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omake:The night of the day

今日のことは、多分一生忘れないだろう。
見た景色も、話したことも、感じたことも、――そして、あの繋いだ手のあたたかさも。

祭り会場を出たのが午後八時前くらいだっただろうか。
彼女を家の前まで送り、「また明日」と言い合って別れたのが八時半を過ぎたくらいで――結局真田が家に帰ってきたのは、九時を回った頃だった。
明日は土曜で学校は休みだが、朝からしっかり部活もある。
関東大会ももう目の前の今、やっと彼女と気持ちが繋がったからと言って、浮かれてばかりもいられない。
気持ちを引き締めてかからねばと思いながら、真田は浴衣を着替えてそのまま風呂に入った。
そして、風呂から上がるなり、待ち構えていた母に居間に呼ばれたのだった。

「弦一郎、あの子のことなんだけど」

それが、真田が腰を落ち着けると同時に響いた、母の第一声だった。

――やはり来たか。

帰れば絶対に母に問われると覚悟はしていたが、上手く言葉が出ず、真田はぐっと言葉に詰まる。
そんな息子を嬉しそうに見つめながら、母はそのまま言葉を続けた。

さんと仰ったわね。テニス部のマネージャーということは、あなたも大分お世話になっているんでしょう?」
「はい。……とても」
「なかなか、可愛い子だったわね」
「……そうですね」
「私、あの子気に入ったわ、弦一郎」
「そう、ですか」

合間合間に咳払いを含めながら、真田は母の言葉を受け流すように返事をする。
母の顔は弾けるような笑顔で、言葉の端々から彼女への興味や好意が感じ取れた。
――もし、その彼女と今日から交際することになったなどと言ったら、なんと言うだろう。
勿論、その事実を母に隠すつもりは無いし報告せねばとも思うのだが、恥ずかしさが上回って、真田はなかなかその事実を口に出来なかった。

「そういえば、お祭りはどうだったの? 楽しく過ごせた? ……あ、柳君達もいたんだったかしら」
「……ええ、途中までは蓮二たちも一緒でした」
「あら、『途中まで』ということは、途中からは違ったということなのね?」

細かい部分を聞き漏らさないところは、流石我が母だ。
そんなことを思いながらも、真田はその質問の内容を頭で反復する。
素直にそうだと答えれば、今日あったことを根掘り葉掘り聞かれてしまいそうな気がした。
正直、それは勘弁してほしいのだが。

「弦一郎、どうなのよ」

口篭もっていると、母がせっつくように問い掛けてきた。
興味津々なその様子は、まるでクラスの女子が教室で無駄なおしゃべりをしている時のような、あの女子特有の乗りを感じる。

「いいでしょう、そんなことは」

思わず遮るように真田が言うと、母はむっと口を尖らせた。

「あら、弦一郎。聞かせてくれないの? 私に言えないなんて、やましいことでもあるんじゃないでしょうね」

――やましいこと。
その言葉に、真田の顔がかあっと熱くなる。

「あ、あるわけないでしょう!」
「じゃあ聞かせてくれてもいいじゃないの。母さんに隠し事だなんて、そんな子に育てた覚えは無いわよ。もしかして反抗期?」

反抗期とまで言われ、真田はまた言葉に詰まった。
変に高鳴った心臓を落ち着けるように大きな息を吐くと、母から微妙に視線を逸らしながら、ぽつりぽつりと呟き始める。

「……人混みで、大人数で行動するのは都合が悪かったので……その、途中からは、彼女と二人で行動しましたよ」

真田がそう言った途端、母の目が今まで以上にきらきらと輝きだした。

「あらあら、そうなの!」
「ええ……何しろ、ものすごい人混みでしたから」
「それで? あの子と二人で何をしていたの?」
「何をしたというほどのものでは……屋台で食べ物を買って食べたり、少し輪投げなどをしたりした程度ですが」
「まあ、デートみたい!!」

その母の言葉に、思わず真田はぶっと吹き出してしまった。
咳き込みながらも、真田は呼吸を整えるようにとんとんと自分の胸を叩く。
まだ気持ちを告げる前の出来事とはいえ、確かにあれはデートと呼んでも遜色の無いものだったかもしれない。
しかし、自分の母にそんな風に言われると、なんとも言えない恥ずかしさがこみ上げてくるというものだ。

「きっと、周りからは恋人同士に見えたでしょうね」

まるで自分のことのように嬉しそうな表情をしながら、母は言う。

「……どうでしょうか」
「あら、絶対に見えたわよ」

母は力強くそう言いきると、思い出すようにふふっと笑った。

「だって、あなたたちがウチから出掛けて行った時も、母さんには可愛らしい恋人同士にしか見えなかったもの。本当にお似合いに見えたんだけど……こういうのも、親馬鹿っていうのかしらね」

