――12月19日。
相変わらず、今日も寒い。
今日は最悪なことに日直に当たってたりして、朝から、出席簿取りにいったり黒板消したりと、面倒臭いことこの上なかった。
しかも、日直が一緒だった小野君がすっごく体調悪そうで、仕事頼めないから、ほとんど私がやるはめになってしまった。
まあ、しょうがないけどさ。
3時間目が終わって、黒板を消すために教壇の前に立った。
前の時間は板書の量に定評のある社会の田中だったから、黒板に書き込まれた量は半端じゃない。
黒板の端から端まで、右も左も上も下もびっちりだ。
ノート写すのも大変だったけど、消すのも大変そうだなあ。
休み時間は10分しかないから、急いで消さなきゃ。
私が慌てて手を伸ばしていると、私の消している方とは反対側の端から、誰かが消し始めていることに気が付いた。
「真田君!?」
そう、黒板消しを手伝ってくれたのは、あの真田君だった。
驚いて、私の消す手が止まる。
「い、いいよ。真田君、日直じゃないでしょ」
「……今日の日直の小野が、体調不良で帰ったからな。ならば、小野の次の俺が日直の仕事に当たるべきだろう」
そう言いながら、彼はその大きな手でどんどん黒板を消してゆく。
え、ていうかやっぱ小野君帰ったんだ。しんどそうだったもんね……。
「でも、どうせ真田君明日も日直だよ?」
「だろうな。別にそれくらい構わんが」
うわ、えらい。
なんというか、さすが真田君……
そんなことを思っていると、あっと言う間に黒板はきれいに消されてしまった。
結局、ほとんど真田君がやっちゃったなー。
「ありがとう、真田君」
「礼を言われる程のことでもない。気にするな」
表情ひとつ変えずに彼はそう言って、席に戻る。
……やっぱちょっと怖いなあ。
あの仏頂面、なんとかならないのかなあ。
あれに付き合える彼女さんとか、本当にいるの?
昨日の柳君の話、やっぱまだ少し信じられないよ。
結局、その日の日直の仕事のほとんどを、真田君は手伝ってくれた。
そして、放課後。
あとは日直日誌を書いて、戸締まりをして、職員室に出しに行くだけだった。
図書委員の仕事が始まるまでに……なんとか間に合うかな。
そんなことを考えながら、私は教室に一人残って、教卓の上の時計をちらりと見る。
うーん、ぎりぎりかなあ……委員会の仕事、遅刻したくないし、もうちょっとスピードアップしよう。
だって、昨日、柳君とおしゃべりするの楽しかったもん。
あの時間、減らしたくないし。
急いで私が日誌を書いていると、廊下を誰かが歩いてくる音がした。
誰かが忘れ物でもしたのかな、なんて思っていると、がらっと教室のドアが開いた。
「書けたか、」
開くと同時に、低い声が教室内に響く。
この声は――
「真田君!?」
思いも寄らなかった来訪者に驚いて、私の日誌の書く手が止まる。
「どうしたの?」
「日直の仕事がまだ終わってないだろう」
日直の仕事って言ったって……今日は真田君、正式な日直でもなんでもないのに。
「今日はもともと日直じゃなかったのに、律義だね〜」
なんか感心するというか、呆れちゃうと言うか……
「一度やると決めたことを、途中で投げ出すのは性に合わん」
そう言って、彼は教室内の窓の施錠を確かめ始める。
「帰ったかと思ってたよ」
「ああ、部活の方に、少し遅れるとだけ報告してきたのでな」
そんなことを言う彼の背中をちらりと見ながら、私は昨日の柳君の言葉を思い出していた。
1度他人に口をだすと、自分の時間を犠牲にしてでも、最後まで面倒を見てしまう人だって言ってたっけ。
でもやっぱり、頑固っていうのも、間違いなくその通りっぽいな。
「柳君の言った通りだ」
ふと言った私の言葉に、今度は彼が反応する。
「蓮二と知り合いか?」
施錠を確かめ終えた彼は、今度は歪んだ机の位置を直しつつ、教室中を巡回し始めていた。
確かに日直業務の中に、「教室の机を整える」って項目あるけど、そんなのちゃんとやってる人なんていないぞ。
ほんと、なんというか律義な人だ。
