月日が経つのは早いもので、中学生だった私たちは、高校、大学と進学し、今ではもう立派な大人になった。
一足先に大学を卒業している真田先輩は、既にプロとしてその名前を少しずつテニス界に広めていっている。
私は大学卒業後、更に学びたいことがあって大学院に行っていたけれど、二年間の修士課程を終え、今年の春には無事修了予定だ。就職先も決まっている。
そんなこんなでお互いとても忙しかったし、先輩は試合や練習で国内外に飛び回ることも増えて、私たちは今までみたいに気軽に会うことはなかなか出来なくなってしまった。
なんだかまるで遠距離恋愛みたいになっちゃったけれど、彼は変わらずいつでも私を大切にしてくれるし、相変わらず他の先輩達もからかいつつ見守ってくれていて、中学の時の縁は全てがそのまま続いている。
まさに順風満帆だった。問題なんて、何一つ無いと思っていた。
◇◇◇◇◇
二月上旬。
最後の院の修士論文発表を終え、大学院生としての一山を越したある日、私は友達と大学のゼミ室にいた。
ここでやることはもうほとんど無いのだけど、なんだかんだでみんな居心地が良いのか、目的が無くてもここに集まってしまう。
というわけで、今日もそんな感じでなんとなく集まっていたら、友達が一冊の雑誌を私に見せてきた。
「ねえ、この人って、確かの彼氏だっけ?」
大きく広げられたページには、ラケットを握り締めた真田先輩が力強くスマッシュを決めている姿があり、思わず私は声を上げる。
「わ、先輩だ! すごい、いいなあこの写真。ねえ、これなんていう雑誌? あ、テニスの専門誌じゃないんだ。スポーツ全般誌?」
そんなことを言いながら、私はその雑誌をぐっと覗き込む。
これって、こないだの試合だよね。試合前の評価では先輩の方が分が悪いだろうって言われてたのに、見事にそれを引っ繰り返して勝っちゃった、あの試合。もう載ってる雑誌があるんだ……わーチェック遅れちゃった!
私は彼女のことを一瞬忘れ、その雑誌に完全に目を奪われてしまった。
「……ちゃ〜ん、私の質問に答えてくれますぅ?」
ちょっとわざとらしい言い方をする彼女の声が聞こえ、はっと私は我に返る。
すると、にっこり笑った彼女の顔が目に入り、私は慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんごめん!! えと、なんだっけ?」
「だから、その写真の人がの彼氏かって話なんだけどさ……いい、そのニヤケ顔でよーくわかった」
そう言って、彼女はどこか呆れたような顔をしながら、大きな息を吐いた。そんな彼女に、私は苦笑して手を合わせ、もう一度頭を下げる。
「ほんとごめん、これ初めて見る写真だったから、つい……」
「はいはい、ごちそうさま。でも、そんなかっこいい彼氏がいたらそんな風になっちゃうのも仕方ないかあ」
先輩のことをかっこいいと言われ、私はまた思わず笑みを浮かべた。
やっぱり彼のことを良く言われると、自分のことのようになんだか嬉しくなってしまう。
「へへ、かっこいい?」
「そりゃあかっこいいと思うよ。今、この世代のプロテニスプレイヤーってすごく注目されてるしね。跡部景吾とか、手塚国光とか。越前リョーマや遠山金太郎も同世代だっけ? その辺りの注目株のうちの一人でしょ、の彼氏のこの人も」
そう言って、彼女はまたぺらぺらと雑誌のページを捲った。
そこには、真田先輩だけでなく、跡部さんや手塚さん、越前君や遠山君の写真もある。
私にとっては昔から馴染みのある人たちばかりだけど、世間ではやっぱりちょっとすごい人たちらしい。
こないだ、跡部さんなんか普通にテレビに出てたりしたもんね。
「ねえ、でもさ。、心配になったりしない?」
「ん? 何が?」
「これだけ彼氏が有名になっちゃうとさ、ほら、やっぱ女の子のファンとか、追っかけとかもいるんじゃないの?」
