NEXT TOP

19:祭りの夜 1

7月7日金曜日――七夕の日。
また、一学期期末試験の最終日でもある今日は、二人にとってとても大きな一日でもあった。


独特の緊張感が全てを支配する教室で、筆記具が紙の上を滑る音があちこちから響いている。
これが終われば全ての試験が終了するということもあり、生徒たちは皆、最後の試験に必死に向かい合っていた。
勿論、もまた例外ではない。
数日前まではいろいろなことを考えすぎて勉強には全く身が入っていなかったが、彼に会えて大切な約束が出来たあの日以後、は今までを取り戻すかのように必死で勉強に勤しんだ。
彼に対して恥ずかしくない結果を残したいという気持ちも生まれたし、何よりもし万が一追試にでもなれば、関東大会を控えているこの大切な時期に部活に出られなくなる可能性もある。それだけは、絶対に避けたかった。
それに今日の試験が終われば、約束の七夕祭りも待っている。
それを励みに、はこの数日間ひたすら頑張っていたのだ。

残り時間が五分を切ったころ、は最後の問題を書き終えた。
ほっとしたのも束の間、はすぐにもう一度自分の答案用紙と向かい合う。
もうどこか別のところに飛びそうになっている心を必死で抑えながら、再度丁寧に一問一問を目で追い、答案用紙の答えと照らし合わせて、最後の見直しを行った。

(……よし、大丈夫!!)

一通り見直しを終え、が息を吐いたその直後――教室中に試験終了を告げる鐘の音が鳴り響いたのだった。

「以上で試験終了です。筆記用具を置いて、後ろの人は答案用紙を集めてきてください」

試験教官の先生の声が聞こえると、今までの静寂な空気は一転し、教室内が騒がしくなった。
「出来た」「出来ない」の声が飛び交う中、もまた用紙を提出し、ほっと息を吐く。
そして、試験教官が数を確認し終えて教室を出て行くと、のところに駆け寄った。

、どうだった? 出来た?」
「あ、。うん、まあまあかな。は?」
「私も中間の時よりは出来たと思う! のおかげだよ、ありがとう!」
「いえいえ、こっちこそ! に教えてもらったところがばっちり出たね。ありがとね!」

そう言って、二人は笑い合う。
この数日、一緒に勉強したり、わからないところを教えあったりしていたのだ。

、ほんと頑張ってたもんね。真田先輩に会えなくてもね」

にんまりと笑い、が言う。
いきなり飛び出した真田の名前に、の心臓の速度が少しだけ増した。

「も、もう、またそういうこと言う……!!」
「あは、顔真っ赤!」
!!」

二人がそんなことを言い合っていると、背後から明るい声が聞こえた。

「よお、。試験お疲れさん!」

現れたのは切原だった。
は、笑顔で彼の方を向く。

「赤也君もお疲れ! どう、出来た?」
「最後の国語はそれなりに出来たけどな……。でも、英語はやっべーな。また追試ギリギリかもしんねー」

そう言って、彼は苦笑しながら人差し指で頬を掻く。

「ぎりぎりでも追試じゃなかったらいいね、切原君。もうすぐ関東大会なのに、放課後追試になっちゃったら練習時間減っちゃうし」
「ああ、もし追試だったら副部長に殺されるな……中間のときは、めっちゃくちゃぎりぎりでさ。副部長にすっげー怒られたもんな……」

あン時は一週間練習三倍増しでなんとか許してもらえたっけ、と呟きながら、少し青ざめた顔で苦笑いを重ねると、切原は自分の髪をくしゃっと掻き上げた。
そんな彼の肩を、が笑って叩く。

「まあ、でもさ。とりあえずは終わったんだし、今気にしてもしょうがないよ! 今日はそんなこと忘れて、ぱーっと楽しも! せっかくのお祭りなんだし!!」

そう言って、が切原の顔を「ね?」と覗き込むと、切原もまたにいっと嬉しそうに笑った。

「そだな、今気にしてもしゃーないよな! さんきゅ、!」

二人のそんな様子を見つめ、は思わず嬉しそうに笑みを零す。

「あ、そだ。今日の祭りのことなんだけどよ。お前ら、一旦家帰るよな?」

切原の問いに、が頷く。

「私は今日は家じゃなくて、おばあちゃんちだけどね。ほら、浴衣着せてもらうから。は家でしょ?」
「あ、うん。そういえば、先輩たちどうするんだろう。聞いてる? 切原君」
「ああ、柳先輩にさっきメールもらった。えーっと、ちょっと待ってくれな」