「あ、うん。同じ図書委員なんだけどさ。昨日から、2人で放課後のカウンター業務当たってんの。いい人だよね、柳君って」
「そうだな。あいつは一見高くとまっているように見えるが、話してみれば人当たりがよくて話題も豊富だから、話しやすいだろう。それになにより、頭も良ければ要領もいいから、どんな時でも最良の方法を考えて対処してくれる。何かあっても、あいつに任せておけば間違いはないぞ」
机を動かす音に交じって、彼の言葉が聞こえる。
……それにしても、なんというか昨日の柳君もそうだったけど、この人たちお互いのいいところちゃんと認め合ってるんだなあ。
まさに親友って感じだ。
「本当に、真田君と柳君って仲いいんだね。昨日柳君も、真田君のこと褒めてたよ」
「そうなのか?」
「うん。不器用で頑固で顔は怖いけど、責任感が強くて実は優しい奴だって言ってた」
「……不器用で頑固で顔が怖いは余計だな」
あ。
余計な事言っちゃったかと思って、ふと顔を上げる。
すると、意外なことに、彼はどこか照れたような表情をしていた。
真田君のこんな顔、初めて見た……。
褒められて照れるなんて、確かに柳君の言う通り、可愛いところもあるんだなあ。
……あと、もうひとつの方も、ホントなのか聞いてみたいな。
この雰囲気なら、聞けそうかな。
「どうした、。手が止まっているぞ」
わわ。
彼の言葉に、私は慌てて日誌と向かい合う。
でも、すぐにそうっと顔を上げて、彼の様子を窺った。
「ね、真田君」
「なんだ」
「テニス部の2年生のマネージャーさんと付き合ってるって、ホント?」
私がそう尋ねた途端、彼が動かしていた机が、激しくずれたような音を立てた。
「な、なんなんだ唐突に」
彼の声が動揺で震えている。
いつもの冷静な真田君からは、全然想像できないような声だ。
「……これも、柳君が言ってた。真田君は、彼女の側で練習したいから、3年なのに部活に毎日のように顔を出してるんだって。……そうなの?」
「い、いや、そんなことは……」
返事とは裏腹に、彼の顔は真っ赤だ。
その顔を見ていると、返事を待つまでもなく、柳君の言っていたことが真実だと判る。
「……真田君、可愛いとこあるんだね」
「誰もそうだとは言ってないだろう!」
彼が声を荒げるけど、そんな真っ赤な顔できついこと言われても、全然怖くないや。
「いいじゃん、真田君がそんなこと考えるなんて意外だったけど、私そういうの嫌いじゃないよ。彼女さん、愛しちゃってるんだね」
顔中真っ赤になった真田君は、からかうように笑った私から、目を逸らしてその顔を軽く片手で覆った。
「くそ、蓮二め余計なことを……」
「ねえねえ、その彼女さんってどんな子?」
「そんなどうでもいいことを言っとらんで、さっさと日誌を終わらせろ!!」
「そうだね。せっかく真田君が、大切な彼女さんとの時間を削ってまで手伝ってくれてるんだもんね」
くすくす笑う私を見て、真田君は困った顔で、眉間に皺を寄せた。
確かに、柳君の言った通りだ。
こんなに照れるなんて、これはなかなか面白い……もとい、可愛いぞ。
その後、私は真田君をからかいつつ日誌を書くのを終えた。
そして、教室の戸締まりをして、鍵を掛ける。
「ありがとね、真田君。じゃあ、私は委員会行くから。鍵は後で図書室の鍵と一緒に返しておくね」
「ああ。頼む。ではな」
低い声で言い、彼は踵を返して歩きだした。
その背中に、思わず私は声をかける。
「彼女さんによろしくねー」
「うるさい!!」
彼の怒声が、廊下に響いた。
「ごめん、遅れちゃった!」
図書室に駆け込むなり、私は叫ぶ。
昨日と同じく、中にいたのはただ一人――柳君のみ。
「か。相変わらず大きな声だな」
そう言って彼はくすりと笑う。
「ごめん、うるさかった?」
「いや。たえず騒がしいのは苦手だが、のようなにぎやかなのは嫌いではないよ」
その台詞に、思わず私の心がどくんと高鳴る。
……き、嫌いじゃないって……
柳君、さらっとすごいこと言ってない?
