体操着に着替え終わり再度戻ってきたは、閉ざされた部室のドアの前で立ち止まると、深く深呼吸をした。どんどん高まっていく緊張感を抑えるように掌をぎゅっと握って気合を入れ、そのままその拳で部室のドアを叩く。
「はいよー鍵空いてんぜ!」
中から聞こえて来たのは、聞き慣れた切原の声だ。ほんの少し、はほっとする。
「あの、です」
ドア越しにが名乗ると、中からまた、彼の声が返ってきた。
「あ、か! もう全員着替えてっから、入ってこいよ!!」
「う、うん……それじゃ、失礼します」
返事を確認して、はゆっくりドアを開けた。
その途端、中にいた全ての者の視線がに突き刺さる。彼らの視線を感じた瞬間、痛いくらい胸がどくんと鳴ったが、はそれをぐっと抑えて部室に足を踏み入れた。
中にいたのは、全部で七人だった。皆、昨日の練習試合で見た記憶がある。
それにしても、皆なんて背が高いのだろう。クラスではそこそこ背が高い方な切原ですら、小さく見えてしまうほどだ。
切原の隣にいる赤毛の人が切原より少し低いけれど、おそらく周りが高いから低く見えるだけのような気がする。
それに、みんな迫力というか、威圧感が半端ではない。真田一人でもかなりの迫力を感じていたのに、それが七人もいるのだ。
は完全に圧倒され、固まってしまった。
「みんな、彼女が先ほど話した新しいマネージャーだ」
そう言って、真田が一歩前に出る。
「赤也と同じクラスのだ。赤也の紹介で、今日からマネージャーとして練習に参加してもらうことになった。まだまだわからないことばかりだろうから、いろいろ教えてやってくれ」
真田の紹介に続いて、は口を開いた。
「切原君と同じ、2年D組のです。あの、初めてなことばかりなんですが、精一杯頑張りますので、よろしくお願いします!」
緊張でがちがちの声でなんとかそう言い切ると、は頭を下げた。なんとか言えたと、少しホッとして胸をなでおろす。そして、大きく息を吐いてから、は顔を上げた。
「、部活を始める前に、先にレギュラーを紹介しておく。他の部員にもあとで紹介するが、レギュラーと関わることの方が多いだろうからな」
そう前置きをして、真田は部室にいる人間を簡単に紹介し始めた。
一番端にいる柳蓮二から始まり、柳生比呂士、仁王雅治、ジャッカル桑原、丸井ブン太。一人一人の名前とクラスを簡単に言うと、最後に彼は切原のほうを向いた。
「切原赤也――現レギュラーの中で唯一の二年だ。まあ赤也こいつのことは、紹介は不要だな。そして俺を加えた七人が、現在のレギュラーだ。早めに覚えてくれ」
紹介された彼らの顔をぐるりと見渡し、はもう一度彼らに「よろしくお願いします!」と勢いよくお辞儀をする。すると、彼らは口々に返事をした。
「ああ、こちらこそ、よろしく頼む」
「シクヨロ!」
「よろしくお願いします」
「よろしく頼むぜよ」
「ありがとな、世話になるぜ」
「頼むぜ!」
どれも、優しくてあたたかい返事だった。
良かった、どうやらいい人たちばかりみたいだ。これなら馴染めるかもしれない――そう思って、の心がまた少し軽くなる。
「……よし。では、紹介はこれくらいにするか。それでは、お前達は先にアップを済ませ、他の者を連れていつものコースでロードワークに行ってくれ。俺もに最初の仕事を教えた後、すぐに追いかける」
真田がそう言うと、部室の中にいたレギュラーたちは、それぞれ軽い調子で返事をして動き出す。
やがて全員が部室を出て行き、その場にはと真田の二人だけが残された。
一体、最初の仕事は何だろう。
期待と不安でドキドキする胸を、は利き手でぎゅっと抑えた。
「……さて、。早速始めるとしよう。こちらに来てくれ」
「はい!」
真田の言葉に威勢良く返事をして、は彼の側に駆け寄る。
「マネージャーの仕事は多岐に渡る。ドリンクやタオルの準備、部室の掃除、練習や試合時のスコア付け、備品の管理や手配、練習補助、遠征準備など、上げればきりがない。しかし、すぐに全てやれとは言わん。少しずつでいい、徐々にやれるようになってくれ」
そう前置きし、真田は部室の隅に置いてあった大きなクーラーボックス二つと、大き目のバケツ位のサイズの円柱状のジャグタンクを手に取った。更にいったん部室の外に出ると、部員のものと思われるドリンクボトルがたくさん無造作に入っているコンテナケースを部室の中に運び入れ、それを足元に置く。
「まずは、ドリンク準備だ。これから毎日、練習が始まったら一番にやってもらう仕事になる」
そう言って、真田はにドリンク準備の手順を教え始めた。
練習は、ストレッチなどでアップを済ませた後、まずロードワークに入るという。だいたい三十分ほどで戻ってくるので、その間に必ず水分補給用のスポーツドリンクを準備し、クーラーボックスに入れた上でコートの側に置いておいて欲しいということだった。
