校門を出てすぐのバス停から、三人はバスに乗った。
バスは部活帰りの立海の生徒でほぼ満席状態だったが、かろうじて一番後ろの席を確保することが出来、三人は安堵の息をつく。
「……この時間って、こんなに混んでるんだね」
「そっか、はもともと帰宅部だったもんな。この時間のバスに乗るの初めてか」
持っていたラケットバッグを足元に置きながら、切原が言う。
「うん、今まではもっと早かったから。ウチの学校帰宅部少ないから、混んでても一本待てば大抵座れるし……。まあ、いつも乗ってる朝のバスはこんな感じだから、ラッシュが初めてってわけじゃないんだけど」
はそう言いながら、バスの中をぐるりと見渡した。座席はおろか、通路まで人が溢れ出していて身動きすら上手く取れなさそうなバスの中は、見ているだけでなんだか息が詰まりそうになる。
「でも慣れなきゃね。これから毎日この時間なんだから」
「ま、そのかわり朝はテニス部が一番早いから、あんまり混んでねーぜ。つか、朝のあの時間にこの路線乗ってる奴、テニス部員ばーっか!」
切原はそう言って笑うと、に話を振った。
「ところでさ、もいつもこの時間か? 俺、と帰りのバス一緒になった記憶、あんまないんだけどさ」
「うん、私は普段はラッシュ避けて少し早く帰るから、もう三十分ほど早いの。美術部ってホントお気楽な部だから、そのあたりは全然うるさくないのよね」
「え、じゃあ今日はもしかして、私のこと待っててくれたの?」
驚いた顔をするに、は笑って首を横に振った。
「違う違う。もうそろそろ、私も夏の作品展に向けて描き始めなきゃいけない時期で、どっちにしろこれくらいまでいるつもりだったから。に気を遣って待ってたわけじゃないからね。気にしないで」
「そっか、美術部はそろそろ夏の作品展の準備が始まるんだよね」
彼女はお気楽な部だというが、が美術部の活動をどれくらい大切にしているかは、はよく知っているつもりだった。特に、夏の作品展にかける意気込みは相当なものだ。
「そっか、もうそんな時期かー。早ぇなあ」
切原が呟くように言う。
「あ、切原君もの作品展のこと、知ってるんだ」
「ああ、勿論」
軽く頷いて、彼は何かを含むように笑う。
なんだかその言葉の奥には秘めた意味がありそうな気がしたが、きっと彼の恋心に繋がっているような気がして、は敢えてそれ以上何も聞かないでおいた。
「、今年も楽しみにしてるからね」
のその言葉に、もこくんと頷く。
「うん、ありがと。まあ、そういうわけで、これからは放課後ギリギリまでいることが多くなるから、時間が合えば一緒に帰ろ」
「うん!」
とは、そう言うと嬉しそうに笑い合った。
「ところでさ、お前らどこで降りんの? 駅?」
「えっと、私は駅。は、もうちょっと乗るよね」
切原の問いに、の分までが答える。は親友の言葉に頷くと、更に付け加えた。
「うん、このバスだったらね。駅止まりのバスだったら、乗り換えてもう一本乗らないといけないけど」
「ふーん、結構かかりそうだな。どれくらい乗るんだ?」
「この路線だったら、うちの近くまで直通だから一時間くらいかなあ。駅で乗り換えだったら、上手く乗り継ぎ出来るかで変わってくるけど、一時間ちょっとから一時間半くらい」
と切原がそんな他愛ない話をしていると、が窺うような目でを覗き込んできた。
「……さん。そろそろ、聞いていいですかねぇ」
は、わざとらしく口調を変えて、どこかからかうような目つきをする。その様子に、の直感がぴんと働いた。
――きっと、あの話だ。
「何をですか、さん」
彼女が聞きたい内容の見当はついていたけれど、敢えて何も分からないふりをしながら、もまた彼女に合わせてわざと他人行儀な言い方をする。
「決まってるじゃないですか。ほら、今日の部活のことですよ。……初仕事は、どうだったんですか?」
そう言って悪戯っぽく笑う親友に、は苦笑する。そして、いつもの口調に戻して答えた。
「すっごく大変だった。やることいっぱいあったし」
そう言いながら、今日の部活での様子を思い出して、は溜息をつく。
「今日一日でもいっぱいいっぱいだったのに、まだ教えてもらってない仕事もあるみたいだしねー」
「そうなんだ……やっぱ大変なんだね、テニス部のマネージャーって」
心配そうに、が眉をひそめる。親友が心配してくれたのを悟ったは、慌てて手を横に振った。
「あ、でも、大丈夫だよ。大変だったけど、やりがいあるなって思ったしさ!」
だから心配しなくていいよ、と付け加えて、は満面の笑みでに笑いかけた。
