――12月20日。
もう2学期も終わりだ。
期末考査も終わった今、授業だってプリント学習ばっかりになっちゃって、自然と注意力も散漫になる。
それになにより、私には授業よりもずっと気に掛かるものがあったから、余計だった。
そう――放課後のあの時間。
柳君と過ごせるあの時間が、今は楽しみで仕方がなかった。
放課後になって、私は急いで鞄に荷物を詰め込んだ。
今日は日直でもないし、早く図書室行こう!!
1分1秒でも惜しい気持ちを落ち着かせながら、教室を飛び出そうとしたら、出たところで数学の先生に呼び止められた。
「、丁度良かった」
「なんですか?」
もう、急いでるのに!
そんな気持ちを抑えながら、先生に向き合う。
「お前、今日期限の数学プリントが提出されていないぞ。今持ってるか?」
「え……」
やば。
そういえば、出してなかったかも。
ていうか……終わってない。
決まり悪そうな顔をする私を見て、先生は私がプリントを終わらせていないことを悟ったのだろう。
仕方ないといった感じで息を吐き、口を開いた。
「終わっていないのなら、残ってやって、出来たら職員室に持って来てくれ」
え、マジで?
ちょ、ちょっと待ってよ。
「え、あの、図書委員の仕事があるんですけど……」
「そうか、なら急いで終わらせて、早く持ってくるように。もし俺がいなければ、机の上に置いといてくれ」
そう言い残して、先生は行ってしまった。
……ええ、やるよ、やりますよ!!
やりゃいいんでしょう、やりゃ!!
心の中でそんな悪態をつきながら、私は教室に戻って机に座る。
そして、プリントと向き合い、さっさと終わらせてやる、と思ったのも束の間。
すぐに詰まって、私は頭を抱えた。
終わっていないのは、たった2問。だけど、その2問が解けない。
1問目が全く解けないので、先に2問目からと思ったけど、2問目も全然判らなくて。
やっぱり1問目――と思っても、さっき1人で考えて解けなかったものが判るはずもなく、完全に詰まってしまった。
ああ、私の大切な時間が……。
いっそのこと、図書室に行って柳君に教えてもらおうか。
成績トップクラスの彼なら、こんな問題、すぐに解けるだろうし。
でも、彼に馬鹿だと思われたくないなあ……。
――その時。
「」
声が聞こえて頭を上げると、目に飛び込んできたのは――真田君の姿。
「なんだか知らんが、まだ時間が掛かるか?」
教室の鍵を握り締めながら、彼は言う。
そういえば、今日は真田君が日直だったんだっけ。
「……ごめん、まだもうちょっとかかりそう」
教室を出ると、図書室でやるしかなくなる。
柳君に教えてもらうって言うのは、それはそれでおいしくはあるんだけど、さ。
でも、やっぱりあの人に馬鹿だって思われたくないんだよね。
日直の真田君には悪いけど、教室でやらせて欲しい。
って、ああ、私が鍵締めればいいのか。
「あ、真田君。私が鍵閉めやるから、いいよ。部活行って」
「今日は2学期最後の部活の代表者会議があるから、部活は休みだ。気にするな。俺もどうせ人を待っているところだし、もう少しくらいなら構わんぞ」
そう言いながら、真田君は私の隣の自分の席に腰を下ろす。
そして彼は私の机の上を覗き込んだ。
「それは今日提出期限の数学のプリントだな。出していなかったのか?」
「忘れてたの。あと2問なんだけどね……」
「たるんどる。授業中、居眠りなんぞするから判らなくなるんだ」
……う。
痛いとこつくなあ……
「……返す言葉もございません」
居眠りをしていたのは本当なのだから、反論もできない。
私は情けなさそうに溜息をついた。
すると。
「教えてやるから、どの問題か言ってみろ」
そんな言葉が聞こえて、私は顔を上げる。
「え、教えてくれるの?」
「ああ、どうせ俺も時間をもてあましていたところだ」
そういえば、真田君も頭いいもんね。
やった! ラッキー!!
「ありがとう、お願い! この3問目と、ラストの問題だけどうしても判らないの!」
そう言って、私は彼に向かって手を合わせた。
――それから、数分。
私は早くも、彼に教えを請うたことを後悔し始めていた。
「だから、この式は先にこちらだけ括弧で囲めば早いと言っているだろう」
「公式に当てはめる前に、ここをこう整理してだな……ああ、そうじゃない。授業で何度も同じような式をやっただろう!」
そんな調子で、すぐに怒声が飛ぶ。
彼の教え方は判りやすいけれど、ちょっと間違えただけでそんなに叫ばなくても……。
「……真田君、もうちょっと優しく教えてくれない?」
「充分優しく教えているつもりだが」
どこがだ!
