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20:終わりと始まり 1

時間は既に、18時半を回っていた。
バスの窓から見える景色は、駅から遠ざかるに連れて、少しずつ祭りの華やかさを薄れさせてゆく。
しかし今のには、目の前の景色を見て何か感じていられるような心の余裕など、全く無かった。
祭り会場から離れ、バスに乗って移動を始めてからどれくらいが経過しただろうか。
その間、彼とはほとんど言葉を交わしていない。それどころか、視線すら合わせられていなかった。
彼が場所を変えてまで、これから何を話そうとしているのかは、もう明白だ。
それを思うと、どうしても頭の中がいっぱいになって、自分の全てが固まってしまう。

これから来る「その瞬間」は、自分が心から待ち焦がれた瞬間のはずだ。
初めて彼を知り、少しずつ彼と時を過ごし、言葉を、心を交わして、やがて一つの形になった彼への想いは、いつしか彼を手に入れたいという望みになった。
彼が好きだ。今まで出会ってきた、どんな男の人よりも。
強くて、優しくて、あたたかくて、彼が笑ってくれたらそれだけで心がいっぱいになって、全てが満たされるような気持ちになる。
彼の「特別」になりたい。どんな時でも、彼の傍らにいられる存在になりたい。
そんな叶いそうも無かった願いが、やっと叶うのだ。

しかし、とても嬉しいはずなのに、幸せなはずなのに、それを今の自分は素直に喜べなかった。
それどころか、怖いとすら思ってしまう。
――その理由は、自分でもとてもよく分かっていた。
自分が彼にとても大きな隠し事をしているからだ。
自分が彼の言うところの「不純な動機」で入部したことを、彼は知らない。
テニス部で夢中になれる何かを見つけたいと言って入部した自分を、彼が好意的に思ってくれたことは間違いないだろう。
けれど、一番の入部の動機は彼のことが知りたくて、彼のテニスを近くで観たいと強く思ったからだったということを、もし彼が知ったらどう思うのだろう。――騙された、と思うのではないだろうか。

知ったからといっても、もしかしたら何も思わないかもしれない。
けれど、幻滅される可能性がゼロでない限り、彼に全てを告げることは出来ないだろう。
絶対に、彼に嫌われたくない。
だから、自分は彼に隠し通さなければ――騙し続けなければならないのだ。
この先も、ずっと。

身体が強張って、心臓が何かでぎゅうっと締め付けられた気がした。
この後すぐに待っているであろう「その時」は、本当に「幸せ」なのだろうか。
本当のことを隠して彼を騙しているのに、幸せになれるのだろうか。

――なれるよ。
だって、真田先輩と恋人同士になれるんだから。
こんなにも好きで好きでしょうがない、この人と。
隠していることなんて、自分が言わなければ知られることは無いのだし、そのうちに自分だって忘れちゃうよ。
ほら、さっきだって、楽しかった時は一瞬忘れられてたし。
大丈夫。大丈夫だよ、きっと――

自分自身に言い聞かせるように、何度も「大丈夫」と繰り返す。
しかし、大丈夫と繰り返す度に胸のもやもやが大きくなっていくような気がして、は俯いて唇を噛み、掌を握り締めた。

「……

ふいに、彼がの名前を呼んだ。
驚く余り、はびくりと肩を震わせる。

「は、はい……」
「次で降りるぞ」

彼に言われて、は顔を上げる。
確かに次はもう降りる予定の停留所だった。
もうここまで来ていたのかと思いながら、は無言で首を縦に振った。

◇◇◇◇◇

やがてバスが到着し、二人はバスを降りた。
大分傾いてしまった夕日を見つめ、は心を落ち着けるように息を吐く。

「日ももう暮れるな」

呟くように、彼が言う。
それにこくんと頷き、「そうですね」と小さな声で返した。
そこで会話が途切れたが、沈黙の糸を断ち切るように、彼が咳払いをする。

「……で、では行くか」
「……はい」

そう言い合って、二人は歩き出す。
無言のまま、バス停から五分ほど歩いた頃、神社の鳥居が見えた。
は立ち止まって、鳥居から延びる階段の先を見上げる。
登下校の際、バスの中から何度か目にしたことはあったが、実際に足を運ぶのは初めてだった。
いつか寄ってみたいと思ったことはあったけれど、まさか彼と、しかもこんな理由で来ることになるとは思わなかった。