母の声は、なんだか本当に嬉しそうだ。
勿論、お似合いと言われて悪い気はしないけれど、やはりなんだかとても照れ臭い思いの方が強い。
――などと、そんなことを思って視線を逸らしていると。

「ねえ、弦一郎、あなたやっぱりあの子のこと好きなのよね? 後輩とかマネージャーとかじゃなくて、一人の女の子として」

とても直球な問い掛けが、母の口から飛び出した。
再度吹き出しそうになった息をぐっと堪えて飲み込んで、真田は極力平静を装いながら、その言葉に頷いた。

「ええ。一人の女性として、好きです」
「あら、意外とあっさり認めたわね」

そんなことを言う母に、真田は心の中で「どういう意味だ」と思いながらも、言葉を返した。

「……蓮二や幸村に、今日同じようなことを言わされましたから。ご期待に添えず申し訳ありません」
「あらあら、そうだったの。柳君も幸村君も、さすがだわね」

母は、そう言ってまた笑った。
そんな目の前の母に、思わず親友二人の姿が重なる。
前からそんな気はしていたが、人をからかって遊ぶようなところなど、母とあの二人は結構似ているのではないだろうか。

「じゃあ、つまりあの二人もあなたの気持ちを知っているのね。あの二人ならいろいろと手を貸してくれそうね。心強いわ!」
「心強すぎて困るくらいですよ、あの二人は」
「あら、それくらいで丁度いいと思うわよ。あなたみたいな甲斐性なし、一人でなんとかしようと思ったらいつまで経っても進展しないでしょう。柳君と幸村君にいろいろ教えてもらいなさいな」

遠慮のない母の言葉が、真田の心をえぐる。
恥ずかしさと少々の苛立ちと、しかしそれでもどこか自分でも納得してしまう情けなさが心の中で混ざり合い、真田は何も言い返せない。
――すると。

「ふふ、ごめんなさいね、弦一郎。ちょっと言い過ぎちゃったわね。……でもね、いろいろ言っちゃったけど、私は嬉しいのよ。あなたが好きになった子が、あんな子で」

そう言って優しく笑うと、母は続けた。

「あの子、とてもいい子よ。浴衣を着せてあげた時、あなたの学校でのことを聞かせて頂戴って頼んだら、ものすごくいい顔で、一生懸命あなたの部活での様子を話してくれたの。あのときの様子、あなたにも見せてあげたかったくらいよ」
「あの時、そんな話をしていたんですか」
「ええ。あなたがどれだけ部活で頑張っているのかとか、どれだけ周りに信頼されているかとかね。あと、自分にとてもよくしてくれて、とても優しい人だと思いますって力説してくれたわよ。やっぱり、自分の息子がそんな風に言われると、悪い気はしないわね」

その光景を想像して、真田は顔が熱くなった。
こんな自分をあんなに必死に好きだと言ってくれた、あの彼女のことだ――きっと、とても一生懸命語ってくれたのだろう。
恥ずかしい気持ちと、それ以上に嬉しい気持ちで、思わずその口元が緩んだ。
そうだ、明日時間があれば、母と何を話していたのか聞いてやろうか。
きっと自分の話をしていたのだなどとは言えないだろうから、どうすればいいのか分からなくなりながら赤くなって俯いて口篭もったりして、とても愛らしい表情を見せてくれるのではないだろうか。
その様子を想像していると、真田は更に笑みが零れた。

「私、あの時直感したの。あの子もあなたのこと、絶対好きだと思うわ。だから、頑張るのよ! 柳君と幸村君にも協力してもらって、絶対にあの子捕まえなさい!!」

何も知らない母が、力強く言う。
捕まえろ――その言葉に、思わず神社の境内で無我夢中で逃げる彼女の手を捕らえたことを思い出した。
あの時掴んだ掌の感触を思い出し、それを逃がさないように、ぐっと自分の掌を握り締める。

