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07:たからもの 03

部室を出る時はまだ明るかった空も、十八時半を回っている今、太陽はその姿の半分を地に埋めている。
長く伸びる自分の影に追われながら、は少々急ぎ足で歩いた。
先ほど別れた二人に会わないようにと願いながら、駅の側のバスターミナルを抜け、目的の店のある通りへと向かう。
そして程なくして、は先ほどバスの窓から見えた店――この辺りで一番大きな書店に到着した。

そのまま店内へ飛び込んで、は目的のコーナーを探した。
いつもなら、わき目も振らずにティーンズ雑誌のコーナーやコミックの棚へ飛びつくのだが、今日ばかりはそれらは目にも入らない。きょろきょろと見渡して、目当てのコーナーを視界に捉えると、それに向かって一目散で駆け寄った。
「スポーツ全般」――そう書かれた棚の前で、は足を止める。
そう、が探していたのは、テニスのルールブックだったのだ。
今、出来ること。そう考えて思いついたのは、テニスのルールを少しでも早く覚えること――そのために、テニスのルールブックを読むことだった。
真田は部室の本棚にあるものを好きな時に読んでもいいと言ってくれたが、学校にいる間だけでなく、バスに乗っている間や家にいるときでも目を通したかった。
しかし、借り物の本を四六時中持ち歩くのは気が引けたし、それに何より、自分のお金で買って自分専用のテニスの本を持つことで、気分的にも引き締まるような気がしたのだ。
は、目の前の棚をじっと凝視した。そこには、様々なスポーツの本が分類分けされ、綺麗に並んでいる。必死で視線を動かし、テニスの本を探した。

(野球、サッカー、バレー、バスケットボール……あ、あった、テニス!)

沢山の本の中から「テニス」の文字を見つけて、は反射的に手を伸ばす。しかし、よくよく見ると、それには「ソフトテニス」と書かれていることに気がついた。

(ソフトっていうのは、軟式のことだよね。私が探してるのは硬式テニスだから、これは違うんだよね)

気持ちが逸っているから、こんな間違いをするのだろうか。
心を落ち着けるように深く息を吸うと、はもう一度棚を見つめた。
すると、先ほど間違えたソフトテニスのすぐ隣に、硬式テニスの本が何冊か並んでいることに気がついて、今度こそは本に手をかけた。

たくさんあるうちの一冊を適当に手にとって、パラパラと捲ってみる。
昨日今日テニスに触れたばかりのには、何が書いてあるのかよく解からないことも多かったが、それでも今日一日の間に見聞きしたテニス用語を目にすると、なんだか嬉しくなった。

(あ、これ今日柳先輩が言ってたやつだ)

そんなことを思いながら、またパラパラと捲って一旦その本を閉じる。そしてその本を利き手と反対側の腕に抱えると、空いている手で他の本を取り出し、先ほどと同じように流し読みをした。パラパラと捲っていたページが最後まで行くと、それを先ほど読み終えた本の上に重ねて持ち、また棚から新しい本を手にとって開き――そんなことをしばらく続け、いつの間にかは棚に数冊まとまって入っていた硬式テニス関連の本を、全て手に取っていた。
片腕に抱えている本は十冊近くになり、重いと感じるくらいになっている。
しかし、そのうちのどれを買えばいいのかには見当もつかなかった。

(……こう何種類もあると、どれがいいのか……)

そう思いながら、は片腕に納まっていた本の山を見た。サイズも厚みも様々なその本たちが、には正直全て同じに見える。やはりどれを選んでいいのかわからず溜息をつくと、もう一度棚の方に目をやった。
――すると。

「あ、もう一冊ある……」

先ほど、硬式テニスの本が纏まって入っていたのとは少し離れた場所――スポーツの棚の一番上に、もう一冊硬式テニスの本が紛れているのに気がついた。誰かが手に取った後、元のテニスの分類の所ではなく適当に棚に戻したのだろうか。
は片腕に本を抱えたまま、空いたもう一方の手を本に向かって伸ばす。
しかし、その棚の本を取るには身長が微妙に足りなかったようで、一生懸命手を伸ばしても、の手は本の背表紙の下部を掠るのみだ。爪先立ちになって背伸びなどもしてみるが、一番上の棚にある目的の本を引き出すにはいたらなかった。

(あーもう少しなのに!! ていうかこの本屋、一番上の棚高すぎなんだってば!!)

