――すごい、すごすぎるよ。ウチのテニス部って、こんなに強かったんだ。
雲ひとつない、晴れた空の下。
ギャラリーの興奮が最高潮に達したテニスコートの脇で、はそんなことを思いながら、ただ一人唖然とした表情で目を見開いていた。
今日は全国中学生テニストーナメントの、神奈川県大会の日だ。
にとってはマネージャーになって初めての公式戦でもあり、数日前からずっと緊張が止まらなかった。
いつもあんなに練習しているのだから大丈夫だとは思いつつも、もし負けたらどうしようなどという不安が、始終心のどこかにあったのだ。
その緊張と不安が高まり過ぎたせいか、今朝はあまりにも早く目が覚めてしまい、は一時間以上も早く集合場所に着いてしまったほどだった。
しかしそんな不安は、一校目との試合が終わった今、すべて吹き飛んでしまっていた。
一校目との五試合は全て6−0のストレート勝ちで、試合内容も「圧倒的」という以外の言葉は見つからない。
なんというか、全てにおいてレベルが違うのだ。スピードも、パワーも、テクニックも。
つい思わず相手校の選手たちに同情してしまいたくなるほど、どの試合も本当に一方的だった。
ほとんどのポイントをこちらがサービスエースかリターンエースで決めてしまうため、全くラリーも続かない。
普段のレギュラー同士の練習試合の方がよっぽどレベルが高く、それに比べれば球筋も単純でスピードも遅いので、心配していたのスコア取りも、いつもよりもむしろ楽なくらいだ。
以前、真田と柳がバスの中で「県大会ぐらいのレベルならほぼ問題はない」と言っていたあの意味が、やっと解ったような気がした。
確かにこのレベルであれば、いつものレギュラーの複雑な試合を観続けてきた今の自分なら、充分漏れなくスコアを取ることが出来る。
そして、こんな調子であっという間に勝負は決まり、結局初戦の五試合全てを合計一時間半足らずで終わらせてしまったのだ。
その圧倒的な力と迫力に驚いたは、試合が終わって相手校との挨拶に入っても、呆気に取られたままコートをただぽかんと見つめていた。
そんなに、挨拶を終わらせてベンチに戻ってきた真田が不思議そうに声を掛ける。
「、どうした?」
その真田の声に、はやっと我に返る。
「……あ、いえ。いや、なんかすごいなーと……」
そう言うと、は真田を見上げ、言葉を続けた。
「本当に強いんですね、ウチって……」
が本気で驚いた様子でぱちぱちと瞬きを繰り返しているのを見て、真田はふっと微笑う。その時、後ろからやって来た切原や丸井が、けらけらと笑って口を挟んだ。
「、何今更当たり前のこと言ってんだよ。県大会なんて優勝して当たり前なんだから、心配すんなって言ったろ」
「おっ、赤也もたまにはいいこと言うじゃん」
そう言って、丸井は後ろから切原の頭を軽く小突く。その頭を抑えながら、切原は口を尖らせた。
「たまにはってのは余計っすよ」
「煩いぞ、お前ら。試合が終わったばかりだというのに騒ぐとは、たるんどる!」
切原と丸井のやり取りを聞いていた真田が、一喝を飛ばす。ふざけ合っていた丸井と切原は、一様に顔を引きつらせた。
「と、とにかくさ。県大会くれーで俺達が負けるわけがねーっての」
切原が苦笑しながらそう言うと、丸井も頷いて笑った。
「そーそー」
そう言って笑う二人は、とても自信に満ち溢れていた。
そのやりとりを聞いていた他のレギュラーたちもまた、彼らの言葉に何の疑問も反論も無さそうに微笑んでいる。
そして、真田が再度の方を向き、優しく笑った。
