1、の溜息
「今日も、雨かあ……」
放課後、部活に行く準備をしていたは、教室の窓から空を見上げ、誰に言うでもなくそう呟いた。
六月も下旬に入り、季節は梅雨に入っていた。
ここ数日は、毎日のように雨が降り続いている。そのため外のコートは使えず、屋内や体育館を使用しての練習となっていたが、降り続く雨やどんよりとした曇り空は、ただでさえ晴れないの心を更に落ち込ませていた。
真田と共に部活の買出しに行ってから、既にもう二週間が経つ。
彼とはあれからも毎日部活で顔を合わせているが、彼の様子はあの日の最後のままだ。
あちらから話し掛けてくれる回数は格段に減ったし、やっと話し掛けてくれたと思っても、部活の伝達事項で少し話をするだけ――本当に最低限必要な話だけだ。そしてその僅かな機会ですらも、彼は今までのようにを真っ直ぐ見ることはなくなってしまった。目を逸らしたり顔を背けた状態で言葉少なげに必要なことだけを話すと、すぐにどこかへ行ってしまう。また、練習中などに偶然目が合うことも何度かあるのだが、そういう時も彼は決まり悪そうに慌てて視線を背ける。そして、彼がこんな対応をしているのは、見ている限り自分ひとりだけだ。
やはり彼に嫌われてしまったのだろうかと思わずにはいられず、最近はからも彼に話し掛けることなど出来なくなっていた。
でも、が真田を嫌いになることはどうしても出来なかった。いっそのこと、嫌いとまでは行かなくても、頭の中から彼のことを消して考えないようにすればいいのにと思うのに、それすらも出来そうにない。
やはり、毎日毎日部活で真田の姿を見てしまうからだろう。
関東大会が近いからか、彼のテニスには今まで以上に力が篭っていた。
あんなに誰よりも強いのに、絶対に手を抜くことなく一分一秒を惜しんで練習に精を出し、合間を見つけては他の一般部員の指導をしたり、部のために動いていたりする。そんな真摯にテニスと向き合っている彼の姿は、やはりとても素敵だと思ってしまうのだ。
もともとマネージャーをしてみようと思えたのも、なんだかんだ言ってもあの姿に惹かれたからというのが一番大きな理由だったのだし、自分にとって彼がテニスをする姿はやはり特別なのだ。
例えどんなに距離を置かれてしまっても、彼がテニスをやっている姿を見ている限り、彼のことを考えないようにするということは所詮無理な話だろうと思う。ましてや、彼をどうでもいい存在として忘れてしまうことなど絶対に出来ないだろう。
(……ううん、見てれば見てるほど、むしろもっと――)
――そんなことを思いそうになった瞬間。
は、今生まれかけた考えを消し去るように首を横に振った。
(……違う)
怖かった。
この先を考えると踏み込んではいけない結論にたどり着きそうで、はどうしても怖かった。
真田はそういう目で見られるのが嫌だからこそ、距離を置いたのだろうから――自分は何があっても、絶対にそんな目で彼を見てはいけないのだ。
余計なことは考えちゃいけない。最近やっと自分ひとりで判断して動けるようになってきたのだし、今はただ全力でマネージャーの仕事を頑張ればいい。
例え今彼と話は出来なくても、側で笑いかけてもらえなくても、自分がマネージャーとして一生懸命頑張っていれば、きっといつかまた前みたいに笑って話せる日が来るかもしれないから。
そんなことを思い、自分自身を一生懸命励ましながらも、やはり心は晴れない。どんよりとしたこの空のように暗く重いままだ。
は部活へ行く準備をしながら、深く溜息をついた。
◇◇◇◇◇
2、真田の溜息
今日は雨が降っていたので、練習は体育館を借りての屋内練習となっていた。
しかし、外のコート練習に比べれば、練習場所が制限される分思い通りの練習は出来ない。
他の部活も含めたたくさんの生徒たちと、場所を譲り合いながらの練習となるので、合間合間に手持ち無沙汰になることも少なくなかった。
だが今の真田にとっては、何もせずぼうっと時を過ごすのが何よりも苦痛だった。
練習の手を止めると、どうしても彼女のことを考えたり、目で追ったりしてしまう。
すると、彼女の一生懸命な姿が目に入ってくるのだが、今はその姿を見ているだけで胸が痛むのだ。
彼女が入部して一ヶ月以上が経ち、マネージャーとして教えなければいけないことは、ほぼ全て教えてしまった。
もう特に指示を出さなくても、彼女は何の問題もなく自身で判断して、必要な仕事を見つけてしまう。
自分がいなくても、彼女は一人で立派にマネージャー業をこなせるようになったのだ。
