は廊下の途中で待っていてくれた真田に追いつき、二人は歩調を揃えて歩き出す。
二人だけで帰ることについドキドキしてしまいながらも、は隣を歩く真田に話し掛けた。
「真田先輩、ごめんなさい。私のために、先輩まで早く帰ることになっちゃって」
「俺は頻繁に来ているからな、気にするな。それより、俺こそ悪かったな。逆にお前に気を遣わせてしまったようだ」
真田の言葉に、は思わず申し訳なさそうに彼を見上げ、言った。
「そんなことないです。先輩は私のこと考えて言って下さったんですもん。私こそ、すごく失礼なこと言っちゃってすみません」
「いや、思ったことを腹の中に溜め込まれるよりは、きちんと言ってもらった方がありがたいからな。それに皆の中には、いろいろと忙しくて今日久々に幸村に会えた者もいたようだから、時間の許す限り話したかった者もいただろう。そのことに気付かせてくれて、お前には礼を言いたいくらいだ」
そう言って、真田は笑う。
その言葉と表情には思わず胸を高鳴らせながらも、内心彼が自分の言動を肯定してくれたことが嬉しくてたまらなかった。
彼のせっかくの心遣いを、一旦跳ね除けたのに――その理由をちゃんと理解してくれて、気付けなかったことを気付かせてくれたと、礼まで言ってくれた。
やはり、彼はとても優しくて素敵な人だと改めて思いながら、は頬を緩めた。
病院を出て、来た道をそのまま逆に戻り、駅に着いた。
改札を通ってホームに上がると、丁度電車が来たところだった。
二人は、空いている席に並んで座った。
はすぐ隣に彼が居ることに少し照れながら、視線をどこに向けたらいいのかわからなくて、じっと床を見つめる。
(――それにしても、今日は真田先輩とよく二人っきりになるなあ)
大会の昼休憩のときや、お見舞いの花を買ったとき、そして病院に来る途中。
更に、極めつけと言わんばかりに、帰りまで二人きりで送ってもらうことになり、こうやって同じ電車で隣り合って座っている。
(たまたまなんだろうけど……でも、ちょっと嬉しい……かも)
二人っきりなのは緊張するけれど、心のどこかで、真田と一緒に居られることを喜んでいる自分がいた。
しかし、すぐにそんな自分に気付いて、は少し熱くなった頬に両手を添える。
(へ、変な意味とかじゃないんだから。ただ、二人っきりだったらいろんなお話出来るかもだし、そしたら先輩のこと、ちょっとでも知れるかもしれないし――ってこれじゃあ余計に変な意味っぽいよ! そうじゃなくて、えと、えと……)
まるで誰かに言い訳するように、心の中で自問自答を繰り返す。
――すると。
「、何を考えているのか知らんが、なんだか様子がおかしいぞ」
そう言って、真田が笑った。
「え」
思わず小さな声を漏らして、は隣にいた真田を見上げた。
目が合った真田は、またくくっと声を漏らしながら、おかしそうに笑う。
「黙り込んでいると思ったら、笑ったり困った顔をしたりと先ほどから一人で百面相を繰り返して……一体、どうした。何を考えていたんだ?」
どうやら、思っていたことを口に出すことはなくても、表情にはしっかり出ていたようだ。
思わず、はその顔を真っ赤に染めた。
「や、あ、あの……ちょっといろいろと……」
まさか、彼と二人っきりになれたことを緊張したり喜んだりしていたせいだとは言えずに、はあたふたと無意味に手を振る。
「む、俺には言えないようなことを考えていたのか? まさか、俺の悪口を考えていたのではないだろうな」
「まさか!! 先輩の悪口なんて……!!」
彼の言葉に驚いて、は目を見開く。
そんなの目を、真田はじっと見つめて言った。
「必死になると、余計怪しいぞ」
「違いますってば!! 先輩にはいつもとってもお世話になってるし、今だってわざわざ送ってもらってるのに、悪く思ったりするわけないです!! 本当ですってば、信じてください」
がそう言った後、ほんの少しだけ間があり――直後、彼はおかしそうにくすりと笑みを零した。
もしかして、からかわれたのだろうか。
「……先輩、あの、もしかして私のこと、からかってませんか?」
が尋ねると、真田は更に笑みを重ねながら、言葉を漏らした。
「……分かるか?」
「やっぱり。もう、真田先輩!」
「すまない、悪かった。そう怒るな」
そう言って、彼は隠す様子もなく素直に笑った。
は、表面上はむっとした表情で頬を膨らませたが、内心その気さくな真田の様子に、ドキドキして仕方がなかった。
それを彼に悟られないかと思いながら、はその頬を軽く片手で覆う。
「も、もう。幸村先輩にもからかわれたし、なんか今日、私からかわれてばっかり……」
「お前は反応が面白いからな。ついからかいたくなった幸村の気持ちも分かるな」
「反応が面白いって……それ、褒めてませんよね」
情けなそうに、が言う。
――すると。
「どうだかな。でも、見てて飽きん。俺は嫌いではないぞ」
真田は、そんなことをさらりと言って、笑った。
その言葉に、の心臓は一気に速度を早める。
(見てて飽きないって……き……嫌いじゃないって……!!)