――捕まえたとも。やっと。……やっと。

「……捕まえ、ましたよ」

真田は、呟くように言った。

「え、弦一郎、『捕まえた』って……」

ぱちくりと目を瞬かせ、母の挙動が止まる。
照れ臭くなりながらも、真田は言葉を続けた。

「つまり――まあ、『そういうこと』です」

恥ずかしくて、視線を逸らしながら頬を掻く。
すると、次の瞬間、母の甲高い声が部屋中に響いた。

「ま……まあまあまあ!! そうならそうと早く言いなさいな!!」

年甲斐もなく、母はきゃあきゃあ声を上げながら、嬉しそうに笑った。

「よくやったわ弦一郎!! あなた、なかなかやるじゃないの!!」
「か、母さん……こ、声が少々大きいのでは」

真田は慌てて目の前の母を静止する。
しかし、母の高揚を止めることは出来そうになかった。

「ね、弦一郎。それじゃ、またあの子うちに遊びに来れるわよね。いつ来れるかしら?」
「しばらくは無理です!大会が近いので、そんな時間はありません!」
「そうなの、なら、しょうがないわね。でも、大会が終わったら必ずもう一回連れてきてちょうだいよ! ああ、今から楽しみだわ。お菓子は何がいいかしらね。……ああ、お夕飯とか一緒に食べたいわね。いえ、むしろ一緒に作ったりしたいわー!」

満面の笑みで、母は口早に捲し立てる。
そのテンションにどっと疲れて、真田は思わず額を抑えた。

「ね、弦一郎。明日はお赤飯炊きましょうか!」
「け、結構です!!」

母の喜びようがなんだかとても恥ずかしくて、もうこれ以上は付き合っていられなかった。

「俺はもう、明日の準備をして寝ますよ!」

そう言って立ち上がると、真田は逃げるように母の居る居間を後にした。

嬉しそうに父の名を呼ぶ母の声を背中で聞きながら、真田は廊下を足早に歩く。
その途中、廊下で祖父の弦右衛門が自室からひょっこり顔を見せた。

「弦一郎。どうしたんじゃ。えらく賑やかじゃのう」
「……母さんに、何かいい事でもあったようです」

まだ何も知らない祖父に、適当に返事をする。
きっと明日には――いいや、もしかしたら今日中に祖父にも話がいくだろう。
そうなれば、この祖父からも根掘り葉掘り聞かれることになるのだろうから、今はもう、余計なことは言うまい。
そんなことを思いながら、真田は祖父に軽く挨拶をして、足早に自室へと戻った。

――長い一日だった。
大きな息を吐いて、真田は学習机の椅子にどかっと腰を下ろす。

やっと、あの彼女と気持ちを通じ合わせることが出来た。
それは本当に嬉しいし、心から幸せだと思う。今夜のことに、後悔など微塵もない。
それは間違いなく、今の本心だ。
しかし、真田には大きな懸念もあった。
今の状況を考えると、男女交際を始めたからと言って彼女に何か特別なことをしてやれるわけでもない。
関東大会ももうすぐそこまで迫っている。
明日からは今まで以上に部活動と自主練習に打ち込まなければならない日々が始まるだろう。
大会が終わるまではきっと、自分は何も彼女に与えてやれない。
それに、この時期、この状況下で、副部長である自分とマネージャーになったばかりの彼女が男女交際を始めるということに対して、批判的に思われることもあるだろう。
自分が批判に晒されることは覚悟しているし構わないと思うが、彼女がそういう目に合うとすれば心が痛む。
そうならないためには、やはり今まで以上にけじめをつけて、周囲に自分たちの関係が変わったとしても、特に悪い影響はないと態度で示していくしかないと思う。
部活中は、これまで以上に厳しく接することもあるだろう。
――そうなれば、彼女を傷つけてしまうことも、辛い想いをさせてしまうことも、あるかもしれない。

そんなことをぐるぐると考えて、真田は大きな息を吐く。
その瞬間――なにやら音が鳴り、はっと顔を上げた。
自分の携帯電話の音だとすぐに気付き、真田は机の上に放置していた自分の携帯を手に取る。
音はすぐに止まった。どうやらメールらしい。
こんな時間に一体誰からだろうと思いつつ携帯電話を操作すると、目に飛び込んできた名前に心臓が跳ねた。
――そう、それは彼女からのメールだったのだ。
その名前を見るだけで、なんだかとても顔が熱くなる。
真田は、落ち着けるように息を吐きながら、メールの中身を表示させた。

――こんばんは、真田先輩。です。今日は本当にありがとうございました。

ありがとう、と言いたいのはこちらだ。

――そろそろおうちに帰られた頃ですか? こんな夜遅くにメールしちゃっていいかなと思ったんですが、今日はとってもお世話になったし、どうしてもお礼が言いたくて。ごめんなさい。

メールくらいで気を遣う辺りが、とても彼女らしい。
くすりと笑って、真田は更にメールをスクロールさせる。

――今日は一日ありがとうございました。先輩のおうちで浴衣を着せてもらったのも、たこ焼きとクレープ交換したのも、輪投げも、家まで送ってもらったのも、全部すっごく楽しかったです。

