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08:昼休みの出来事

とある日の昼休み。
教室で弁当を食べ終わった真田は、おもむろに鞄に入れていたクリアファイルを取り出した。そして、その中に入っていた数枚の紙を手に取ると、大きなため息をついて何かを思うようにじっと見つめる。
それは、この春テニス部に入ってきた新入生たちの退部届だった。流石に真田のところに直接持ってくる生徒はいないのだが、顧問や他の部員たちから、ここ数日に受け取ったものを整理してほしいと渡されたものだ。

その名を全国にとどろかせる、強豪と名高い立海大附属中テニス部。この黄色いユニフォームに憧れて、入部を希望する新入生たちは少なくない。
特に昨年は圧倒的な力で全国大会二連覇を成し遂げたこともあって、今年は近年一番と言っていいほど新入部員の数は多かった。
しかし。まだ五月に入ったばかりだというのに、残った部員の数は既に最初の半分にも満たない。
こうやって、毎日のように新入部員の退部届が届く。
退部理由は大抵は「都合により」などと濁されていたが、はっきりと書いてあるものも決して少なくはなく、しかもそのほとんどが似たような理由だった。

『自分のレベルでは、ついて行けないので。』
『練習が厳し過ぎる。』

この時期、新入生には筋トレや基礎練しかさせていない。
あの程度の練習に、個人のレベルも何もあったものか。ましてや、厳しいなどと――
そんなことを思い苛立ちすら感じながら、真田は更に束ねられた退部届をぺらぺらとめくる。こちらは、もっとストレートな理由だ。

『先輩が怖い。』

個人の名前は出していないが、おそらく、いや間違いなく自分のことだろうと真田は思った。
この退部届を書いた生徒の名を確認し、その名前から顔を思い出す。
そういえば確かに、数度注意というレベルでもないような声掛けをしたような記憶はあるが、あの程度で退部するのか。
頭の奥が痛くなって、真田はぐっと眉間を抑えた。
いや、この者たちは、退部届を持ってくるだけまだましなのかもしれない。
退部届は届いていないが、すでに二週間以上姿を見せない者もいる。おそらくもうそのまま、戻っては来ないだろう。

(全く……たるんどる)

名前や過去の栄光だけに惹かれてくるような輩は、遅かれ早かれこうなることは予想がついていた。
それに、たくさん部員がいる部が強い、というわけでもない。だから、ついていけないのなら辞めてもらっても全く構わない。
来年度以降も、公式大会に出られるほどの人数は充分残っているのだから。
そうは思っても、何故か心の中は無性にイライラする。
それは辞めていった後輩たちにだけではなく、そうさせたことの一端を担ったであろう、自分自身にもだった。

もし、いま部を引っ張っているのが幸村であれば、これほどまでに退部者は出なかっただろうか。
自分のやり方が間違っているとは思わないが、彼ならもっとうまくやるのは確かだろう。
とはいえ、自分が彼のように出来るわけではないのも分かっている。だから、自分は自分なりの方法で部を引っ張っていくしかない。

真田は大きく息を吐き、立ち上がる。
そして、退部届を整理しに行くために、部室へと足を向けた。

◇◇◇◇◇

校舎を抜けて、部室棟へと向かう。
すると、テニス部部室のほうから、誰かが走ってくるのが見えた。
近づくにつれて、真田はそれが見知った顔であることに気づく。

――あれは、ではないだろうか。

。数日前、切原の紹介でマネージャーに就任した、二年の女子生徒だ。
まだマネージャーになって間もないので、いろいろとおぼつかないところは多いが、今のところは頑張っていると思う。
真田が足を止めると、向こうから走ってきた彼女も、真田の姿に気づいたらしい。
はっとして、彼女は一目散に真田の側に駆け寄ってきた。