スポーツドリンクは必ず同量程度の水で薄めること。朝練中、もし朝練が無い場合は昼休みが終わるまでの間に、必ず放課後の部活に使う分のスポーツドリンクと水を部室の冷蔵庫に入れて冷やしておくこと。
そんな次々と飛んでくる説明を、は手持ちのメモに早書きする。
ドリンク準備と一口に言っても、どうやら決して単純な仕事ではなさそうだ。
「ドリンクって、ただスポーツドリンクをボトルに入れたらいいってものじゃないんですね」
「勿論だ。水分補給は命にも関わる、とても大切な仕事だ。抜かりないように頼む」
呟くように言ったの言葉に応えながら、真田はてきぱきと動いて必要なものを揃えると、それらを机の上に置いた。
「冷やす前のスポーツドリンクと水は、隣の第二部室にある備品置き場に置いてある。数が減ってきたらこれも発注してもらわなければならないが、それはまた後ほど教える」
「はい!」
「うむ、では実際にやってみるか。手順自体は単純作業で、全く難しいことではない」
そう言うと、真田は、の見ている側で実際にやってみせ始めた。
タンクの蓋を開け、中にスポーツドリンクと水を交互に入れる。それをタンクいっぱいになるまで繰り返すと、タンクのコックを捻って空のボトルに液体を満杯まで入れ、ボトルのキャップをきつく締めた。
「これで一本完成だ。後は同じことを繰り返せばいい。では、やってみてくれ。ああ、まだタンクにドリンクが残っているから、ボトルに入れるところからでいいぞ」
「はい」
が返事をすると、真田が一歩下がり、場所を空けた。その場所に入り、はボトルを手にとって真田がやったように満杯まで入れ、蓋をきつく締める。
「よし。タンクの中身が無くなったら、俺が今したようにして補充すればいい。空のボトルは練習が始まる前に、部員が各自部室の外に置いたコンテナの中に突っ込んでおくことになっている。コンテナに入っているボトルには全てドリンクを準備してくれ。レギュラーだけでなく一般部員の分もあるので、急がねば帰ってくるまでに間に合わないので注意して欲しい。それから、ドリンクと一緒に全員の分のタオルもコート側のベンチの上に積んでおいて貰いたい。タオルの保管場所は……」
休む間もなく、真田は早口で説明を続けた。その言葉を、は一字一句漏らさぬようにメモに取る。
「……以上だ、ドリンクに関して、他に聞きたいことはないか」
「はい、大丈夫です」
「それでは、後のことはまた戻ってきたら指示する。頼むぞ。……では、俺もロードワークに行ってくる」
そう言って、真田は屈んで靴の紐を結び直すと、そのまま部室を後にした。その後姿を見送って、はタンクやボトルの山と向き合う。
「よぉし、やるぞ!!」
気合を入れるように大声で叫び、腕まくりをすると、はボトルの山に手を出した。
――やがて、同じ作業を延々と繰り返し、はドリンクを詰める作業を終えた。
次は、これをコートまで運び出す作業だ。は、試しにボトルを入れたクーラーボックスのうちのひとつに、手を掛けてみた。
しかし、ボックスの蓋がきちんと閉まらないほどにボトルを詰め込んだクーラーボックスの重さは尋常ではなく、持ち上げようとしてもびくともしない。
どうやら、そのまま持ち出すのは不可能そうだ。
仕方なく、は数を減らして何度も往復する方法を取ることにした。
最初と二回目は、持てるだけの重さまでボトルを詰めたクーラーボックスを一つずつ運び、それ以降は先程ボックスに入れられなかったボトルを手で持てるだけ持った。紐のついているボトルは両肩に鈴なりに掛け、腕の中にも抱えるようにして幾つか持ち、運ぶ。それを何度も繰り返した。
そして、やっと全員分のボトルをコートの側に運び終えた時には、は思わずコートの中で座り込んでしまった。
(つ、疲れた……)
ドリンクをボトルに入れている時は、思ったより大変でもないかもしれないと思ったが、運ぶのがかなりの重労働だ。
往復回数を減らすために途中から一回に持ち運ぶ量を増やしてみたが、その分体に掛かる負担が増え、疲れもより増したかもしれない。
(やっぱり、簡単な仕事じゃないなあ)
そう思って大きな溜息をついたが、すぐにそんな弱音を振り払うように顔をぐっと空に向ける。
――簡単な仕事じゃないなんて、当たり前のことじゃないか。大変だとわかっていて引き受けたと、真田に大見得を切ったのは、一体誰だ。
は、甘いことを考えた自分を心の中で叱咤した。
「よっし、頑張るぞー!!」
自分を奮い立たせるように叫び、ぎゅっと両手で拳を作って立ち上がったその時――遠くに、テニス部の集団の姿が見えた。ロードワークに行っていた部員達が戻ってきたのだ。
タオルの準備をまだしていなかったので、は慌てて部室に戻り、タオルを抱える。
タオルは軽いから、どうやら一度で行けそうだった。
そして、がタオルの山をベンチに置いたのと、先頭の集団がコートに戻ってきたのは、ほぼ同時だった。
(よ、良かったー!!)