そう言いながら、切原はポケットから携帯を取り出す。そして、利き手の親指で軽快なテンポを刻みながらボタンを操作し、目当てのメールを表示させた。

「あったあった。えっと、祭りのメインが駅周辺だから、駅中の噴水前あたりで十七時くらいに待ち合わせでどうかってさ。お前ら十七時で間に合うか?」
「うん、まあ充分じゃないかな。おばあちゃんちって言っても駅からバス一本で行けるし、そんなに遠くないから。それに、まだ午前中だしね」
「うん。大丈夫だと思う。……って、駅中の噴水ってどこにあったっけ?」

その場所がすぐに思い出せなかったは、きょとんとした顔で二人に問い掛ける。

「えーっと、ほら。中央改札口から東口方面にまっすぐ行ったとこだよ。すぐ近くに、ドーナツ屋さんとケーキ屋さんが並んでてさ。あったでしょ?」
「……んと、あったような気がする……けど……最近そっちの方全然行ってないからなあ……」

自分の記憶の頼りなさに情けなくなり、の眉間に思わず小さな皺が刻まれる。
そんなに、は苦笑で返した。

「もーしょーがないな。後で駅ついたら、一回連れてったげる」
「ありがと、。ごめんね、超助かる!」
「よし、じゃあ、とりあえず柳先輩にはそれでいいって返事しとくからな」

そう言うと、切原は再度軽い調子で携帯を操作する。
柳への返信メールをほんの数秒で打ち終わると、彼はすぐにそれを送信した。

「よっしゃ、完了っと」
「ありがと、切原君」
「おう。……っと、そろそろホームルーム始まるな」

切原の言葉に、も気付いたように呟く。

「あ、ほんとだ。私も戻らなきゃ」
「じゃあ、二人ともまた後でね」

笑顔で手を振るに、切原とも笑顔で返し、二人はそれぞれの席についた。

◇◇◇◇◇

やがてホームルームが終わり、帰りの挨拶を済ませた。
試験最終日の今日までは、どの部活も一切活動できないということもあり、生徒たちは皆一斉に帰りの準備を済ませ、門へと向かう。
そのため、廊下や下足室は勿論、門やバス停周辺まで学生で溢れ、学校近辺はものすごい混雑だった。
それでもなんとか、たち三人は運良く待ち無しで駅行きのバス乗ることが出来た。
しかし席を確保することはかなわず、人込みに揉まれながらの立ち乗車となってしまったのだが。

「すごい人だね」

バスの前方で、なんとか確保したつり革を一生懸命握り締めながらが言うと、それに切原が苦笑して頷く。

「ま、試験最終日だからな。予想はしてたけどな」
「うん、しょうがないよね。駅までがんばろーね」

そうが言った時――鞄の中に入れていたの携帯が勢いよく震えだした。

「うわ、電話だ」

ついそんなことを口走ったが、今はバスの中だ。
しかも動くこともままならないこんな状態で、電話になど出られるはずも無い。
しかし、のそんな事情などおかまいなしに、電話は震え続けている。

(もう、こんな時に誰なんだろう)

間が悪いなあと思いながら、は携帯の振動が他の乗客に当たらないよう、携帯の入っている鞄を自分の身体に寄せる。

、電話?」
「うん、そうみたい」

の問いに頷いた瞬間、鞄の中の振動がピタリと止んだ。どうやら、電話が止まったらしい。

「あ、止まった」
「それにしても、こんな状態じゃ鞄から携帯出すことも出来ないよね」
「うん。でも一体誰だったんだろ。駅に着いたら見てみる」

混み合ったバスの中で、はそう言ってもう一度自分の鞄を持ち直した。
それからしばらくして、バスは駅前のバスターミナルへと入って行った。
やがてバスが停車し、すし詰めの車内からやっとのことで解放された三人は、降りたところで顔を見合わせる。

「すごい人だったね」
「ああ、やっぱ部活ねーとすげーよな」
「だよね。もう乗ってるだけで疲れちゃうよ……あ!」

その時、が唐突に声を上げた。

「ごめん二人とも! もうバス来てるみたい!!」

そう言いながら、は少し背伸びをして、二つ向こうの乗り場を覗き見る。

「アレ逃したら次いつかわかんないし、このまま行くね! じゃあ、また後で!!」
「あ、うん!」
「後でな、!!」

と切原の声を聞き、は慌てて手を振ると、そのまま乗り場の柵を超えて一目散に走って行ってしまった。
そんな彼女の後姿を見送った後、ははっと顔を上げる。
そういえば、駅の中にある噴水の場所を彼女に教えてもらうはずではなかっただろうか。