「まあね。最近こうやって取り上げられるようになってきてから、ちょっと増えてきたみたい」
先輩は知らない人にはとても無愛想だから、跡部さんみたいにたくさんの女の子に囲まれたりはしないけど、確かに先輩のファンだっていう子は増えてきている。迷惑なレベルではないらしいけど、追っかけっぽい子もいるみたいだ。
それをなんとも思わないかって聞かれたら、正直複雑だと思わない時が全く無いわけではないんだけど。
「でも、それはしょうがないよ。そういう世界なんだもん。それに、先輩を応援してもらえるのはやっぱり嬉しいし、ありがたいことだしね」
「でもさ、プロのスポーツ選手って、ファンだけじゃなくて芸能人とかモデルとかそういうキレーな女の人と知り合う機会も多いんじゃないの? ちょっと怖くない? ……浮気、とかさ」
「それは怖くないよ」
彼女の問いに笑顔で即答して、私は立ち上がり、帰る準備を始める。
今日は先輩が遠征から帰ってくる日で、久し振りに私のアパートで夜ご飯をいっしょに食べる約束をしていたのだ。
「先輩はほんと真面目な人だからね、それだけは絶対に無い無い!」
「、真面目な人ほど、ぷつんといったら何するかわかんないよー」
私のことを少し呆れ顔で見つめながら、彼女は言う。
そんな彼女に笑顔で返し、私は全てを詰め込み終わった鞄を肩に軽く引っ掛けた。
「ご忠告ありがと! でも、ほんと大丈夫だよ。じゃあ、またね!! あ、雑誌も教えてくれてありがと、それ後で買うね!!」
そう言って私は手を振り、ゼミ室を飛び出した。
先輩がプロになってから、もう数年が経とうとしている。
先輩は国内外の試合に飛び回ってるし、私は私で論文とか発表とかもあって大学院のゼミ室に通い詰めてたり、下手したら泊まり込みしたりすることもあって(これはバレたら先輩に怒られちゃうから、あんまりしないようにはしていたけど)、二人ともここ最近は本当に忙しかった。
だから、最近はなかなか直接会う機会も減っていたけれど、それでも昔みたいに会えなくて不安だなあって思うことは無くなっていた。
先輩はどこに行っても必ず連絡は欠かさないで入れてくれるし、外国だったら現地から手紙も送ってくれるし。
そして何より、帰ってきたらできる限り私のところに会いに来てくれるから。 ――そう、今日みたいに。
私は一旦荷物を置きに、一人暮らしをしている自分のアパートに帰った。
駆け足で部屋に入ると、荷物をきちんと仕舞って、部屋の中をぐるりと見渡す。
数日前から必死で掃除して、部屋は完璧に整えたから大丈夫だとは思うんだけど、やっぱり先輩を自分の部屋に招く時はいつでも緊張してしまう。
汚い部屋なんて絶対見られたくないしね。
うーん、やっぱもう一度掃除機かけとこうかなあ……でも、買い物にも行かなきゃだし……。
時計を見上げ、じっと考えて、結局私はもう一度掃除機をかけた。念には念を入れとこっと。
その後、今日作る予定のお料理のメモを手にして、家を飛び出す。近場のスーパーに寄って、買い物をして、それから本屋にも寄って先輩が載ってた雑誌を何冊か買い漁った。
勿論、さっき友達に教えてもらったやつも入っている。
先月までは論文の追い込みでとても忙しくて、アルバイトのシフトをかなり減らしていたから、お金は正直厳しいんだけど――今日は彼が久し振りに帰ってくる日で、私はいつにも増して気分が高揚していたのだ。
そして、アパートに戻った頃には時計が十八時を指していた。
彼との約束の時間は十九時だったから、あと一時間程度しかなくて、私は慌てて料理を作り始める。
結局、料理が出来たのが十九時丁度くらいだった。
予定よりも遅くなるかもしれないって言ってたから、覚悟はしてたけど……先輩、一体何時頃になるんだろ。
