まるで、閃光(ひかり)のようだと思った。
太陽のように力強くて、眩しい閃光。
ほんの少しの時間だったのに、私はあの強い閃光に捕まってしまった――
「ゲーム・アンド・マッチ! ウォンバイ真田6−0!」
試合終了を告げる審判の声が、高らかにテニスコートに響き渡る。
それと同時に、コートは歓声に包まれた。
しかしその試合を近くで観ていた少女――には、その歓声はおろか、すぐ隣にいる親友の声すら耳に届いてはいなかった。
「……ねえ、。ってば!」
ふいに自分の名を呼ぶ声が聞こえ、は思わずびくっと肩を震わせる。
我に返って勢いよく隣にいる彼女の方へ顔を向けると、思わずぱちぱちと目を瞬かせた。
「あ。、ごめん。何?」
「ごめんじゃないって。もう、ってば私の話、全然聞いてなかったでしょ」
そう言って可愛らしく口を尖らせたのは、――の大の親友の、だ。
は素直に自分の非を認め、頭を垂れる。
「……あ、うん、ごめん」
(私、そんなに集中してたんだ……)
こんなに近くにいる親友の声が全く耳に届かないほど、自分は目の前の光景に夢中になっていたのかと、なんだかとても気恥ずかしくなった。
そんな感情をごまかすように、わざとらしく両手をぱしっと合わせて、は大きな声で側にいた親友に謝罪をする。
「ホント、ごめん!」
そう言いながら少々大げさなほど必死に謝罪のポーズをとるを見て、は仕方なさそうに笑みを零した。
「もう、別にいいけどさ。大したことじゃなかったし」
「ごめんね、あんまりすごい試合だったから、なんか呆気にとられちゃったっていうか……」
「まあ、確かにすごかったけどね。私は今日が初めてじゃないけど、去年初めてテニス部の試合を見た時は今のみたいになっちゃったもん。なんというか、迫力あるよね」
つい先程までたちの目の前で繰り広げられていたのは、テニス部が定期的に行っている練習試合だった。
たちが通う私立立海大附属中学のテニス部は、いわゆる全国レベルの強豪校だ。中学テニス界ではとても有名で、立海の名を知らない者はいないほどだという。
も入学してからことあるごとに噂は聞いていたし、朝会や終業式などで表彰されていたのを見たことは何度もあり、「とても強いらしい」ということだけはなんとなく知っていた。
けれど、実際試合を目にしたのは今日が初めてだった。
もともと、テニスはおろかスポーツ観戦というものにあまり興味がなかったため、試合を見に行こうだなんて思いもしなかったのだ。
今回だって、同じクラスの男子テニス部の生徒から見に来てくれと強く頼まれなければ、わざわざ休日の学校になんて出向いて来なかっただろう。
(でも、こんなにすごいものだったんだ)
「すごい」なんて陳腐な言葉だけでは片付けられないほどの試合だったけれど、今は「すごい」以外の言葉が見つからない。
まるで、心を全部持っていかれてしまったように何も考えられないまま、がまだどこかぼうっとしていた、その時だった。
「ー、ー!」
元気の良い声が聞こえて、二人は声がした方を向く。向けた視線の先には、立海テニス部の黄色いジャージを着た、癖っ毛がかった黒髪の男子生徒が手を振っていた。
彼こそが、練習試合を見に来ないかと誘ったとのクラスメイト、切原赤也だった。
「今日は来てくれてサンキューな!! 俺の試合、ちゃんと観てくれてたか?」
どこか嬉しそうにそう言いながら、切原がとの側に駆け寄る。
そんな彼に、は笑顔で応えた。
「うん。二試合前のだよね、ちゃんと全部見てたよ。切原君、すごかったね。おめでとう!」
「サンキュ。俺、かっこよかったっしょ?」
「自分で言うなって感じだけど、まあ、うん、今日は認めてあげる! めちゃくちゃかっこよかったよ!」
