――12月24日。
目覚ましもかけず、自然に目が覚めるのに任せたおかげで、起きた頃にはもう昼の14時を回っていた。
家族はみんなどこかしら出かけてしまったようで、起きた時点で家にいたのは私1人だけだった。
我ながらひどい生活だとは思うけど、何かする気力が全く起きないのだから仕方がないよね。
そんな自己弁護をひとりで繰り返しながら、居間に下りて、母が用意しておいてくれた昼ご飯を食べた。
食べ終わり、手持ち無沙汰になってテレビをつけると、その瞬間映し出されたのはとても大きなクリスマスツリー。
今日がクリスマスイブだという現実を叩きつけられて、胸が痛む。
柳君は、あの子を誘えたんだろうか。
もしかして、今日告白したりするんだろうか……。
脳裏に、柳君とあの子が楽しそうに歩いている姿が浮かび、目の奥が熱くなった。
ああ、なんで自分で自分を追いつめるような想像しちゃうかな。
こういうとき、自分の想像力のよさがほんと嫌になってしまう。
いっそのこと、図書委員になんかならなければ良かった。
そしたら、柳君がどんな人だったかなんて、知らずに済んだのに。
思考がどんどん嫌な方に落込んでいく。
ああ、ほんと嫌だ――これならまだ寝てた方がマシだ。
私はテレビを乱暴に消して、また自室に戻ろうと階段に足を向けた。
その時、静かだった家の中に、電話の呼び出し音が鳴り響いた。
誰だ、こんな時に。
この携帯文化の世の中で、こんな昼間にわざわざ固定電話に掛けてくるのなんて、大抵勧誘とかアンケートとか、面倒くさい電話ばっかりなんだよね。
そんなの、こんな気分の時に相手なんてしたくないなあ……。
なんて考えながら、取ろうかどうか迷っていたら、10回ほどコールしたあと、電話はぷつりと切れた。
あ、居留守になっちゃった……なんて思いながらも、電話が切れたことにどこかほっとしながら、私は部屋に上がった。
――しかし。
それからしばらくして、再度電話が鳴った。
先ほどと同じ人だろうか、などと思いながら、電話の側に降りてゆく。
しかし、やっぱりどこか電話に出る気になれなくて、受話器に触れながらも出ようかどうか迷っていると――またもや、コールは切れた。
今度はさっきよりも長かった。20回くらいはしてたかもしれない。
もしさっきと同じ人なら、2回も居留守使っちゃって、悪いことしたかなあ。
ごめんね、と心の中で誰とも知れぬ電話の相手に謝って、私はまた自室に上がる。
そして。
3度目の電話が鳴ったのは、もう夕方の4時を回った頃だった。
今度は出ないと流石に悪いだろうか。
億劫になりながらも、私は階段を下り、やっと受話器を上げた。
「……もしもし、ですが」
一体誰だろう、と思いながら私は言う。
すると、ほんの少しだけ間があって――次の瞬間。
『――もしもし、立海大附属中学の柳と申しますが』
……え。
思いがけない電話の相手に、私の全てが止まる。
『すみません、さんをお願いしたいのですが、ご在宅でしょうか』
間違いない、確かに彼の声だ。
そう思った途端に、私の心臓が速度を上げ始めた。
受話器を持つ手も、震えている。
このままだと受話器を落としそうな気がして、私は空いていた手を、受話器を持っていた方の手にそっと添えた。
そして、なんとか喉の奥から声を絞り出す。
「や、なぎ、くん?」
『……か?』
「う、うん」
私は、返事をするのがやっとだった。
それ以上は、どうしても言葉が出てこない。
なんでウチの電話番号を知っているのとか、一体どうしたのとか、聞きたいことはあるのに、声が出ないのだ。
『身体は、もう大丈夫か』
心配そうに、彼が言う。
そっか、私体調悪いことになってたんだっけ。
「うん、もうすっかり大丈夫」
『そうか、良かった』
「うん、ありがとう。もしかして、わざわざそのために掛けて来てくれたの?」
『ああ――いや』
彼にしては珍しい、歯切れの悪い言葉だった。
様子がおかしい。
柳君、一体どうしたんだろう。
「……もしもし、柳君?」
窺うように問い掛けると、少し間を置いて、彼は言った。
『――、頼みがある。駄目だったらいい』
「頼み?」
おうむ返しに問い、彼からの返事を待つ。
また、ほんの少しだけ沈黙があったのち、彼は言葉を紡いだ。
『もし都合がつくのなら、今から会えないか』
……え?
