二人は一般部員たちが各自いろんな練習をしている中を通り抜け、やがて奥の方のコートに到着した。
その付近では、レギュラー達がコートを使って打ち合ったり、壁に向かってボールを打ったりしている。
ボールを叩く音があちこちでリズム良く響き渡る中、丸井は手を上げて真田に話し掛けた。
「お〜い真田! 連れてきたぜぃ」
その声を聞いて、コートで仁王と柳生が打ち合っているのを見ていた真田が、視線をこちらに移す。
「……来たか」
そう言うと、真田はその場を離れ、こちらへと近づいてきた。どきっとして、は無意識に背筋を伸ばす。
「ご苦労だったな、丸井。それではお前は、終了までCコートでジャッカルとダブルスのコンビネーション練習をするように。ジャッカルは先に行っているはずだ」
「オッケィ。じゃな、マネージャー」
丸井はそう言って軽く手を振ると、ぷうとガムを膨らませながら歩いていく。それを見た真田が「走らんか!」と一喝すると、彼は少しかったるそうに「へいへい」と返事して走って行った。
その光景がなんだか妙におかしくて、はくすりと笑みを零す。
「まったく、たるんどる」
真田は、そう呟いて溜息を落とすと、気を取り直しての方を向いた。
「……さて、。今日の練習時間ももう残りわずかだ。先ほど言っておいた通り、最後は実際の試合を見せながら簡単にテニスのルールを説明しよう」
実際見たほうが早いからな、と付け加えながら、真田はきょろきょろと辺りを見渡す。そして、壁打ちをしている切原と柳を見つけ、二人に声を掛けた。
「赤也、蓮二! すまないが、ちょっと来てくれないか」
真田が叫ぶと、二人は壁打ちを止めこちらに視線を移す。そして、それぞれ置いていたタオルを拾い上げて汗を拭いたり、ドリンクのボトルを口にしたりしながら、真田とに歩み寄ってきた。
「なんスか?」
「どうした、弦一郎」
「今から二人で1セットマッチを行ってくれ。に実際に試合を見せながら、テニスのルールを説明しようと思う」
真田の言葉に、柳はふむと頷いた。
「なるほど、百聞は一見にしかずというわけだな。了解した」
そう言ってラケットを持ち直し、柳は首に掛けていたタオルを引き抜く。
――しかし。
その時、何かを企むように切原がニッと笑った。
「ちょっと待って下さいっス。柳先輩とはラリー練習でさっき打ったんスよ」
「ん? ああ、確かに打ったが」
柳が不思議そうに頷くのを横目に、切原は笑顔で言葉を続けた。
「……副部長とは今日打ってないっスよね。どうっすか、打ちません?」
「俺とか?」
切原からそう返って来るとは思っていなかったのだろう、真田は意外そうな顔で少し考え込む。
そして、ややあってから顔を上げた。
「よし、いいだろう」
そう言って、真田は不敵な笑みを浮かべ、切原をぎらりと見据えた。
は無言でこの光景を見守りながらも、内心この展開に驚きを隠せなかった。まさか、こんなに早速、真田が試合する姿を見れるとは思っていなかったからだ。
(さ、真田先輩と切原君の試合……今から見られるの!?)
は、昨日の真田の試合を思い出した。
の心をとらえて離さなかった、あのテニスを――閃光を、また見ることが出来るのだろうか。
そう思うと、いやが上にも胸が高鳴っていく。
(だ、だめだめ。これはルールを覚えるためなんだから!)
高揚する気持ちを抑えて、はぎゅっと手にしていたメモ帳とペンを握り締める。その瞬間、ふと切原と目が合った。
すると、切原はにっと笑って、何かを言いたそうにに目配せをした。
(あ、もしかして切原君……私に気を遣ってくれたのかな?)