届きそうで届かない。なんて歯がゆいんだろうと思いながら、はもう一度力を込めて手を伸ばす。
そのとき、背後に人影が現れた。
光が遮られて少し暗くなったかと思うと、後ろから長い腕がすっと伸びてきて、があれほど苦労しても取れなかった本が、その腕の主によっていとも容易く抜き取られる。
そして。

「これか?」

そう言いながら、の目当ての本を難なく手に取った腕の主は、に向かって本を差し出した。

「すみません、ありがとうございます」

礼を言ってその本を受け取ると、は振り返って相手の顔を見上げ――そして、驚きの余り、大きく目を見開いた。

「真田先輩……!!」

――そう、そこに立っていたのは、真田だったのだ。
余りにも突然過ぎる彼の姿に、は驚いて頭が真っ白になる。
しかしそんなの内心など知るはずもなく、彼は口を開いた。

、そんなに本を抱えながら無理に手を伸ばすと危ないぞ。店員に頼んで取ってもらうなり、踏み台を借りるなりすればいいだろう」

そう言って、真田は呆れたように溜息をつく。

「そ、そうですね。すみません」

なんとか彼に返事をして、は苦笑した。まだ心臓がドキドキしているが、今日一日何度も彼の前で平静を装うふりをしたせいだろうか、見掛けだけは平静を装うことに慣れてきたような気がする。
大きく息を吸って呼吸を整えると、は話を続けた。

「先輩だったんですね、びっくりしました」
「俺もお前がこの店にいるとは思わなかったから、見つけた時少し驚いたぞ」

そう言うと、真田は口の端で僅かに笑った。
その表情にどきっとして、つい本を持つ手に力が入る。それをごまかすように、はぺこりと頭を下げた。

「あの、先輩。本、取って下さってありがとうございました」
「ああ。それにしても、俺より二本は早いバスに乗ったはずだろう? こんな時間まで、どうしたんだ」
「あ、ちょっといろいろありまして……」

まさか、切原とを二人きりにするために、一つ向こうのバス停から歩いてきたなどと説明できるわけもなく、はごまかすように笑う。
しかし、真田はそれとは対照的な真面目な表情で、諭すように言った。

「事情は知らんが、こんな放課後遅くまで歩き回るのは感心せんな。ただでさえお前は今までより帰りが遅くなっているんだ、親御さんが心配されるだろう」

眉間に皺を寄せ、真田が言ったその言葉に、は目を瞬かせる。
遅くまでと言ってもまだ七時にもなっていないし、休みの日に友達と遊びに行けば帰りの時間はこれくらいになることもある。
それに、今日テニス部のマネージャーになることを決めた後、母にはメールを送って遅くなることを告げていた。
確かに今までに比べれば時間的にはかなり遅いし、早く帰るに越したことはないだろうが、これくらいで心配することはないだろう。

「大丈夫です、母にはメールで連絡してありますし」
「そういう問題ではないだろう。それに、そうでなくとも女子が一人でこんな時間までうろうろするものではない」

そう言うと、彼はまっすぐにを見つめた。

(……真面目な人なんだなあ……)

今日だけでも彼の真面目さはよくわかったつもりだったが、どうやらそれはテニスに関してだけではないらしい。私生活でも、彼の真面目さは筋金入りのようだ。
でも、はそれが悪いとは思わなかった。心配してくれているからこその言葉なのだろうし、きっと彼の優しさのあらわれなのだろう。
そう思うと、なんだかあたたかい気持ちになって、は自然と笑みが零れた。