「ァ、ハァ、ハァ……な、だせんぱい、お……かれ……まです」

荒い息を吐き、彼女は膝に手を付きながらも必死で顔をあげ、挨拶をする。

「ああ。どうした、こんなところで」
「あ、の、……ハァ、ハァ……ちょ、ちょ、ど、せんぱいの、ところにいこ、とおもって」
「俺のところに? 何か用事があったのか?」
「は、い」

なんとか言葉を繋いではいるが、息が続かないようだ。ともかく、彼女が回復しないことには、話もできそうにない。

「大丈夫か? とりあえず息を落ち着かせろ」
「は、い……すみま、せ、ん」

頷いて、彼女が黙り込む。肩で息をしながら呼吸を整えている彼女の回復を、真田はじっと待つ。
こんなに慌てて一体何の用だろう、と思っていると、膝をついている彼女の手に白い紙が握られているのに気が付いた。
うっすらと見えたその文字に、一瞬、真田の思考が停止する。
――退部届。
彼女が手にしていたその紙には、確かにそう書かれていたのだ。

まさか、と思った。入部したあの日、少し緊張してはいたものの強い調子で「マネージャーをやらせてほしい」と頭を下げ、その帰り道わざわざ自主的にルールブックまで買いに走っていたあの彼女が、こんな数日でもう辞めるというのか。
入部してからここ数日、動作の遅さやミスを何度も指摘し、軽く叱責したりしたけれど、それは彼女に期待したからだ。
それに対して、彼女がへこたれているようにも見えなかったのに。
結局、すぐに辞めてしまった今までのマネージャーたちや、新入部員たちと同じだったということなのか。
頭を垂れ、表情が見えない彼女を、真田は凝視した。
彼女ならばもしかして、と期待し始めていた分、落胆も激しかった。

(用事というのは、それか)

真田は、無性に強い苛立ちを感じながら、ぐっと奥歯をかみしめる。

(ああ、でも他の奴らと違って、退部届を俺のところに直接持ってきた気概だけは、評価できるかもしれんな)

そんなことを思い嗤笑しながらも、やはりこの苛々した感情は抑えられそうにもない。
もうさっさとその退部届を受け取って、彼女の前から立ち去ってしまいたいと思った。

。もういいか」
「……はい、だいぶ落ち着きました」

そう言って彼女は顔を上げる。その瞬間、その表情が曇った。真田の顔を見た途端、その険しさに気づいたらしい。
しかし、真田はそれを取り繕うこともなく、言葉を続けた。

「そうか。ならばその用とやらをさっさと済ませてくれ。俺も急いでいるのでな」

声もきつく、厳しい。それを彼女も感じ取ったのか、眉をひそめて視線を落とした。

「あ、はい、すみません」
「用というのは、その紙のことだな。さっさと寄越してくれ」

彼女に向かって、無遠慮に手を伸ばす。
彼女とは学年も違うのだし、どうせもうこれが最後の顔合わせになるのだろうと思うと、真田は自分の機嫌の悪さを隠す気にもならなかった。

「丁度他の奴らの退部届も持っている。今から部室に整理しに行くところだったからな」
「あ、そうだったんですか。他にもいたんですね」

少し悲しそうにそう言うと、彼女は手にしていた紙をおずおずと真田に差し出した。
真田は雑にそれを受け取り、すぐに自分の持っていた紙の束にまとめる。

「確かに受け取った。ではな」

吐き捨てるようにそう言うと、真田は目線も合わすことすらせず、すぐに部室に向かって歩き出そうとした。
――しかし。

「あ、待ってください、私も部室に用事があるので、ついて行ってもいいですか?」

何故か、辞めるはずの彼女がそんなことを口にした。
意味が分からず、真田は彼女の顔を見る。

「忘れ物でもしたのか」
「いえ、そういうわけじゃないです」
「ならば、なぜ今更部室などに用がある」

もう部を辞める元マネージャーなどに、これ以上立ち入られたくはなかった。
無意識のうちに、真田は威嚇するように彼女を強く睨み付ける。
すると流石に彼女は怯んで視線をそらしたが、なんとか振り絞るように、声を出した。