なんだか恥ずかしかったけれど、彼の心遣いがとても嬉しかった。
は、他の人に気付かれないように、彼に向かってそっと頭を下げる。
「それでは蓮二、俺の代わりにに解説を頼む」
「了解した」
そんなことを話しながら、真田は羽織っていたジャージを脱ぎ捨てて近くのベンチに投げると、ラケットを手にコートに入っていく。
一方、審判台の隣に柳と並んで立ったは、柳に頭を下げた。
「柳先輩、よろしくお願いします」
「ああ、何か質問があったらいつでも聞いてくれ」
「はい、お願いします!」
コートでは、既に真田と切原がネットを挟んで向かい合っていた。
「……それでは、始めるか」
「よろしくお願いしまーっす」
その声と共に、試合が始まる。
切原がラケットヘッドを地面につけて、勢いよく回転させると、早速柳の解説が入った。
「ああやってどちらかがラケットを回し、もう片方が裏表を宣言する。倒れたラケットの向きが宣言したとおりならば、宣言側がサーブかコートを選び、外れれば相手が選ぶわけだ」
結果、真田がサーブ権を得た。
二人はそれぞれコートの端に立ち、ラケットを構える。
「サーブを打つ場所には決まりがある。センターマークとサイドラインの間の、コート外の領域で打つ。そして、打ったサイドの対角線上のサービスコートにノーバウンドで打ち込まなければならない。この条件が満たされねば失敗――フォルトだ。サーブを二度フォルトすると、ダブルフォルトと言って、サーブ側の失点となる。まあ、我々の試合で見ることはほとんどないとは思うが……相手方がする可能性は十分にあるからな」
早口で説明する柳の解説を聞き、メモを取る。
早速専門用語が大量に飛び出し、は頭がいっぱいになった。
しかし、ひとつひとつ意味を聞いている暇はなさそうだ。
とりあえずメモをとっておいて、後で尋ねることにしようと、はとにかく手を走らせた。
一通り早書きし、は顔を上げる。すると、今まさにサーブしようと構えている真田が目に入った。その姿だけで、駄目だと思いながらもドキドキしてしまいそうになる。
(なんだか、綺麗……)
そう思った次の瞬間――彼がボールを高く上げ、打ち込んだ。
素人でも分かる。なんて、整ったフォームなのだろう。
たった一球打っただけで、魅入りそうになってしまう。
「……サーブで打ち込まれたボールを打ち返す場合――つまり、レシーブする場合は……聞いているか、?」
その声に、はっとして柳の顔を見る。危ない――今、隣にいる彼の声すらも、全然聞こえていなかった。
「す、すみません……もう一度お願いしていいですか」
「ぼうっとしている暇はないぞ。特にこの二人の試合は、流れも速いからな」
「はい……すみません」
(こんなことじゃ駄目だ。真田先輩も柳先輩も切原君も、私のために時間を割いてくれてるのに……)
彼らの貴重な時間を奪っているのだと、は自分に言い聞かせる。
そして、雑念を振り払うようにぎゅっと手を握り締めると、真剣な眼差しでコートの中の二人を見据えた。
「集中します。柳先輩、お願いします」
「よし、その意気だ。それでは先ほどの続きだが――」
そう言って、柳は説明を再開した。
(頑張ろう、今はルールを覚えなきゃ!)
はそう強く決意すると、再度、視線とペンを走らせた。
◇◇◇◇◇
試合は、順調に進んだ。
にルールを提示するための練習試合とはいえ、二人は真剣そのもので、は全力で戦う二人の迫力に何度も圧倒されそうになった。
しかし、ボールを目で追いながら、矢継ぎ早に飛んでくる柳の解説を聞いてメモを取り、頭に入れなければならない。それは、にはとても大変なことだった。
少しでも気を緩めると、目が、神経が、真田のプレイする姿に魅入ってしまいそうになる。
おかげで、はなるべく真田の姿を見ないようにしなければならなかったほどだった。
そして、ゲームが始まって、約二十分弱が経過した。
ゲームカウントは5―1。
真田の圧倒的リードのまま、七ゲーム目のマッチポイントを迎えていた。
「先ほども言ったが、通常は六ゲーム先取した方の勝ちとなる。試合が拮抗すればタイブレークというルールもあるが、それはまた教えよう。今回はこれで弦一郎が決めれば、このゲームも弦一郎が取ったこととなり、弦一郎の勝ちだ」
柳がそんな解説を入れているうちに、真田がサーブを打ち、ラリーが始まった。
もう1ポイントでゲームが決まると言うのに、切原に諦めた様子はなく、必死でボールに食らいついていく。
――しかし、それは一瞬だった。
切原が少々無理な体勢から打ち返したボールが、弧を描いて真田のコート中央へと入ってゆき――次の瞬間、それは真田の力強いショットで叩きつけられ、切原のコートに堕ちていた。
(――すごい……)
