六月の始めに彼の態度がおかしくなってから、もう一ヶ月近くが経つ。
彼と自分の様子がおかしいことは、少しずつ他の部員たちにも伝わってしまっていたようだ。
やはり切原や柳は特に気になるようで、何度も「一体何があったのか」と尋ねられた。
あれだけ不自然に距離を取っていたり話さないでいたりすれば当然かもしれないと思いつつも、正直に答えることはどうしても出来なくて、はその度に苦笑するだけでごまかしていた。
いつか彼の態度が元に戻ることを、切に願いながら。
しかし何も状況は変わらないまま、気付けばもう一学期の期末試験が目の前に迫っていた。
たちが通う立海大附属中学では、中間・期末などの定期試験前は部活動を強制的に休止し、試験勉強に専念する事が決められている。今日は、その直前休止期間に入る前の最終日だった。
勿論期末試験が終わればまた練習は再開するのだが、直前休止期間と試験日程全てを合わせれば、部活がない期間は一週間を超える。その期間中もきっと部員の皆は家で自主練習などするのだろうが、マネージャーの自分は家で出来ることなどほとんどないし、テニス部からはしばらく離れた生活になるのだろう。
部活のない生活――二ヶ月ほど前まではそれが当たり前の生活だったのに、今となってはどうやって過ごしていたのだろうとさえ思う。それほどまでに、テニス部の活動はにとってかけがえのないものになっていたのだった。
最近は梅雨の時期ということもあって雨の日が多く、屋内練習ばかりだったが、今日は朝から見事に晴れた。
は最終日くらいはのびのびと練習できればいいなと思っていたので、起きてカーテンを開け青空が広がっているのを見た瞬間、嬉しくて思わず笑顔が零れた。
しかし、真田に避けられたままのこんな状態でしばらく会わないことになるのかと思うと、すぐにその表情は曇ってしまったのだが。
部活の最終日と言っても、授業や学校生活自体に何か特別なことがあるわけではない。普段どおりに朝練を終え授業をし、いつもの如く昼休みにはと共にお昼ご飯を食べた。
しかし、教室でお弁当を食べているとき、の様子が少しおかしいことには気付いた。何か言いたそうにしては、言葉を止める――そういうことが何度かあったのだ。
親友のただならぬ様子が流石に気になって、は弁当を食べ終えてから、に声を掛けた。
「ねえ、。どうかしたの? なんだか、さっきから様子がおかしいような気がするんだけど……」
の言葉に、は眉をひそめる。
そして少し迷うように押し黙ってから、顔を上げて彼女は言った。
「ねえ、。にちょっと話があるんだけど、付き合ってくれる?」
その真剣な瞳に、は親友の話とやらがただの暇つぶしやお喋りではないことを悟る。
そして、少し緊張しながら、は首を縦に振った。
教室を出て、滅多に人が来ない五号館裏のベンチまで二人は移動した。
そこに腰を落ち着け、顔を見合わせる。
「ごめんね、こんなところまで」
「ううん。一体、どうしたの?」
がそう切り出すと、はほんの少し言葉に困ったように口篭もり、俯く。
しかし、すぐに視線をに戻すと、ゆっくりと口を開いた。
「あのね、。ずっと聞きたかったんだけどね」
「……うん」
「最近、おかしいよね。ものすっごく落ち込んでるよね? ……一体、何があったのか、教えてくれないかな」
その言葉に、の心臓がどくんと高鳴った。
言葉を失ったに、は更に問いを重ねる。
「違ったらごめんね。でも、多分だけど……真田先輩のことじゃないの?」
がそう言った瞬間、は「ああ、やっぱり気付かれてたんだ」という思いでいっぱいになった。
真田のことがずっと心に引っかかっていて、ここ最近確かにずっと気持ちが沈んでいた。それはどうしようもないことだったけれど、たちといる時は彼のことは別問題だ。大切な親友たちに心配をかけないようにしたいという思いは勿論あったし、それに彼のことでこんなにも落ち込んでしまっているのを誰かに知られること自体にどうしても抵抗があったから、彼女たちと居る時はなるべくそのことを考えないようにして、この気持ちを悟られないようにしてきたつもりだった。