「あっちゃ〜……ま、しょうがないか」
「どうしたんだよ、

が呟いた言葉に、隣にいた切原が反応した。

「うん、待ち合わせの噴水の場所教えてもらうの忘れてた」
「あーそういや、そんなこと言ってたな。いいぜ、の代わりに俺が連れてってやるよ」
「え、いいの?」
「ああ、俺はまだまだ時間あるしな。着いてこいよ」

そう言って、くるりと踵を返して歩き出した切原に、は笑顔で礼を言った。

「ありがとう、切原君!」

バスターミナルを抜け、駅の中に入って、二人は歩く。
祭りが今夜ということもあり、駅の中はたくさんの祭の飾り付けやポスターで鮮やかに彩られていた。

「すごいねー。なんか見てるだけでわくわくしちゃわない?」
「ああ、やっぱ夏祭りとしちゃこの辺じゃ最大規模だもんな。去年はもう関東大会に向けての練習が本格的に始まってたから、俺はあんまり見れなかったけどよ。今年はうまく試験終了日に重なってくれたから、ゆっくり見れそうでラッキーだぜ!」

二人はそんな他愛ないおしゃべりをしながら、噴水に向かう。
そして、やがて数分で目当ての噴水が姿を現した。

「ほら、あそこだ

そう言って、切原が前方をさっと指さした。

「わ、ほんとだ。ありがとう、切原君。こっちの方あんまり来ないから、すごく助かった!」

そんな会話を交わしながら、二人は噴水の側まで歩いてきた。

「じゃ、ここに十七時な。次は一人で来れるか?」
「うん、多分大丈夫だと思う」

が、そう頷いた時だった。

「――おや、赤也にじゃないか。お前たちも待ち合わせ場所の下見か?」

ふいに声を掛けられて、はっとして二人が顔を上げる。
すると、そこには柳と――真田がいた。
予想もしていなかったあまりにも唐突な彼の出現に、の頭が真っ白に染まる。

「あ、副部長に柳先輩。先輩たちもっすか?」

そう言って、切原が軽い調子で二人に会釈した。

「ああ、弦一郎が噴水の場所がよく分からんと言うんでな。時間もあるし、一度見ておくかということになったんだ」
「し、仕方ないだろう。俺は、あまりこの辺りに来ることが無いんだ」

柳の言葉に、真田が少し恥ずかしそうに帽子のつばを下げる。
そんな真田を見て、柳はくすりと笑った。

「弦一郎、別にそれが悪いとは言ってないぞ」
「そうっすよ。それに、俺達も同じ理由っすから」
「おや、そうなのか」
「そうっす。こっちはなんすけどね」

そう言って、切原はからかうようにくくっと笑って、先ほどから無言のを見た。

「なあ、!」
「え……あ、う、うん……って、ごめん、何?」

いきなり振られた言葉には慌てて頷いたが、すぐにもう一度内容を聞き返した。
正直なところ、突然現れた真田の姿にドキドキしすぎて、最初の方の話が全く入ってこなかったのだ。

「なんだよ、聞いてなかったのか? 副部長も、場所がわからなかったから柳先輩にここまで連れてきてもらったんだとさ。お前と一緒ってこと!」

お前と一緒、と強調するように言われ、の心臓がまた速度を上げる。
例えその内容がこんな些細なことでも、「一緒」と言われるとなんだか恥ずかしくも嬉しかった。
は、そっと柳の隣にいる真田を見上げた。

「先輩もだったんですね」
「……ああ。俺はあまりこの辺りに近寄ることが無くてな。蓮二に連れて来てもらった。お前も知らないとは、意外だな」
「あ、あの、私もこの辺りはあまり利用しなくて……」
「そうか。俺と同じだな」
「……はい、同じです」

彼の言葉に頷きながらが笑みを零すと、それに応えるように真田も頬を緩める。
そんな二人を、柳と切原は微笑ましそうに見つめていた。

――その時。
の鞄が、いきなり震えだした。
いや、正しくはの鞄の中に入っていた携帯が、だが。

「あ! 忘れてた!!」

そういえば先ほどバスの中でも携帯が鳴っていたのを思い出し、思わずは声を上げる。

「すみません、ちょっと失礼します」

は三人に頭を下げて鞄を開け、携帯を取り出した。
先ほどの相手と一緒だろうかと思いながら、携帯のディスプレイを覗くと、そこには母の携帯の表示があった。

(お母さん?)

