の姿が消えても、は彼女が行ってしまった方向をただじっと見つめていた。
――これでまた、彼と二人っきりだ。
そう思うと、心臓の脈打つ音が、また速度を上げた。
はちきれんばかりの緊張を一生懸命抑えて、は気持ちを落ち着けるように深呼吸を繰り返す。
彼とは何度も二人きりになっているのに、それどころか今日は彼と二人きりの時間の方がずっとずっと長いぐらいなのに、どうしてこんなに慣れないのだろう。
(あー駄目だ……や、やっぱ緊張するよ……)
俯きながらが視線を泳がせていると、隣から小さな咳払いの音がした。
そんな何気ない音にすら異常なほどどきっとして、は思わず肩を震わせる。
「……」
「は、はい!」
思わず大袈裟に返事をしながら、隣にいる彼を見上げた。
その瞬間、二人の視線が合う。
彼は一瞬恥ずかしそうに視線を逸らしたが、また小さな咳払いをすると、の目をもう一度見据えた。
「たちは居なくなってしまったが……俺と二人でも、構わないか?」
心なしか少し顔を赤くしながら、真田は優しい声でに尋ねる。
すぐにでも「はい」と言いたかったが、上手く声が出てくれそうになかったので、はただこくこくと一生懸命首を縦に振ってそれに応えた。
「そうか、良かった」
そう言って、彼の表情がふっと緩んだ。
その瞬間、は思わずクレープを持っていた手に力が入ってしまい、クレープの中のクリームが押し出されるようにあふれる。
「わっ……!」
慌てて、はクレープに口をやった。
その瞬間、口の中にクリームの味が広がる。
それを飲み込みながら、なんとか大惨事にはならずに済んだと、はほっと胸を撫で下ろした。
「セ、セーフ……」
がそう呟いた途端、頭上からくくっと小さな笑みが零れてきた。
ふと顔を上げると、真田が笑っているのが目につき、はまた思わずどきりとする。
「とりあえず、まずはこれを食べるとするか」
「そうですね」
頷き合い、真田とは場所を探す為に歩き始めた。
途中で安価の紙コップのジュースを買い足し、お互い両手をいっぱいにしながら、どこか落ち着いて食べられそうなところはないかと探し回る。
しかし、やはりどこに行ってもすごい人だ。
特に、休憩所の類は全て満杯で、入る余裕など皆無に等しい。
仕方なく、二人は周りの人たちに習って、空いている街路樹の縁石に腰を下ろすことにした。
「あまり褒められた場所ではないが……まあ、しょうがないな」
「どこもいっぱいですもんね」
腰を落ち着け、両手に食べ物と飲み物を持ちながら、二人は苦笑し合う。
「では、いただくか」
「はい、それじゃいただきます! ……って、私はもう、ちょっと食べちゃってますけど」
苦笑しながら言ったの言葉に、真田がふっと笑う。
その表情にドキドキして一瞬の動作が止まったが、すぐにはっとして前を向くと、クレープを口元に持っていってぱくっと食いついた。
そして、そのまま一口、二口と続けて食べる。
あの日食べた、テレビで紹介されたというクレープとは売っている店も中身のトッピングも違うものだが、あの時のとはまた違った美味しさがあった。
(あ、でも、今日の方が、クリームの味がさっぱりしてるかも)
なんとなく、前のよりも今日の方が甘味が抑えられているような気がする。
自身はどちらの方がより美味しいということはなかったが、隣に居る彼は、前のものよりもこちらの方が好きなのではないだろうか。
そんなことを思い、はつい食べていた手を止める。
(先輩、また前みたいに一口食べるかな……)
でも今日はあの日と違って、彼にも食べる物があるから、余計なお世話かもしれない。
それに、何より一度自分が口をつけたものを、彼に――好きな人に食べてもらうというのは、なんだかとても気恥ずかしい気もした。
いくらあの頃はまだ意識していなかったとは言え、よく彼にあんなことが言えたものだと思う。
