『次は、立海大附属中学前――』
淡々としたバスのアナウンスが聞こえて、真田は顔を上げる。
「……次か」
腕を伸ばして降車ボタンを押し、着けていた腕時計で時間を確認する。
時間は十二時十分を回ったばかりだった。練習は十三時からだが、来週に迫った県大会のオーダーを考える為に、少し早目に来たのだ。
ほぼ予定通りの時間だと満足そうに頷きながら、定期の入ったケースを取り出す。
そしてバスが完全に止まったのを確認すると、大きなラケットバッグを担いでバスを降りた。
真田は被っていた帽子のつばを少しだけ上げて、空を見上げた。
目の醒めるような青空の中、散っている雲の間から眩しい太陽の光が漏れている。五月らしい、とてもいい天気だ。
(……練習にはちょうどいい天気だな)
これならば、今日も気持ち良く練習が出来るだろう。そんなことを思って、ふっと微笑む。
真田は、校門をくぐってテニス部の部室へと向かった。
歩きながらポケットに入れていた部室の鍵を取り出すと、部室の前に着くなり、躊躇もせずに鍵穴に差込んでぐっと回した。
――しかし、あるはずの手ごたえがない。
おかしいと思い、今度は反対側に回してみると、ガチャリと鍵の閉まる音がした。
(鍵が開いているということか?)
昨日、誰かが鍵を閉め忘れたのだろうか――いや、そんなはずはない。
鍵を掛けたのは、他でもない自分自身だった。昨日、最後に部室を出た自分が鍵を閉めた記憶はしっかりと残っている。
だとすれば、もう既に誰かが来ているとしか考えられない。
真田は思わず、着けていた腕時計で再度時間を確認した。
やはりまだ、十二時十五分にもなっていない。部活が始まるまで三十分以上もあるというのに、珍しいこともあるものだと、真田は瞬きをする。
とりあえず、再度鍵を回して開いたことを確認し、ドアを開けた。
すると部室に入るなり、誰かの後姿が真田の目に飛び込んでくる。それがマネージャーのであることは、すぐに分かった。
「か? ……おはよう」
そう声を掛けてみるものの、返事はない。
彼女は、椅子に腰掛け、机に向かって何かをしているようだった。
よっぽど集中しているのか、全く声が聞こえていないようだが。
真田は彼女の後姿を一瞬ちらりと見やったが、すぐに前を向いて、自分のロッカーへと歩みを進める。そして、ロッカーを開け、ラケットバッグを下ろしながら、また彼女に喋りかけた。
「何時に来たんだ? 早いじゃないか」
しかし、やはり彼女から返事はない。
流石にこの至近距離で聞こえていないのはおかしいと思いつつも、鞄からオーダーを考える為に必要なファイルや筆記具だけを取り出し、残りは全てロッカーに納める。
そして、の丁度向かい側の椅子に腰を下ろして、顔を上げた――その瞬間。
目に飛び込んできた予想外の出来事に驚いて、真田は目を見開いた。
(――寝て、いる……のか?)
そう、彼女は座って頬杖を付いたまま、完全に瞼を閉じていた。
「……?」
小さな声で、その名を呼んでみた。しかし、彼女はうんともすんとも言わない。
やはり、完全に寝入ってしまっているようだ。
これならば、先ほどから返事がなかったのも当然だ。
小さな寝息をたて、僅かに肩を上下させながら、彼女は確かに眠っている。
その無防備な寝顔に思わずドキッとして、目のやり場に困ったように、真田は彼女から目を逸らす。
そして、何故か顔を少し熱くさせながら、それをごまかすように軽く咳払いをした。
「……全く、女子がこんなところで転寝など……」
そう呟いた瞬間、ふと、窓の外から何かモーター音のようなものが聞こえた。
(これは、何の音だ?)
