、真田もまた満足そうに「ああ」と頷く。
そして、彼はまた手元に視線を落とし、自分の作業に戻ったのだった。