男の人にそんなことを言われたのは、初めてだった。
しかも、言ったのが真田となれば、平常心を保てという方が無理だ。
彼が特別な意味を持って言っているとは思わないが、それでもの心をかき乱すには充分すぎる言葉だった。
「……どうした?」
が黙り込んだのを見て、真田が不思議そうな表情でを覗き込んできた。
「い、いえ! あの、あの別に何も……えっと、ちょっとおなか空いちゃったなーって」
そう言って、は片手を軽く頭に当て、大袈裟に笑う。
しかしその直後に、今自分が口にした言葉を心の中で思い切り悔いたのだった。
(おなか空いたって……もっとマシな言い訳なかったの私……)
いくら場をごまかすためとはいえ、いくらなんでも「お腹が空いた」はないだろう。
これでは色気もへったくれもないと、は内心頭を抱える。
「なんだ、腹が減ったのか」
そう言って、真田がくすりと笑う。
「す、すみません……情けないこと、言っちゃいましたね……」
「シュークリーム一個では足りなかったようだな」
「あはは……そ、そうですね。さっきシュークリーム、食べましたよね……」
ああもう、恥ずかしすぎる――先ほどとは違った意味で、は顔が熱くなった。
しかも、本当におなかが空いてきたような気がするから、更に恥ずかしい。
「今日はよく動いたし緊張もしていたのだから、そりゃ腹も減るだろう。別に恥ずかしがることはない。それに、俺だって腹は減ったぞ。あの程度のシュークリーム一個で腹は膨れんさ。まあ、味は悪くなかったがな」
そう言って、真田はまた笑った。
「確かに美味しかったです、あのシュークリーム。丸井先輩がオススメって言ってただけはあったかも」
そんな相槌を打ちながら、は真田を見上げる。
そういえば、先ほど病室で、彼もシュークリームを食べていたことを思い出した。
彼はあまり洋菓子を食べそうなタイプには見えなかったけれど、そうでもないのだろうか。
「……先輩、洋菓子とかって食べられるんですね」
「意外か?」
「そうですね、ちょっとだけ。先輩は、どっちかと言うと和菓子とかの方が好きなのかなって勝手に思ってました」
「ふむ、どちらが好きかと言われれば、確かに和菓子系の方が好きかもしれんな。しかし、俺は基本的に好き嫌いはない方でな。何でも食べるぞ」
「あ、確かに先輩は、『これは絶対に食べない!』っていうのは無さそうに見えます。そういう先輩って、想像つかないです」
そう言うと、はくすくす笑った。
そんなを、真田は微笑ましそうに見つめる。
「お前はどうなんだ。好き嫌いはあるのか? シュークリームは美味そうに食べていたが」
「えっと、お菓子全般はほとんど好きですね。嫌いなもの……はまあ、それなりに……かな」
曖昧にごまかし、は苦笑する。
好き嫌いはないと言った彼の前で、あれが嫌いだこれが嫌いだというのは、なんだか恥ずかしかったのだ。
「それなりか。言わないところがなんだか怪しいが、好き嫌いをするのは良くないぞ。しっかり食えよ」
「はーい。先輩を見習うようにしまーす」
そう言っては悪戯っぽく笑い、更に質問を続ける。
「じゃあ先輩、先輩の一番好きなものはなんですか?」
「好きなもの、か。……ふむ」
呟くように言い、真田は少し考え込む。
そして。
「――肉、だな。あと、なめこの味噌汁も好きだ」
彼は、とても真面目な顔でそんなことを言った。
その答えに、は思わず吹き出してしまった。
そんなの反応に、真田は少し焦りながら彼女を見る。
「な、なんだ。おかしいか?」
「いえ、そういうわけではないんですけど……なんか、肉っていう言い方が可愛いなって」
そう言って、は更にくすりと笑う。
その言い方もさることながら、肉という言い方のあまりの大雑把さと、逆になめこの味噌汁というピンポイント具合の対比が、なんだか妙にツボに嵌ってしまったのだ。
笑っているを見て恥ずかしくなったのか、真田が眉をひそめて、少し頬を染めた。
(わ、先輩こんな顔もするんだ。なんだか、ほんとに可愛いなあ)
厳格で大人っぽい雰囲気を持っているかと思えば、こんな一面も持ってるんだ――そう思いながら、は更に笑みを重ねた。
すると、彼は頬を染めたまま、心外そうに言葉を吐く。
「わ、分かりやすくていいだろう。大体だな、菓子全般が好きなどと子どもっぽいことを言っているお前に、可愛いと笑われたくはないぞ」
「あ、先輩ひどい! 子どもっぽくて悪かったですね」
そう言って、は頬を膨らませる。
「いや、前から少し思っていたのだが、お前は少々歳相応とはいえん子どもっぽさがあると思うが」
「う……先輩がちょっと大人っぽ過ぎるんですよ」
「……それはつまり、遠まわしに『老けている』と言っているのか?」
「そ、そんなことは言ってないです!! なんていうか、その、大人というか落ち着いた雰囲気というか……」
あたふたと焦りながら、は言う。
すると、また、真田がくすりと笑みを零した。