無意識のうちに、目の前の彼女への関心を少しでも逸らそうとしたのかもしれない。
真田は、かすかに聞こえる異音の正体が異様なほどに気になった。
立ち上がってゆっくりと窓を開け、身を軽く乗り出すと、その音の正体はすぐに分かった。
部室の外に設置してある、テニス部専用の乾燥機が動く音だ。
これが、動いているということは――。
反射的に、真田は背後で転寝している彼女に視線をやる。
やはり、彼女がやったのだろうか。
更にその時、机の上にあった備品チェック用のノートが目に入った。
もしやと思い、そのノートに手が届く位置――眠る彼女のすぐ傍まで、真田はゆっくりと近づく。
近くにいる彼女を起こさないように気にしつつ、それをそっと手にとり、ぱらぱらと捲る。
やはり、今日のチェックは終わっていた。まだ部活が始まる三十分以上前だというのに、それよりももっと早くに――おそらく一時間以上前には来て、彼女は一部の仕事を終えてしまったというのか。
真田は、ノートを元の位置に戻した。
その際、頬杖をつく彼女のもう一方の手にあるのが、自分が以前彼女に選んでやったテニスの本であることに気がついた。
本屋のカバーが掛かったままだったが、うっすらと透けて見えるあの表紙は確かに自分が選んだものだ。
つまり彼女は、本来なら休日である今日、誰よりも早く部室に来て仕事に取りかかり、更に余った時間をテニスの知識を増やすために費やしていたらしい。
どうやら、その後に睡魔が襲ってきたようだが。
そう悟った瞬間、感心するよりも先に、どこか唖然とした感情が真田の中に湧き上がってきた。
――何故、彼女はこれほどまでに頑張ってくれるのだ。
彼女のこの頑張りようは、決して今日だけのものではない。
思い返してみれば、入部した時から今まで、毎日欠かすことなくずっとそうだ。
部活中手を抜いているところなど見たことがないし、休み時間を潰して仕事をしている姿を見ることもある。学校生活のほとんどをテニス部に捧げてくれていると言っても過言ではないほど、彼女が働いてくれていることを、真田は知っていた。
正直、いつか息切れするだろうと思っていたこともあったのだが、二週間経った現在もその様子はまるでなかった。それどころか、逆に費やす時間が増えていっているのではないかと思えるほどだ。
ただでさえ、テニス部の練習時間は通常の部活動よりも時間が長い。
それだけでなく、休日も返上し、彼女にとっては拘束されるばかりの生活を余儀なくされているはずだ。
それなのに、彼女はその僅かな休憩時間でさえも、テニス部のために自ら率先して働いてくれている。
今までのマネージャー候補たちには無いものを感じるし、頑張ってくれることを嬉しく思う気持ちは勿論あるけれども、流石にここまでされると、彼女が無理をしているのではと心配になってしまう。
彼女が休まる時間は、あるのだろうか。
それに、そういえば元々帰宅部だったはずだが――今までとはまるで違うこんな生活を、辛く感じることはないのだろうか。
(疲れていない訳がないだろうに、な)
そう、こんな生活をしていて、疲れていないわけがないと思うのだ。
少なくとも、こんなところで転寝をしてしまうほど疲労しているのは間違いないだろうに――彼女はその片鱗すら自分たちの前で見せたことは一度もない。
自分の記憶にある彼女は、いつも真面目な顔で一生懸命何かに取り組んでいるか、楽しそうに微笑んでいるかのどちらかだ。
辛そうな顔など見たことがないし、彼女の口から泣き言を聞いたこともない。
初日のあの日からずっと、彼女はいつも一生懸命だった。
(ああ、初日といえば――)
真田はふと、初日にこの部室で彼女とやったやり取りを思い出した。
――正直、我が部のマネージャーは大変な仕事だと思う。安請け合いで長続きするとは到底思えん。しかも、もと帰宅部なら尚更だ。
――失礼な言い方をしているとは分かっている。しかし、今我が部は全国三連覇をかけた大切な時なのでな。続くかどうかも分からぬマネージャーに仕事を教える暇は、正直言って、無い。教えたところで早々に辞められるくらいなら、最初から入られない方がありがたいのだ
――お願いします、やらせて下さい! 一生懸命、やりますから!!
今思えば、自分のあの言葉は、なんと失礼な言い草だっただろうかと思う。
彼女のことをよく知りもしないのに、思い込みだけで好き放題言いたいことを言った。
なのに彼女は、それに対して怒ることもせず、必死で頭を下げ――そして、あの発言通り心から一生懸命マネージャーの仕事に取り組んでくれている。
もしかして、彼女が無理をしていると思えるほど頑張る理由は、自分のあれらの発言のせいだったりするのではないだろうか。
あんな言い方では、無理をしてでもやらなければいけないのだと、彼女が思い込んでも当然かもしれない。
(俺は、彼女に詫びねばならん)
あの発言については勿論、こんな風に無理をさせてしまったことについてもだ。
そんなことを思いながら、静まり返る部室の中で、真田はじっと眠っている彼女を見つめた。
(こうやって見ると、なんというか……小さい、な)
テニス部の面々やクラスの友人も含めて、いつも自分の周りにいる仲間達とは全然違う。
小さいというか、華奢というか――体つきそのものが、自分達とは別物なのだ。
こんな小さな体のどこに、あんなバイタリティーがあるというのだろう。
外から聞こえるはずの乾燥機の音は、もう真田の耳には届いていなかった。
静かな部室にすうすうと彼女の寝息だけが響き、それがなんだかとても心地良いような気がした。
せっかく気持ちよさそうに眠っているのだし、ぎりぎりまで寝かせておいてやったらいいかもしれない。
真田は、物音を立てないように静かに自分の元いた椅子に戻った。
そして、もう一度ちらりと彼女を見る。
――無邪気な寝顔だな、と思った。
その姿を見ていると無意識に笑みが零れたが、それに真田自身が気づくことはなく、すぐに視線を手元に戻して、目の前のオーダー表に意識を集中させた。