が一年の時、入学直後に同じクラスで席が近かったというだけの理由でなんとなく仲良くなったのが、だった。
最初、はのことをなんて鈍臭い子だろうと思っていた。頭は決して悪くないのだが、あまり要領がいいとは言えず、単純で天然でおっちょこちょいなところもあって、ものすごく子どもっぽい子に見えたのだ。
しかししばらく付き合ってみると、その分何に関してもいつも一生懸命で、人の痛みや悲しみを一緒になって考えてくれたり、他人の幸せを自分の幸せとして喜んでくれたりする、心優しい子だと知った。
そんな彼女といるのは楽しくて、気付けばいつの間にか大の親友になっていた。
二年になってまた同じクラスになれた時は、二人で手を取り合って喜んだものだ。
◇◇◇◇◇
ある日の昼休み、はと一緒に教室で机を向かい合わせにしてお弁当を食べていた。
「……でね、見てると本当に面白いの!」
目に見えて分かるほど急いで弁当を食べながらも、楽しそうに部活の様子を語る。そんな親友の姿を見つめながら、は笑顔でその話に耳を傾けている。
「ただ、ボールを打ち合ってるだけじゃなくてね。いろんなショットを駆使して、相手の裏をかくのね。それが、打つ人によって特徴が出たりしてね……」
目を輝かせて、心から楽しそうにテニスの魅力を語る彼女の姿は、とても活き活きとしていた。
ついこの間までテニスの基本ルールすら知らなかったとは思えないほど、興味も知識も飛躍的に上がっているようだ。
帰宅部だった彼女が、いつか自分と同じ美術部に入ってくれないだろうかと思っていたこともあったけれど、今となっては彼女がテニス部のマネージャーになって良かったと思う。
満ち足りた表情を浮かべた、とても楽しそうな親友を微笑ましく思い、は笑った。
「ってば、すっかりテニスの虜だね」
その言葉に、は嬉しそうに頷く。
「うん! 最近は、試合見せてもらうのが楽しみでしょうがないの。……とは言っても、スコア取りの練習をしながらだから、試合中は楽しむ余裕なんてなかなかないんだけどね」
苦笑しながら、手にしていた紙パックのジュースを飲みほし、は続けた。
「ストロークやコースは、なんとかわかってきたんだけどね……球種がね。トップスピンばっかりならなんとか見極めつくんだけど、トップスピンとスライスとか、フラットとかいろいろ混ざってきたらもう全然ダメ。目がなんかチカチカしちゃう。それでも、最近は五割くらいはなんとか分かるようになってきたかな」
心から楽しそうに語りながら、は弁当に入っている最後のエビフライを口に入れる。それをごくりと飲み込むと、彼女は「ごちそうさまっ!」と元気よく言って、慌ててお弁当を片づけた。
「ごめんね、はゆっくり食べてね!」
そう言いながら、は空いた机の上をタオルハンカチで軽く拭き、場所を空けた。
そして、机からノートと一枚の用紙を取り出し、ノートを見ながらなにやらその紙に書き込みを始める。
一体何をしているのだろうと、は興味深そうに向かい側の机を覗き込んだ。
「……それ何?」
「これ? これは、備品数が書き込んであるノートと、備品の発注用紙。毎日このノートで備品の残りの数をチェックして、足りなくなりそうだったら、これに必要な数を書きこんでファックスで問屋とかお店とかに送って注文するの」
「へぇ……そんなことまでやってるんだ」
感心したように、は呟く。
「うん。仕事はね、やりだしたらほんときりがないくらいあるかな」
「でも大変だね。昼休みまで、こうやってやらなくちゃいけないなんて」
昼休みだけではない、授業の間のほんの十分しかない休み時間を費やす時もあることを、は知っていた。
「今はまだ、慣れないからさ。慣れてきたら、多分休み時間とか使わなくてもできると思うんだけどね。結局私の仕事が遅いんだよ、だから自業自得。それに、今はスコア取りの練習の為に、最後の練習試合をなるべく見学するようにしてるのね。あの時間までに確実に仕事全部終えるために、部活外の時間にやれることはやっときたいんだ」
口を動かしながらも、は目線を用紙とノートから動かさない。
ふとは、二週間前、自分にやれるだろうかと問うた彼女を思い出した。
あの時の不安そうな表情は、今では欠片もない。
真面目な顔つきで一生懸命仕事をするその姿は、もう完全にいっぱしの「テニス部のマネージャー」だ。
(確かに、ならちゃんとやれるだろうとは思ったけど……こんなにすぐ、「らしく」なるとは、ねぇ)
やはり、真田のおかげもあるのだろうか。
普段の会話でも彼女の口から真田の名を聞くことは多いし、その時の表情は大抵嬉しそうであったり、ほんのり頬を染めて恍惚としていたりする。それを見ていると、が彼に心惹かれていることに疑いの余地はない。
ただ、彼女の性格上、進展するにはまだまだ時間が掛かりそうだけれど。
そんなことを思いながら、もお弁当を食べきり、その蓋を閉じた。