ほっとしては胸を撫で下ろしながら、戻って来た部員たちを迎えようと彼らの方を向く。
しかし、その瞬間目にした姿に、は驚きの余り目を見開いて動きを止めた。
一番に戻って来た先頭集団の正に先頭に、最後に出たはずの真田がいたのだ。
(あれ、先輩少なくとも五分以上は……下手したら十分くらいは遅れて出たよね? なのに、先に行ったみんなに追いついたの!?)
そんなことを思いながらが立ち尽くしていると、部員たちがクーラーボックスやタオルの周りに群がり始めた。
「どうしたんだ、変な顔して」
声を掛けられて、はその声の主の方に顔を向ける。そこには、一足早くクーラーボックスから自分のボトルを取り出し、口をつけている切原がいた。
「うん、真田先輩、大分遅れて出たのに、みんなに追いついたんだなぁって思って……」
「ああ、せいぜい五分とか十分くらいだろ? あの人なら、そんなの訳ねぇよ。……ま、レギュラークラスなら、全員それくらいのハンデは軽く追いつけると思うけどな」
勿論俺だって余裕だぜ、と笑いながら、切原はタオルを取りに行った。
その姿は、いつも教室でふざけている切原からは感じられないほど力強くて、はこの部のレギュラー達の能力の高さを、まじまじと感じさせられたような気がした。
「準備は間に合ったようだな、ご苦労だった」
今度は、片手にボトルを持った真田がやって来た。少しどきりとしたが、平静を装っては答える。
「ドリンクはなんとか……。でも、タオルがぎりぎりでした」
「そうか。ならばもう少し早くやれんと、後々困るな。仕事はこれだけではない。準備を早く済ませれば、それだけ次の仕事に余裕も出てくる」
「そうですよね。手際が、悪いんだろうなあ……」
呟くように言って、は自分の手をじっと見つめる。
頑張ったつもりだが、やはりまだまだ頑張りが足りないのだろう。
そんなをちらっと見やり、真田が口を開いた。
「……慣れれば速度も上がるだろう。間に合ったのだし、初日でこれくらいなら充分及第点だ。あまり気にするな」
そう言って、彼はボトルに口をつける。
――もしかして今の言葉は、気遣ってくれたのだろうか。
「あ、ありがとうございます。頑張ります」
「ああ。お前がこの作業をしてくれたおかげで、今日本当ならその作業に当たっていた者たちがロードワークに集中できた。ありがとう。マネージャーがいない時は、ドリンク担当に当たっていた者はロードワークに出られなかったからな。やはり、しっかりやってくれるのであれば、マネージャーの存在はありがたいものだ」
そう言って、彼はふっと笑った。
その言葉と表情に、思わずはぎゅっと心臓を掴まれたような気がして、脈が急速に速くなる。
(私が、役に立ったんだ……)
作業は大変だったけれど、こんな風にありがとうと言ってもらえるなんて――。
なんだか、嬉しくてしょうがなくて、心臓の速度がどんどん増していく。
思わず辺りを見渡してみると、他の皆も自分の用意したドリンクやタオルを、ありがたそうに使ってくれていた。
ああ、これがマネージャーという仕事の醍醐味なのだろう。
自分が試合をしたり記録を残したりするわけではなくても、自分のしたことで他人を支え、その役に立てる。それは、もしかしたらものすごく素晴らしい仕事なのではないだろうか。
(よぉし、頑張るぞー!!)