私は買ってきた彼の載っている雑誌を見ながら、彼の到着を待つことにした。
でも、駄目だ。携帯を気にしたり、部屋の時計を気にしたり、もう全然落ち着かない。
もう三十分くらい経ったんじゃないのかなって思って再度時計を見ても、まだ五分くらいしか経ってなかったり……。
そわそわしちゃって、なんだかもう何も手につかない。一体どれだけ楽しみなんだろ、私。
これじゃ、また先輩に「いつまで経っても子どもだな」ってからかわれちゃうよ。
落ち着くためにお茶でも飲もうかと、私が立ち上がったその時――待ち望んでいた、玄関のベルが鳴り響いた。
「は……はいはい!!」
もう頭がいっぱいで、彼以外の人だなんて思いもしなかった。
高鳴る胸を抑えて玄関へと駆け出し、ドアのロックを解除すると、勢いよくドアを押し開ける。
――その瞬間飛び込んできたのは、ひたすら待ち焦がれていた、大好きで仕方ない彼の姿。
「! 前にも言ったが、誰が来るのか分からんのだから、インターホンできちんと確……」
「お帰りなさい、真田先輩!!」
無意識に彼の言葉を遮り、私は先輩にぎゅうっと抱きついた。
久し振りの、大きくてあたたかい、大好きな彼の胸に。
「こ、こら、ちゃんと話を――」
先輩は少しだけあたふたと戸惑ったけれど、すぐにくすりと笑みを浮かべる。
そして。
「ただいま、」
耳元でそう優しく囁いて、そのまま力強く抱き締め返してくれた。
彼を部屋に招き入れ、私は食事の準備を始める。
「先輩、ちょっと待ってて下さいね」
そう言って、私は止めていたお鍋の火を点けた。
私の住むアパートは、学生向けのワンルームの小さな部屋だから、少し振り返れば彼の顔が見える。それがもう、なんだかものすごく嬉しい。
「……何か手伝うことはないか?」
「大丈夫です、もうほとんど準備できてるから」
「そうか? でも、食器を出したりするぐらいは手伝うぞ」
そう言って、彼は手を洗い、私の背後に立った。
「え、えと、じゃあ……冷蔵庫にサラダが入ってるので、出してもらっていいですか」
「よし、わかった」
頷いて、彼は小さなツードアの冷蔵庫に近づき、背をかがめる。
「これだな。……ついでに、飲み物も出していいか?」
「あ、はい! お願いします」
私がお鍋をかき回しながら答えると、彼はサラダのボウルやビールの缶を手にして、食卓に置いた。
――なんだかちょっと、新婚さんみたい。
ついそんなことを考えてしまい、なんだか恥ずかしかったり、それ以上に嬉しかったりで、私の顔がへらっと緩んだ。
結婚だなんて、きっとまだまだ先の話だろうけど――いつか、そんな日が来るのかな。……来るといいな。
そんなこんなで準備が終わり、私たちは向かい合ってテーブルに着く。
そして、手を合わせて「いただきます」と言い合うと、目の前の料理に手をつけた。
「ふむ、美味い。、料理がまた上手くなったな」
「そ、そうですか?」
「ああ。この間母も褒めていたぞ。もう教えることは無いとな」
「わ、ほんとですか? おばさんみたいな、料理がプロ級の人から褒められたら、やっぱり嬉しいですね」
高校の時くらいから、私は何度か先輩の御実家に行って、おばさんに料理を教えてもらっていた。
最近は忙しくてなかなか行けなかったけれど、私が一人で料理が出来るようになったのは、確実に先輩のお母さんのおかげだ。
「でも、これで先輩の家に遊びに行く口実がなくなっちゃうな。ちょっぴり寂しいかも」
苦笑して言った私の言葉に、先輩がぴたりと手を止める。
「……なんだ、お前は母に料理を習うためだけにうちに来ていたのか?」
「え!? い、いえ、そういうわけじゃなくて……ていうか、そうじゃないから寂しいわけで……!!」
やだ、これじゃまるで料理を教えてもらう為だけに先輩の家に遊びに行ってたみたいだ!
そんなの先輩にもおばさんにも失礼だよ、何言ってんの私!!