一体何の用だろうと思いながら、携帯の通話ボタンを押し、耳に携帯を押し当てる。
すると、が何かを言いだすよりも早く、母の焦った声が耳に届いた。

『もしもし、?』

その焦りように少し驚きながら、は母に言葉を返す。

「うん。お母さん、どうしたの?」
『ごめん、!! 本当に悪いんだけど、駄目になっちゃった!!』
「駄目になった? ……何が?」

言っている意味がさっぱり分からなかった。
は頭の中を疑問符でいっぱいにしながら、母に尋ね返す。

『今日、帰ってきたら浴衣着せてあげるって約束してたでしょ。あれ』

そう言った母の声に、は驚いた声で問い掛ける。

「え、どうして!?」
『お父さん、今朝から大阪に出張してるでしょ。でね、大切な書類を忘れたって、さっき電話があったの。今日中にどうしてもいるんだって。だから、お母さんそれを持って今から大阪まで行ってくることになっちゃって……』
「ええ〜!!」

驚きのあまり、は言葉を失う。
浴衣云々よりも、母が突然そんな遠出をするということに驚いたのだ。

『ごめんね、実はもう出かけてて、今新幹線の中にいるの。でも、今夜中には帰れると思うから』
「……そんな大変なことになってるの? ……ご苦労様、お母さん。私のことは気にしないで、そういうことならしょうがないし」
、本当にごめんね。もし自分で着るなら、和室のところに一式出しておいたから』
「え、それはさすがに無理だってば、着方わかんないし。そんなことより、大阪土産期待してるからね」
『勿論よ、美味しいの買って帰るからね。はお祭り楽しんでおいでね』
「うん、わかった。それじゃあね、お父さんによろしく」

そう言って、は笑って電話を切った。
そして、そのまま携帯を操作し、先ほどの着信履歴を見る。
やはり、母の携帯だ。
しかも先ほどだけではなく、気づかなかっただけで何度も何度も掛けて来てくれた形跡があった。
せっかくのお祭りという機会に浴衣を着られないのは少し残念だけれど、どうしようもない事情な上、こんなに必死で連絡を取ってくれようとしたなら、気持ちよく諦めもつく。
そう思いながら、は笑って携帯を鞄に仕舞った。

「すみません、電話終わりました」
「……なにやら驚いていたようだが、どうかしたのか?」

真田が、気にするように問い掛けてきた。
彼の視線にドキッとして、は少々慌てながらも、彼に返事をする。

「や、あの、母がちょっと用事で急に大阪に行くことになっちゃって。だから今日の浴衣着せてもらう約束が駄目になっちゃったって、ただそれだけなんですけど」

そう言って、は照れを隠すように大袈裟に笑った。

「そうなのか? ……それは、残念だったな」
「はい、でも仕方ないですし、浴衣着るのは確かに楽しみでしたけど、それよりも皆でお祭り行けるだけで充分だから、あんまり気にしてないです」

がそう言った瞬間、切原が驚いた声で会話に割って入ってきた。

「え、何、浴衣着ねーの?」
「うん。着ないっていうか、着れなくなっちゃった」

は、そう言って苦笑する。

「なんだよ、浴衣くらい自分で着れないのか?」

そんな彼の言葉に、は慌てて手を振った。

「む、無理無理! 浴衣の着方なんか分かんないよ!!」
「でも着たかったんだろ?」
「確かにあんまり着る機会ないし着たかったけど、無理やり着て着崩れとかしたら恥ずかしいし! そっちの方がやだってば!!」
「でもよー!」

必死では反論するが、切原はまだ食い下がってこようとする。
きっと彼のことだから、浴衣姿を真田に見せてやれば良いのにという、気遣いの気持ちもあるのだろうけれど――逆にみっともない姿を晒す可能性の方が高い以上、「やってみる」とはどうしても言えない。