その文面を目で追いながら、真田もまた楽しかった時間を思い出し、更に笑みがこぼれた。
そして。

――でも何より、あの神社で逃げ出した私のことを追いかけて来てくれて、本当にありがとうございました。私が隠してたこと全部聞いてくれて、先輩も隠してたことを教えてくれて、ふたりで全部話し合えて、本当に良かったです。

その文章に、真田の胸がどきりとした。
今まで誰にも見せたことのない、あんなに情けない姿を晒したけれど、彼女はそれが良かったと言ってくれた。
そして更に続いている文章に、真田は胸を撃ち抜かれた。

――ふつうに気持ちを伝え合うだけじゃ、きっとここまで私はすっきりした気持ちで先輩とこういう関係になることは出来なかったと思います。だからこれからも、何かあったらちゃんとこうやって話し合っていけるといいですね。

ああ、そうだ。ちゃんと話すことが大切なのだ。
今この胸にある懸念も、明日、しっかり彼女に話そう。
こんな時だから何も与えてやることは出来ないし、おそらく今まで以上に厳しく接するだろうことも、そしてその上で、心から大切に思っていることも、ちゃんと伝えよう。
きっと彼女なら分かってくれる。

――これからもどうかよろしくお願いします。なんて、改まって言うとやっぱ照れちゃいますね。
あ、返事はいいですから! 疲れてると思うので、ゆっくり休んでくださいね。
また明日も部活頑張りましょうね! それじゃ、おやすみなさい。

そこで、メールは終わっていた。
最後まで、彼女らしい可愛らしさと気遣いに溢れた内容だった。
真田は、そのメールをもう一度じっと見つめる。
今まで受け取ったことの無いような可愛らしいメールは、自分の心を柔らかく刺激した。
とても心地のいい、甘い感覚――手書きでもない、無機質に形が整ったデジタルな文字が並んでいるだけの短い文章なのに、こんな気持ちになれるものなのだなと、真田はくすりと笑う。
たったメール1通でこんな風になってしまうなんて、思いもしなかった。

(……捕まったのは、俺の方かもしれん)

思わず笑みを零しながら、真田は返信のボタンを押す。
返事はいいと言ってくれた彼女の気持ちは嬉しかったけれど、こちらだって、彼女に「ありがとう」と返したかったのだ。
慣れないメールを、その大きな指で一生懸命打つ。
ボタンを押す度に携帯が揺れて、着いていたテニスラケットのストラップの鈴がちりんと鳴った。
そんな音すらいとおしく感じて、真田の頬が、また緩む。

――こんばんは。お前の気持ちはありがたいが、俺も言いたいことがあるので、すまないが返事をさせてもらう。
こちらこそ、今日は本当にありがとう。とても楽しくて充実した1日だった。
何より、お前が俺の気持ちに向き合って正直に全てを話してくれたこと、本当に嬉しく思う。
それだけがどうしても言いたかった。これからもどうかよろしく頼む。
では、お前もゆっくり休むように。お休み。 真田

必死で文面を考えながら、1文字1文字打った。
普段メールなどほとんどしないが、どうしてもメールする必要がある時は、用件だけを簡潔に書いて送る事が多い。
だから、こんなメールは自分にしてはとても長くて珍しかったが、やはり彼女に比べれば堅くて面白みのないメールだと、読み直しながら真田は苦笑する。

(やはり、メールは慣れないな)

しかし、これからは、こんな慣れないことがいくらでもあるのだろう。
今までの自分の人生では有り得なかったことを、たくさん経験するだろう。
でも彼女と一緒なら――それも悪くない。
慣れないことを彼女と一緒に楽しみながら、あの笑顔が曇らぬように、ずっと守り続けていこう。

(まずは、明日から始まるであろう、冷やかしの類から彼女を守らねばならんだろうな……)

彼女との仲のことは、最低でもレギュラーメンバーにはきちんと話しておきたい。
どういう反応をされるかは分からないが、レギュラーメンバーにはおそらく否定的には受け取られない、と信じたい。
しかしそうであっても、発覚した瞬間、冷やかしやからかいはおそらくあるに違いないと思うのだ。
その様子が容易に想像できて、苦笑を浮かべながら、真田はメールの送信ボタンを押した。

――次の日。
真田の予想通り、二人が付き合いだしたことは速攻でバレてしまい、朝からちょっとした騒動となった。
その上、昼に家から持って来た弁当を開けると本当に赤飯が入っていて、それを見た真田が妙にぐったりしたことは言うまでも無い。

初稿:2009/08/25
改訂:2010/05/13
改訂:2024/10/24

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