「あ、あの、勿論先輩やおばさんに会いたいからですよ!? それが一番で……」
私が、そう必死で言い訳を口にしていたその時――くくっと、彼から笑い声が漏れた。
あ。……これ、先輩、からかってるんだ。もう、相変わらずな人だなあ。
「せーんーぱーいー?」
ぷうっと頬を膨らませて、私が咎めるような声で言うと、彼は更に大きな声で笑った。
「お前は、本当にいつも予想通りの反応をしてくれるな」
「もー、どうせ単純ですもんねー」
そう言って、私はふいっと顔を背ける。
すると。
「まあ、そう膨れるな」
彼はそう言って立ち上がり、自分の鞄を探り出した。私は、横目でちらりとその姿を見る。
すると、彼は小さな袋と一枚のカードを手に、もう一度座り直した。
「ほら、土産だ。これをやるから、機嫌を直せ」
「え、あ、ありがとうございます!」
テーブル越しに差し出してくれたものを両手で受け取り、私はそれをじっと見つめる。青色の小袋と、とても綺麗な花の写真のポストカードだ。小袋のほうを開けてみると、綺麗な透明色の石の付いたネックレスが顔を覗かせる。
「うわあ、すごく綺麗……真田先輩、いつもありがとうございます」
どこに行っても、彼はこうやってお土産を買ってきてくれる。
きりがないから、無理はしなくていいですよっていつも言ってるんだけど、それでも彼が私へのお土産を欠かしたことはない。
その気持ちが、本当に嬉しいと思う。
「こっちは、ポストカードですね」
「ああ、それは本当なら向こうで出すはずだったんだが。試合の後に書いたもので、郵便よりも直接渡した方が早そうだったからな、もう出さずに持って来てしまった」
そう言って、先輩は苦笑する。
「しかし、『もうすぐ帰る』などと書いてしまっていたからな……内容を考えると、別に今回はこのまま渡さず破棄してしまってもいいかとも思ったんだが」
「え、やだ欲しいです!!」
思わずそう言って私は彼を見上げる。
すると、彼はくくっと笑った。
「――ああ、お前ならそう言ってくれるだろうと思ったから、やはりそのまま持って来ることにしたんだ」
……やっぱり、見抜かれてるなあ。
思わず顔を熱くしながら、私はくすりと笑う。そんな私に、彼も優しく笑い返してくれた。
その後、私たちは食事を終わらせ、使った食器を二人で片付けた。
そしてお茶を入れ、再度――今度は隣り合って座ると、そのままおしゃべりをする。
「すみません、結局準備から片づけまで、いっぱい手伝ってもらっちゃいましたね」
「気にするな、俺は別に客として来ているわけではない。お前と一緒に過ごす為に来ているのだから、このくらいはするさ」
そう言って、彼は優しく笑った。
――この笑顔……ほんと、大好きだ。
先輩は、外ではすごく無愛想だと思われがちだけど、本当は全然違う。
こんな風にとても優しく笑うし、私をからかう時はちょっと意地悪な顔つきもするし、逆に私とのことを幸村先輩達にからかわれると、赤くなって照れたような表情もする。
ただ外に出ると、自分自身で定めた目標や自分が背負うべき責任を感じ、それを全うすることに意識のすべてを集中させるから、表情をあまり変えなくなってしまうのだと思う。
だから先輩のいろいろな表情を見ることができるのは、昔のテニス仲間や、先輩が気を許したほんの一握りの人だけ。
そしてその中でも、このとてもあたたかくて、優しい笑顔――私が一番大好きなこの笑顔は、先輩は私だけにしか向けない。
私だけの、とっておきの笑顔だ。
「、どうした?」
「あ、い、いえ……先輩の顔をこんなに長い時間見ていられるの久しぶりだから、つい嬉しくなっちゃって」
そんなことを言いながら、私は顔がかあっと熱くなる。
わー、私今すごく恥ずかしいこと言っちゃったなあ。ほんと、もう子どもじゃないんだから、こういうのすぐ口に出すのやめようよ……。
どんどん恥ずかしくなって、私は思わず視線を逸らした。
すると。
「……俺は、お前に寂しい思いをさせてしまっているか?」
彼がそんなことを口にして、私は慌てて逸らした視線を戻す。
「え? いえ、そんなこと無いですよ?」