思いっきり突っ込みたい気持ちを、私はぐっと飲み込んだ。
教えてもらっているのだから、文句は言えないけど……ちょびっとだけ、仕返ししてやろう。
「そうだね、優しいね〜。ただ隣の席なだけの私にこんなに優しいんだから、きっと愛しの彼女さんにはもっと優しいんだろうね」
私のその言葉に、彼の眉がぴくっと反応する。
「……何が言いたい」
「別に? 練習時間の間、一言も言葉は交わさなくても、彼女さんとただ同じコートに居るだけで幸せって感じられる真田君は、本当に純情で優しい人なんだろうねって思って。恋愛小説みたいだね〜」
わざとらしい私の言葉に、彼の顔が見る見るうちに真っ赤に染まる。
わあ、本当にこの人純情なんだなあ。
柳君の言った通りだ。
「……お前、蓮二に何を聞いた」
真田君の声が心なしか震えているのは、恥ずかしいからなのか、怒っているからなのか、もしくはその両方だろうか。
「まあ、いろいろね」
そう言って笑う私を、彼はきっと睨みつける。
2日前までの私なら、この目つきに怖くて逃げ出してしまったかもしれないけど、今はもう真田君が怖いなんて思いもしない。
それも全て、柳君のおかげだ。
「真田君がこんなに純情だって、皆が知ったらびっくりするだろうね」
「だから、何が言いたい」
「別に。もっと優しく教えて欲しいな、って言ってるだけだよ」
そう言って笑った私に、真田君は言葉をぐっと詰まらせた。
彼はそう言って眉間に皺を寄せると、ごほんと咳払いをして――
「……つまり、だな……ここの式は……」
決まり悪そうに、彼は数学のコーチを再開した。
声のトーンが大分落ち着いていたのが、なんだかとてもおかしくて、私は途中何度か噴出しそうになる。
その度に、彼はどこか赤い顔をしながら、じろっと私を睨みつけ、目で何かを訴えかけてきたのだった。
そして、コーチ開始から15分ほどが経過した頃、やっと私の数学のプリントは完成した。
「終わったああ!!」
やったあ! これでやっと図書室に――柳君のところに行ける!!
思ったより早く終わって良かった。
「ありがとね、真田君!」
「ああ、よく頑張ったな」
そう言って、彼はとても優しく笑った。
なんだ、こんな顔も出来るんじゃん。
きっと、彼女さんにはこんな顔ばかり見せてるんだろうな。
なんだか微笑ましくなって、私はにっこりと笑う。
「じゃあ、私これ出してくるから。真田君は……部活、は休みなんだっけ?」
「ああ。人を待っているんで、部室には行くがな。そろそろあいつも終わっているだろう」
そう言って、彼は時計を見上げる。
ん?あいつって、もしかして……
「彼女さんと待ち合わせ?」
私がそう言った途端、彼の顔がまた真っ赤に染まる。
やっぱりね。
「あはは、ラブラブだね!」
「う、煩い!早く行け!!」
「行くよーだ! じゃあね、真田君。本当にありがとう!」
そう言って、私は教室を後にした。
急いで職員室に駆け込んで、数学の先生の机を探す。
そして、先生の机にプリントを置いて一息つくと、職員室の時計を見上げた。
図書室の開架時間が始まってから、15分が経過している。
「わわ、早く行かなくちゃ!」
慌てて、私は職員室を飛び出した。
本当に1分1秒でも惜しかった。
柳君との時間は、もう明日で終わりなのだから。
4階に駆け上がり、廊下を疾走する。
大分しんどくて息が切れてきたけれど、あの角を曲がれば、図書室のある廊下に出る。
もうすぐだと思いながら、私は廊下の角のところまでやって来た――その時。
「……にするな」
柳君の声が聞こえて、私は角の手前で足を止める。
あれ、柳君図書室の前で誰かと話してる?
そうっと、廊下の角の所から、図書室の方を覗き込んだ。
……すると、そこには確かに柳君がいた。
そしてもう1人――見知らぬ女子生徒も。
「判って……」
「……なことは……」
運動場の方から、どこかの部活の勇ましい掛け声が聞こえてくるおかげで、何を話しているのか上手く聞き取れない。
でも、2人はとても親密そうに見える。
あの子、柳君とどういう関係なんだろう――そう、思った瞬間。
柳君が、とても優しい表情で、そっと彼女の頭を撫でた。
目を見開いて、私の全ての動作が止まる。
2人から視線を逸らして天井を見上げた瞬間、足の力が抜け、思わず私はその場にへたり込んでしまった。
何かが、胸の中に渦を巻いている。
誰?
あの子、柳君の何?
考えれば考えるほど、訳がわかんなくなって。
痛みを増していく胸を、私はぎゅっと抑えた。
どれくらい、そうしていたか判らない。
しばらくその場を動けなかった私は、意を決してもう一度図書室の方を見た。
――しかし、その場にはもう誰もいなかった。
柳君と彼女はどこへ消えたのだろう。
立ち上がって、私はゆっくり図書室へと歩み寄る。
もしかして、場所を図書室に移しただけだったりするのだろうか。
ならば、私は図書室に入る勇気がない。
音を立てないように、ほんの少しだけ図書室のドアを引いて、そこから中を覗き見た。
柳君は――いた。
カウンターで、なにかの本を読んでいる。
あの彼女は……どうやらいないみたいだ。
どこかほっとして、私はドアを開け、中に入った。
「、遅かったな」
彼は私に気付くと、優しい微笑を向けてくれた。
「あ……うん、ちょっと居残りがあってさ。ごめんね」
そう言って、私はカウンターに向かう。
「今日は誰か来た?」
「いいや、今日も暇だ。だから気にしなくていいぞ」
そう言って微笑う柳君。
私は小さな声で「そっか」と呟くと、いつもみたいに柳君の隣に座った。
そして、おとついや昨日みたいに、雑談を始める。
本の話や、図書新聞の話。
それはそれでよかったのだけど、一番聞きたかったことは、そんなことじゃなかった。
――さっきの子、誰? 柳君の、何?
本当は、それが聞きたかった。
だけど、その答えを聞くのが怖くて、どうしても聞けなかったのだ。
だから私は、ただひたすらに、当り障りのない話を続けた。
私の心の中に、大きなわだかまりを残して、その日は終わってしまった。