「すみません、そうですね。これ選んで買ったらすぐ帰ります」

そう言って、は再度、腕の中に収められた本の山を見つめる。すると、真田も少し背をかがめて、の腕の中のそれらを見やった。

「テニスのルールブックか……別に、部室にあるものを読んでくれて構わんぞ」
「はい、でも自分用に一冊持っていてもいいかなと思うんです。まだまだテニスのこと何も知らないですし、しばらくは手放せないと思うので」

は恥ずかしそうに苦笑する。そんなの様子をじっと見つめると、真田はふむ、と頷いた。

「その心掛けは立派だな。よし、貸してみろ」

そう言って、彼はに向かって手を出した。
一瞬彼が何を要求しているのか分からず、の挙動が止まる。
それを見て、真田は付け加えるように言った。

「その手にたくさん抱えている本だ。俺がお前に一番合いそうなものを選んでやる。どうせ、どれがいいのか決めかねていたのだろう?」
「え、いいんですか!?」
「ああ」

頷いて、彼はの手から本を取り上げると、そのページを捲りながら続けた。

「できる限りのバックアップはすると言っただろう。これくらい、なんでもない」
「あ、ありがとうございます!」

の礼の言葉に、真田は一瞬だけふっと笑ったが、すぐに真面目な顔に戻ってその本を捲り始めた。

「ふむ……これは、お前には難しいだろうな」

そう呟いて、真田は最初に開いた大きくて分厚い本を閉じ、棚に戻す。
そしてすかさず次の本を開き、また片手でページをぱらぱらと捲った。

「これはプレイヤー向きの本だ。実際にテニスをプレイするわけではないお前にはこの内容は必要ないだろう」

そんなことを言って、また一冊棚に戻す。
はそれに頷きながら、真面目な顔つきで本のページを流すその横顔をドキドキしながらじっと見つめていた。
――しばらくして。

「……うむ。今ある中で選ぶなら、これが一番お前に向いているだろう」

そう言って、真田は手に残していた何冊かの本の中から、一冊の本をに手渡した。
それは文庫本より少し大きいくらいのサイズで、分厚くもなく、どちらかといえば薄い部類に入るくらいのコンパクトにまとまった本だった。

「あ……ありがとうございます……!!」

は、その本を両手でおそるおそる受け取り、ゆっくりと開いて中を見た。
正直、他の本と何が違うのかも、どうしてこれが自分に向いているのかも分からない。
けれど、にとっては、彼に選んでもらったというだけで何よりも嬉しい一冊だった。
ぱらぱらとページをめくっているだけで、嬉しくて頬が緩みそうになってしまう。

(先輩が、私のために選んでくれたんだ……)

飛び上がりたくなるような嬉しさを押し殺しながら、じっと本を見つめているの隣で、真田は他の本を棚に戻していた。片手の掌で本の背を軽く押し付けて、戻した他の本たちを丁寧に収めながら、真田は言う。

「その本は、技術説明よりもルール解説の方に力を入れている。それに、そのサイズなら持ち運びも苦にならんだろう」

(そこまで考えてくれたんだ)

本当に自分のことを考えて、自分のために彼が選んでくれたのだ。
更に嬉しさを募らせたは、思わずその本をぎゅっと大切そうに胸に抱きしめた。

「ありがとうございます、先輩。早速買ってきますね」

早くお金を払って、自分のものにしてしまいたかった。
は慌ててレジに向かうと、並んでいるレジの一番後ろについた。
すると、真田も近くの雑誌棚から一冊の雑誌を引き抜き、の後ろに並んだ。

「……先輩も何か買われるんですか?」
「ああ、今日発売のテニス雑誌をな。そもそも、これを買うために寄ったんだ」

そんな話をしているうちに、の番が回ってきた。大切に抱きしめていた本を店員に手渡し、は会計を済ませた。

「ありがとうございましたー」

会計を済ませた二人は、店員のお決まりの挨拶を背に、店を出た。
そして、店の外で立ち止まると、はもう一度真田にお礼を言う。

「本当にありがとうございました、先輩」

レジでカバーを掛けてもらった本を大切そうに両手で抱きしめながら、は頭を下げる。

「ああ。それを全部覚えられれば、ルールに関しては大丈夫だろう。頑張ってくれ」
「はい!!」

が極上の笑顔で元気よく返事をすると、真田は僅かに目を細めて、微笑ましそうに笑った。
そして二人は、これからどのバスで帰るのかなんて他愛のない話をしながら、駅まで歩いた。
しかし、もともと駅からそんなに離れていない場所にある書店だったので、時間にすればほんの五分、いや数分程度だっただろうか。あっという間に、二人はバスターミナルに着いてしまった。