「だったらいいんだが……。留守がちになってしまうのは、プロとしてやっていく以上仕方の無いことだが、やはりお前には寂しい思いをさせているのだろうかと思ってな」
そう言って、彼が苦笑した。
寂しい思い――全くしていないと言えば嘘になるけれど。
「そりゃあ、昔みたいにいつでも真田先輩に会えないのは寂しいですけどね。でも――」
そう言いかけて、私は立ち上がる。そして、部屋の片隅に大事に置いている、お重箱くらいの大きさのアクセサリーボックスを持って来て、彼に見せた。
「これ、何か分かりますか」
「ん? ……いや」
首を振って、彼は目を瞬かせる。そんな彼の前に箱を置いて、私はゆっくりと開いた。
「……このアクセサリーボックスに、私が今まで先輩に貰ったもの、ほとんど全部入ってるんです」
そう言いながら、ひとつひとつ取り出して、綺麗に拭いたテーブルの上に並べる。
前の遠征の時に先輩が買ってきてくれた、ラピスラズリの髪飾り。
こっちは、銀の細工のついた、可愛いピンキーリング。
最初のクリスマスにもらった、小さなペンダント。
もうお世辞にも綺麗とはいえない、可愛いコアラとカンガルーの小さなぬいぐるみ。
「これは、中学の時のU―17ワールドカップの、オーストラリア遠征のお土産でしたよね。ずっと学校の鞄に付けてたので、大分汚れちゃいましたけど」
「ああ、コアラとカンガルーどちらにするか悩みに悩んで、結局決められなくて両方買ったんだったな」
「当時オーストラリアにいた先輩から、『コアラとカンガルー、どちらが好きだ』なんてメール貰って、その時私が『どっちも大好きです!』なんて返しちゃったから、余計悩んだんですよね。ごめんなさい、あの時はまさか、お土産の話だなんて思わなかったんですもん」
そんな懐かしい話をしながら、私は箱の中身を次から次へと出して並べていく。
そして、私は箱の一番奥に入っていた、もうかなり傷んだ小袋を手に取った。
「最初に貰ったのは、これでしたよね」
中に入っていたものを掌の上に出そうと、私は袋を軽く傾ける。すると、小さな音を立てて、一対の小さな硝子の花が顔を覗かせた。
――それは、硝子の花のイヤリング。私たちがまだ付き合う前に、彼から貰った初めての贈り物だ。
「……これ、おぼえてますか、先輩」
「無論だ。忘れられるわけがない。……懐かしいな、まだ持っていたのか」
彼はそのイヤリングを私の掌から取り上げ、目を細めて優しい顔つきで見つめた。
「勿論です! これ、今でも私の一番の宝物なんですから」
そう言って、私はくすりと笑う。
これをもらった時のこと、そしてこれを着けて彼と一緒にお祭りに行ったこと――このイヤリングと、これにまつわる思い出全てが私の大切な宝物だ。
「このイヤリングは、特になんていうか……私にとっては、先輩との思い出の象徴みたいなものなんです。勿論、他の物も私にとっては全部が全部、宝物だし大切な思い出ですけどね」
箱の中身を一つ一つ手に取りながら、私は続ける。
「先輩と会えなくて寂しくないかって聞かれたら、そりゃ勿論寂しいです。いつでも先輩の側に居られたらなって思います。でも、この箱に入ってるものを見てたら、先輩は側に居てくれなくても、いつでも私のことを想っていてくれるって実感できるから……私、大丈夫です」
そう言った瞬間――私はぎゅっと彼に抱き寄せられた。
「せ、先輩?」
いきなりの行動に、ちょっとびっくりしてしまった。私が目をぱちぱちと瞬かせていると、耳元で彼が囁いた。
「――、愛してる」
そう言って、彼は私に優しく口付ける。それを素直に受け入れて、私たちは少しの間、そのまま身体を寄せ合っていた。
その後も、私たちはたくさんの話をした。
先輩は今回の試合の会場や対戦相手の人の話とか、今回のお土産はどこで買ったものだとかを話してくれたり、私は私で、院での最後の研究発表の話をしたり、と一緒に買い物に行った話をしたり。
そして、私があの箱を持ち出したからか、久し振りに付き合い始めたばかりの頃の思い出話もした。
現在から過去まで、いろいろな話をして――気付いたら、時計の針が二十三時を指していた。
「わ、もうこんな時間」