思わず熱くなった顔を、私は片手で軽く覆う。
「あ、あはは。ありがとう」
大袈裟に笑ってごまかして、私はカウンターに回る。
「ごめんね、日直で遅くなっちゃった」
「大丈夫だ、どうせ今日もほとんど業務なんてないだろう」
パソコンの前に座っていた彼は、そう言って軽く苦笑する。
そうだね、と私も苦笑で返して、柳君の隣に腰掛けた。
しかし、やっぱりと言おうかなんと言おうか。
見事に今日も、人は来ない。
「やっぱり、暇そうだね」
「そうだな」
「何か仕事ないかな。壊れた本の補修とかさ」
「そうだな、ちょっと見てこよう」
そう言って、彼は立ち上がって図書準備室に入る。
しばらくして、彼は1冊のハードカバーの本を手に戻ってきた。
「補修箱に入ってたのは、この1冊だけだな」
「どれどれ? どんな本?」
彼の手から本を受け取って、その表紙を見る。
……あ、これ、私の大好きな本じゃん。
あまり有名じゃないんだけど、この作者さんの本はなかなか面白いんだよね。
その中でも、この本は特に秀逸だったなあ。
そんなころを思いながら、私はその本をぱらっと捲る。
すると、その途端に本がぱかんと割れてしまった。
「うわ、これは結構やばそう」
見事なほどにページ割れを起こしている本を、私はまじまじと見る。
しかも1か所だけじゃなく、複数に分かれていて、いくつかの紙の束が背表紙でなんとか繋がっている状態だ。ページが足りているかどうかも怪しい。
満身創痍としか言いようのないこの本が哀れで、ちょっと悲しくなった。
しかも、自分の大好きな本だから余計に。
「ここまで傷んでると、私たちにはどうしようもないね。悲しいけど」
呟きながら、私は本を閉じてその表紙をじっと見つめた。
ああ、この本、本当にいい本なんだけどなあ。
この状態じゃ、しばらく棚には入れられないよね。
下手したら、廃棄じゃないの?
そんなことになったら悲しすぎるなあ。
なんでこんなに傷んじゃったんだろう。
「……確かこの本、の好きな本じゃなかったか?」
ふと聞こえた彼の言葉に、私は驚いて顔を上げた。
「え、なんで知ってるの?」
柳君に、この本が好きだって言ったことなかったと思うんだけど……。
「以前、図書新聞にお薦めだと書いていただろう」
彼が涼しい顔をして言った言葉に、私の驚きは更に増した。
図書新聞――た、確かに書いた。書いたけど!
あれ、読んでくれてる人いたんだ!!
図書新聞は、図書委員の仕事の中で、私が一番好きな仕事だ。
主に新着図書や図書室の開架時間のお知らせがメインなんだけど、それだけじゃ紙面が埋まらなくて、その時の担当者が余った部分にクイズ書いたり、お薦め図書を書いたりする。
持ち回り制なので、毎回私が書くわけではないけれど、私が当たった時は、ほとんど自分の好きな本の紹介で埋めていた。
好きな本を自分の言葉で紹介するのが本当に楽しくて、お知らせ部分の文字を小さくしてまで、書きまくったこともあったぐらいだ。
けれど、クラスで配布してもらうわけではなくて、せいぜい図書室前の掲示板に貼り出されるのと、図書室のカウンター前に「ご自由にお取りください」状態で置かれるだけなので、読んでいる人なんかいないだろうと勝手に思ってたんだけど……。
「どうした、」
「あ、う、ううん。ごめん、あれを読んでくれてる人がいるなんて思わなかったから」
「俺が図書委員になる前から、の担当する回は、いつも読んでるぞ。お薦め本のコーナーが、本当にその本が好きなんだと思わせるような紹介文で、読んでいて面白い。お前は文章が上手いな」
うわー、どうしよう。
すっごく嬉しい。
「あ……ありがとう。誰も見てないと思って、結構好き勝手書いてるけど……そう言ってもらえると、嬉しい……かも」
「こちらこそ、お前のおかげでいろんな面白い本に会えた。ありがとう」
そう言って、彼は微笑う。
――どくん。
自分の心臓の音が耳に届くくらい高鳴り始め、やばい、と心の中で何かが叫んだ。
「う……ううん、こっちこそ、読んでくれてありがとう」
彼に勘付かれないように息を整えて、私はにっこり笑う。
「その本も、読ませてもらったんだが――」
私の手にあった痛んだ本を指差しながらそう言うと、彼はそのまま手を差し出した。
「貸してくれ」というジェスチャーだろうかと、私は無言で本を彼に手渡す。
それを手に取った柳君は、それ以上本が痛まないように気をつけながら、そっとページを捲った。
「これを紹介していたのは、4月の終わりごろの回だったか?の図書新聞を読んだ後に興味を持って読ませてもらったよ。確かに面白かった。こんな名作が、修復されるまで棚に並ばないというのは勿体無いな」
もう、せっかく心を落ち着けようと頑張ってるのに……どうしてそう私を喜ばせることばかり言うかな。
柳君が私の新聞を読んでくれたことも、私の大好きな本を面白いって言ってくれたことも、私と同じことを考えてくれたことも、全部嬉しい。
「そうだよね。私も、そう思う」
大袈裟に笑いながら、私は動揺が彼にばれないように取り繕った。
そんな私の隣で、彼はあの本をぱらぱらと捲って、その中身を読んでいる。
そのまま、数分の時間が経つ。
――沈黙が、なんだか重かった。
ひたすら、私は話題を探す。
えっと、えっと……あ、そうだ!!
