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09:少しずつ、それが日常になって

がマネージャーになって、早一週間半。
「なんとか」というレベルではあったが、は、基本的なマネージャーの仕事をほぼ一人で出来るようになっていた。
ドリンクの準備や洗濯や掃除などは、もう誰に言われるまでもなく行えるようになり、空いた時間に球拾いなどの簡単な練習手伝いもする余裕も出来ていた。
とはいえ、少し手のかかる仕事になると手間取って時間がかかることも多く、その度に真田に怒られたり、細かいチェックを受けたりもしたのだが。

そして、今日の部活も残すところ後三十分ほどになった。
は、今出来る全ての仕事を終わらせ、コートでレギュラー同士の部内試合を観戦させてもらっていた。
勿論、遊びなどではない。これもマネージャーとしての仕事の一環である。

「バクスト・トップ、ストレート、フォアスト・トップ、ストレート……」

行き交うボールを目で追い、ストロークや球種やコースの略称をぶつぶつと早口で口に出しながら、は手に持っていたクリップボードに一生懸命ペンを走らせる。
が行っていたのは、初日に真田が言っていたスコア取りの練習の一環だった。

数ある仕事の中で、が一番苦戦していたのがこのスコア取りだ。
ルールは覚えるだけで済むが、スコアを取る為にはストロークやコース、球種を自分自身の目で見極める必要がある。こればかりは、何度も試合を見て経験を積んでいくしかなかった。
そのためは、時間があればなるべく試合を観戦し、コースや球種を見極める練習をしていたのだ。
特に、毎日の練習の最後に行われているレギュラー同士の部内練習試合は、なるべく毎回見学させてもらい、スコア取りの練習をさせてもらっていた。

今日見せてもらっているのは、柳生と仁王のシングルスだった。
ペンを握るの隣では、切原がの呟きを聞きながら、一つ一つ助言を入れている。

「えと、フォアスト、トップ、クロス……」
「違う、今のはボレー」
「え、うそ」
「マジ。ギリギリだったけど、ボールがバウンドする前に拾ったからな。球種はトップスピン、コースはクロスで合ってんぜ」
「そ、そっか、ありがと」

は、慌てて先ほど自分で書いた部分をペンでぐしゃぐしゃと塗りつぶす。
そして、切原が言った通りの答えを急いで横に書き込むと、またコートを凝視した。
――その瞬間。
柳生の放ったショットが、すごいスピードで真っ直ぐ相手コートに突き刺さり、ポイントを入れた。結果、その試合は柳生の勝利で幕を閉じた――のだが。

「フォアで……ストレートで……え、えと……」

の手は、完全に止まってしまっていた。
なんとかストロークとコースだけは解かったものの、その余りのスピードに球種を見極めることもできず、はただ目をぱちくりさせているだけだ。
完全に呆けているに、切原が冷静に説明を始める。

「球種は、トップスピン。もっというと、トップスピンがかかったハイスピードのパッシング・ショット。柳生先輩の決め技で、俺らは『レーザービーム』って呼んでる」

聞き慣れない専門用語が並び、は更に混乱する。
きっと切原はわかりやすく説明してくれているのだろうに、自分の頭ではまだきちんと理解することが出来ないのだ。そんな自分が恥ずかしくて、は持っていたクリップボードを自分の口元に当て、情けなさそうに眉をひそめた。

「……よ、よく、わかんない……ごめん……」

彼女のそんな呟きに、切原はけらけらと笑い声を上げる。

「まあ、テニス知ったばっかのにはまだまだ難しいよな。しかもレーザービームだし。普通のストレートショットより、何倍もスピードあるんだぜ……てか、むしろ今のはちょっといつもより遅いくらいだな」
「うそ、あれで遅いの!?」

驚いたは、目を見開いて切原の顔を見る。

「ああ、本調子じゃねーのかな。……それとも」

ちらりとコートの中の二人を見やり、切原が何かを言いかけた瞬間。

「――ふむ、今日は柳生の方が調子が良かったようだな」

背後から声がして、反射的にと切原が振り向くと、そこには真田がいた。
先ほどまで隣のコートで一般部員を指導していた彼は、気持ちよさそうにタオルで軽く汗を拭きながら、スコアボードに書かれた柳生と仁王の試合結果を見上げる。