一瞬、私は理解が出来なかった。
混乱している頭をなんとか整理していると、彼は言葉を続けた。
『……無理か?』
いつもとは違うその声に、私の心が揺れる。
彼の声は、いつも柔らかくて優しいけれど、そんな中にしっかりとした力強さというか、彼の意思のようなものが感じられる。
けれど、今は違う。不安でもあるのか、どこか脆そうな感じだ。
何かあったんだろうか――そう思った瞬間、私は電話口で頷いていた。
「ううん、大丈夫だよ。どこに行けばいいかな」
そう答えた瞬間、彼の言葉が途切れた。
「柳、くん?」
どうしたのかな、声が遠いのかな。
受話器に口をぐっと近づけて、私は問いかける。
「柳くん、どうしたの? 聞こえてる?」
『……ありがとう、すまない。聞こえている。では、臨海公園の駅前まで来てもらってもいいか?』
再度彼の声が聞こえ、私は少しほっとした気持ちになりながら、続けた。
「臨海公園の駅だね、判った。今すぐ行く。30分くらい掛かるけど、いい?」
『勿論だ。では、駅の正面口を出てすぐの、ツリーの下で待っている』
「うん、すぐ行くから」
そう言って、私は受話器を置いた。
耳に残る彼の声に、ドキドキが止まらない。
でも、とにかく早く行かなくちゃ――彼、様子が変だった。
何かあったのかもしれない。
もしかしたら、あの彼女に振られてしまったのだろうか。
それとも、他に理由があるんだろうか。
彼が私を呼び出した真意は判らないけれど、もし私でも彼の役に立てることがあるのなら、傍に行きたかった。
例え恋人になれなかったとしても、彼に好きな人が別にいるとしても――私、やっぱりあの人が好きだ。
もし、彼に何かがあって落ち込んでるなら、励ましてあげたいよ。
私は慌てて部屋に戻り、準備を始めた。
服を選んでる暇なんてない。
とにかく、彼に会っても恥ずかしくない程度の身支度を整えて、慌しく家を飛び出した。
バスの時刻を調べている暇さえ惜しかったから、ためらわずに自転車を車庫から引っ張り出す。
時間はもう4時半を回っていた。
この時期の4時半と言えば、日没時刻に等しい。
もうお世辞にも明るいとは言えない道を、私は自転車で疾走した。
最寄駅まで着くと、自転車を駐輪場に乗り捨てるように止め、今度は電車に乗り換える。
電車はものすごい満員で、流石クリスマスイブだ。
だけど、駅に着いたらすぐに降りられるようにドアの前をキープする。
臨海公園の駅まではすぐだったけど、その数分さえ惜しくて、そわそわしながら電車の窓に映る自分の顔を覗いていた。
駅に着いてドアが開くと同時に、電車を飛び降りた。
クリスマスイブに揺れている駅の中、人と人との間をすり抜けて、ただひたすらに走る。
早く。
早く行かなくちゃ。
合言葉のように、心の中でそればかり繰り返した。
やがて、やっと待ち合わせのツリーが見えて――私の目に、彼の姿が映った。
やっと、着いた。
「……!」
私が声を掛けるよりも早く、彼は私を見つけて名を呼んでくれた。
その声を聞いたら、なんだか急に私の力が抜けた。
「――やな、ぎ、く……」
力の限り疾走してきたので、もう完全に息が切れていた。
彼の名前を呼ぶこともままならず、私は膝に両手をついて、ただ荒々しく息を吐く。
「大丈夫か?」
彼は腰を屈めて、心配そうに私の顔を覗き込む。
「……ん……」
頷こうとしたけれど、それすら出来なかった。
こんなに疾走したのは、いつぶりだろう。
「何か飲むか?」
彼の心遣いを、頭を振って無言で断りながら、目を瞑って息を整える。
しばらくして、なんとか私は回復した。
「……ごめんね、体力なくてさ」
苦笑しながら謝った私に、彼は首を振る。
「いいや。こちらこそ、いきなり呼び出して悪かったな。……来てくれて、ありがとう」
「ううん」
柳君が呼んでくれるなら、どこにだって行くよ。
そんな言葉を飲み込んで、笑った。
じっと、彼が私を見つめた。
恥ずかしくなって目線を逸らしながら、私は言葉を探す。
「今日、寒いね」
何を言えばいいんだろうと思考をめぐらせ、やっと出てきたのは、そんな当り障りのない言葉。
「……ああ」
彼も軽く頷いて、そこでまた会話は止まる。
どうしたの?