「。お前にとっては初めての公式戦で、不安に思うのも分からんでもないが、緊張し過ぎて気を病むような事はないようにな。丸井や赤也の言う通り、県大会如き優勝して当たり前だ。我が立海大が負けることなど、何が起ころうと絶対に有り得ない」
まだ県大会の一校目との試合が終わったばかりなのに、「優勝して当たり前」などと言ってしまえる彼ら。
普通の人間が言えば傲慢とも取れるような態度だったが、先ほどの試合を観てしまった今では、その言葉に無条件で納得してしまえる何かがあった。
「はいっ!」
にっこりと笑って、は真田の言葉に頷く。そんなを真田は満足そうに見つめると、彼も「うむ」と頷き、荷物を担いだ。そして、もまた荷物を持ち、コートを出て行く皆に続いた。
◇◇◇◇◇
一校目との試合が終わった後は、昼休憩だった。
しかし、試合が早く終わったおかげで時間にはとても余裕があり、弁当を食べ終えてもまだ時間が余ったので、は切原と他愛ないお喋りをして過ごしていた。
――その時。
「やっほー、二人ともお疲れ様!」
後ろから声を掛けられ、二人は同時に振り向く。すると、そこには笑顔で手を振るがいた。
「あ、! 来てたんだ!!」
「じゃん、いつ来たんだよ!」
と切原は嬉しそうにに声を掛け、彼女の元に駆け寄る。
「一時間くらい前かな。さっきの試合もちゃんと見てたよ」
「なんだよ、そんなに前から来てたんなら、声掛けてくれよ。気付かなかったじゃん」
「そうだよ、お弁当も一緒に食べれば良かったのに」
とても残念そうに言う切原とに、は苦笑して手を合わせた。
「ごめんごめん。でもやっぱ試合中は話し掛けにくいし、邪魔したくないじゃん。昼ごはんは私食べて来ちゃったしさ。でも試合はしっかり観てたから、それで許して」
そう言うと、は気を取り直して、に笑いかけた。
「それにしても、しっかりマネージャーの仕事やってたね。私安心したよ」
「そ、そっかな……」
「うん、結構堂々としたもんだなーと思って見てた。ドリンク準備する姿とか、スコア取ってる姿とか、すっごく様になってたよ」
「わ、ほんと? ありがとう!」
とは、そう言って楽しそうに笑い合う。すると隣にいた切原が、頭の後ろで手を組みながら口を挟んだ。
「なんだよ、。のことばっかり? 俺がカッコよく試合してたとこは見ててくんなかったわけ?」
そう言って、少しつまらなそうに切原は口を尖らせる。
そんな彼に苦笑し、はなだめるように声を掛けた。
「ちゃんと見てたってば、赤也君もかっこよかったよ」
「ほんとかよ?」
「ホントだってば。やっぱ、すごく強いよね。はっきり言って相手の人とレベル違い過ぎだったもん」
「へへ、サンキュ」
の言葉を聞いた途端、先ほどまでむっとしていた切原の表情が、ぱっとほころんだ。
まるで小さな小学生の子みたいだなと思いながらも、は彼の嬉しそうな顔を見て、微笑ましそうに表情を緩める。
(……私、席外した方がいいよね)
彼との「あの約束」を思い出し、はわざとらしく「あっ!」と声をあげた。
「ごめん、、切原君。私、先輩に聞きたいことがあるの思い出しちゃった。ちょっと行ってくるね」
「あ、そうなんだ。大変だね、」
「ううん、そんなことないよ。ごめんね、!」
そう言ってにぱちんと手を合わせると、彼女は「気にしないで」と笑った。
そのままは、切原に視線を移す。するとと目が合った切原は、とても嬉しそうに笑いながら、に気付かれないようにそっと口を開いた。
(さ・ん・きゅ!)