(あの時の私スゴ過ぎ。……や、でも、もしかしてこんなことで意識しちゃう方が恥ずかしいのかも……)
あの時、意識しないでやってのけた「あの行為」は恥ずかしいことだったのか、それともこんなことを「恥ずかしい」と思ってしまうことの方が恥ずかしいのか。
考えれば考えるほど分からなくなり、どんどん恥ずかしくなって、妙に喉が乾いた。
は、もう一方の手にあったジュースのストローに口をつけながら、横目でちらりと彼の方を見る。
すると、同じように丁度飲み物を飲んでいた彼と目が合った。
「どうした?」
優しく尋ねられ、また、心臓が跳ねた。
それをごまかすように笑みを浮かべながら、は問い返す。
「い、いえ、あの……あ、た、タコ焼き美味しいですか?」
「ああ、美味いぞ。悪くない」
そう言って、彼は飲んでいた紙コップを脇に置く。
そして、少しの間半分ほどに減ったタコ焼きのトレイをじっと見つめていたが、やがて彼は小さく咳払いをし、呟くように言った。
「……一つ、食べてみるか?」
「え」
まさか、彼の方からそう切り出されるとは思っていなかった。
驚くあまり、の挙動が完全にフリーズする。
そんなの反応に焦ったのか、真田が慌てて言い訳するように口を開いた。
「い、いや、いらなければいいんだぞ!」
恥ずかしそうに顔を赤く染めながら、彼は口早に続ける。
「以前お前にはクレープを貰ったことがあったからな。その礼とも思ったんだが、別に無理に薦めるつもりはない。いらなければいらないで構わないから、気にするな」
そう言うと、彼はまた脇に置いていた紙コップを手にし、赤い顔のままストローに口をつけた。
そんな彼を見ていると、は、思わずくすりと笑みが零れた。
――なんだ、彼も同じことを考えてたんじゃないか。
「……ください」
そう言って、は真田に笑いかけた。
「タコ焼き、私も食べたいです。……良かったら、先輩も私のクレープ、食べませんか? 多分これ、先輩前のよりも好きだと思うんです」
のその言葉がすぐに飲み込めなかったのか、真田は無言で目を瞬かせ、の顔を見る。
しかし、ややあってから、嬉しそうに目を細めた。
「そうか、なら……俺も貰うとするか」
真田の返事に頬を染め、もまた嬉しそうに笑う。
そんなに微笑み返し、真田は持っていたトレイを彼女に向けた。
――しかし。
互いの手が、ぴたりと止まる。
二人とも両手に物を持っていたので、身動きが取れなかったのだ。
無言で動きを止めたまま、は自分の手や真田の手を交互に見つめた。
「あ、ちょ、ちょっと待って下さいね」
は慌てて、自分の手にあるものをどうにかしようと試みる。
しかし、どうにかしようとすればするほど、思考が上手く纏まらない。
(えと、えと、クレープは置けないから、ジュースをどこかに――)
「……」
彼に名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。
目に飛び込んできたのは、自分の紙コップを脇に置き、タコヤキを爪楊枝に刺してに向けている彼の姿。
「す、すみません、ちょっと待って下さい」
早く手を開けなければと、が慌ててどうにかしようとしていたその瞬間、真田が小さな咳払いをする。
そして、緊張しているのか少々強張った表情を浮かべながら、彼は言った。
「――いいから、口を開けてろ」
瞬間、は自分の心臓が一瞬止まったような気がした。
すぐに彼の要求しているその行為の意味に気付いて、かあっと顔が熱くなったが、まるで魔法にでも掛かったように、の口は自然と開いた。
真っ赤な顔で開けたその口に彼の手が伸びてきて――やがて柔らかい感触が自分の口内に入る。
それをゆっくりと唇で抑えると、細くて小さな竹の棒はするりと自分の口から抜け、その手はまた遠ざかっていった。
心臓が煩い。もう破裂しそうだ。
は無心で口を動かしたが、味など感じていられる余裕は、正直言って全く無かった。