「ごちそうさまー」
手を軽く合わせて、は片づけを始める。
ランチマット代わりにしていたお弁当包みのハンカチで空になったお弁当箱を包みながら、はなんともなしに言葉を続けた。
「それにしても、さ」
「うん」
「やっぱり真田先輩のこと、好きになっちゃったんだねー」
がその言葉を発した瞬間――ボールペンが、紙の上を勢いよくすべる音が聞こえた。何事かと顔を上げると、持っていたボールペンを斜めに滑らせたまま、真っ赤な顔で固まったの姿が目に入る。
「……?」
怪訝な顔をしながら彼女の顔を覗き込むと、目の前の親友は、顔を真っ赤に染めながら慌ててボールペンを手から離した。
「ちょっと、どうしたの? 大丈夫?」
「も、もう、がいきなり変なこと言うからあ!! やだ、修正ペンあったかなっ……」
そんなことを口走り、大袈裟な身振り手振りでは自分のペンケースを探りだす。そうしている間にも、その顔は目に見えてどんどん赤く熟れていった。
「あれ、あれ……やっぱり忘れてきたのかな、見つかんないや……」
そんなに大きなペンケースでもないのにいやに時間が掛かっているのは、がとても心を乱して慌てているからだろうか。しかし、この調子では見つかるものも見つからないだろう。
「……修正テープ持ってるけど、貸そうか?」
「うんお願い、貸してっ!!」
大げさに手を合わせてが懇願する。
は、軽く頷くと机から自分のペンケースを取り出して中に入っていた修正テープを手にし、そのままそれをに手渡した。
「ありがとう!」
はそう言って受け取るなり、すぐさま修正テープのヘッド部分のキャップを外す。
そして何故か、それを一生懸命上下に振り始めた。
「……」
「な、なに?」
「それ、液体タイプの修正ペンじゃなくて、テープだし。振らなくてもいいんだけど」
冷静に突っ込むの言葉に、は自分の手元を見る。
無言で数度瞬きをすると、やっと自分の犯した間違いに気がついたようで、更にその顔を真っ赤に染めた。
「……ちょっと間違えただけだもん」
口を尖らせながらそう小さく呟き、はやっと、用紙のボールペンの線が走った部分に修正テープを押し付け始める。
は、しばらく静かにその様子を見つめていた。
「これでなんとか……いけるかなあ。ファックスで送るんだし、大丈夫だよね……」
は、ぶつぶつとそんなことを呟きながら修正テープで消した部分を指で軽く抑えて定着度を確かめると、その上からもう一度必要な部分を書き始めた。
やがて五分ほどが経ち、はその用紙の必要な部分を全て書き終え、ふぅと大きく息を吐いた。
「できた……」
「お疲れ様」
優しく笑って、が声を掛ける。そんなに笑い返しながら、は借りていた修正テープを手渡して、その礼を言った。
「修正テープ、ありがとね」
「ん」
頷きながら受け取り、はそれを自分のペンケースに戻す。そして顔を上げると、もう一度先ほど言ったことを繰り返そうとした。
「……ねえ、。さな――」
「だ、だからねっ」
真っ赤な顔のが、慌てての言葉を遮る。
それに気付いたは、怪訝そうな顔で目の前の親友の顔を覗き込んだ。
「あのさあ、まさか――今更、好きじゃないとか言わないよね?」
呆れたようなの視線に、は赤い顔のまま言葉を詰まらせる。
しばらくの間、視線をあちこちに泳がせながら一生懸命彼女は何かを考えていたが、やがて小さな声で言葉を紡いだ。
「……嫌いじゃ、ないよ」
そんなの返事に、は眉をひそめる。
そして。
「、あのさ」
問い詰めようと再度口を開いた瞬間――もまた、再度それを遮った。
「あ、あのね!」
叫ぶように言って、は机の上の自分の両の手をぎゅっと握りしめ、続ける。
「今はただ、先輩たちにマネージャーとして認められたいだけなの。だから、余計なことは考えないようにしようと思ってるんだ。先輩たちや部員のみんなが大会に向けて頑張ってるときに、そんな余計なこと考えてたら、ものすごく失礼だと思うし……」
火照った顔のまま、は俯く。は、それを黙って聞いていた。
雑然としている昼休みの教室で、二人の間だけが妙に静かに感じられた。
は、振り絞るように更に言葉を続ける。
「それに今はまだ、私自身マネージャーとしてやってくだけで精一杯だしさ。他のこと考えたりなんかしたら、私、器用じゃないし、絶対何にも出来なくなっちゃう……と、思う……」
そこで彼女の言葉は途切れる。真っ赤な顔で俯くを見て、は大きな溜息をついた。
「わかった、もう何にも言わない」
「……ありがと、」
申し訳なさそうに弱弱しく微笑みながら、は書いていた用紙をクリアファイルに挟み、広げていたノートと一緒に机の中に仕舞い込む。そして、ゆっくりと立ち上がった。
「ごめん、ちょっとトイレ行って来るね」
「ん、行ってらっしゃい」
の返事に笑顔で返して、は教室を出て行った。