それはとても喜ばしいことのはずなのに、ただでさえ遠くなってしまった彼女との距離が更に遠のいてしまったような気がして、真田はそれを素直に喜ぶことが出来ずにいた。
そして、そんな風に思ってしまう自分がなんだかとても醜いものに思えて、苦しかった。
真田は、自分がどうしたいのかわからなかった。
彼女と話をするだけで緊張して体が強張り挙動不審になってしまうから、この調子では自分の抱く想いなどあっという間にばれてしまいそうな気がして、しばらくは彼女と距離を置こうと思ったのは自分自身だ。
しかし、いざ距離が離れてしまえば、寂しいとか悲しいなどと考えてしまう。――馬鹿ではないだろうか。
自分の行動は矛盾だらけだ。
彼女が好きで今までのように話したいと思っているのに、その気持ちが悟られるのが怖いからと極端に距離を置いてしまったりとか、彼女を傷つけたくない、嫌われたくないと思うのに、この態度に明らかに傷ついている彼女に全くフォローしないでそのまま放っておいたりとか。このままだと、彼女との距離は遠のくばかりだというのに、それが分かっていてもどうにもできないでいる。
本当に、自分が何をしたいのかわからない。
こんな風に柄にもなく思い悩むくらいなら、いっそのこと気持ちをさっさと打ち明けて振られてしまえばいいと思うこともあるのだ。
彼女のことだ、酷い言葉でなじったりは絶対にしないだろうし、きっとこちらが極力傷つかないような言葉を選んで優しく断ってくれるに違いないと思う。
そして、はっきりと振られてしまえば、こちらだって全てを忘れて今までのように普通に目を合わせて話も出来るだろう。
――多分、だが。
けれど、頭ではそう分かっていても、行動に移すことが出来ないのだ。
やはり、はっきりと彼女に答えを突きつけられることが怖いのだろうか。
こんなにも臆病だったのだろうか、自分は。
(――馬鹿か、俺は)
こんな自分が恥ずかしく、しかも関東大会を目の前にしたこんな大切な時に一体何を考えているのだろうと思うのに、彼女のことや彼女への想いを考えずには居られない自分がいる。
だから、真田はなるべく自分自身に休む暇を――余計なことを考える暇を与えたくなくて、少しでも時間が余るとすぐに何か出来ることはないかと探し、自身の練習や一般部員の指導に当たった。
邪魔にならない体育館の隅で筋トレをしたり、走りこみをしたりと、ひたすらとにかく手を休めないようにしていたのだった。
全力で練習している間だけは、なんとか彼女のことを考えないでいられるから。
しかし、どうしても身体を休める時間というものは必要になってくるものだ。
流石に少し休むかと思い、座り込んで小休止を取っていたその時――同じように小休止に入ったらしい、ジャッカルに話し掛けられた。
「なあ、真田、最近いつも以上に練習量が半端じゃねえな。やっぱ関東大会前だから力も入るのか?」
ドリンクボトルを片手に、笑いながらジャッカルが尋ねる。
その質問に真田は一瞬沈黙し、ややあってから、少し目線を逸らして頷いた。
「……あ、ああ」
自分でも、ぎこちない返事だったと思う。
しかし、ジャッカルは根が素直で単純なのだろう、その言葉を疑うことなく笑って納得する。
「さすが真田だよな。俺も見習わなきゃな!」
そう言うと、ジャッカルは持っていたドリンクボトルに口をつけたが、すぐに何かに気付いたようにボトルから口を離す。
「あ、ドリンク無くなっちまったみてぇだ」
苦笑すると、ジャッカルは立ち上がって言葉を続けた。
「仕方ねえな、に入れてもらいに行ってくっか」
――。
彼がその名前を出した瞬間、心臓がどきりとした。
「真田は、まだドリンク大丈夫か? 良かったら一緒に頼んできてやってもいいぜ。ついでだからな」
ジャッカルはそう言って手を差し出し、屈託なく笑う。
真田は、自分のボトルを軽く振ってその残量を確かめた。どうやら、確かにもう残りは少なそうだ。
これを口実に彼女に話し掛けに行けるだろうかとも一瞬思ったけれど、やはり、今の自分が彼女と上手く話せるようには到底思えなかった。
「すまん、ジャッカル。頼む」
真田は自分が情けなくなりながらも、ジャッカルに自分のボトルを託す。
ジャッカルは「気にすんなって」と笑いながら、二つのボトルを手に真田の側から離れていった。
そんな彼の背中を座ったままじっと見つめ、真田は溜息をつく。
ジャッカルの姿を目で追っていると、その先にの姿が見えた。