けれど、彼とこんなことが出来ることになんだかとてもドキドキして、そしてそれ以上に嬉しくて仕方がなくて、頬が勝手に緩んでしまう。
「どうだ、美味いか?」
彼の問いに、は無言で首を縦に振る。
自分が味わっている余裕が無いだけで、きっと美味しいのだろうと思うのだ。
そんなことを思いながら、やがてはごくんと飲み込んだ。
「……あ、ありがとうございました」
そう言って、火照った顔でなんとか彼を見上げる。
――そして。
「先輩も、どうぞ」
同じように、自分のもっていた「それ」を彼に向け、そっとその手を伸ばした。
「ありがとう」
彼ももう、躊躇はしなかった。
その顔を赤く染めながらも、彼は上半身を寄せると、の手にあるクレープにかじりつき、そしてまたゆっくりと離れた。
「……これも、美味いな」
「でしょう? さっぱりしてるし、前のより先輩好きかもって、思ったんですよ」
まだ若干恥ずかしそうではあるが、頬を緩めて嬉しそうに言うを見つめ、真田は目を細める。
その視線を感じたは、何度か目を瞬かせたが、無言で微笑む真田の目を見つめ返し、再度、嬉しそうに微笑んだ。
それから少しして、全て食べ終わった二人は、手の中にあったゴミを近くのゴミ入れに処理する。
そして二人はまた、祭りの喧騒に飛び込んだ。
歩きながら、屋台の催し物を見て回る。
どこも人が並んでいてなかなかやろうという話にはならないが、それでも見て回って話をするだけでもは十分楽しかった。
金魚すくいは家で金魚を飼えないから駄目かな、とが呟けば、真田の家にある大きな池の話になったり、くじ引きの一等賞がゲームの最新機種なのを見ては、切原が欲しがりそうだ、もしかして並んでいないかと笑ったり。
輪投げが比較的空いていたので、二人は順番にチャレンジしてみることにしたが、これがなかなか難しかった。
五本中四本以上入れることが出来たら景品をプレゼント、というルールだったのだが、先にやったは、残念ながら五本ともかすりさえしなかった。
その結果に不服そうに膨れるを見て、「不器用者め」と真田が笑うと、それには「先輩の意地悪」と返してべーっと舌を出す。
そんなことを言うの頭をなだめるようにぽんぽんと叩き、今度は真田がチャレンジした。
テニスと同じように手首を使うからだろうか、真田はすんなりと五本中三本まで入れることができたのだが――四本目で、的屋のお兄さんに「彼氏、かっこいいね」と囃し立てられ、そのせいで調子を思い切り崩してしまった。
結局二人とも景品はもらえなかったが、どちらも特に「彼氏」という言葉を訂正はしないまま、輪投げを後にしたのだった。
「……先輩、あとちょっとだったのに、惜しかったですね」
「取れなければ同じだ。俺もお前と同じ不器用者だな。テニスのように上手くはいかん」
そう言って、と真田は笑い合う。
――本当に、楽しかった。
まるで、もう彼と気持ちを確かめ合い、恋人同士になってしまったような錯覚に陥りそうなほど、は満たされていたのだった。
◇◇◇◇◇
祭りを存分に楽しみ、二人は祭り会場の中央付近にやって来た。
日は暮れてきたが、これからが本番と言わんばかりに、あちらこちらでいろんなイベントが始まっているようだ。
少し向こうでは太鼓の音も聞こえているし、あちらの通りではビンゴ大会がどうのという声が聞こえる。
それに伴い、ただでさえ多かった客足も更に増えてきたようで、は動くのも一苦労だと感じるようになってきた。
「混んできたな」
呟くように言った真田に、が頷く。
「やっぱりすごいですね。去年もと来ましたけど、この人混みに疲れちゃって、最後に観た花火の記憶、あまりないですもん」
苦笑しながら、は去年のことを思い出す。
とはいえ、ものすごい人混みで疲れた記憶はあるが、去年は去年でとても楽しい思い出だ。
(そういえば、と切原君も、楽しくやってるかなあ?)