「疲れたか?」

彼に優しい声で問い掛けられ、はハッとする。
立ち止まっていたから、心配されたのだろう。
慌てては首を横に振る。

「あ、いえ、大丈夫です」
「すまないが、もう少し頑張ってくれ。階段は少し長いが、その分見晴らしはいい。上からなら、花火もよく見えそうだ」

そう言って笑い、彼は階段へと歩みを進める。
もゆっくりと鳥居をくぐり、彼の後に続いた。

かつん、かつん。
二人が石段を上る音だけが周囲に静かに響き、その音に呼応するように、の心臓の音もまた大きくなった。
この先に待っているものは何だろうと、ただ漠然と思いながら、ひたすらに足を前に進める。
しかし、一歩進むごとにの胸を染めるのは、例えようの無い不安だった。

やがて、二人は無言のまま、石段を上り終えた。
階段の先にあった二つ目の鳥居をくぐり、神社の境内に入る。
見渡せば一目で全貌が把握できるような、こじんまりとした境内には、他に誰もいなかった。
日も暮れかかり、かなり薄暗くなった人のいない神社の境内は、とても静かで怖いくらいだ。

「……花火までには、まだ少し時間があるな」

真田が、時計を確認しながら呟くように言い、小さな咳払いをする。
は、びくりと肩を震わせた。

、その――」
「あ、せ、先輩、神社。ほら、神社ありますよ」

まるで彼の言葉を遮るように言って、は彼の顔も見ず、石が敷かれている道を数歩進む。

「小さいけど、ちゃんとお賽銭箱とかもありますね。せっかくですし、お参りしていきましょうか。さっき、七夕の笹には願えなかったですし」

無理にはしゃいで、は笑う。
背後で、彼が苦笑して息を吐く音がした。

「……そうだな、少しお参りでもしていくか」

そう言って、彼が背後から近づいてくる。
が先に賽銭箱の前に進み、お財布からお金を出していると、彼の足音が自分の隣で止まった。
それだけで、の心臓がまた跳ねた。

「こういうのって順番、確か決まってましたよね。まずお賽銭ですっけ?」
「よくは憶えておらんが、確か、賽銭、鈴、かしわ手――の順ではなかっただろうか。とはいえ、正式な作法は鳥居をくぐる前から始まっていたような気がするので、今更と言う気はするがな」

苦笑して、彼は言う。
そして、優しい声で続けた。

「まあ、心を籠めて参拝すれば、それでいいのではないか。『心を籠める』事に関しては、お前は得意中の得意だろう?」
「え?」

彼の言葉が一瞬聞こえなくて、思わずは聞き返す。
すると彼は、こほんと小さな咳払いをして、照れ臭そうに言った。

「いや……その、お前はいつも、何をするにしても、一生懸命というか、心が籠っているというか――他人のことを考えて、喜ばせたいとか楽しませたいとか、困っていないかだとか……だな。そういう……あたたかさみたいなものを持っているだろう。その、なんだ。そういういつもと同じ気持ちで参拝すればいいのでは、という意味でだな……」

言い辛そうに何度も咳払いをしながら、彼は顔を真っ赤に染める。
その表情を見ると、それが彼の心からの言葉であることが、痛いくらいに解った。
しかしだからこそ、今のには辛かった。
胸に痛みが走り、は思わず顔を落として、賽銭を握っていた手に力を込める。