何か、あったの?
なんで、私を呼んだの?
聞きたいことはたくさんあるけれど、やはりどうしても、私からは聞けない。
もし聞いて、彼の口からあの子の話が出てきたら――それがどうしても怖かった。
私が聞くことで彼の励ましになるなら、なんでも受け止めるつもりで来たはずだったのに。
いざ目の前にすると、やっぱ駄目だ。
いくじなしだ、私は。
自分が情けなくなって、俯いたその時。
黙っていた彼が、何かに向かって、すっと指を指した。
そして。
「、『あれ』に乗らないか。……俺と。」
無言で私は彼の指先を追う。
すると、その先にあったのは――大きな光の輪。
「え、あれって……観覧車?」
問い掛けると、彼は無言で頷いた。
彼の指先にあったものはあの観覧車だけだったけれど、それでも思わず確認してしまうほど、私には信じられなかった。
だって、あれに一緒に乗るということが、どういう意味を指すのか――頭のいい柳君が、判ってないわけないよね?
激しく動悸する胸を、私はぎゅっと抑える。
どうして? 意味わかんないよ。
だって、一緒に乗りたい子いるって言ってたじゃない。
それってあの子でしょ?
あの時、優しく頭撫でてた、あの子なんじゃないの?
混乱が私の中で渦を巻いて、思考が上手く纏まらない。
何も答えない私に、彼は不安そうな顔で呟いた。
「駄目か」
違う、駄目なんかじゃない。
ただ、柳君の本心が判らないだけだ。
でも、そんな顔をされて、このままじっと黙りつづけていることもできなくて。
「――いいよ」
私は、小さな声で答えを返す。
すると彼は、どこか少しほっとした表情をした。
「では、行こう」
彼の返事に無言で頷いて、私たちは歩き出す。
待ち合わせた場所から観覧車までは、距離にして数百メートル程度と言ったところだろうか。
何も言わない柳君の後を、ただ黙って着いていく。
心の中では、ひたすら「何故」と彼の背中に問い掛けているのに、やはり口には出しては言えなかった。
15分ほど歩いて、私と柳君は、観覧車の乗り場まで到着した。
クリスマスイブということもあって、すごい人だった。
しかも、半分くらいはカップルだ。
ゴンドラの数が多いので、回転はそこそこ早いみたいだけど、それでも20分待ちという看板が出ていた。
切符を先に買わなければならないらしく、柳君と私は先に切符の販売機の方の列に並んだ。
数分で私たちの番が回ってきて、財布からお金を取り出そうとした私を、柳君が制止した。
「俺が誘ったのだから、代金くらいは俺が出すよ」
「え、いいよ。悪いよ」
慌てて言う私に無言で首を振って、彼は2枚纏めて切符を買った。
「いいってば、柳君。払うよ」
「いいから、払わせてくれ」
そう言って、彼は微笑む。
おごってもらう理由なんてないけど、そんな顔されたらもう強く言えないじゃないか。
「……判った……じゃあ、ありがとう」
私がそう言うと、彼はまたふっと微笑い、観覧車の列の方に移動した。
その顔にドキドキしながら、私は先を行く柳君の後を着いていく。
そして、列に並んで彼の隣に立った。
「もう、17時だね」
「すっかり日が暮れたな」
「混んでるね」
「ああ」
「さすがクリスマスイブだね」
「そうだな」
「お金、ありがとう」
「気にするな」
少しずつ進んでいく列に合わせて歩を進めながら、柳君とそんな当り障りのない言葉の応酬を続ける。
本当に聞きたいことは何一つ聞けないまま、やがて私たちの番が近づいてきた。
柳君が係員の人にチケットを渡し、私と柳君は乗り場ににスタンバイする。
無人のゴンドラがゆっくり近づいてきて、係員の人がゴンドラの扉を抑えた。
「どうぞ!」
その声とともに、私と柳君はゴンドラに乗り込む。
それを確認した係員さんは、
「上の方は揺れますので、気をつけてくださいね。彼女、大きく揺れたら彼氏につかまってくださいね」
そう言って笑うと、ゴンドラの扉を閉めた。
彼氏って……!!