「あ。先輩、また、からかいましたね!?」
の言葉に、真田は視線を逸らしながらくすくす笑った。
「はは、やっと気付いたのか」
「もう……真田先輩!」
は、上目遣いで口を尖らせ、真田をにらみつける。
そんなを微笑ましそうに見つめながら、真田は頬を膨らませたの頭に、優しくぽんと叩くように手を置いた。
――そして。
「俺のことを笑ったお返しだ」
そう言って、彼は笑った。
彼の表情と、その大きな掌に思わずはどきりとしながらも、真田の表情がとても親し気で楽しそうなのを見て、嬉しさで勝手に頬が緩んだ。
そんなを見た真田もまた、くすりと笑う。
そして、真田とは顔を見合わせて、もう一度笑い合った。
――今のこの時が、心から楽しいと思った。
こんな会話やふざけ合いを彼と出来ることが、とても楽しくて、嬉しい。
は、この時間がずっと続けばいいのにと、思わずにはいられなかった。
◇◇◇◇◇
やがて、電車はいつもの駅へと到着した。
電車を降り、改札を出て、二人はバスターミナルへと入る。
真田は、バスターミナルの入り口で、「ここでいい」というを押し切って、彼女のバス乗り場の側まで着いて行った。
皆を代表して彼女を送ることになったのだから、最後まで見届けなければならないと思ったのだ。
――それに。
なんとなく、彼女ともう少し話していたいとも思った。
「……バス、もうすぐ来るみたいです」
バス停に貼ってある時刻表を確認しながら、彼女が言った。
「そうか」
「先輩、もうここでいいですよ。こんなところまで送って下さって、本当にありがとうございました」
そう言って、は笑う。
しかし真田は、その言葉に首を振った。
「いや、ここまで来たらお前がバスに乗るまで見届けてやるさ」
「いいですよ、もう充分です」
「気にするな。まあ、お前がこれ以上俺と一緒にいたくないから行ってくれと言うなら、ここで別れるが」
からかうように笑って、真田はを見る。
すると、彼女は目を見開いて、首を横に振った。
「そ、そんなことは絶対にないです! ないですけど……でも、先輩が遅くなっちゃうし……」
「いや、ここから俺の家までは、もうそんなにかからん」
「そうなんですか?」
「ああ。だから気にしなくていい」
真田は、そう言ってに優しく笑いかけた。
すると、彼女は申し訳なさそうにしながらも、にこりと笑い返す。
「じゃあ……もうちょっとだけ、お願いします」
「ああ」
そう言って、二人はバス停のベンチに腰掛ける。
もう時刻は七時を回っており、すっかり日は落ちていた。
とはいえ、周囲は人工的な光に照らされ、まだまだ明るかったのだが。
彼女と、どうでもいいような他愛のない会話を交わしながらバスを待っていると、やがて乗り場に一台のバスが入ってきた。
それを見た彼女が立ち上がるのを見て、真田もつられるように立ち上がる。
「あのバスか?」
「はい、あれです」
彼女が笑って頷いた。
――そうか。今日はもう、これでお別れなのか。
そう思うと、真田はほんの少しだけ、残念なような、どこか物足りないような感覚がした。
「先輩、ここまで付き合って下さって、本当にありがとうございました」
「いや、送ると言ったのは俺だからな。最後まで責任を持つのは当然だ。それに、今日一日お前は本当に頑張ってくれたから、その礼とでも思ってくれ」
「試合してた先輩達に比べれば、私なんか頑張ったって言っていいのかわかりませんけど……でも、そう言っていただけると嬉しいです。ありがとうございます」
は嬉しそうに言い、再度柔らかな笑みを浮かべる。
バス停の明かりに照らされた彼女のその表情に、真田はなんだか妙にどきりとして、思わず瞬きをした。
そうしているうちに、バスが止まりそのドアが開いた。
「……疲れただろう。今日はゆっくり休めよ」
「はい! 先輩も、気をつけて帰ってくださいね」
そう言うと、彼女は微笑みながら、バスの中へと吸い込まれるように入って行った。
思わず、真田はその姿を目で追いかける。
やがて端の席に落ち着いたらしい彼女が、窓の外に向かって笑顔で手を振っているのが見えた。
自分に対して振ってくれているのだと気づき、真田も笑みを零しながら、利き手を上げてそれに応えると、彼女は更に嬉しそうに手を振り返す。
(……本当に、子どもみたいなヤツだ)
そんなことを思っていると、バスのドアが閉まる音がした。
そしてそのまま、彼女を乗せたバスは行ってしまった。
一生懸命窓の外を覗き、最後までずっと手を振っていた彼女が見えなくなると、途端にとても静かになった気がした。
ここは駅前のバスターミナルで、周囲にはまだまだ人がたくさんいるというのに――何故か、とても静かになったと思ったのだ。
寂しいという感覚にも似ていたかもしれないその感情は、しばらく真田を支配して放さなかった。
そしてそのまま、彼女の乗ったバスが行った方向を、真田はじっと見つめていたのだった。