その後姿が見えなくなるまで、が頬杖をつきながらじっと見つめていると。
「……」
後ろからふいに声を掛けられた。
慌てて顔を上げ、が振り向くと、そこには苦笑を浮かべた切原が立っていた。
「……聞いてた?」
疑問形で尋ねたものの、その表情を見れば、彼が先ほどの会話を聞いていたことはなんとなく分かった。
「まあな。……つーか、言っちゃ悪いけどよ。、完全に真田副部長に『惚れてる』よな」
そう言いながら、切原は無人になっていたの席に座り込み、彼女が去っていった方を見つめる。
「うん、間違いなくあれは恋愛モードだよね」
再度頬杖をつき直しながら、はどこか呆れたように続けた。
「大体、『考えないようにしてる』ってことは、ちゃんと考えたら好きだって自覚しちゃうかもしれないから、考えたくないってことでしょ。、無意識のうちに答え出しちゃってるんだよ。……全然気付いてないけど」
「だよな。こないだも、副部長に近くに寄られてすっげぇ照れて焦ってたし。――ま、副部長の方もそういうことにはかなり鈍いっぽいから、がそんな感じだったこと、気付いちゃいなかったけどさ」
切原もまた、呆れたようにふぅと溜息をつく。
「……ま、今はあんまり触れずにおいてあげた方がいいのかもね。あの子、真田先輩のこと意識しだしちゃったら本当に何にも出来なくなると思うし。そしたら、上手くいくものもいかなくなっちゃうかもしれないしね」
「ああ、そうだな。それに確かに、今は余計なこと考えずにマネージャーの仕事に集中したほうがいいと思うわ。もうすぐ県大会あるし。もし今副部長の機嫌を損ねでもしたら、それこそ大惨事だろうしな」
そう言うと、二人は顔を見合わせて、苦笑した。
そして少し間を空けてから、は優しく笑って、切原に言う。
「ありがとね、切原君。のこと、いろいろ気に掛けてくれてさ」
「いんや。俺別になんもしてねーし、マジ」
「そんなことないよ。あの子多分、テニス部に切原君がいることで、気分的にも大分楽だと思う。あの子に代わってお礼言わせて」
のその言葉を静かに聞きながら、切原は何かを考え込む。
そしてややあってから、にんまりと笑みを浮かべた。
「別に、礼なんかいいって。そのかわり、さ。ひとつ……いや、ふたつ、に頼みてーことがあるんだけど。いい?」
唐突な彼の言葉に、は一瞬驚いた顔をした。
しかしすぐに気を取り直して、からかうように笑う。
「内容によるかな。宿題やってとかはヤダ」
「そんなんじゃねーって。あのな、ひとつはさ、来週の県大会のことなんだけどさ。なんも用事ねーんだったら、応援しに来てくれよ」
笑顔でそう言い、切原がの顔の前に人差し指をつきたてる。は、くすくすと笑って頷いた。
「オッケ。ていうかもともと行くつもりだった。も心配だしね」
片手の頬杖を崩さないまま、は続ける。
「で、あともうひとつは?」
彼女の問いかけに、切原は二本目の指を立て、再度にんまりと笑った。
「ふたつめはさ――名前、なんだけど」
「名前?」
名前という単語だけでは、一体彼が何を要求してくるつもりなのか見当もつかない。は、不思議そうな表情を浮かべ、頬杖を解いて顔を上げる。
そんなに、少し早口になりながら切原は言う。
「俺さ、基本的に仲のいいヤツって名前で呼びたいわけ。ほら、苗字ってなんかヨソヨソシーじゃん?」
そこまで言うと、言葉を止めて、彼は息を吸った。
そして。
「だから、お前のことも『』じゃなくてさ――『』って呼びたいんだけど」
そう言って、切原は何かをごまかすように、更に笑顔を作った。
そんな切原の言葉の後、二人の間に少しの沈黙が走る。
――そして。
「……なんだ、そんなことか。うん、勿論いいよ!」
そう言って、は笑った。更に、は笑顔で続ける。
「あ、じゃあ、私も切原君のこと、名前で呼んじゃおっかな。いい?」
「え? あ、ああ、好きに呼べよ!」
切原の声のトーンが、一段階上がった。
「じゃあ赤也君、これからもよろしくね」
「おう!」
嬉しそうに言って、切原は人差し指で鼻を擦った。
――やった。やっと、彼女に言うことが出来た。
笑顔のを前にして、切原は、心の中で何度もガッツポーズを振り上げる。
ずっと彼女のことを、名前で呼んでみたいと思っていた。少しでも、彼女の「特別」に近づきたかった。でも、なかなかきっかけが見つからず、言いだせなかったのだ。
それが、やっと今日、の話を口実にして許可を得ることが出来た。
しかも彼女のことを名前を呼べるようになっただけではなく、彼女の方も、名前で呼んでくれるようになるとは。これはもう、嬉し過ぎるどころではない。
(全部、のおかげだな! また、あいつにもなんか協力してやろっと……あ。そーいや、明後日って確か……)
切原はふと、「あること」を思い出した。
――これは、使えるかもしれない。
(、びっくりするだろうな)
悪戯っぽい笑みを浮かべ、切原はへへっと笑った。