夢を、見た。
真田先輩が、テニスコートで試合をしている夢。
私は、その姿を傍でじっと見ている。
――そして。
試合が終わって、真田先輩がこっちを向き、ふっと口元を緩めて優しく笑いかけてくれた――ところで目が覚めた。
「……うわっ!?」
叫びながらベッドから飛び起き、はパジャマ姿のまま頭を抱えた。
(なんで!? ……さ、真田先輩の……夢……なんか)
先ほどの夢を頭の中で繰り返すと、途端に脈が急激に速度を上げた。
一体何だというのだろう、あの夢は。
(昨日初めて会ったばかりの人の、しかもあんな夢、見ないでよ……もう!!)
まるで、本当に彼に一目惚れしたみたいじゃないか。
そう思って恥ずかしくなり、思わず自分の頬に両手を当てる。頬は熱を帯びていた。
「そんなんじゃないのに……」
一人きりの部屋で、は誰かに言い訳するように呟くと、恥ずかしさをごまかすようにまた頭から布団を被った。
――その時。
「、そろそろ起きなさい! 学校遅刻するわよ!」
階下から母の声が聞こえて、は我に返る。
「は、はぁい!」
慌てて返事をして、はベッドから飛び降りた。
の家から学校までは、バスに乗る時間も含めて一時間から一時間半ほどといったところだ。
今日は「変な夢」を見たせいで家を出るのが少し遅れてしまったけれど、バス停まで全力で走ったおかげで、その遅れはなんとか取り戻すことができ、いつもの時間のバスに乗れた。
いつもの時間、いつものようにバスに揺られ、いつものように八時過ぎに学校に着く。
そして、いつものように校門を潜り、いつものように教室に入る。……はずだった。
しかし、今日はその「いつも通り」が微妙に崩れた。
教室に入る直前、廊下の窓から見えた「あるもの」に気付いて、思わず足を止めてしまったのだ。
廊下の窓から見えるグラウンドでは、いくつかの運動部が朝練をしている。
それはとてもありふれた、何気ない朝の風景だ。今までなら、気に留めることなどなかっただろう。
ただ今日は、その運動部の中にテニス部が――昨日からの心に居座って離れない彼の人がいたことに、は気がついてしまったのだ。
(すごいな、あの人。朝からあんなに……)
基礎体力をつける為だろうか。
今日はラケットを持たず、ただひたすらに走り込みをしているようだ。
何度も何度も、同じコースをひたむきに走っている彼を、はいつの間にか無意識に目で追ってしまっていた。
昨日の試合を、もう一度脳裏に思い出す。
あれだけのプレイができるのは、こうやっていつも努力を重ねているからこそなのだろう。
きっとそれは彼だけでなくて、テニス部に入っている人たち皆そうなのだろうけれど。
(部活、かあ……)
は、いわゆる帰宅部だった。
最初から部活に入らないと決めていたわけではなかったけれど、運動系の部活は自分に入れる気がしなかったし、文化系の部活もこれといって入りたいと思うものがなかったのだ。
入学して少し経ってから仲良くなった同じクラスのが、美術部に入っていると知ったとき、少し心動かされはしたけれど――それでも結局、が部活には入らなかったのは、通学時間が大きな理由だった。
近所の公立小学校に通っていた小学校時代は、歩いてせいぜい十分もかからない程度だった通学時間が、中学受験をし私立の立海大附属中学に来たことで、一時間以上にまで膨れ上がるようになった。バスの乗り継ぎが上手くいかなければ、一時間半を上回ることだってある。
その通学時間が、入学したばかりの頃は、多少なりとも苦痛に感じたのだ。
通学に時間は掛かっても、部活動をしなければ、家に着く時間は格段に早い。
だからは、部活に入ることより早く家に帰ることを優先したのだった。
しかし、こうやって全力で部活に取り組んでいる真田や、テニス部員達を見ていると、その選択は少々勿体無かったのかもしれないと思う自分がいる。
きっと彼らは、一生懸命部活をすることで、多くのものが得られているのだろう。
そして、この限られた中学三年間で、たくさんのかけがえのない何かを残すことが出来るのだろう。
それはきっと、のらりくらりと家と学校の往復だけを繰り返して、「いつも通り」な毎日を過ごしている自分には、決して手の届かないものに違いないのだ。
は、心のどこかで、彼らを羨ましいと思った。
(私も、今からでも何か部活動しよっかな……)
まだ二年になったばかりなのだし、今からでも遅くはないかもしれない。
そんなことを思いながら、は尚もテニス部の――彼の様子をぼうっと見つめていた、その時だった。
「おはよう、!」
背後からとても元気のいい声が聞こえて、はものすごい勢いで顔をそちらに向ける。
振り向いた視線の先には、にこやかに微笑み、片手を上げたがいた。
「あ、お、おはよう!」
窓の外を――テニス部を見ていたことを、に気付かれなかっただろうか。
内心ドキドキしながらも、いつも通りを装いつつ、慌てては窓から離れる。