顔を合わすなり、とても楽しそうに二人は話を始めた。二人は一年のときからの知り合いで、は何度か切原の試合を観たことがあるらしい。もともとクラスでもよく話をしている二人だが、今日はいつにも増して楽しそうだ。
しかしそんな二人を横目に、は黙ってもう一度テニスコートを見つめた。
今はもう、誰もいないテニスコート。しかし、の目には今でも先ほどの試合が映っているような気がした。
――あの人の、力強い閃光のような試合が。
(……すごかったな……最後の試合……)
決して、切原の試合が退屈だったわけではない。
確かに彼の試合もとても迫力があったし、並みの腕ではないことは素人の自分でもよく分かった。
しかしそれ以上に、最後に見た「あの人」の試合が心に強く残ったのだ。
無人のコートをじっと眺め、はもう一度、あの強い閃光を思い出した。
確か、あの人の名は――真田、といっただろうか。
迫力なんてものじゃない。テニスをよく知らない自分でも、彼が圧倒的な強さを持っていることが分かった。
振るうラケットの力強さや、ボールに追いつくスピードなどといったテニスの技術的な部分は勿論、迫力や余裕なんかも対戦相手の人とは段違いだった。
相手は手も足も出ず、ただ立ちつくすことしかできない局面も、何度もあった。
まるで、見ているだけの自分までが怖くなってしまうほどの強さ。
けれど、一時たりとも目が逸らせない、強く惹きつける何かを持っている強さ。
は、ずっとその試合を見ていたいと、彼がラケットを振るう姿を見つめていたいと思った。
しかしそんな思いとは反して、試合はその強さゆえにあっさりと蹴りがついてしまったのだけれど。
「……、また?」
「どした? 」
そんな声が聞こえて、ははっとする。
気がつくと、は呆れた顔で、切原は不思議そうな目で、それぞれを見つめていた。
「……あ、えーっと……ごめん」
今日二度目の失態だった。流石に恥ずかしくなって、顔が熱くなる。
それをごまかすように笑ったに、は少し呆れた表情を浮かべた。
「、さっきからちょっとぼうっとし過ぎ。最後の三年の人の試合始まってから、ずっとだよね」
「そう、かな」
「そうだよ。それまでは試合中もすごいねーとか点数入ったねーとか普通に喋ってたのに、あの人の試合始まったら全然反応無くなってさ」
言い返す言葉もなく、はただ苦笑する。
すると、の言葉を聞いていた切原が、ケラケラと笑い声を上げた。
「へー。最後の試合ってーと、真田副部長だっけか。まさか、真田副部長に惚れちゃったとか?」
「……え……」
その途端、間の抜けた声を発して、の挙動がぴたりと止まった。
切原の言葉があまりにも思いがけなかったので、思考が完全に停止したのだ。
しかし、そんなの様子は二人の目には質問の肯定と映ったようだ。
も切原も、目を丸くしてを見つめる。
「……ちょっと、、マジなの?」
「え。、マジかよ?!」
そんな二人の反応に、は慌てて我に返る。
――惚れた。
その言葉の意味を考えた瞬間、の心臓は爆発したかのように急激に速度を上げた。
(え、ええええ!?)
「ちょ……ちょっと、待ってよ!」
顔を真っ赤にして、首を勢いよくぶんぶんと横に振りながら、は口早に捲し立てる。
「た、確かにすごいと思ったけどっ!! 私真田先輩のこと何も知らないし! ていうか、今日初めて見たんだし! そんな惚れてるとか惚れてないとかじゃなくて……っけほっ……けほっ」
一生懸命発した否定の言葉が、咳に変わった。慌てて言葉を発したために、どうやらむせたらしい。
そんなの側にが慌てて駆け寄り、背中を優しくさすってくれた。
「ちょっと、大丈夫?」
「だって……ふたっ……が……けほっ……」
咳き込みながらも、は尚も言葉にならない言葉を発しようとする。
そんなの背をさすりながら、は苦笑して謝った。
「あーごめんごめん。ちょっとからかいたくなっただけだってば」