は、心の中で思い切り叫んだ。
いくらでも何の仕事でも、やり遂げてやろう。皆に喜んでもらえる、素晴らしいマネージャーになろう。
そう強く決意しながら、はもう一度真田を見上げる。彼は、とても豪快にドリンクを飲んでいた。
すると、ふと、ある疑問が湧いた。
(味……大丈夫、なのかな。変な味とかしてないかな)
そんなことを思って、は更にじっと彼を見つめる。
普通に飲んでいるみたいだから、大丈夫なんだろうか。いや、この様子だけでは、大丈夫だという確証も持てない。
は、真田や他の部員達の表情を窺うように、きょろきょろと首を動かして辺りを見渡す。
すると、それに気付いた真田が、不思議そうな表情で尋ねてきた。
「どうした?」
「い、いえあの……。中身、大丈夫かなと……味とか……」
そう言って、また落ち着かないようにきょろきょろし始めるに、真田は一瞬ぽかんとした表情をした。
「……味? 味とは?」
「そのドリンクの味です。……変な味とか、してませんか?」
不安そうに呟き、は表情を曇らせる。
「いや、いつもと変わりはないが」
「本当ですか?」
「ああ」
真田が答えると、の表情が安心したように緩んだ。
しかし、真田は質問の意味がいまいちわからなかったようだ。不思議そうな顔で、彼は呟いた。
「ドリンクの味など、気になるものか? おかしな奴だな」
「でも、普段と違ったら嫌じゃないですか? しかも、味がちょっと違うくらいならまだしも、もし不味かったりしたら最悪じゃないですか。ヘタしたら練習に響きそうですし」
そんな彼女の言葉に、真田は二、三度瞬きをする。そして、ふむ、と感心したように声を上げた。
「確かに、それはそうかもしれんが……」
「でしょう? マネージャーが練習に響くようなことしてちゃ、本末転倒じゃないですか。だから、ちょっと気になっちゃったんです。けど……大丈夫なんですね、ほっとしました」
そう言って、は安心したように頬を緩めた。
すると、どうやら本気で安堵しているらしいがおかしいのか、真田は、ははっと声を上げて笑う。
「しかし、ただ単に水で薄めるだけの作業を失敗して、味を変な風に変えてしまう奴など、そうそういないだろう」
真田の言葉に、は「あっ」と小さな声を上げる。そして、思わず赤くなりながら、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「そ、そっか……失敗する方が珍しいかもしれませんね……あはは、変なこと言ってすみません」
恥ずかしいことを言ってしまったと、は頭を垂れる。
真田はそんなを見つめながら笑みを浮かべて、またドリンクのボトルに口をつけた。
「あの、先輩、次は何をすればいいでしょうか」
「そうだな……まだボトルとタオルにありつけていない奴に、配ってやってくれ。名前が書いてあるはずだから、呼べば持ち主が手くらい挙げるだろう」
「はい!」
元気よく返事をし、はクーラーボックスに一目散に向かっていく。
そして、早速言われた通りにボトルを手にすると、大きな声でその名を呼び始めた。
それと入れ替わるように柳がやって来て、真田に問い掛ける。
「弦一郎、と何を話していたんだ?」
「……少し、ドリンクの味の話をな」
そう言って、真田はくくっと笑う。
「ドリンクの味?」
「ああ、ドリンクの味の話だ。味は大丈夫だったのかと尋ねられた」
「……何かおかしかったか? 俺は別におかしくは無かったと思うが」
「ああ、俺もいつもと同じだと思ったさ。しかし、そんな疑問、普通は持たないと思わないか?」
先ほどのやり取りを思い出すと、真田はまた笑みが零れた。
ドリンクの味など、気にする者など今までいただろうか。大体、失敗する方が珍しいような単純作業で、普通の者なら「失敗しているかもしれない」などと思うことすらないだろうに。
「そんなことを気にするということは、頑張りたいと思う気持ちが余程強くて、作業をこなすだけでは満足できずいろいろ考えてしまうからなのか、それともただの馬鹿か――。蓮二、一体どちらだと思う?」
そんなことを口にしながら、面白そうに真田は笑う。そんな真田につられてか、柳もくくっと笑った。
真田と柳は一度顔を見合わせてから、どちらからともなくを見た。
彼女は、笑顔で一人一人に「新しく入ったマネージャーのです。よろしくお願いします」と挨拶をしながら、手にしたボトルとタオルを配っている。
「なかなか、良さそうな子じゃないか」
そう言って柳が笑う。
「……うむ」
真田は、それに満足そうに頷いた。