彼女は、サービス練習をしている一般部員たちにボールを渡す手伝いをしているようだ。
そんな彼女にジャッカルが声を掛けると、彼女はボールを渡していた部員たちに声を掛けて一旦その動作をやめた。
そして、その場を他の部員たちに頼むと、ジャッカルと共にコートの側から離れた。
二人は少し離れたところまで移動すると、ジャッカルがにボトルを二つ手渡した。
そして、一言二言話していた途中で、ジャッカルがこちらを向いて自分を指差し――つられるように、彼女もこちらを向いた。
その途端、真田の心臓が刺されたように跳ねる。
反射的に慌てて立ち上がって後ろを向き、咄嗟に彼女から視線を逸らしたが、そんな自分の行動を真田はすぐに悔いたのだった。
――こういう態度を取るから、余計に彼女との距離が広がってしまうのだろうに。
一体自分は何をしているのだろうと思いながら、真田は再度大きな溜息をついた。
◇◇◇◇◇
3、柳の溜息
――やはり、事態は思ったより深刻なようだ。
真田がドリンクボトルをジャッカルに託してからの一連の様子を、少し離れたところから眺めていた柳は、そんなことを思いながら溜息をつく。
きっと、真田から渡されたドリンクボトルだとジャッカルが彼女に説明でもしたのだろう。
彼女がジャッカルにつられるように真田の方を見た瞬間、真田はあからさまに彼女から顔を背け、視線を逸らした。
そして、それを見た彼女もまた、とても悲しそうな表情を浮かべて俯いたのだった。
(どうやら嫌な予感が的中してしまったようだな)
柳が真田の様子に疑問を持ち始めたのは、真田とが二人で出掛けたあの日から、一週間ほど経ってからだった。
自分の誕生日のあの日、二人は二時間半――いや、部の買い出しの時間も含めれば三時間を越える時間を二人きりで過ごした。
しかし、全てを終えて病院に来た二人の様子がなんだか妙におかしく、特に真田は明らかに彼女を避けていたので、これは気持ちに気づいたのだろうと直感し、あの時は二人の仲が進んだことを幸村と共に喜びもしたのだが、事はそんな単純な話ではなかったらしい。
次の日からも、真田は彼女を避け続けた。
「好き避け」という恋愛心理があることは知っているし、ある程度なら微笑ましく見ることも出来るのだが、親友のあの避け方は度が過ぎているといえた。
声を掛けるのも最低限で、どうしても話さなければいけない時も決して目は合わさない。
他の相手には普通に接しているのに、彼女相手の時だけは近づくことすら躊躇し、話すときにもあからさまに視線を逸らすのだ。
そして、そんな真田の様子を自身が気付かないはずもなく、やがて彼女の方も真田に話し掛けるのを躊躇うようになり――とうとう二人はほとんど話さなくなってしまった。
いつかは落ち着くだろうかと思い、二人を見守り続けていたが、しばらく経ってもその様子は変わることはなかった。
いや、今の二人の様子を見ていると、事態はどんどん悪い方向に転がっているような気さえする。
しかし、なんとかしなければならないだろうかと思いつつも、正直なところこうなってしまっては手が付けられないというのが本音だった。
真田にとって、誰かに恋愛感情を抱くというのは初めての経験のはずだ。そしてきっと彼のことだから、そんな感情を抱いてしまった自分を少なからず恥ずかしく思っているに違いない。下手をすれば、こんな時期に何を考えているのかと自分自身を責めている可能性すらある。
問い詰めればムキになって否定する可能性は高いだろうし、頑なになって更に彼女への態度を硬化させてしまう可能性もゼロではないだろう。そうなれば、事態は更に悪化するかもしれない。
この悪循環を打開するには、彼女の方から動いてもらうことが最良なのではないかと思うのだが、彼女も彼女で最近はすっかり真田に対して臆病になってしまっているようで、それを望むのも難しそうだった。
タオルやドリンクボトルを渡すことすら躊躇われるのか、自分の方に持ってきて「真田先輩に渡して下さい」と弱弱しい笑顔で頼んでくることも少なくないほどだ。
しかし、ふとした瞬間に彼女の視線を追ってみると、その先に真田が居る確率はものすごく多いので、彼女の真田への想いが失われたわけではないようだが。
「全く、どうしたものかな……」
困ったように呟いて、柳は考えるように口元に手を添える。
あと一週間もすれば、期末テスト前の部活休止期間に入ってしまう。
それまでにはなんとか、二人がせめて普通に話せるように出来ればいいのだが。
そんなことを思いながら、柳はまた、溜息をついた。