しかし、は鋭いところがあるから、気付かれているんじゃないかとは薄々思っていたのだ。
とはいえ、自分から尋ねるわけにもいかず、ただ「気のせいでありますように」と祈るばかりだったのだが。
(どうしよう……)
迷いながら、心の中で葛藤する。
には一度、真田のことが好きなのだろうと言われたことがある。
落ち込んでいる理由が彼と今までのように話が出来なくなったからだと知れば、きっと今度もやはり彼が好きなんじゃないのかと尋ねられるのではないだろうか。
その質問を突きつけられれば、今までずっと自分自身が踏み込まなかった心の領域と、向かい合わなければならなくなるかもしれない。
一度幸村に似たような質問をされた時は、なんとか逃げることが出来たけれど――あれからまた大分時間も経っている。
次誰かに再度その質問を突きつけられたとき、前と同じように答えられるのか、それは自分でも自信がなかった。
「えっとね……」
言葉が続かなくて、は口篭もる。
――怖い。言えない。考えたくない。
やはりどうにかして逃げてしまおうかと思いながら、そっとは顔を上げた。
その瞬間、ベンチで隣に座って心配そうに見つめてくる親友の姿が目に入り――の脳裏にある情景が蘇った。
あれは自分がマネージャーになる前のことだ。
場所はここではないけれど、同じようにこうやってとベンチで並んで座っていた。
は、今と同じように自分に元気がないのを心配して丁寧に話を聞き、心から親身になって考えてくれた。
そして。
――これからも、なんでも話してね。真田先輩のことも、それ以外のことも。
そう言って、彼女は優しく笑ってくれたのだ。
もし今ここでの質問をごまかして逃げてしまったら、きっと優しい彼女はそれ以上追求しては来ないだろう。
けれど、きっとそれはの心を傷つけるに違いない。あの日、には何でも話すと約束したのだから。
彼女は大切な親友だ。
できるならあの約束を破ることはしたくない。
でも――やはり怖いのだ。
の掌に、汗が滲んできた。
そんな掌をぎゅっと握り締めて瞬きを繰り返し、どうしようとひたすら心の中で自問する。
その時、そんなをずっと見守り、黙っていたが再度口を開いた。
「……あのね。本当はが自分から相談してくれるまで、聞くのはやめとこうと思ってたんだ。聞いたらきっと、が困るだろうなと思ったし」
そう言うと、は苦笑する。
しかし次の瞬間、再度じっとの目を見つめた。
「でも、もう見ていられないの。がそんなふうに落ち込んでるの、見たくない。お願い、何があったのか教えて」
「……」
「話してしまえば楽になるよ、なんて言わない。ただ私がのそういうとこ見たくないっていうだけで、すごく自己満足なんだと思うし、私のわがままなんだっていうのはわかってる。でも、が悩んでるならせめて一緒に悩みたいし、私にできることがあるならしたいの。だから、お願い。私に話してよ」
彼女が必死で紡いだその言葉から、が自分の事を本当に大切に思ってくれている気持ちが、ひしひしと伝わってきた。
は本気で自分のことを考え、想い、心配し、慈しんでくれている。
だからこそ、様子がおかしいことにずっと気付いていながらも軽い気持ちで聞くような事はせずに、こちらから話すまではと今まで敢えて聞かないでいてくれたのだ。
一方、自分はどうだろう。
自分の事で精一杯で、のことなんて考えていなかったんじゃないだろうか。
それどころか、心配させているんじゃないかと薄々感じていたくせに、その後に何を聞かれるかが怖くて何も言わなかった。
彼女の優しさに甘えて、ずっと自分を守ることだけを考えていたのだ。
は、そんな自分がとても情けなくて恥ずかしく思えた。
(私、酷いなあ)
そんなことを思いながら、大きく息を吐く。
そして、もう一度はの顔を見つめた。
いつも元気なは、少し泣きそうになっていた。
何も打ち明けずに勝手に落ち込んでいる自分のことを、本気で心から心配してくれているのだ。
ここまで思ってくれる彼女が、今の状況を聞いて尚重ねてくる言葉があるなら、それはきっと今の自分に必要な言葉なのだろう。ちゃんと受け止めて、考えるべきことなのだ。