声には出さずに口の動きだけでそう言うと、彼はまたにっこりと笑う。
はふふっと笑って切原に手を振り、その場を後にした。
◇◇◇◇◇
しかし、にああは言ったものの、勿論それは彼らを二人きりにするためのただの方便だった。実際のところは何の用事もない。
(どうしようかな……)
携帯を取り出し、今の時間を確認する。次の試合までは時間もまだまだありそうだ。
仕方がないので少し散歩でもしようかと、は適当に試合会場の中を歩き回ることにした。
丁度昼休憩時ということで、あちらこちらでいろいろなジャージ姿の生徒達がお昼ご飯を食べている。
たくさんの学校が参加しているんだなあ、などと思いながら、は特に当ても無くふらふらと歩いていた。
――すると。
「じゃないか、何をしているんだ?」
ふいに名前を呼ばれて、は声がした方に反射的に顔を向ける。
向けた視線の先に居たのは、柳と――そして真田だった。
二人は、ベンチに座って柳が手にしているクリップボードを覗き込みながら、何やら話をしている最中のようだ。突然目にした真田の姿に、少しだけの脈が早まる。
「あ、先輩達」
ドキドキしている心臓を落ち着かせるように息を吐き、は手を振る。
「別に、何かしてるってわけじゃないんですけど。暇だったので、散歩でもしようかなって」
そう言いながら、は小走りで二人の元に近寄った。
「先輩達は、何をしてるんですか?」
近づいてきたがそう問いかけると、真田が口を開いた。
「先ほどの試合内容の確認と、次の試合のオーダーの確認だ」
「あ、じゃあ私お邪魔しちゃ悪いですよね」
の言葉に、今度は柳がふっと笑って答えた。
「気にするな、今終わったところだ」
そう言うと、柳はクリップボードを手にしたまま立ち上がって、言葉を続けた。
「暇をしているのか? 先ほど、お前の友達――だったか、あの子が来ているのを見たが」
「あ、はい。ついさっき会いました」
柳の言葉に、は頷く。
「そうか。はもう帰ったのか?」
「いえ、まだいますよ」
が首を振って柳に答えると、たちのやり取りを聞いていた真田が、不思議そうに顔を上げた。
「なら、のところへ行かなくていいのか?」
その問いに、は言葉を詰まらせる。
まさか、切原と彼女が二人きりで話しているのを邪魔したくない、とは言えない。そんなことを言えば、切原の恋心を彼らに喋ってしまうようなものだ。
しかしそれに代わるいい言い訳も見つからず、は苦笑してその場をごまかそうとする。
「えっと、あの、さっき話しましたし」
「時間ならまだあるのだし、もう少しゆっくり話をしていてもいいぞ」
「え、ええ、そうですね……でも、ちょっと都合が悪いっていうか……その」
歯切れの悪い言葉を吐きながら、は苦笑を重ねる。
少し困ったようなの様子を、真田は座ったまま不思議そうに見上げた。
その時――そんな二人の様子をじっと見つめていた柳が、ふいに口を開いた。
「弦一郎、。話の途中で悪いんだが」
「ん? どうした、蓮二」
「用事を思い出したので、席を外させてもらうよ。すまないが、これを預かっていて貰えるか」
そう言うと、柳は持っていたクリップボードをに差し出した。反射的にそれを受け取りながらも、いきなりの彼の行動に、は驚きを露にする。
「は、はい、それは構いませんけど……」
「では頼む。それではまた集合時間に会おう」
そう言い残して、柳はそのまま歩いて行ってしまった。
「……いきなりどうしたというんだ、あいつは」
真田の呟きが聴こえて、は彼の方をちらりと見る。今更ながら、彼と二人っきりになったことに気付いて、ほんの少しだけ焦りを感じ始めた。
「あの、すみません。私、なんか邪魔しちゃったんじゃないですか?」
「いや、話はもう終わっていたから、気にしなくていい」
「そうですか、ならいいんですけど」
心の中の焦りをごまかすように、は笑う。すると、そんなを見た真田が、無言でふっと笑った。途端、の心臓がどくんと鳴る。
(……え、えっと、なんか話……)
少しでも沈黙するのがなんだか気まずくて、は話題を探した。
その時、柳から受け取ったクリップボードに気付いて、そのボードに挟み込まれていた紙をちらりと覗く。
それには今日の全ての試合のオーダーが、とても綺麗な字で書き込まれていた。
「これ、今日のオーダー表ですよね」