もまた、それに頷いて優しく笑う。
「……オッケー! 頑張れ、!!」
「うん、頑張る!」
――その時。との会話を黙って聞いていた切原が、思い出したように口を開いた。
「まあ、今日の調子でいけばいいんじゃねーかな。さ、先輩たちに結構評判良かったし」
何気なく口にした切原のその言葉に、は目を見開いた。慌てて、は彼の方に顔を向ける。
「……ほんと!?」
「ああ、部活終わって、着替えてた時にさ。頑張ってくれそうな子だとか、いい子そうだとか、そんな感じの感想が多かったぜ。ま、今日見てた限りでは、って前置きがあったけどな」
そう言って、切原は笑う。
は、素直に嬉しいと思った。とりあえず今日は、あの先輩達に受け入れてもらえたのだ。
しかし喜んだのも束の間、すぐにあの「彼」の顔が脳裏に浮かび、心臓がどくんと鳴る。
(……真田先輩も……そう思ってくれたのかな……)
だとしたら嬉しいどころの話じゃないけれど、たった一日頑張ったくらいで、あの彼がそんな風に言ってくれるだろうか。なんとなく、ゆっくりじっくり見定めてから、結論を出すタイプのように見える。
けれど、もしかしたら簡単な印象くらいなら、切原に話しているかもしれない。
(でも、もし良い印象じゃなかったら……)
切原に聞いてみたい気持ちと、聞くのが怖い気持ちが、心の中で天秤に乗って激しく揺れる。
は僅かに沈黙した後、恐る恐る顔を上げて、小さな声で彼に尋ねた。
聞いてみたい気持ちが、ほんの少しだけ勝ったのだ。
「……真田先輩、も、何か……言ってた?」
少し震える声で、は不安そうにそっと問い掛ける。その言葉に切原はうーんと唸ると、口元に利き手を当てながら答えた。
「んー、どうだったっけな。副部長は、着替えの時あんまり話とかしねーからなぁ」
「そ、そっか」
の心の中で、答えが返ってこなくて残念な気持ちと、どこかほっとした気持ちが混ざる。
すると、が落ち込んだと思ったのだろうか、が笑顔でフォローを入れた。
「でも他の先輩たちがそう思ってるなら、真田先輩もそう思ってる可能性は充分にあるんじゃないかな。大丈夫だよ!」
同じように、切原も笑顔で口を開いた。
「そうそう。全然ダメだと思ったなら、あの人ならすぐに態度で分かっからさ。今日、別にそんな感じはしてなかっただろ?」
「うん。注意はたくさんされたし、『もっと早くやれるように』とかは言われたけど、多分……大丈夫だと思う。それに、お世辞かもしれないけど、初日の割にはよく働いてくれたとか、よく頑張ったとか言ってもらえたし、それで充分だよね」
部活後の彼の言葉を思い出したら、自然と表情がほころんだ。
すると、そんなの表情とは対照的に、切原は驚いたように目を見開いた。
「……へえ、真田副部長がそう言ったのか?」
「う、うん。確かに言ってくれたよ」
が頷いたのを見て、切原はどこか面白そうに、もう一度へぇと声を漏らす。
そして。
「あの人、下手なお世辞なんて言う人じゃねーからな。本当にお前が頑張ってるって思ったんだわ、それ」
そう言って笑うと、切原は更に言葉を続けた。
「それに、お前がマネージャーとして見込みがあると思ったからこそ、初日から注文もつけたんじゃねーかな。あの人の性格上、全く期待出来ないと思ったら、注文つけるどころかすぐに教えるの止めてると思うしな。そういうとこ、すっげーはっきりしてる人だぜ、副部長は」
「そう、なのかな……」
にわかには信じられない気持ちで、そう呟いてはみたものの。
確かに、今日彼に初めて部室で会った時、続くかどうかも分からぬマネージャーに仕事を教える暇はない――そう言っていたことを、は思い出した。
真剣な眼差しで紡がれたあの台詞は、はったりでもなんでもなく、心の底からの彼の本音だっただろう。
(確かに、あの人は上辺だけのお世辞なんて言わないような気がする……)
そんなことを思い、はぎゅっと掌を握り締めた。
「ま、少なくとも、今日の印象は悪くねーわ。間違いねぇよ」
そう言って、切原はにっこりと笑った。
「良かったね、!」
もまた、自分のことのように嬉しそうな笑顔で、の肩を叩く。
しかし、当のは言葉も出なかった。勿論、落ち込んだわけではない。――嬉し過ぎるからだ。
彼が自分のことを少しでも認めてくれた。そう思うと、自然に頬が緩んだ。
心から嬉しいと、こんなにも自分の表情が制御できなくなるものなのだろうか。
は緩む頬に両手を添え、必死で表情を抑える。
(頑張ろう、もっと……あの人に認められるような、テニス部に必要とされるようなマネージャーになるんだ……!!)