は心を決めた。
「ありがとう、。それと、ごめんね。心配ばっかり掛けちゃって」
たどたどしくそう言って、やり場がない手で自分の髪に触れながら、は言葉を続けた。
「えっと……あのね。うん。全部話す。ちょっと長くなるかもしれないけど、聞いてくれる?」
言葉が纏まるより先に話し始めたので、妙にぎこちない口調になってしまう。
それでも、は真面目な顔で頷いてくれた。
それに頷き返して、は話を始めた。
「私、今確かに落ち込んでる。半端じゃないくらいに、めちゃくちゃ落ち込んじゃってる。……その理由はが言ってくれた通り、真田先輩のことなんだけどね」
は、今の気持ちを淡々と話し始めた。
マネージャーを始めてから、真田とはずっと楽しくやってこれたつもりだったこと。
彼に仕事を認めてもらえるのが嬉しくて、いくらでも頑張れたこと。
いつの間にか、彼と話すことが、側にいられることが、ものすごく嬉しくて心地良くなっていたこと。
――そして。
ある日を境に彼が自分だけを露骨なほど避けるようになり、今はそれがものすごく辛くて苦しいこと――
「今はもう、話すどころか目も合わせてくれないの。それが一ヶ月くらい続いてる。マネージャーの仕事を頑張ってれば、いつかまた笑って話できるかなって思ってたけど、全然ダメっぽくて……」
そう言って、は辛そうな表情をしながら、ぎゅっと膝の上に置いた掌を握り締めた。
は、俯くの顔を心配そうに覗き込む。
そして、気遣うような優しい口調でに問い掛けた。
「……どうして避けられてるのか、心当たりはあるの?」
その言葉に、は無言のままこくんと頷く。
「その心当たり、聞いても……いい?」
少し遠慮がちにそう尋ねたに、は再度頷き返す。
そして、小さく息を吸って呼吸を整えてから、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「あのね、六月の始めに、先輩と二人で部活の買出しに行ったことは話したよね。……実はね、あの日からなんだ。先輩に避けられ始めたの」
は、あの日のことを思い出しながら、話を進めた。
「実はね、言ってなかったけど、部活の用事が終わった後に幸村先輩が二人でお見舞いに来ないかって電話かけてきてくれてさ。それでまあちょっといろいろあって、二人で結構長い間、いろんなことして時間潰してたの。公園でクレープ食べたりとかね……」
あの日のことを思い出し、はあったことを全てに話し始めた。
移動販売車で買ったクレープを、公園のベンチで並んで座って食べたこと。彼自身は一つ丸々は無理だと言って買わなかったけれど、自分の買ったクレープを一口だけ食べてもらって、「確かに美味しい」と言って笑ってもらったこと。その後テニス雑誌を買いたいと彼が言ったから、書店に移動して二人で雑誌を見たり、話の流れでたまたまその日が柳の誕生日だと知りプレゼントを買いたいと言ったら、彼も一緒に選んでくれたこと。
一ヶ月も前のことなのに、ひとつひとつを鮮明に思い出せるのは、きっとあの時自分が本当に楽しんでいたからだろう。
それは彼も同じように見えたのだけど――本当は違ったのかもしれない。
そんなことを思って胸を痛めながら、は続けてガラス工芸展でのことを話し出す。
「ガラス工芸展は、たまたま無料のチケット貰ったから行ってみたんだけど、すごく良かったよ。ガラスのイルカがすごく可愛くて綺麗でね。でも真田先輩、私のことだから転んだ拍子にそのイルカを壊すかもしれないから、近寄らない方がいいとか言ってからかうんだよ」
「へえ、真田先輩が? あの人って、そういうことも言うんだね。ちょっと意外かも」
「うん、そう。意外と意地悪でしょ」
そう言って、は笑う。
「でもね、あれは嫌じゃなかったな。先輩も楽しそうに見えたし、素の先輩が見られた気がして、私はむしろ嬉しかったぐらい」
からかうような意地悪な笑顔、ふてくされた自分をなだめながら苦笑した顔、そして、見守るように優しく微笑んでくれた顔。
彼はいろいろな笑顔を見せてくれたけれど、どれもとてもあたたかかった。
――でも、今はもう作り笑顔すら、向けてもらえなくなったけれど。