「あの、今時間があるので、今のうちに、今日の掃除とかしてしまおうかと思った……んですけど……」
「今日の掃除?」

もう辞めるくせに、何を言っているのか。
それとも、今短時間で出来るかんたんな雑用程度はやってから去るつもりなのか。
それならばその気持ちは評価できなくはないのかもしれないが、正直もう来てもらっても迷惑なだけなのだが。

そんなことを思い、無意識に真田はますます表情が険しくなる。
それと共に、彼女にもどんどん困惑の色が見え――彼女はやがて、小さな声でごめんなさい、と口にした。

「今から作業されるのに、掃除とか、ご迷惑ですよね……やっぱり、掃除は放課後の部活の時にすることにします。ごめんなさい」
「今日の部活に出るつもりなのか」

真田がそう問うと、彼女は悲しそうな顔で、問い返してきた。

「え? 出ちゃいけないんですか?」
「出る必要性を感じないが」
「だって、今日、部活ありますよね?」
「勿論あるが、もうお前には関係ないことだろう」
「どうしてですか? 私、何かしてしまいましたか?」

彼女の声色が、どんどん泣きそうな声になってゆく。
そして、彼女は震える声で、言った。

「私、マネージャー首になったんでしょうか」

その言葉に、真田は目を見開いた。自分から退部届を出しておいて、クビ、とは一体どういうことだ。

「クビ? 何を言ってるんだ。お前は自分から退部したんだろう」

真田がそう言うと、今度は逆に、彼女が目を見開いて、「ええ!?」と大声を上げた。

「私退部なんかしてません!!」
「今、退部届を俺に渡したじゃないか」
「え? あ、ああ、ち、違います違います!! 今私が渡したのは、さっきそこで受け取った一年生の子のものです!! 私のじゃありません!!!」
「……なに?」
「真田先輩、私は辞めてません!! 私辞めたくないです!!」

そう言いながら、彼女は必死で両手を左右に振る。
真田は、思考がついて行けず一瞬頭が真っ白になったが、すぐにはっとして手元の紙の束を覗き込んだ。
確かに――彼女から受け取った紙に書いてあったのは、渡し主の彼女の名前ではない。
あまり印象には残っていないが、一年の男子生徒の名前だ。
――さあっと血の気が引く思いがした。

「すまない!!」

真田は慌てて謝罪を口にし、頭を下げる。
勝手に思い込み、よく確認もせず、苛々した気持ちを彼女にぶつけてしまった。
なんという酷いことをしたのだろう。

「てっきり、お前の退部届だと思い込んでしまった。本当にすまない」

頭を下げたまま、謝罪の言葉を口にする。彼女は、そんな真田の顔を覗き込むと、逆に申し訳なさそうに、口を開いた。

「あ、いえ、あの、私もちゃんと説明せずに渡しちゃったから……。先輩、気にしないで下さい。誤解だって分かってもらえて良かったです。だから頭上げてください」

彼女にそう言われ、真田はゆっくりと顔を上げる。
こちらを見ていた彼女は、目が合うと緊張気味に瞬きを数度繰り返した。
やはり、だいぶ怖がらせてしまったようだと悟り、真田はもう一度彼女に謝った。

「よく確かめもせず、本当にすまなかった。怖がらせてしまっただろう」
「そうですね、流石にさっきは怖かったです」

苦笑して、彼女は言う。
――やはり、怖がらせてしまったか。
自分のこういうところが良くないのだ。やはり新入部員が辞めるのは、自分の責もあるのだろう――

「……本当にすまなかった。俺のこういうところが、新入部員が続かない原因のひとつなのだろうな」

自己嫌悪に陥りながら、真田は自分の持っていた退部届の束を横目で見つつ、深く息を吐く。そんな真田に、彼女は慌てて口を開いた。

「あ、いえ、怒ってるのが怖かったとかじゃなくて……先輩がなんで怒ってるのか分からなかったから、怖かったんです。怒ってる理由が分かったので、私はもう平気です。だから本当に、気にしないで下さい」