きっと、明日になったら今日のことをいろいろ聞かれるのだろうけど、その前にこちらからどうだったのか聞いてみようか。
そんなことを思い、がふふっと笑っていると。
「……、あれを見てみろ。なかなか、綺麗だぞ」
ふいに声を掛けられ、ははっと顔を上げる。
すると、目に飛び込んできたのは――とても大きな、数メートルはある笹飾り。
「うわあ!!」
思わず、は感嘆の声をあげた。
「わあ……そういえば、今日って七夕ですもんね。『祭り』ってことばっかり気になってて、今日が七夕だってこと、ちょっと忘れてました」
「ふむ、正に『花より団子』というやつだな。……とはいえ、俺もそういう面があったことは否めんが」
彼らしい言い方にくすりと笑い、はまた、笹飾りを見上げる。
笹に吊られている数々の飾りがライトアップの光を反射してきらきらと光り、とても綺麗だ。
「ほんと綺麗。もうちょっと、近くで見たいなあ」
「では、もう少し近くに行ってみるか」
の呟きに反応し、真田が言う。それに笑顔で頷き返し、二人は人混みの中、歩みを進めた。
人を掻き分けて進んだ先に、笹飾りの根元が見えた。
なんとかその側にたどりつくことが出来、はほっと一息をつく。
「やっと近くに来れましたね」
「ああ、やはり大分混んできたようだな。大丈夫か?」
彼のあたたかい言葉に、は少し照れながら「はい」と頷いて、もう一度笹飾りを見上げた。
笹には、たくさんの飾りに混ざって、願い事の短冊も吊るされている。
「願い事、かあ……」
「どうやら、先ほどまでは自由に短冊に願い事を書いてここに吊るせたようだが……それは終わってしまったようだな」
「え、そうなんですか?」
「ああ。ほら、あそこを見てみろ」
は、その言葉につられるように、真田の指の先を目で追う。
すると、「短冊を吊るそう」という張り紙が貼ってある机の上に、たくさんのマジックが散乱していた。
ただし、肝心の短冊が入っていたらしい箱は既に空っぽで、確かにもう終わってしまったような雰囲気が漂っている。
「あ、ほんとだ。でも、これだけ人がいれば、当然かなあ」
そう呟きながらが苦笑していると、ふいに彼が問い掛けてきた。
「何か、願いたかったか?」
――願い。
その言葉に、の心臓がどくんと鳴った。
今の、自分の願い――そう思った瞬間自分の脳裏にちらついたのは、やはり、彼とのことだ。
今のこの楽しさが、ずっと続きますように。
このまま、何事も無く――隠していることが絶対に彼にばれることなく、彼と想いが通じ合えますように――
しかし、そんなずるいことを彼の側で文字にして願えるわけが無い。
短冊が無くなっていて、むしろ好都合だったかもしれない。
は心の中で苦笑いを浮かべ、首を振った。
「いいんです」
「……少し待ってみるか? そのうち、追加の短冊が来るかもしれんぞ」
「いえ、ほんとにいいんですよ。それより、花火、七時からだそうですよ」
そう言って、は笹飾りの側に貼ってあった祭りのプログラムを指差す。
真田には言えないという後ろめたさが少なからずあったので、摩り替えるように花火の話を持ち出したのだ。
しかし真田は、そんなの本心など気付くわけも無く、そちらを興味深く見つめた。
「花火か」
「はい。でも、ここだと人が多すぎて、落ち着いて見てられないかもですね」
去年のことを思い出し、は苦笑する。
そんなを見つめながら、真田はふむと頷くと、何かを考え込むように黙り込んだ。
どうしたんだろうと思い、は彼を見上げる。
の視線にも気付かず、彼は考え込んだまましばらく迷うように視線を泳がせていたが、やがておもむろに口を開いた。
「――その、去年の話、なんだが」
「去年?」
「あ、ああ……去年のこの日は、既に期末が終わっていたから、関東大会に向けての練習が始まっていてな。俺はこの祭りに来ることはできなかったんだが」
少し言いにくそうに視線を逸らしながら、彼は言葉を続ける。
「学校に申請を出して、下校時刻後も延長して練習をしていたから、帰る頃には七時を回っていた」
「あ、はい! 毎年、関東大会前からは時間を延長して練習するんですよね」
今年もそうするのだと話には聞いていたから、特に今更驚くことは無いけれど、その内容には本当に心から感心してしまう。
下校時刻後の練習という特例が認められる部活は、そうそう無い。
それが認められるだけでも、テニス部に――特にレギュラーの皆に掛かる期待が相当なものであることを物語っているのに、そんなプレッシャーに負けず頑張る彼らは本当にすごいと思う。
「今年は……っていうか、明日からは、私にも手伝わせてくださいね」
そう言って、は笑う。
すると、真田が逸らしていた目をに向け、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「ん? あ、いや、お前は――」