そう思うと更に胸が痛くなって、目が熱くなった。
じんわりと潤んだ目を利き手で一度擦って笑顔を作ると、は話を続けた。
「それでね、最後に売店見つけてね。私、どうしてもその日の思い出に何か買って残したかったから、寄らせてもらったの。そしたら、すごく可愛いガラスで出来た花の髪留めとイヤリング見つけてね。ひとつでも可愛いのに、髪留めとイヤリング、おそろいなんだよ!」
もう一目惚れしちゃったんだ、と笑うを、もまた微笑ましそうに見つめる。
「でもね、さすがに二つは無理だったから、どっちかだなあって思って、結局髪留めのほうにしたんだ」
「そうだね、イヤリングと髪留めだったら、私も髪留めにするかな」
「だよね。イヤリングってなかなか畏まっておしゃれしたいときくらいしか、着ける機会ないしさ。今は部活が忙しいし、なかなかそんなおしゃれすることもないもんね。だから、私も髪留めにしたんだ。でもね……」
そう言って、は少し照れたように笑った。
「イヤリングの方もね、先輩がプレゼントしてくれたの」
「え!?」
よほど意外だったのだろう、が大きな声を上げた。
「プレゼントしてくれたって、真田先輩が!?」
のものすごい驚きようとは対照的に、はふふっと笑って頷く。
「うん。私が髪留めを買いに行った後にこっそり買って、渡してくれたの。本当にびっくりしちゃった。前、私が渡した誕生日プレゼントのお礼のつもりだったみたい。本当に律儀だよね」
「誕生日プレゼントのお礼、ねえ……」
は口元に手をやって、何かを思うように考え込む。
そんなの様子には気付かずに、は言葉を続けた。
「あとね、私がマネージャーとしてよく頑張ってるから、副部長として、そのお礼だって言ってくれたのね。……私、それが本当に嬉しかったの。先輩に認められることは私の一番の目標だったから、ああほんとに先輩は私を認めてくれたんだって、すっごく嬉しかった。だからね、思わず泣いちゃったの。私」
そう言うと、は少し黙り込んでしまった。
あの時の事を思い出すと、今はただ胸が痛くなるばかりだ。
彼はきっと、あのプレゼントで自分が泣いてしまったことに引いたのだろうから――もし泣かなければ今でも彼と笑って話が出来たんじゃないかと思うと、あの時の感情的な行動にはどうしても悔やむ気持ちがある。
そう思うとまた目が熱くなって、潤んだ。
今度は、一度や二度目を擦ったくらいではごまかせないくらいに溢れてきて、は俯いて一生懸命掌で目を擦り続ける。
そんなを、は慌てて覗き込んだ。
「!?」
「……多分、そのせいだと思う。先輩が私のこと避けてるの」
「そのせい……って?」
「あの時私が泣いたこと……」
「なんで泣いたからって真田先輩がを避けるのよ。プレゼント貰って感動しちゃったんでしょ? 泣いたっていいじゃん。そこまで喜んでもらえたなら、きっと先輩も嬉しかったと思うよ。考え過ぎだよ」
は泣いているをなだめるように言う。
は、に心配を掛けないようにと何度も目を擦って涙を止めようとしたが、溢れてくるものは一向に止まりそうになかった。
「でも、そうとしか思えないんだもん。その直後からなんだよ、先輩が私のこと避け始めたの。多分先輩にとっては、あれは本当にそんな深い意味はないものだったんだよ。それなのに、私が感動して泣いちゃったから、何をそんなに重く受け止めてるんだろうって引いちゃったんじゃないかな……」
そんなことを言っていると、どんどん悲しくなってきて、涙が更に止まらなくなってきた。
改めて言葉にすると、やはりとても苦しくて、辛い。
「なんで私、あの時泣いちゃったんだろう。ただ、ありがとうございますって言って喜ぶだけにしとけば良かったのに……」
あの時の自分を責めるように言葉を吐き出して、は嗚咽した。
は、そんなの肩を励ますように叩いて声を掛ける。
「、泣かないで。ね?」
「ごめん……、ごめ……」
に申し訳ない気持ちになりながらも、やはり涙を止めることは出来そうになかった。
ずっと一人で溜め込んでいたことを吐き出したので、気持ちが涙となってぼろぼろ流れ出し、止まらなかったのだ。