彼女はそう言うと、ほんの少し押し黙る。
しかし、また顔をあげ、少しためらいがちに言葉を続けた。

「あの、私入部したばかりで、自分のことで精一杯なので、みんなが辞める原因とか正直よく分からないんですけど、先輩のせいではないと思いますよ」

その言葉に、真田は目を瞬かせる。そして、どうやら彼女は自分を気づかってくれているのだろうと思い、真田は苦笑した。

「ありがとう。しかし確かに『先輩が怖い』という理由を上げている者もいるから、俺が理由の一端を担っているのは間違いないんだ」
「そ、そうなんですか。でも、一見先輩が怖いように見えるのは、先輩に強い責任感があるからだと思いますし……。先輩がなぜ厳しくしているのか考えもせずに、ただ先輩のせいにするのは、なんだか理不尽な気がしちゃいます。そんな理由で辞めた人は、きっと先輩を怖いと思わなくても別の理由をつけて辞めてるような気がしますよ。先輩が気にする必要は、無いと思います」

必死に彼女が自分をかばってくれている。――先ほど、実際に威圧して怖がらせてしまった彼女が。
なんだかくすぐったくなりながらも、少し、気持ちは軽くなったような気がした。

「そうだろうか」
「はい、私はそう思います」

気持ちいいくらいにそう言い切った彼女に、真田は思わず笑みがこぼれる。
実際のところ、彼女の言い分は真田に都合が良すぎる解釈だと、真田自身思うけれども、気分は悪くは無い。そもそも、考えても仕方のないことなのだ。
反省は生かすべきだが、必要以上に気に病んだところでどうにかなることでもない。もう、いまはこの件を考えるのは止めにしよう。
彼女のおかげで、なんとなくそう思うことができた。真田は、くくっと笑う。

「分かった。ありがとう」
「はい! それじゃ、改めて、私も部室についていってもいいでしょうか?」
「ああ、勿論だ」

真田が頷くと、彼女はとても嬉しそうに破顔した。

「俺に用事というのは、部室の鍵だったのか?」
「はい、そうなんです。さっき行ったんですけど、鍵、開いてなくて。それで、部室の鍵を先輩に借りに行こうと思ったら、そこで一年生の子に退部届を渡されたんですよね」

なるほど、と真田は頷く。しかし、すぐに苦笑を浮かべた。

「そうだったのか。だが、もしかしたら入れ違いになっていたかもしれんぞ。部室の鍵は職員室にも保管されているから、今度から必要なときは俺のところに来るのではなく職員室に行って借りるといい」
「あ、そうだったんですか。良かった、三年生の教室行くの緊張しちゃうし、そっちの方がありがたいかもです」

そう言って笑う彼女を見て、真田もまた無意識に笑う。

「そういえば掃除がしたいと言っていたな。練習前に終わらせておくつもりなのか?」
「はい、そしたら練習中はスコア取り練習とかに時間割けるかなって思って」
「なるほど、出来ることは先にしておこうという事か。よし、分かった。俺も自分の用事が終わったら手伝おう」
「え、いいですよ! 先輩は退部届の整理があるんでしょう? ご自分のお仕事してください!」
「いや、こんなものはすぐだ。名簿の名前を二重線で消して、この紙をファイルにとじるだけだからな。先ほどの詫びもかねて、今日はお前の仕事を手伝わせてくれ」

真田がそう言うと、彼女は少し申し訳なさそうにしたが、すぐにこくんと頷いた。

「……分かりました。それじゃ、申し訳ないですけど、お願いします」
「ああ。では、部室に向かうか」
「はい!!」

元気よく頷いた彼女が、部室に向かって歩き出す。
やる気に溢れたその背を見つめ、真田はそっと目を細めた。

初稿:2018/08/31
改訂:2024/10/24【7.5章幕間→本章(8章)扱いに変更】

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