――違う。自分はそんな素晴らしい人間じゃない。

「ま、まあ、なんだ。とりあえず、参拝を済ませるか」

そう言って笑い、彼は自分の持っていた賽銭を、賽銭箱に投げ入れる。
硬貨が木製の箱とぶつかり合い、カタンと小気味いい音が鳴った。
続けても同じように投げ入れると、視線を上げて、大きな鈴のついている太い綱を手にした。
しかし、力を入れて綱を揺らしても、鈴はうまく鳴ってくれない。
そうしていると、反対側から彼の腕が伸びてきて、その綱を掴んだ。
彼の力のおかげで、頭上の鈴はあっさりと力強い金属音を響かせる。
流石だと思いながら、が思わず彼の顔を見上げると、真田と目が合った。
照れたように目を細め、笑みを浮かべた彼に、もなんとか作り笑いで返したが、すぐに彼を見ていられなくなってしまった。
ごまかすように前を向き、参拝の態勢に入ると、は二度手を打って目を閉じ、ゆっくりと頭を下げる。

――彼と、幸せになれますように。
このままずっと、都合の悪いこと全てを彼に隠し通せますように。
どうか、ずっとずっと、彼に嫌われませんように――

心の底から叫ぶように、は強く願う。
なんとも醜い願いだと、自分で自分を激しく嫌悪しながら、それでも願わずにはいられなかった。

ひとしきり願い、そうっと頭を上げる。
なんて自分勝手な願いだろう。
自分のことを純粋で善良な人間だと信じてくれているこの彼の隣に居ながら、彼を騙し通せますようにだなんて。
本当に自分のことしか考えていない、酷いお願いだ。

「……随分と長かったな。何を願っていたんだ?」

ふいに彼に尋ねられ、はどきっとして肩を震わせた。

「え、あ、その」

――そんなこと、答えられるわけがない。
の心臓の音がどんどん大きくなり、冷や汗が流れる。

「あ、あの、先輩こそ、何をお願いしたんですか?」

本当の表情を隠すように、わざと大袈裟な笑みをつくって、は真田を見上げる。
すると、彼はふっと笑った。

「む、ごまかしたな?」

彼がからかうように言った言葉に、はびくりと肩を震わせた。
心臓がまた、大きく跳ねる。

「ち、違いますよ。先輩のが聞きたいんですってば。……あ、わかった。テニス部のことでしょう?」

彼は自分をからかおうとしているだけだと言い聞かせて、陽気に笑うふりをしながら、は言う。
どうやら真田はそんなの真意など、全く気付いていないようだ。
顎に手を添え、くくっと笑ってを見る。

「……まあ、良い所をついているぞ」
「あ、じゃあ、全国大会の優勝ですね!?」

ぴんと人差し指を立てながら、は言った。
心の中に隠していることを悟られない為か、自然とリアクションが大きくなってしまう。

「『全国大会三連覇しますように』、これでしょう?」

――しかし。

「いや、違う」

そう言って、彼は首を振った。

「え? 違うんですか?」

意外だった。それが彼の、一番の望みだと思っていたのに。
それでは、テニス部のことではないのだろうか。
いや、しかし今、テニス部の事かと尋ねた時、彼は良い所をついたと言ったはずだ。
ぱちぱちと目を瞬いて、はぽかんとした表情を浮かべる。

「わからんか?」

少し得意げに言う彼に、は素直にこくんと頷く。
そんなを、真田は微笑ましそうに見つめると、ふっと笑って言葉を紡いだ。

「……俺が願ったのは、『全員揃って何事も無く全国大会へ行くこと』だ」

そう言って、彼は何かを思うように空を見上げ、続けた。

「幸村の病気が治り、他のメンバーも怪我や病気などすることなく、皆が万全の態勢で大会に参加できること――それさえ叶えば、全国大会の優勝などわざわざ願うまでも無い。誰一人欠けることなく皆が揃えば、優勝など約束されたも同然だ。……まあ、他の願いも無いわけではないんだが……後は全て、俺自身が努力すべきことばかりだからな。神に頼るわけにはいかん」