一方、切原はそんな二人のやり取りを黙って見つめていたが、やがて、口の端でニッと意味ありげな笑みを浮かべた。
「……ふーん」
「ん、切原君、何か言った?」
切原の小さな呟きに反応して、が尋ねる。
しかし、切原は首を軽く横に振った。
「いんや、何にも。……あ、そろそろミーティング始まるから、行って来るわ」
先ほどのそれとは違い、陽気で人懐っこい笑みを浮かべると、切原はゆっくりと部室棟に向かって歩き出した。そんな彼に、の背中をさすっていたが笑顔で手を振る。
「あ、うん! いってらっしゃい!」
「……いってら……い」
やっと回復してきた喉で、もなんとか声を振り絞った。
「おう、すぐ終わると思うから、その辺りでちょっと待っててくれな!」
そう言うと、切原はそのまま部室に向かって行ってしまった。
◇◇◇◇◇
切原がその場を離れると、賑やかだった空気がほんの少し落ち着いた。
とは、コート近くに空いているベンチを見つけ、そちらに場所を移して切原を待つことにした。
「、大丈夫?」
まだ少しむせて苦しそうにしていたに、が優しく声を掛ける。そんな親友に、は笑顔で返した。
「……うん。ありがと、」
「そっか、良かった。もう、ってば、そんなに慌てることないのに」
「だって、二人がいきなり変なこと言うから……」
先ほどの二人の言葉を思い出すと、またの心臓が速度を上げた。
確かに彼のテニスはとても印象的だったけれど、真田先輩と言う人がどんな人なのかも知らないし、話したことすらないのに――惚れた、だなんて。
「だいたい、真田先輩のことは今日初めて知ったのに、そんなこと有り得るわけないでしょ」
しかしそう言いながらも、自分自身なんだかとても言い訳じみているような気がして恥ずかしくなり、の顔は自然と赤く染まる。
「はいはい、分かってますって。誰もが本気で真田先輩に惚れたなんて思ってないから大丈夫だって。ね?」
苦笑しながらなだめるように言う親友を、は顔を紅潮させたまま、どこか必死な形相で見つめ返した。
「うん、本当に本当だからね。私、別に……」
もう一度念を押すように、は否定の言葉を繰り返す。
そんなに、は呆れ顔を向けた。
「あのさ。あんまり否定ばっかすると、逆に怪しく見えるよ」
その言葉に、は何も言い返せなくなってしまった。
ぐっと言葉に詰まり、がから視線を逸らしたその時。
「、ー」
自分たちの名前を呼ぶ声がして、二人は同時に声がした方向を見る。
すると、ミーティングを終えたらしい切原が小走りで駆け寄ってくるのが見えて、が立ち上がった。
「あ、切原君。お帰り!」
笑顔で手を振り返すと同じように、も彼に手を振る。
程なくして二人の側までやってきた切原は、息も切らさずに無邪気な笑顔をとに向けた。
「もも、今日はほんとに応援サンキューな」
「どういたしまして。切原君もお疲れ様!」
明るい声で言うに続いて、もにこりと彼に笑いかけた。
「切原君、試合圧勝だったよね。おめでとう」
そんな二人の言葉にへへっと笑うと、切原は得意気に鼻をこする。
「ま、あれくらいチョロイね。勝って当たり前っつーかさ」
「本当に一方的だったもんね、試合! ほんとすごかったよ!」
のその言葉が嬉しかったのか、切原の表情が更に緩む。
は、とても楽しそうに会話をする二人を、微笑ましそうに見つめていた。
――その時。
「おい、赤也!」
聴きなれない声が、切原の名前を呼んだ。
が反射的にその声のした方角を向くと、切原と同じテニス部のジャージを着た男子生徒が、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。
とても背の高い、黒い帽子を被った人――その姿を認識した瞬間、の心がドクンと跳ねた。
(最後の試合の、あの人だ……!)