心の中で、は改めてそう強く決意する。
そして、今度はなんだかいても立ってもいられなくなったように、そわそわし始めた。
立派なマネージャーになるために、今すぐ出来ることはないだろうか。なんでもいいから何か無いだろうか。そんなことを模索しながら、自分の掌をじっと見つめたり、首をひねったり、きょろきょろと辺りを見渡したりと、傍から見れば無意味な動作を繰り返す。
すると、それに気付いた二人が眉をひそめて怪訝そうな表情をした。
「急にどうしたの、。なんかめちゃくちゃ挙動不審だけど」
「嬉しくておかしくなっちまったか?」
二人の目に気付いたは、恥ずかしそうに俯いて「ごめん」と小さな声で呟き、一旦はその挙動を止める。しかし、頭の中はやはり「今出来ることはないか」という思いでいっぱいのままだ。
(何かないかなあ、今すぐ出来ること)
そんなことを思いながら、ふと窓の外に視線をやる。すると、もう駅の近くまでバスが来ていることに気付いた。
いつの間にかもうこんなところまで来ていたのかと、信号待ちで停車しているバスの窓からじっと外を見つめた。その瞬間、窓から「ある店」が見え――はぴんと閃いた。
(そうだ、私が今出来ること……!!)
『ご利用ありがとうございます。次は××駅前です』
が「それ」を思いついたのと同時に、駅到着の車内アナウンスが流れた。
ほとんどの客がここで降りるのだろう、混雑しているバスの中は、降りようとする人々がその準備を始め、その雑然さは更に増した。
も、今思いついたことを実行に移す為には駅で降りなければならないので、自分の鞄を握り直し、降りる準備をしようと思った、その時。
「そろそろだね。切原君もここで降りるんだっけ?」
「おう!」
切原とが、そんなことを言い合った。そんな二人に続けて、も口を開く。
「あ、私も……」
そこまで言いかけたが、その瞬間、視界に嬉しそうな切原の顔が飛び込んできた。
ハッとして、は慌ててその口を閉じる。
「、どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
何かを言いかけてやめたを、は不思議そうに見つめたが、はそれを笑ってごまかす。
そんなことをしているうちに、やがてバスは駅へと到着した。
「あ、着いた。じゃあね、」
「じゃ、また明日なー!!」
そう言って、と切原は、それぞれ定期の入ったパスケースを握り締めながら立ち上がった。
「うん、またね」
腰を下ろしたまま、は手を振る。
二人はそれに笑顔で手を振り返しながら、出口に吸い込まれていく人波の一番後ろに着くと、そのままバスの外へと流れるように出て行った。
その後、もう一方のドアが開き、新たな客が乗り込んで来る。
降りた客ほどではないが、そこそこの人数が乗ってくるのを見てが窓際の方に寄ると、降りたと切原が車内に向かって見送るように手を振っていたのが見えた。
嬉しそうな切原の顔の隣に、いつもと変わらないの笑顔が並んでいることに、なんだかとても嬉しくなりながら、は二人に手を振り返す。
そうしているうちに、アナウンスが流れてバスのドアが閉まる。そして、バスが出発するとすぐに二人の姿は見えなくなった。
が降りるつもりだった駅で降りなかったのには、勿論理由があった。
あの後で二人がどうするかは分からないけれど、少しの間だけでも二人っきりにしてあげたいと思ったのだ。切原もそれを期待していただろうし、あそこで自分も降りると言い出だせば、きっと彼は少なからず落胆しただろう。
その後、駅から一つ離れた停留所で改めてバスを降り、は先ほど通過してきた駅の方へと足を向ける。
「さて、と」
満足そうに微笑んで息を吸い込むと、は駅に向かって歩みを進めた。