「あ、先輩、お疲れ様です」

が軽く会釈するように頭を下げると、真田がそれに応えて頷く。
そして、彼は片手を差し出した。

「そのボードを見せてみろ、
「あ……は、はい」

そう言って反射的に頷いてはみたものの、内心はそれを彼に渡すのをためらっていた。
とにかく急いで走り書きしているので、綺麗な字とは言いがたかったし、何より間違いが多いので、それを彼に見せたくなかったのだ。
しかし、真田が求めているのに見せないわけにもいかず、は恥ずかしそうに俯きながら、持っていたクリップボードを彼に手渡す。

「……どうぞ」
「うむ」

真田はそれを受け取ると、冷静な顔つきで覗き込み、しばらくの間無言でボードを見つめていた。
その雰囲気に耐えられず、はいたたまれなさそうに身体を縮める。
やがて彼は、ふう、と息を吐いた。

「三、四割といったところか。やはり、まだスコアを取るのは難しいようだな」
「……すみません……」

出来ない自分が恥ずかしく、情けなかった。は、恥ずかしそうに身を縮めたまま、小さな声で謝る。

「でもこいつ頑張ってるっすよ。これでも、ストロークやコースは大分わかるようになったんスから」

切原が、をフォローするように口を挟む。
そして、更にコートの方から声がした。試合を終えたばかりの柳生だ。

「入部してから二週間も経っていないのですから、全てを完全に見極めるのは無理というものでしょう。どうやらさんは今までテニスに触れたことも無かったようですし」

そう言いながら、柳生はラケットを片手に真田達に近づいてきた。
反対側のコートに立っていた仁王もまた、同じようにラケットを手にやってくると、審判台にかけてあった自分のタオルを手に取り、汗を拭く。
そんな二人に、は頭を下げた。

「お疲れ様です、柳生先輩、仁王先輩。試合を観せてくださって、ありがとうございました」

笑顔で礼を言うに、二人もまた笑顔を返す。

「こっちはいつものメニューをやっちょるだけじゃ、礼を言われるほどのもんでもないぜよ」
「そういうことです。試合くらい、いくらでも観て下さって構いませんよ」

仁王と柳生の優しい言葉にあたたかい気持ちになって、はまた笑顔で頭を下げた。
そうしていると、真田が視線をクリップボードからに移し、彼らの言葉に続ける。

、そんなことは気にしなくていい。今のお前は、一試合でも多くの試合を見て経験を積む必要があるからな。部員同士の試合を見ることに遠慮などいらん。県大会までには、もう少し確実に見極められるようになってもらいたいしな」
「は、はい、頑張ります……!!」

思わず背筋を伸ばし、緊張した面持ちでは頷く。
の返事に真田は無表情のまま頷くと、またボードに目線を戻した。
そんな真田に、柳生が苦笑して言う。

「県大会までに、ですか。真田君も無茶を言いますね」
「真田、マネージャーをいじめちゃあかんよー」

いたずらっぽい笑みを浮かべながら、仁王もまた口を挟んだ。
そんな二人の言葉を聞き、真田は心外そうに眉間に皺を寄せながら顔を上げる。

「いじめてなどおらん。人聞きの悪いことを言うな」

そう言って、真田が仁王の顔をじろっと睨んだ、その瞬間。
真田の表情が、何か不自然なものでも見たように、ぴくりと反応した。
彼は更に眉間の皺を深くさせながら、観察するようにその顔を窺っていたが――やがて自分の中で何かを結論付けたのか、大きな溜息をついた。

「……お前達、また『やった』な」

真田は、そんなことを口にしながら、呆れたように二人を見る。

「あ、やっぱりそうっスよね。さっきのレーザー、どうりでいつもよりちょっと遅いと思った」

憮然とした表情を浮かべる真田のその言葉を聞いて、隣にいた切原も納得したように笑う。
そして当の柳生と仁王もまた、彼らの言葉を否定もせずに不敵に笑っていた。
しかし、その場でたった一人場の雰囲気についていけていない者がいた。――だ。
彼らの言葉の意味が全くわからないは、目をぱちくりさせ、四人の顔を代わる代わる見つめる。