「ごめん切原君。本当に無理」

がそう言うと、さすがに見かねたのか、柳が間に割って入ってきた。

「赤也、あまり無理を言うな。本人が諦めると言っているんだ。お前はの浴衣姿が見られるんだから、それでいいだろう?」
「……ま、そりゃそーなんすけどね」

の名前を出されて、切原は少し照れたような顔で黙り込む。
そんな彼を見て、はくすりと笑いながら口を開いた。

「ごめんね、切原君。気にしてくれてありがとう」

――その時だった。
先ほどと話してからずっと何かを考えて黙り込んでいた真田が、唐突に自分の電話を取り出し、どこかに電話を掛け始めた。

「どうした弦一郎、電話か?」

柳がそう問い掛けたが、真田にはその言葉は届いていないようだ。
どこか落ち着かない様子で片足のつま先を何度もトントンと地面に打ち付けながら、彼は無言で携帯を握り締めている。

(どうしたんだろう、先輩)

が不思議そうに彼を見つめていると、やがて彼の電話の相手が出たようだった。
彼は、おもむろに相手に話し始める。

「……もしもし、母さんですか。はい、俺です。弦一郎です。ええ、試験はもう終わって、今は一旦帰宅している途中なのですが……」

母、と言う言葉に、そこにいた他の三人は少し驚いて彼に視線を注ぐ。
それに気付いて、真田は恥ずかしそうに三人に背を向けると、そのまま会話を続けた。

「あの、今日母さんはずっと家に? ……そうですか、なら、ひとつ頼みがあるのですが……いいでしょうか」

そこまで言って、真田の言葉が一瞬止まる。
そして、大きく息を吸って、彼は続けた。

「……浴衣の着付けを、お願いできませんか。俺の後輩の、……女子の……なんですが……」

――その瞬間。
には、それまで届いていた周りの喧騒の一切が、掻き消えるように聞こえなくなった。

(先輩が今、家族の人に頼んでくれているのって……もしかして……わ、私のこと……!?)

の心臓が、はちきれんばかりにどんどん高鳴りを増していく。
唐突過ぎるこの事態に、頭がついていっていない。
それでも、呆けている場合ではないと、恐る恐るは真田に声を掛ける。

「あ、あの、先輩……」

の声に、真田は携帯を切らないまま振り向いた。
その顔は、明らかに耳まで真っ赤に染まっている。

「……、聞こえていたかもしれないが、俺の母で良ければお前に浴衣を着せてくれるそうだ。お前が俺の家まで来る手間を惜しまないなら、俺の母に着せてもらうといい」

そう言って、彼は被っていた帽子のつばを下げ、顔を隠すように更に目深に被りなおした。
それでも、彼が照れているのは明らかに分かる。

「あ、あの、でも、ご迷惑じゃ」
「俺の家の事情は気にしなくていい。……母は和服の着付け教室の講師などもしているし、浴衣の一つや二つお手の物だ。迷惑ということは無い」

真田がそう言うと、満面の笑みを浮かべた切原や柳が、嬉しそうに話に割り込んできた。

「いいじゃん!! 副部長んち、行ってこいよ!!」
、弦一郎の言葉に甘えさせてもらうといい。弦一郎のおばさんは来客をもてなすのが大好きな方だからな、きっと喜んでやってくれると思うぞ。そして、着せてもらった後そのまま弦一郎と一緒にここに来ればちょうどいいじゃないか。二人ともこの場所は不慣れなようだから、二人で来れば間違えないだろう?」

彼らの囃し立てるような声で、自分の心臓がどんどん高鳴っていくのが分かる。
彼の家に行って、彼のお母さんに浴衣を着せてもらって、そして彼と二人でまたここまで来る――考えただけで緊張で頭がどうにかなりそうだけれど、それ以上に心の中で飛び上がらんばかりに嬉しいと感じている自分がいるのは確かだ。

「ほ……本当に、いいんでしょうか」

震える声で、はそう問い掛けた。
視線を逸らしたまま「ああ」と頷く彼に、はぐっと胸の前で掌を握り締めながら、頭を下げた。

「じゃあ、お願い……します」
「あ……ああ」

彼はそう言うと、またたちに背を向け、電話を続けた。
の隣では、まるで自分のことのように嬉しそうな表情で満面の笑みを浮かべる切原が、同じように微笑む柳と顔を見合わせている。
しかし、はもうそんなことを気にしている余裕も無く、今の状況にただただ胸を高鳴らせるばかりだった。

初稿:2008/07/07
改訂:2010/04/07
改訂:2024/10/24

NEXT TOP