「あ、あのね。今日、私真田君と話したんだけど」
「……弦一郎と?」
彼の眉がぴくりと動いて、彼は私を見る。
「昨日ね、柳君か言ってくれたじゃない。真田君は責任感のある優しい人だって。確かに、そうみたいだね。今日、日直手伝ってくれたよ」
「そうか」
「あと、彼女さんのことも聞いたけど、真っ赤な顔してた。確かに可愛いとこあるね。真田君のこと、見る目変わっちゃった」
そう言って、私はははっと笑う。
すると、柳君は少し黙ったあと、持っていた本を閉じて、ふっと笑った。
「……どうやら、苦手意識は無くなったようだな」
……ん、なんだろう。
今、柳君の笑顔、今までとなんか違う感じがした、かも。
ちょっと引っかかったものを感じながら、私は言葉を続ける。
「うん、そうだね。思ってたような人ではなかったかな。いい人だなって思った」
「そうか、それは良かったな」
頷いて、彼は立ち上がる。
そして、持っていた本を手に、図書準備室に消えてしまった。
……今の柳君、なんかおかしかった気がする。
あれ、私何かおかしなこと言っちゃったかな。
そう思ったら、私の胸がちくりと痛んだ。
その後、柳君が図書準備室から出てきた後も、なんだか上手く話せなくて、私は棚整理ばかりをしていた。
そして、結局今日は誰も来ないまま、開架時間を終えた。
私と柳君は、昨日と同じように図書室を閉めて向かい合う。
「柳君は、また部活?」
「ああ」
「いつもすごいね。頑張ってね」
「ああ、ありがとう。では、お疲れ様、」
「お疲れ様、柳君」
そう言うと、彼と私は、昨日と同じように反対方向に向かって歩き出し、別れた。
私はそのまま真っ直ぐ職員室に向かい、鍵を返す。
そして、帰ろうと思ったその時――近くの窓から小気味いいボールを打つような音が聞こえて、ふと、職員室の近くの窓を覗いた。
そこからは、テニスコートがよく見えた。
どこかどきっとしながら、テニスコートを眺めていると、先ほど別れた柳君の姿が目に飛び込んできて、私はさらに脈拍を上げる。
出てきたばかりだと思われる柳君は、真田君と一言、二言何かを喋ると、やがて壁に向かってボールを打ち始めた。
すごい……あんなに早く、軽やかに動けるもんなんだ。
でも、すごく力強くて、正直――かっこいいと思ってしまった。
壁相手であんな感じなら、試合したら、どんなふうに動くんだろう。
……もっと早く柳君のこと知っていれば、テニスの試合、応援しに行ったのにな。
そんなことを思いながら、私はもうしばらく、彼の姿を見つめていた。
それからずっと、私の頭の中は柳君でいっぱいで。
帰ってからは、本棚に仕舞ってある過去の図書新聞のファイルを取り出して、その中から柳君の担当の回を引っ張り出して読み漁っていた。
彼は私の図書新聞を褒めてくれたけど、彼はどんなのを書いていたのだろうと思うと、読みたくてたまらなくなったのだ。
図書新聞、今までのは一応全部貰って目を通していたけれど、正直ほとんどの回はみんなやっつけ仕事って感じで、印象にも残っていなかった。
だけど、その中で数回だけ、面白い回があったなと思ったことがあったんだけど――こうやって見返していると、その全てが柳君の担当した回だったことが判って、私は本当にびっくりした。
今まで、書いてた人のことなんて気にしてなかったけど……今まで気になってた回が全部柳君のだったんだって思うと、なんか嬉しいような、ドキドキするような、不思議な感じ。
あの人と、もっと話してみたい。
あの人のこと、もっともっと知りたい。
どうしてそんなにも彼のことを気にしてしまうのだろう――その問いの答えは、なんとなく予想はついていたけれど。
ただ、自分の中で、その答えをはっきりとした形にするのが怖かった。