彼は力強く言い、笑った。
なんて人なんだろう。
の胸に、強い衝撃にも似た感情が走る。
その願いに込められた思い、そして伝わってくる彼の誠実さと、力強さ。
皆を、そして自分自身を心の底から信じていなければ、こんなことは到底言えない。
やはり彼は「閃光ひかり」なのだ。
あのコートで初めて見た時からずっと変わらない、太陽のように力強くて、眩しい閃光ひかり。

――それに比べて、自分はどうなんだろう。
彼に隠し事をして、それがずっと隠し通せますようにだなんて卑怯な願いをして、彼を騙して。
全部全部、自分の都合しか考えていない。

「……、どうかしたか?」

ふいに声を掛けられ、ははっと顔を上げる。
すると、真田が不思議そうにの顔を覗き込んでいることに気がついた。

「あ、い、いえ、あの……」

彼の顔が見られない。
今は作り笑いさえ浮かべられそうも無い気がして、は彼から顔を逸らしながら、なんとか言葉を続ける。

「うちのテニス部は、本当にすごい人ばかりですもんね。全員が揃えば、絶対に優勝間違いなしですよね」

絞りだしたの言葉に、真田は「ああ」と頷き、続けた。

「本当に、俺はいい仲間に恵まれたと思う。あいつらと、そして――お前が側に居てくれれば、俺は……」

そこまで言って、彼は言葉を止める。
流れる時間もまた止まり、静寂が二人を支配した。
そして。

「……。お前に聞いてもらいたい話がある」

かしこまるように言って、彼は咳払いをした。
途端、の心臓が、強く凍りつく。

「とはいえ、今更という気もするのだが……やはりこういうことは、ちゃんとはっきり伝えておかねばな」

彼はの様子に気付くことなく、苦笑を浮かべて話を始めた。
恥ずかしそうにしながら、それでもどこか必死で言葉を探している。
しかし、は彼の声が耳に届くたびに、どんどん血の気が引くような気がした。
あんなに憧れていたはずの瞬間なのに、今はただ、聞くのが怖い。

「お前は……その、いつも一生懸命で、とても優しくてだな。俺は、その、なんというか、そんなお前が、だな」

――違う、私はそんな良い子じゃない。
都合の悪いこと全てを隠し通して貴方の特別になろうとしたり、自分の都合ばかりで動いている、とても汚ない子だ。
貴方はそれを知らないから、だからそんな風に思えるのだ。
本当の私は、そんなことを言ってもらう資格なんて無い。
全部知ってしまえば、きっと貴方は私を軽蔑する――

身体が震えた。
やり場のない震える手で、は自分の口元を覆う。

怖い。
どうしたらいいんだろう。
自分は、どうすべきなんだろう。

考えれば考えるほど、頭の中が混乱して、何も考えられなくなる。
いろいろなものが頭の中で混ざり合い、もう、自分の「器」から溢れ出しそうだ。

その時、彼が覚悟を決めたように胸の前でぐっと拳を握り、を見据えた。
力強く訴えるような視線は、ただでさえ溢れそうなの「器」に、確実にひびを入れてゆく。
そして。

「つ、つまりだな。俺は、俺はお前が好――」

彼がそう言った瞬間――「器」が、弾けた。
弾けた欠片と溢れた中身は、そのまま押し出されるように、目から熱いものとなって頬を伝う。

――駄目だ。

そう思った瞬間、は踵を返して駆け出していた。
何か意図があったわけでも、逃げだしてどうにかなると思ったわけでもない。
ただ、その言葉を最後まで聞く資格のない醜い自分を、誠実で眩しい彼の前から消してしまいたかった。

初稿:2009/04/10
改訂:2010/04/30
改訂:2024/10/24

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