「……私だけ、時間通りに帰れなんて言わないで下さい。ちゃんと父にも母にも言って、了解貰ってるので」
彼なら絶対そう言うだろうと思ったから、は彼の言葉を先回りして、笑った。
そんなに、真田は一本取られたように苦笑する。
「やれやれ、すっかり見抜かれるようになってしまったな」
「わかりますよ、だって先輩は本当に優しい人だもん。だから、私のこと心配して、一人だけ暗くなる前に先に帰れって言うくらいはするかなって。……合ってるでしょう?」
恥ずかしいことを言っているという自覚はあった。
しかし、これが偽りの無い自分の気持ちだったから、は小さな声でも、一生懸命言葉を紡いだ。
ただ、顔が熱くなってしまうのはどうしようもなかったので、大袈裟にははっと笑ってそれをごまかす。
そんなを見つめ、真田は目を細めた。
「……そうだな、そう言うつもりだった」
「でしょう? でも、やっぱりここまで一緒に頑張ってきたのに、今更一人だけ先に帰るって言うのは寂しいんです。だから、先輩の優しさはお気持ちだけ戴かせて下さい」
「わかった。ならば、俺に必ず毎日見送らせてくれるか? 本当は毎日家まで送り届けたいところだが、それはお前も気を遣うだろうからな。せめて駅までは一緒に帰って、駅でお前が地元に帰るバスに乗るまでは、必ず見送らせてくれ。それが条件だ」
真田の言葉に、は焦って目をぱちぱち瞬かせる。
「え……そ、そんな、先輩も練習で疲れてるのに」
「見送るな、なんて言うなよ。俺にとっては、負担でも何でもないからな」
くくっと笑って、真田は続ける。
「お前の優しさは、気持ちだけ戴いておくから」
先ほどの自分のセリフをほぼそのまま返され、はぐっと言葉に詰まる。
しかし、すぐに笑みが零れた。
「はい、それじゃあお願いします。――ありがとうございます」
これ以上断るのは、逆に失礼だろうと思いながら、は頭を下げる。
そんなに、真田は「ああ」と満足そうに頷いた。
が、すぐに彼ははっと口元を抑える。
「……あ、いや、違う。俺が今話そうとしていたのは、部活のことではないんだ。だ、だいぶ話がそれてしまったが」
そう言って、急にまた、真田はあたふたと焦りだした。
「え?」
不思議そうな表情でが彼の顔を見上げると、彼は自分自身を落ち着けるように、自身の胸の辺りをぽんぽんと叩いて、大きく息を吐いた。
「は、花火の話をしていたはずだろう?」
「あ、はい、そうでしたね」
は、思い出したように、ぱんと手を合わせる。
「それが、なんで部活の話になっちゃったんでしたっけ」
「あ、ああ。それは俺が、去年の祭りの日は部活を延長してやっていたという話をしたからだが」
そう言うと、真田は大きく咳払いをして、言葉を続けた。
「……つまり、去年は部活から帰っていた時に丁度バスの中で花火を見た、という話をしたかったんだ。遠くからでもそれなりに見えるものだと思ったのを、先ほどふと思い出してな」
「あ、なるほど。そういうことだったんですね」
やっと、彼の話が見えた。
「はい、そうかもしれませんね。結構ここの花火、規模大きいですから」
はそう言って頷いた。
しかしやっと話が繋がったのに、彼はまだ落ち着かないように視線を泳がせている。
一体どうしたのだろうと、は彼の顔を見上げた。
すると、彼は指先で頬を掻いて、顔を真っ赤にしながら言葉を続けた。
「いや、だから――今から花火を見るのにだな、会場から少し離れてみてもいいのではないかと思うのだ。人混みの中で見上げるより、きっと落ち着いて見られる……と、思うんだが」
「あ、なるほど。そうですね。それ、いい考えかも。どこかに移動しましょうか」
笑顔でがそう言うと、彼はまるで一仕事終えたような表情を浮かべ、大きく息を吐いた。
「……先輩?」
妙に彼の様子がおかしいと思い、はぱちぱちと目を瞬かせる。
花火のために場所を変えるだけで、何故そんなに彼は大袈裟に照れたりしているのだろう。
何をそんなに、言い辛そうにしているのだろう―― そんな疑問が脳裏に過ぎったのは、ほんの一瞬だった。
すぐにに、ある予感が生まれた。
――もしかして彼は、二人で落ち着いて話ができる場所に、行こうとしているのではないだろうか。
そして、それが意味することは――
心臓が、どくんと鳴った。
予感は予感でしかない。ただの自惚れかもしれない。
そうは思っても、かなり確信に近いものをは感じていた。
「……ここから学校へ向かう途中の高台に、小さな神社があっただろう。そこなら、きっとよく花火が見えると思う。……そこに行かないか」
彼の言葉に、は無言で頷く。
とうとう、「その時」が来る――は、ぎゅっと掌を握り締めた。
そのまま、二人は人混みを抜け、一番近いバス停へと向かう。
そして、タイミングよくすぐにやって来たバスに乗り込み、祭り会場を後にしたのだった。