「……え、あの……『やった』って、何を……?」
「あ、柳生先輩と仁王先輩が、入れ替わってんだよ」

切原が、あっけらかんとした表情でそう言い放つ。
しかし、にはその言っている意味がよくわからない。

「入れ替わ……え?」

頭の中を疑問符でいっぱいにしながら、は「柳生」と「仁王」の顔を交互に見る。
すると、「柳生」の表情が、怪しいくらいに不自然な笑みで溢れていた。

「柳生先輩と仁王先輩が、入れ代わってる……二人が入れ代わって……って……?」

自分の頭を整理するため、は声に出してみたが、やはりいまいちよく理解が出来ない。
一体何が起こっているのかわからずに、不思議そうにきょろきょろ見回すを、「柳生」と「仁王」は面白そうに見つめている。
しかし、彼らはの反応を楽しんでいるようで、自分達からは絶対に説明しようとしない。
真田はふうと大きな溜息をつき、の方を向いて助け舟を出した。

「柳生が仁王の変装をし、仁王が柳生の変装をしている。つまり、今目の前にいる柳生は仁王で、仁王は柳生だということだ――これで、わかるか」

そう言ってくれた真田を、はぽかんとした顔で見つめた。
――そして、次の瞬間。

「えええっ! うっそぉ!!!」

コート中に、の大きな声が響き渡った。



「……」

目を丸くして、が二人の顔を交互に見つめる。

「久々じゃの、この反応は」

楽しそうにそう呟いたのは、柳生――ではなく、柳生の恰好をした仁王だ。
彼はつけていた眼鏡を外すと、それをポケットに仕舞い込み、笑った。

「最近はレギュラーみんなコレに慣れてしもうて、反応がつまらんかったからな」
「しかし、真田君はともかく切原君にも勘付かれてしまうようでは、戦術としてはまだまだ使いものにならないと言えるでしょうね。改善の必要がありそうです」

そう言いながら、コート上では仁王の姿をしていた柳生は、仁王とは逆に仕舞っていた眼鏡を取り出すとおもむろにそれを掛け、軽く髪を整えた。
あっさりと本来の自分の姿に戻った仁王と柳生を、はただただ目を丸くして見つめる。

「……本当に、仁王先輩と柳生先輩……逆だったんだ……」

先ほどまで見ていた仁王は確かに仁王で、柳生は柳生だったはずなのに。
今自分の目の前で起こった出来事が、はまだ信じられなかった。

「すげーだろ。俺も初めて見たときは、お前と同じよーな反応したっけな」

呆けているの様子を見て、切原がけらけら笑う。

「しかしその戦術は、ダブルスで組んでいる時にやらんと意味がないのではないか? シングルスで互いがやりあっている時に入れ替わったところで、意味はないだろう」
「ま、練習の一環じゃな。それに、こうやってコートを挟んで立つと、相手が自分にちゃんとなりきれているかチェックしやすいじゃろ」

呆れ返っている真田に、仁王は笑って言う。
そして、柳生が仁王の言葉の後に「そういうことです」と頷き、に顔を向けた。

さん、このことは口外しないで下さいね。この入れ替わり戦術は、何も知らない相手に仕掛けることで真価を発揮しますから。私たちが入れ替わることが広まってしまっては、この戦術は大きく意味を失います」
「は、はい!」

素直に頷いたの返事を聞くと、柳生は優しく笑う。
そして、同じく元の姿に戻った仁王と共に、何かを相談しながらその場を離れていった。

「地顔は、めちゃくちゃそっくりっていうわけでもないのに……すごいなあ……」

そうぽつりと呟き、はしばらく呆気に取られたようにその後姿を見つめていた。
そんなに、真田が話し掛ける。

「あの二人は、互いの特徴的な仕草や癖、口調――そういったものをよく理解し合い、更にそれを実際に真似ることができる器用さを持っている。だからこそ、あれほどまでに似せることができるのだろう。勿論、身長や大体の体格が似通っていると言うのもあるだろうが。ちなみに仁王の方は柳生以外の奴に化けるのも上手いのだが、やはり柳生が一番似ているな」
「へぇ……すごいですね」
「入れ替わり戦術は、あの二人ならではだな。とはいえ仁王の方は、ただ他人をからかうためだけに柳生の恰好をしていることもあるのだが……どうせ今日も、口先では練習だのと言っていたが、実のところお前の反応を見て楽しみたかったのだろうな」