「では、気をつけてな」
「はい、今日は本当にありがとうございました。先輩もお気をつけて!」

バスターミナルの入り口でそう言い合い、は真田と別れた。

どこかふわふわとした気分に包まれながら、がいつも使っているバス乗り場に向かうと、丁度バスが出発時間を待っているところだった。慌ててはそのバスに乗り込み、空いていた席に座る。
しかし、落ち着いて運転席の方を窺うと、運転手は外に出て他のお客と話をしているのに気がついた。
どうやら、バスの出発までにはまだ時間がありそうだ。
は、先ほど買ったばかりのカバーの掛かった本を鞄から丁寧に取り出して、じっと見つめた。

(先輩が、私のために、選んでくれた本……)

そう思うだけで、頬が緩む。その本を握る両の掌が熱を持ち、波打つ心臓の音がどんどん速度を増す。
今度は、本を開いてその中身を確かめる。ゲームの始め方、ポイントの数え方。ラリーの進め方や、勝敗の決め方。今日の部活中に見せてもらった真田と切原の試合を思い浮かべながら、本の内容を目で追っていると、なんとなく理解できそうな気がした。
まるで面白い読み物を読んでいるような気になってきて、ただひたすら、貪るようにその本を読み進める。
おかげで、いつの間にかバスの座席がほとんど埋まってしまっていたことだけでなく、運転手が乗り込みバスが出発したことすら、は全く気が付かなかったのだった。



本に集中するあまり、自宅の最寄りバス停を乗り過ごしそうになりつつも、なんとかは無事に帰宅した。
家で迎えてくれた母親は、開口一番、テニス部のマネージャーになることに賛成だと言ってくれた。

がやると決めたのなら、頑張りなさい」

母は、笑顔でそう言った。どうやら娘が今までずっと帰宅部でいたことに、若干の勿体無さを感じていたらしい。
これからは今までよりも二時間早く起こして欲しいと頼むと、母は笑顔で快諾してくれた。お弁当を作らなければならないから自分よりもっと早く起きなければならないのに、何の文句も愚痴も言わずに了承してくれた母に、は胸が熱くなる。
に切原、真田を初めとしたテニス部の人たち、それに家族までもが自分を応援してくれている――そう思うと、ありがたくて嬉しくて、少し泣きそうになった。
皆の気持ちに応えられるように、絶対に頑張るんだと自分に言い聞かせ、は決意を新たにした。

その夜、はいつもよりずっと早くベッドに潜り込んだ。
時計は二十一時過ぎを指している。いつもなら、この時間はまだテレビを見ている時間だ。
しかし、明日から二時間早く起床しなければならないことを考えると、テレビなど見たいとも思わなかった。万が一遅刻なんて馬鹿げたことをして、せっかく今日芽生え始めた小さな信頼を失うなんてことは、絶対に嫌だったのだ。

寝る前に、はもう一度ある物を手に取り、目の前に掲げる。
それは、カバーの掛かった本――今日、真田に選んでもらったテニスのルールブックだった。
金額にすれば千円にも満たないほどの本だったが、その本を手にしているだけでなんだか幸せな気分になり、頑張ろうという気持ちがふつふつと湧き上がってくる。
まるで、とても素晴らしい宝物を手に入れたような気分だった。

(明日からも、頑張ろう……)

そう決意し、はその宝物を大切そうにベッドの側のサイドボードに置くと、電気を消した。

初稿:2006/08/17
改訂:2010/03/05
改訂:2024/10/24

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