しかし、やはりの目には、の態度は不自然に映ったようだ。
ぽかんとした目をぱちぱちと瞬かせ、はを見つめる。
「どうしたの、。慌てて」
「慌ててなんてないよ、いきなりの声がしたからびっくりしただけ」
その場を取り繕うように、は笑う。
しかし、はの様子に何か引っかかりを感じるのか、その顔をじっと見つめてきた。
「……なーんか怪しいんだけど」
怪しそうに目を細める、の視線が突き刺さる。
は、その視線がいつ自分の背後の窓の外の風景に向けられて、彼女がテニス部に、そしてあの彼の姿に気付くかと思うと、内心とても冷や冷やした。
気付かれたら、またきっと昨日のようにからかわれるに違いない。その前に、なんとか彼女を教室の中に入れなければ。
は、の手を取った。
「そんなことないってば。朝から疑り深いね、は。さ、教室入ろ!」
明るく言うと、は彼女の手を引いて、そのまま教室に入ろうとした。
――すると。
「、、おはよーさん! 昨日はありがとなっ!」
入ろうとした教室の中から聞き覚えのある声が聞こえて、思わず目を向ける。
そこには、自分の机――椅子ではなく、文字通り「机」の上に座り、子どものような笑顔で手を振っている切原の姿があった。
「切原君、おはよ〜!」
より一足早く、が笑顔で挨拶を返す。遅れて、も挨拶をした。
「おはよ、切原君」
しかし、そう言ってすぐ、はあることに気付く。
どうして切原が――テニス部員の彼が、既に教室にいるのだろう。 朝練ではないのだろうか。
そう思ったは、先ほどまで見ていた廊下の窓の外に、再度視線をやった。
やはりまだ、テニス部は朝練をしている。
「切原君……テニス部朝練やってるよ? いいの?」
廊下の窓を指差しながら、は彼に尋ねた。
「ん? ああ、いいのいいの。ちょっと寝坊しちまってさ。途中から行ったら副部長に怒られっから、今日はサボリ」
いつの間にか机から降りていた切原は、そう言ってケラケラ笑った。
すると、が身を乗り出し、彼の「副部長」という言葉に反応する。
「副部長って、確か真田先輩だよね。昨日が熱心に見つめてた……」
は、そう言うとからかうような笑みを浮かべ、を見た。
「も、もう、!!」
思わずドキッとして、は慌てて声を荒げる。
しかし、に同調するように、切原もまたを囃し立てた。
「そーそー。昨日がヒ・ト・メ・ボ・レしちゃった真田センパイ、ね」
そう言って、二人は顔を見合わせて悪戯っぽく笑った。
切原に「一目惚れ」を強調され、の顔がかあっと熱くなる。
「もう、そんなんじゃないって言ってるのに!」
思わず、必死な表情では叫んだ。
しかし、切原は怯むことなくにやりと不敵な笑みを浮かべて、の顔をじっと覗き込む。
そして。
「……でもさあ、さっきずっとテニス部が練習してるとこ見てたよな?」
――彼がそう言った瞬間、の胸がどくんと跳ねた。
(見られてた!?)
よりによって、切原に見られていたとは。
困惑したが返答に詰まっていると、もまた興味津々で顔を覗き込んできた。
「そうなの、?」
「えっと、あの、そんなんじゃなくて、たまたま、目に入ったっていうか……」
しどろもどろになりながら、それでも何か良い言い訳はないかと言葉を探す。
そんなに、切原が追い討ちをかけた。
「たまたまにしちゃあ、結構長いこと見てたみたいだけど?」
は、うっと言葉に詰まった。どうやら、一部始終を彼に見られていたらしい。
「そ、それは……」
ずっと見ていたのは確かなので、何も言い返すことが出来ない。
そんなの肩には手を置いて、少しわざとらしい口調で言った。
「ねえ、。親友だよね? 隠し事はナシで行こうよ」
「もう、違うってば!」
は頬を膨らませると、二人を振り切って自分の席に乱暴に座り、頬杖をついた。
「ありゃ〜ちょっとからかいすぎたかな……」
まずかったかな、と呟き苦笑するの隣で、切原は顎の下に手を添え、じっと何かを考えるような仕草をする。
そして。
「でも、さっきまでがテニス部の様子をじっと見てたのはマジなんだよね……」
にやりと笑って小さな声で呟くと、切原は席についたと自分の側で苦笑するを交互に見つめ、ややあってからに声を掛けた。
「なあ、」
をなだめに行こうとしていたが、切原に呼び止められ、振り向いた。
「何?」
「ちょっと聞きたいんだけどさ。は美術部だったよな?」
「うん、そーそー。テニス部みたいな立派な実績はない、お気楽な部だけどね」
そう言っては笑う。そんな彼女に、切原は続けて問い掛けた。
「じゃあ、は? も美術部?」
の背中を指差しながら、軽い調子で尋ねる切原に、は首を振って答える。
「ううん、部活やってないよ、は」
「んじゃ、帰宅部?」
「うん、一年の時からずっとね」
「そっか、サンキュ」
切原が笑顔で礼を言うと、は頷いてそのままの席に駆け寄っていった。
「……なーるほど、は帰宅部なわけね」
誰にも聞こえないような小さな声で呟き、切原は何かを企むようにニッと笑った。