そう言って、真田は呆れたように溜息を吐く。そんな彼の言葉に、はぱちぱちと目を瞬かせた。

「……そ、そうなんですか? じゃあ、さっきの私の反応を見て、仁王先輩は楽しんでたってことですか」
「まあ、そういうことだろう」
「う、それって悪戯されたってことですよね……それはちょっと、くやしいかも……」

そう言って、は口元に手をやって、その口を尖らせた。
その仕草が微笑ましかったのか、真田は無言で僅かに目を細めて彼女を見つめる。
――すると。

「……あ!」

いきなり声を上げ、は何かを思いついたように、真田を見上げた。

「どうした、
「すみません、先輩。そのボード貸して下さい!」
「ボード? これのことか?」

真田は、から受け取ったままになっていたボードを、に差し出す。

「ありがとうございます!!」

そう言って軽く頭を下げ、はそれを受け取る。そして、先ほど取っていたスコアの柳生と仁王の名前の部分をぐしゃぐしゃと塗りつぶすと、改めてそれぞれの名前を書き込み、息を吐いた。
すると、が一体何をしているのかが気になったのか、真田が近寄って横からそっとボードを覗き込み、声を掛ける。

「どうした?」
「名前、書き直さなくちゃと思って」
「名前?」
「だって、さっきは仁王先輩と柳生先輩が入れ代わってたの、知りませんでしたから。元々の名前が間違ってたら、どんなに正確にスコア取っても意味ないですもんね」

そう言っては横目で覗き込んできた真田の方に首を向け、彼を見上げた。その瞬間、真田の顔が至近距離で目に入ってきて、の心臓がどくんと鳴る。

(わ、わわ……! せ、先輩が近い!!)

こんなにも、彼が近くにいるとは思っていなかった。
は慌てて視線を逸らし、言葉を続ける。

「……って言っても、正確にスコア取れてるわけじゃないですけど……で、でも、名前くらいは、正確に書きたいじゃないですか。テストだって、名前書き忘れたり間違ったりしたら、0点だし……って自分の名前間違えたりはしないですけど」

は、緊張の余り自分が何を言っているのかわからなくなってきた。
しかしそんなの内心など知るわけがない真田は、なかなかその位置を動こうとしない。
彼の息遣いまでが聞こえてしまうような至近距離に、は緊張と混乱で頭がいっぱいになった。

「と、とにかく、情報は正確に書かなくちゃ。じゃないと、データとしては役に立たないですしね! 今度は、球種を見極める前に、まず仁王先輩と柳生先輩を見抜けるようにしなくちゃですね! が、頑張ります!!」

早口でそう言って、は一歩だけ後ろに下がり、なんとかほどほどの距離を確保する。
不自然じゃなかっただろうかと心の中で自問しながら、息を吐いて言葉を続けた。

「それから、肝心のスコアも、もっときちんと取れるようにしなくちゃですね。え、えと、県大会って来週でしたよね」
「ああ、来週末だ」
「じゃあ、来週末までには、もっと確実に取れるように頑張ります!」

がそう言って、緊張をごまかすように笑顔を作った――その時だった。
真田が、に向かって目を細め、ふっと優しく微笑んだ。

「ああ、頑張ってくれ。期待している」

その瞬間、はかあっと自分の顔が熱くなったのが分かった。

(……やばい。絶対、私今顔赤くなってる!!)
「――は、はいっ、が、頑張りますね!! すみません、じゃあ私そろそろドリンク補充行ってきます!!」

は叫ぶようにそう言うと、クリップボードで顔を半分隠しながら、その場を走って離れていった。
その場には、の勢いに少々呆気に取られた真田と切原が残される。

「――は、たまに落ち着きがなくなるな」
(そりゃあね、アンタにあんな風に言われたら落ち着いてらんないだろうよ……)

真田の呟きを聞いた切原は、そんなことを思いながら苦笑した。

初稿:2006/08/25
改訂:2010/03/05
改訂:2024/10/24

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