先ほどの試合で力強くラケットを振るい、の心に強烈な印象を与えた彼の人が近づいてきている。
切原のあの一言もあって、は彼を意識せずにはいられなかった。彼がこちらへ近づいてくるにつれて、の脈は比例するように速度を上げる。
そして程なくして、真田が側までやって来た。
切原は、ヘラヘラと笑って真田を迎える。
「副部長、なんスか?」
真田は、そんな切原を呆れ顔で見つめると、眉間に皺を寄せて口を開いた。
「馬鹿者。ミーティングは終わったが、まだ解散とは言っとらんぞ。勝手に飛び出して行きおって……仕方のないヤツだな」
「あ、そうでしたっけ? そりゃすみませんでした」
口では謝罪の言葉を口にするものの、全く反省した様子もなく、切原は軽い調子で笑う。
そんな後輩を見た真田は、呆れた表情を浮かべてため息をついた。
「全く、お前は……二年に上がったというのに、相変わらずだな」
「へへ、変わらないのが俺のいいとこっスから」
笑って受け流した切原を、真田はじろりと睨みつけた。
「開き直るな、馬鹿者」
「へーい、これから気をつけまーっす。ところで、まだ何か用事でもあったんすか?」
軽い調子の切原に、真田はまた大きな溜息をつく。しかし、すぐに彼は気を取り直して口を開いた。
「お前、昨日の部室の掃除、係だったにも関わらずやらずに帰っただろう。今日はちゃんとして帰れよ」
そんな真田の言葉に、今まで余裕綽々だった切原の顔がぴくりと引き攣った。
「げっ……今からっすか……?」
心から嫌そうな声を上げる切原。そんな彼を、真田は再度睨みつけながら、続ける。
「無論だ。サボった罰だ、本日の全ての割り当てを一人でやるように」
「そりゃないっすよ〜……副部長、今日は見逃してくれませんかね? 友達、来てるんっすよ」
そう言うと、切原は側にいたとを見た。つられるように、真田も二人に目をやり――真田が、の顔を見た。
その瞳に捉えられた瞬間、は体感温度が一気に上昇したような気がした。
彼の真っ直ぐな瞳が自分の方を向いていると思うだけで、何故か胸がドキドキする。
思わず、は視線を逸らして俯いてしまった。
(も、もう……さっき切原くんが変なこと言ったから……!!)
自分の心臓の音がうるさくて、どんどん心が乱れていく。
しかし、そんなの混乱など知る由もなく、切原は軽い調子で彼に自分たちを紹介し始めた。
「同じクラスの、さんとさんっす。わざわざ応援に来てくれたんすよ。ま、俺が来てくれって頼んだんすけどね」
「そうか。休日だというのに、わざわざテニス部の応援に来てくれるとは、ありがたいことだな」
切原が彼に紹介してくれている。自分も何か言わなければと思うのに、真田の言葉が耳に届いた瞬間、なんだかとてもくすぐったい気持ちになって、上手く言葉が纏まらなくなった。
そうしているうちに、隣にいたのはきはきとした声がの耳に聞こえ始めた。
「初めまして、切原君と同じクラスのです。今日はとても楽しかったです」
に続けて、自分も何か言わなければと思う。けれど、なかなか声が出ない。どうしてしまったのだろう、自分は。
息を吸って、吐く。そして、ぎゅっと掌を握りしめると、やっとのことでも口を開き始めた。
「わ、私も……あの、えっと、切原君と同じクラスの、……です。私も、あの、楽しかった……です」
なんとか絞り出せたけれど、彼にちゃんと聞こえていただろうかと思いたくなるくらい、小さな声だ。
情けなくなって、が心の中で頭を抱えていると、彼の声が聞こえてきた。
「そうか、あの程度の試合で楽しんでもらえたなら、良かったが」
「そーっすね」
真田の言葉に、切原が頷く。
どうやらあのか細い自分の声は、無事に彼の耳に届いていたらしい。
ほっとして、はとりあえず胸を撫で下ろす。
「ところで赤也。この後二人と約束があるのか」
「そーいうわけじゃないんスけどね。せっかく俺の応援に来てくれたんだし、ジュースくらい奢ろうかなと思ってたんで」
「ふむ……赤也にしては珍しい心がけだな」
切原の言葉に、真田は少し視線を外して考え込む。
そして、ややあってから再度顔を上げた。
「よし、ならば今すぐ買いに行って、二人に渡してやれ。掃除はその後でいいだろう」
「ゲッ、やっぱ見逃してもらえないんすか……」
当てが外れたように、切原は肩を落とす。
「当たり前だ、たわけが」
「ちぇっ……仕方ねーや。、、ちょっと待っててくれな。ひとっ走り行ってくるわ」
諦めたように大きく息を吐き、切原はそのまま走り出した。
しかし、何かを思いついたのか、すぐに踵を返して戻ってくると、の目の前で足を止める。
そして。
「あのさ、、一緒についてきてくんない?」
そう言って、彼はにんまりと笑った。突然の彼の言葉に、は少し呆気に取られたような表情をしながらも、首を縦に振る。
「うん、別にいいけど……」
「よっしゃ! じゃ、行こうぜ!」
が頷いた途端、切原は彼女の手をとって走り去ってしまった。
――そして、その場はと真田の二人だけが残された。