そう言いながら、はオーダー表をまじまじと見つめる。すると、次の試合のオーダーが、さきほどの試合のオーダーとは全く違うことに気付いた。しかも、真田の名前が、何故かダブルス1の欄にある。
「……あれ。先輩、次はダブルスなんですか?」
「ん、俺か? ああ、次の試合はダブルスに出る」
「先輩がダブルスって、珍しいですね。あ、しかもシングルスの方に桑原先輩と丸井先輩の名前がある……」
真田がダブルスの練習をしているところは見たことがないし、丸井や桑原も練習の半分以上がダブルス練習で、シングルスの練習はほとんど行っていないような気がする。
なのに、どうしてこんなオーダーになっているのだろう。
「シングルスとダブルスって、皆さん固定なんだと思ってました。こんなふうに入れ替えちゃってもいいんですか?」
シングルスとダブルスでは、全く勝手が違う。
毎日読んでいるあのテニスの本に、そう書かれていたような気がするのだけど――そんなことを思って、は首を捻る。
「そうだな。まあ、俺たちの場合は皆それぞれある程度両方できる力はあるが、ダブルスが得意なメンバーとシングルスが得意なメンバーがいるのは確かだ。だからそれぞれ得意な分野で固定する方がいいとは言えるかもしれん。しかし、県大会程度で完全にシングルスとダブルスを固定してしまうと、いろいろと不都合もあるのでな」
「不都合?」
「ああ。固定にしてしまうと、シングルス1と2に当たっている者は、一校目の試合以外は全く出番なしで終わってしまうだろう? 県大会如きでは誰と当たろうと肩慣らしにもならんが、公式試合の雰囲気に慣れておくことは大切だからな。シングルスとダブルスという枠組みに拘らず、全員均等に試合に出ることを優先したんだ」
(――あ、そっか。次の学校からは、三試合勝ったらそこで終わりなんだ)
勝ち負けに関わらず五試合全てが行われるのは緒戦だけで、次からは三勝した時点でその学校との対戦は終わってしまう。つまり、彼らはダブルス二試合とシングルス一試合で確実に決め、シングルス二試合は試合が行われないという前提でオーダーを組んでいるのだ。
勿論、それは誰がどの試合に出ても必ず勝てるという確信があるからこそ、出来ることなのだろう。
すごい自信だと思いながらも、彼らの実力なら確かにその通りになるだろうと、は納得する。
あらためて立海テニス部の実力と自信を感じ、感嘆の息を吐いた。
「どうかしたか?」
「いえ、なんか……ウチって、本当にすごいんだなあって思って」
心から感心しながら、そんな言葉を呟く。その言葉に、真田は苦笑する。
「お前は朝からそればかりだな」
「だって、本当にそう思うんですもん。先輩達、すごすぎですよ」
そんなの言葉を耳にした真田は、目を細めながら、口の端でふっと笑う。
その表情にどきっとして、は思わず目を伏せて、言葉を続けた。
「あ、そ、そういえば、次は真田先輩ダブルスなんですよね。先輩のダブルスって初めて見るから、ちょっと楽しみかもです」
「ん? そうか?」
「はい、シングルスは何度か見せてもらいましたけど、ダブルスは初めてなので! シングルスとダブルスじゃ、プレイの仕方も変わってくるんでしょう? いつもとは違う先輩のプレイが見れそうで、とっても楽しみです」
そう言って、は笑う。
――しかし。
真田の返事が、すぐに返ってこなかった。どうしたのかと思い、が真田の顔を見上げると、彼は目を瞬かせてから視線を逸らしてしまっていた。
何かまずいことを言ってしまったのだろうかと焦りながら、は慌てて口を開く。
「あ、も、勿論真面目にスコアは取りますから! ごめんなさい、大切な大会なのに楽しみだなんて、不謹慎ですよね」
そう言って、は表情を曇らせる。
すると、今度は真田が慌ててに視線を戻し、焦り気味に言った。
「い、いや、そんなことはないぞ。すまない、違うんだ」
そう言うと、真田は小さな咳払いをして、言葉を続けた。
「人のプレイを見て楽しいと思えるようになったのなら、それは良いことだ。お前がテニスのことを解ってきた証拠だろう」
その真田の言葉に、は胸を高鳴らせる。
「そ、そうなんでしょうか……なら、もっと楽しんでもいいのかな」
彼の言葉が嬉しくて、自分でも何を言っているのかよく分からないまま、そんな言葉を吐く。
すると彼は、微笑ましそうに頷いた。
「ああ、どんどん楽しむといい」
そう言って笑った彼に、はまたドキドキしながら、笑って頷いた。