そ、そりゃクリスマスイブに男女2人でこんなとこに来てたら、そう思うのも無理はないかもしれないけど……。
でも、わざわざ否定するのもなんだかおかしい気がして、顔を熱くさせながら、私は柳君の向かい側に腰を下ろす。
そして、ゆっくり上昇していくゴンドラの窓から、下界を見下ろした。
もう外は真っ暗だったけれど、クリスマスと言うこともあって、あちこちで様々な色のイルミネーションが光っている。
でも、正直その景色を楽しむ余裕はなかった。
乗ったときからずっと、彼がじっと私の方を見ている――その視線を感じて、私はどうすればいいのか判らなくなってしまっていた。
柳君、何考えてるの?
もう、駄目。
これ以上は、私の心が持たないよ。
全てを、聞いてしまおう――そう思って、私が口を開こうとした、その瞬間だった。
ずっと押し黙っていた、彼の口が動いた。
「――。俺は」
そこで彼の言葉が止まる。
そして、一瞬だけ僅かに口篭もった後、彼は意を決したようにぎゅっと自分の掌を強く握り締め、残りの言葉を搾り出した。
「俺は――お前が好きだ」
その瞬間、私の全てが震えた。
何が起こっているのか、彼が何を言ったのか、一瞬理解できなくて。
静まり返ったゴンドラの中、私は何も言えず、目を見開いてただ彼の姿を見ることしか出来なかった。
そんな私の視線を逸らすように、彼は目を伏せ、自嘲気味に笑った。
「……NOなら、NOだと言ってくれていい。諦める準備は出来ている」
「ちが……だって柳君、好きな人……一緒に観覧車乗りたい子いるって……」
「だから、誘ったんじゃないか。お前を」
彼はそう言うと、恥ずかしそうに、赤く染めた顔を片手で覆った。
「ほんとに、私なの? あの子じゃないの?」
「あの子? あの子とは誰のことだ」
「図書室の前で、頭撫でてた女の子……」
今でも鮮明に思い出せる。
彼は、すっごく優しい顔をして、その掌で女の子の頭を撫でていた。
「図書室の前……?」
私の言葉に、彼は考えるように口元に手を当てた。
そして、はっと顔を上げる。
「もしかして、数日前の放課後の話か? お前が遅れてきた日の?」
「うん、私が来る前に、女の子の頭撫でてたでしょ……柳君、すごく優しい顔してた。その子のことが好きなんだと思ってたよ……だから、私失恋したんだとばかり……」
「違う、あれは――弦一郎の彼女だ!」
そう言って、柳君が慌てて立ち上がり、瞬間、少しゴンドラが揺れた。
彼の言葉に驚いた私は、思わず顔を上げる。
「え……真田君の、彼女?」
「あの日、お前が来るのが遅かったから、どうしたのかと思って廊下に出たら、丁度が歩いていたのに出くわして――やけに落ち込んでいたから、話を聞いて励ました。そういえば、確かにその時頭を撫でたが、それ以上の他意はない。あいつは、なんというか妹みたいな感覚で……そもそも、弦一郎との仲を取り持ったのは、俺やテニス部の仲間なんだぞ」
そう言うと、彼は私の目を見た。
そして。
「俺が好きなのは、、お前だ」
もう一度、先ほどの言葉を繰り返した。
その瞬間、私の目から涙が零れた。
そうか、誤解だったんだ。
あの子は真田君の彼女で、柳君が好きなのは、私だったんだ。
私だったんだ――
そう思うと、後から後から涙が溢れてきて、止まらなくなった。
座ったまま俯いてただ泣くことしか出来ない、そんな私の前で膝を着くと、顔を覗き込んで彼は言った。
「失恋、と言ったな。ということは、お前も俺と同じ気持ちだったと思っていいのか?」
私は、大きく頭を縦に振る。
そして、振り絞るように声を出した。
「……しも、私も好き……大好き……」
私がそう言うと、柳君は優しく微笑んで、包み込むようにぎゅっと抱きしめた。