完全に言葉を失ってしまった。
叩きつけるような力強いショット――それはまさしく、閃光のようだった。
鼓動がどんどん高鳴っていく。魅入らないように気をつけていたのに、たった一球でいとも簡単に囚われてしまった。
「ゲーム・セット。弦一郎の勝ちだ」
柳の言葉で、ははっと我に返る。
「あ、はい。あ、ありがとうございました」
これで試合終了で良かったと、は胸を撫で下ろした。こんな状態では、きっとこの後すぐに集中なんて出来ないだろう。
「ちぇーっ! やっぱ勝てねーかあ!!」
コートのど真ん中で大の字で寝転びながら、切原が悔しそうに叫ぶ。
そんな後輩を、真田は反対側のコートから見下ろした。
「当たり前だろうが、馬鹿者。俺に勝つなど十年早いわ。――しかし、確実に力は上がっているな。特に、四ゲーム目は技術・ゲームメイク共になかなかのものだったぞ」
そんなことを言う真田の表情は、どこか嬉しそうにも見えた。まるで後輩が力をつけることを喜んでいるようで、面倒見がいい人なんだなと、は思わず笑みを零す。
「あの調子を忘れるな。……では、クールダウンに入るぞ」
未だに寝転がっている切原にそう言うと、真田は柳とのいる方に歩み寄ってきた。一旦は落ち着きかけたの胸が、また速度を上げ始める。
「――どうだ、理解はできたか?」
彼に問われ、は慌てて口を開く。
「お、大まかには分かりましたが……理解とは言いがたいかと……」
「まあ、一度で覚えろとは言わんさ」
そう言いながら、真田はタオルとドリンクボトルを拾い上げ、ベンチに掛けてあったジャージを羽織った。
「しかし、早く覚えてもらうに越したことはないがな。他校との練習試合や、県大会のときは、スコアを付けて貰わねばならん。そのためには、ストロークの種類やコースなども理解して試合中瞬時に見定められるようになってもらわねばならんからな。ルールの時点で足踏みしているようでは困るぞ」
「ストローク……コース……?」
聞いたことのない言葉だと、は思わず問い返す。すると、真田より早く、柳が口を開いた。
「ストロークには複数の意味があるが、テニスにおいてはボールを打つことを指す。ストロークには複数の種類があり、フォアハンドストローク、バックハンドストローク、フォアボレー、バックボレー、ロブ、スマッシュ、サーブなどがあるな。例えば、弦一郎が最後に点を入れたあのショットは、スマッシュという。コースというのは、要は球筋だ。打球の飛ぶ方向だな。相手のコートにまっすぐ飛ぶことをストレート、斜めに飛ぶことをクロス、逆クロスなどと呼ぶ」
それに、真田が続ける。
「テニスには、これと言って決まったスコアの付け方はないのだが、我が部では試合運びをなるべく細かく記述し残している。どうゲームメイクをし、どのようなショットで点を入れ、相手のどんなプレイで点を失ったか。そういったデータは、今後の参考になるからな。つまりは、そのデータ取りも出来るようになってもらいたいということだ」
「……は、はい……」
(そんなことも、しなければいけないんだ……)
は、マネージャーと言う仕事の奥深さを改めて認識した。
休みがないというのも、裏を返せば休む暇がないほどやらねばならない仕事も多いということなのだ。
今までのマネージャー候補たちが続かなかったのも、納得できる気がした。自分だって、完璧にやれる自信があるかと問われれば、出来ると言い切ることは絶対にできないだろう。
――だけど。
この人に、認められたいと思った。好きとか惚れたとか、そういうことはとりあえず置いておくとしても、この人のテニスやテニスに対する姿勢には、確かに惹かれるものがある。
彼は、テニスを本当に心から大切に思っていて、そのために全力を尽くしている。
今日たった一日だけでも、それがとてもよく分かった。
そんな彼のテニスをもっと見たいと思ったし、できればそんな彼にそのテニス部という領域で認められたいと思ったのだ。
それにやはり、彼のことを抜きにしても、マネージャーという仕事はやりがいが大きそうだとも思う。
「……すぐには、出来ないかもしれませんが……出来るように全力で頑張ります! ですから、どうかよろしくお願いします!」
そう言って、は真田と柳に向かって、勢いよく頭を下げた。
「ああ、頼むぞ」
「こちらも出来る限りのバックアップはする。分からないことがあったらいつでも聞いてくれ」
「はい!」
二人の優しい言葉に、は笑顔で返事をした。
「それじゃ、さっきのタオルの片づけがまだ少し残ってるので、やってきていいですか?」
「ああ。しかしもう練習時間も残り少ない。急いで頼む」
「分かりました!」
元気良く返事をすると、はそのまま部室へと駆けていった。