「本当だ。ついつい、長居してしまったな。すまない、そろそろ帰ろう」
そう言って、彼が立ち上がる。
付き合ってこれだけの年数を重ねても、先輩は私の家に泊まっていったことはないし、逆も勿論なかったりする。
いや、厳密に言えば全く無いわけではないんだけど――彼にはやっぱり、結婚前の男女は清廉な関係でいなければならないという信念があるようだ。
大学時代、突然の大雨で二人ともずぶぬれになってしまったとき、寸前のところまで身体を重ねたことはあったけれど、それも彼がギリギリのところで我に返って結局何も起こらなかった。
中学生の時から途切れることなく、これだけの年数付き合ってきて、私たちは全く一度もそういう関係を結んだことはない。
友達にはおかしいと言われるけれど、真田先輩が私を心から大切にしてくれている証明だと、私は思っている。
「今日は実家に帰られるんですっけ? 月末は確かまた海外ですよね。それまでは国内にいるんですか?」
「ああ、二週間ほどは国内にいる。月末からまた遠征に出て、そこから少しの間国内外忙しなく予定が入っているが、三月中旬以降は比較的時間がある。……お前の院の修了式も、出来れば見に行こうと思っているんだが」
彼が帰る準備をしながら言ったその言葉に、私は目を見開いた。
「え、ほんとですか!?」
「ああ。幸村や蓮二たちもお前の大学院の修了祝いをしたいと言っていたし、それならばと皆に声を掛けていてな。久々に集まれるかもしれん」
うわあ……そうなったらものすごく嬉しい! 皆で集まるの、久しぶりだもん。
「わー、そうなったらほんといいなあ!! 前に皆で集まったの、いつでしたっけ。もう大分前でしたよね。すごく嬉しいです!」
私がはしゃいで言うと、彼は微笑ましそうにくすりと笑みを浮かべた。
「そうだな。さすがに、大学を卒業してこんなにも経ってしまえば、なかなか全員集まるというわけにはいかないからな。皆、それぞれに仕事やら生活がある」
「はい、中学とか高校で、先輩たちに混じってマネージャーやってた頃が懐かしいです」
それはもう、高校でさえ六年以上も前の話。
更に、彼と出会った中学時代まで遡ってしまうと、その年数はもうすぐ二桁を数えるくらいになる。
「もうすぐ、お前と出会って十年か……」
どこか感慨深そうに言い、彼は少し手を止める。
「十年……長いような短いようなって感じですね」
ほんといろいろあったけれど、これからもずっとずっと先輩と一緒にいられるといいなあ。
「先輩、これからも……一緒に居てくださいね」
小さな声で、呟くように言った。
しかし――彼は考え事をしていたのか、その声には気づかなかったみたいだ。
ま、いっか。……恥ずかしいし。
「じゃあ、今日はこれくらいにしておきましょうか。これ以上は先輩が遅くなっちゃう」
私は、そう言って彼の背中をぽんと叩く。
「あ、ああ、そうだな」
そう言って、彼は鞄を担いだ。
部屋を出ると、外はもう真っ暗だった。まあ、二十三時過ぎてるわけだから、当たり前だけど。
気温も大分低くて、自分自身をぎゅっと抱き締めながら、私は少し震えた。
「寒いな、もう見送りはいいぞ」
後から出て来た彼が、私を気遣うように優しく言う。
「ううん、大丈夫です。最後まで見送らせてください」
振り返って言い、私は彼の側に寄った。
「先輩、忙しいと思いますけど、どうか身体には気を付けてくださいね」
「ああ、ありがとう。お前もな。そういえば、もう大学院の方は大丈夫なのか?」
「はい、もう私自身は出来ることは全部終わりました。結果を待つだけなので、しばらくはちょっとゆっくりしようかなって思ってます」
笑って言う私に、彼もまた、笑顔で頷いた。
「……そうだな、お前はよく頑張った。少し身体を休ませるといい」
「はい!!」
「では、また連絡する。……それではな。お休み、」
「はい、おやすみなさい、先輩」
そう言い合うと、手を振って、私たちは別れた。
――先輩と久し振りに会えて、ほんとに嬉しかったな。今回は二週間も国内にいるなら、また会えるかなあ。
そんなことを思いながら、とても幸せな気持ちで私は眠りについた。